emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

あせる2015年よりこちら へも投稿したりしていますあせる





「我ら、七本槍!」







下の本は

先日「小谷城戦国歴史資料館」に行った時に

購入した遺稿集を購入



遺稿集



この中に浅井氏の家臣団の名前の中に

「片桐氏(巣ケ谷・高月)」という名前が

ありました



賤ヶ岳の七本槍の1人



片桐且元の片桐氏の事です






「現在地」とある「須賀谷」という


浅井久政の時代にこの一帯に

家臣屋敷が造営されたときに

且元の父片桐孫右衛門がここに居住したと

されます





☝️片桐孫右衛門真貞の墓(且元の父)

があります








☝️頌徳碑



小谷城歴史資料館を出て国道365号線

伊吹山の方へ進むとすぐに

左側に「須賀谷温泉♨️」の表示があり

片桐且元の生誕の地とま書いてあります



片桐且元は賤ヶ岳の戦いで

武功をあげ「賤ヶ岳の七本槍」の

1人ということと、

大阪落城の前に大坂方の取り次ぎとして

家康と交渉をしていて

大坂軍から徳川軍へと変わったという

イメージを持っていました


やはり取り次ぎ役は難しい😓のですね



賤ヶ岳の戦いは「豊臣兄弟」では

まだ先の話しですけれど…



2026年4月18日

賤ヶ岳山頂にて

















第15話「姉川大合戦」


豊臣兄弟も「第4章・元亀争乱編」へと

突入して



いよいよ姉川の合戦の話しです









市が浅井長政のもとへ嫁いだ事により

信長と浅井は同盟を結んだ

朝倉討伐のため越前に進軍〜


浅井長政のまさかの裏切り織田軍は

朝倉・浅井に挟まれて窮地に陥った〜


藤吉郎は 敵の追撃を防ぐ殿を務め

撤退戦が始まった


それを世にいう「金ケ崎の退き口」という


「元亀争乱」のつづき



京へ戻った信長、見事に殿を務めあげて

京へ戻った秀吉・秀長


京で信長と再会して直後から

意識をなくして8日間も寝込んで

しまう

その間に信長は岐阜へ戻って

信長と家臣たちで評定をしていて

「明智光秀」が信長の家臣となった

ことをその場で報告

誰も異存はなさそう


何があったのか?

明智光秀は足利義昭から

「信長の配下

に入って行動を教えろ」

っていうから

機会を伺っていたのは確かだけれど


実は岐阜へ帰途最中に

杉谷善住坊といものに狙撃されて信長は

かすり傷で済んだという事件が発生した

ようで、それを身を賭して明智は守った

という設定なのかな?

腕を負傷していたけれど関係があるという

事にしているのか?

でも細かいことを言うと

金ケ崎で秀吉たちを助けた時にも、

手を庇っていたし、

秀吉が京へ戻ってきて信長と再会した

時にも腕をつっているんだよね



さて、評定では秀長が信長から鉄砲を

集められたか?ということを聞かれて

いたけれど、

鉄砲は集まったけれど、玉薬を作る硝石が

手に入らないと報告しているんだよね


そうなのよ

玉薬の硝石が手に入らないのは

南蛮からの船が嵐で遅れているとか

理由つけているけれど、


「玉薬の硝石」が重要な問題


日本では自然には採れないと言われていて

これを堺の商人が

南蛮船で買付して日本へ持ってきていたとか

色々と「見えない武器」を確保することが大事で

長篠の戦いでは鉄砲対騎馬戦で

日本の戦争スタイルが変わったとは昔の教科書で

言われていたけれど実は

「硝石」の問題でもあるんですよね


まさか秀長がそこを報告している場面があって

とても画期的なことを話しているなと

思いました


それでその後に

佐々成政は簡単に手に入るだろうと秀長は

言っているけれど、秀長も「小谷攻め」を

遅らせて市を救出するのを優先していたから

わざとまだ手に入ってないと報告していた

見たいです


「市」を救出したいけれど救出できないし

浅井家は市を返さない


当時は返さないのが定説に近いんじゃないのかな

嫁いだ人を返すのは江戸時代からの定説になって

いった






 




