中江兆民「続一年有半」読解1~1章(1)-(2) | ejiratsu-blog

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 『続一年有半-一名無神無霊魂』は、『一年有半-生前の遺稿』の執筆・刊行