秀吉は寝坊したと言って入ってきました

評定から軍議へ話は変わり

秀吉は周囲の根城を潰していくことを提案

👆の地図半兵衛が懐から

を出して浅井軍の苅安城と長比城を調略して

落とし

岐阜から京へと続く道が保てて

京からの幕府軍の援軍を呼ぶことも

容易くなり

小谷を攻めるとしても

後方の憂いがなくなると説明


横山城は?と言うと

ここはあえて攻撃して浅井長政を誘き寄せる

と言う作戦でした



早速作戦に取り組むのだけれど

お市を助け出したい秀吉は和睦ではなく

降伏させるために根気よく説得しようと

時間稼ぎをしようと思っているのですが


竹中半兵衛は長比城を苅安城はもうすでに

調略済みと報告

時をかけたとて浅井が降伏するはずがないと

言われても嫌だと駄々を捏ねる秀吉


この二城は浅井が寝返った後に

美濃の国境に越前衆の助けをかりて改修した

ばかりでして

しかし守備していた堀秀村(鎌刃城)・樋口直房の

両城はあっけなく落城したとあります

樋口直房は堀秀村の後見役として

幼い主君・堀秀村を助けて切り盛り

していた人物


岐阜城のすぐ隣の菩提山城は竹中半兵衛の

居城があり

樋口直房は

竹中半兵衛が稲葉山城(岐阜城の前身)を無血

開城クーデターを起こし隠遁する際に、

近江に逗留した半兵衛に住処を世話する

などし親しかったと言われています

そこで直房は調略に従い、幼い主君を

説き伏せたとされている

👆という事が隠されているという

ことかな?








姉ともと秀長が万丸を遊ばせなが

お市は絶対戻らない、戻るということは

子どもと別れなければいけないという

ことだと話す

👆これ又、来週以降の伏線ですね

万丸は宮部継潤の人質から養子になります

万丸→宮部吉継

泣く泣く手放す事になっちゃうのよ


秀長が万丸を抱いてふざけている最中に

慶がそれを見て引き返そうとしたところで

やっと2人の会話


もう発展しない2人なのよ

戦で忙しいから仕方がないけれど

夫婦はどうなるのやら

面白いけれど、ここをもっとゆっくり

やって欲しいという不満もあるんですよね







信長の苛立ち


浅井討伐は足利義昭が6月18日に高島へ出陣して

信長は小谷の近くに陣を敷いて二方向で攻めるという

事だったのに

中止、中止で結局、取りやめになってしまうし

徳川には6月18日までに近江に来るように

行っているにも関わらず、様子見で

6月24日に岡崎を出発して到着は28、29日とかに

なっちゃうから、家康が到着した時には

怒り心頭に達しているので

親衛隊の前田利家、佐々成政良で

家康を囲んで

びびらせていました😆


このドラマでは徳川というと

家康と石川数正くらしか配役がないので

榊原康政がとった動きを

信長に命じられた家康がとるという

ことにしたようです



柴田、秀吉は市を救い出そうと必死だけれど

市も覚悟を決めて動かない



浅井にもやっと朝倉の援軍がきたかと

思ったけれど、

朝倉義景の本人ではなく、

朝倉義鏡でもなく

朝倉義建がきて、浅井は意気消沈😔



何故に動かぬ朝倉義景💢ですよね



姉川の戦いがはじまりました







秋に行った時の写真なので、

彼岸花が咲いいて

なんか物悲しさが増したのを

覚えています




榊原康政が朝倉義健の左横を奇襲して

戦況はかわった!




血に染まった姉川



そんな中、これからの秀長の片腕とも

なる「藤堂高虎」が浅井側として参戦!



戦局は徳川が朝倉義建の横をついて退却

してしまい、浅井もその後は不利とみて

退却する


しかし、最後に浅井が家臣遠藤直経が

「長政」の首を取ったと言って

信長の近くまでいき、

以前あったことのある秀吉、秀長が

見抜いて、追いかけていき討ち取リます








首塚(遠藤塚)がありました



この辺りは古墳群になっています



看板には

姉川の合戦の際、自軍の配色が濃くなると

味方の武将首一つを携え

敵軍に偽装、信長の陣中深く忍び込みましたが

竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られ討ち死にした

と言われています










来週は「覚悟の比叡山」です





第14話「絶対絶命」


第15話「姉川大合戦」


豊臣兄弟も「第4章・元亀争乱編」へと

突入しました



柴田勝家


「浅井長政、謀反にございます」



結局、浅井長政は久政、家臣一同

抑える事ができなかったということで

原因ははっきりとはわからないけれど


「金ケ崎の退き口」と後世言われる

戦いへと入って行きました


あり得ない、そんなことはない

と家臣が浅井の謀反だと言っても

信じない信長


お市が陣中見舞いの「小豆」送ってきても

浅井が寝返ったのならば、

気の利いたものを送ってくる

はずがないとか


竹中半兵衛が「袋のネズミ」だと

秀吉が信長の窮地を知らせようと

してくれているのだと説得しても


信長は


「こじつけじゃ」って聞こうとしない


秀長が


包まれていた袋を見ていると


最後に「市」と書いてある手紙だった





ここで伏線回収です!


👆そうよ、この白紙の文の話はお市と秀長だけが

知っている話しにしたんだなぁ



まさか伏線だったとは思わなかったけれど😄



「この白い文は何も書くことができぬ

 お市様の苦しみそのもの云々〜」


「なぜじゃ」


と繰り返しながら

またもや

兄弟・義兄弟の裏切りを信じられず、

激昂して、

これから小谷城を攻撃するとか

もう手がつけられなくなった姿を見て



「殿〜」

と大声をあげて、

自分の足に刃を突き刺して


「申し訳ありませぬ

  このサル、うっかり傷を負ってしまいました

  素早く動くことができませぬゆえ

  わしがここへ残りまする」


「戦において 最も大事なのは

 いかに勝つかじゃ

 しかし、その次に大事なのは

 いかに負けるかでござる

 この戦は残念ながら 

 我らの負けにございまする」


秀吉が信長へ「諫言」


「朝倉の追っ手はこのサルが

 喰い止めますゆえ

 殿はその隙に京へお戻り

 くださりませ」


と信長へと懇願するかのように

話す秀吉


「殿さえご無事なら我らは何度でも

 よみがえりまする!」



一呼吸ついて

やっと吾に返った信長は


素早い行動で

退却・撤退するのだけれど、







そこからは

それぞれの思惑で家臣達は撤退していく

のだけれど、


家康は秀吉に

「当家に伝わる秘伝の薬じゃ

 塗れば 痛みが和らぎまする」


と傷に効く膏薬を渡したと思ったら


陣幕の裏では「痒み止め」を渡していた

と話していて、秀吉が殿の任を引き受けて

くれてよかったと本音を話して

いたんだよね


その後、陣幕内では竹中半兵衛が

座っていたけれど、聞こえてないのかな?

違う場所?

なんか家康の裏の顔を知っていて

「気をつけろ」とか誰かに報告して

ないのかな?と疑ってしまうんですよね



金ケ崎と天筒山は繋がっていて天筒山で食い止めて

いる間に金ケ崎から撤退


車でですが、金ケ崎から佐柿国吉城→熊川城→


朽木を通って、京都へは叡山の横を通り、大原をとって




👆これは鯖街道というルートだけれど

この熊川から京都へ入る道を使ったのかな?

という感じです








京へと帰った事があります


とにかく現在でも険しい道でした




秀吉の殿は竹中半兵衛の策で

無事なんとか

つとめあげるんだけれど、




次週


「姉川の大合戦」で裏活躍する





姉川大合戦へとつづく









小谷寺をでて
山の方を見ると
少し小高いところに桜が咲いていて、
数台の車が駐車されていました







なにか史跡があるのかと、

進んで見ると


上の看板には

「伊部林道入口」とあったんです


割合と身軽な感じで

子どもも

坂道を登っているし、

車でも登れる


歴史資料館館からコースは

かなり難しいそうなので

諦めていましたが、こちらからなら

なんとか少しは行けそうな

感じがしました

(現在足の調子が良くなく、炎症の値が

高いので無理はしないようにして、

います)






竹生島が見える〜








車でもここまで登れます

駐車するスペースは少ないですね








☝️の「金吾丸」は大永5年(1525)

六角定頼が大嶽城を攻めた時

六角氏の合力として越前朝倉氏の

軍奉行・朝倉太郎左衛門尉教景(宗滴 金吾)が

ここに陣を布いたと言われてその名乗りを

とって金吾丸としたそうです




途中の見晴らし台より高く登ると

竹生島も大きく見えます








番所跡





この番所から本丸までは10分〜15分


長政は本丸

久政は本丸の上の小丸


まさか、秀吉は清水谷の奥の「水の手」から

急傾斜(左側の傾斜)を登って

京極丸を攻、その後久政と長政を分断し

久政を自害させ、

後に本丸の長政へ上から秀吉下からは

信長家臣の柴田等が取り囲み総攻撃

したと言われています


信長が金ヶ崎城で朝倉と浅井に

両端結んだ小豆袋のようになってしまい

ましたが、今度は長政がそうなって

しまったのですね


一説には大和一国を与えるから

と説得したとかという話も長政にしたと

言われているけれど、今回の信長は無いかな?


今回は、資料館から抜け出して

山城の雰囲気を少し味わえました


小谷城を築いた浅井亮政は平城である

「今浜」から山城の小谷城を築城

時代が変わり、小谷城をもらったけれど

「今浜」の方へと城を変えた秀吉

時代のながれを感じますね
















如意輪山 小谷寺(おだにじ)


小谷寺は、今から約1300年前、聖武天皇の神亀5年

(728年)、加賀白山の開祖泰澄上人が、

白山から伊吹山までの峰々に修験場を開き、

その時、小谷山に建てられた坊舎の中の一つでした


その頃は、「常勝寺」といわれていましたが、

これが現在の小谷寺の開創だといわれています


『淡海木間攫』(おうみこまざらえ)

  寛政4年(1792)成立


によれば、中興海山勢伝法印の時に、

浅井亮政の祈願寺として「小谷寺」と改めたとされる


天正元年(1573)、小谷落城の時、

お寺も本尊以外は悉く焼かれてなくなって

しまった


その後、天正4年、長浜城主になっていた羽柴秀吉に

よって現在地に小谷寺が再建され、寺領を保護され

ました


下の写真の右側の書状は「羽柴秀吉」の

物だそです










第13話での紀行では

雪の小谷寺が映し出されていました










本殿はテレビの放映は2月に撮影されたそうですが、

現在は解体して建て直しをするそうです


なので、本殿に祀られていた御本尊様は

お隣に移動されていて、

そこに入らせてもらったのですが、

特別にご開帳されていて、

幸いなことに、お会いする事ができました



本尊如意輪観音

「金銅半跏思惟像」


両手の平を広げた時に

乗るくらい小さな御本尊様ですが

とても美しくって


「半跏思惟像」は

奈良の中宮寺にある「半跏思惟像」や

京都の広隆寺の「半跏思惟像」が大好きで

時間が許せるならばいつまでも

見ていられるのですが

こちらも本当に中宮寺と広隆寺の

良いとこどりで可愛らしい

心が安らぐ素敵なお顔をしていました


テレビでみたのとはまた違った雰囲気

がしました



他にも









といらっしゃるようですが、

やはり小さいそうです





お寺は、資料館の近くだったので

すぐに行けました










小谷寺の前にこの様な敷地がありました


ドラマの中で信長と長政が

相撲をしたところなのかな?



ここを出ようとすると

山の方には


下👇の小谷城へ行く道がありました!


やった〜少し上まで行けそう!









「伊部林道入口」へ



といっても車でも行けそうなので

行けるところまで行ってきます!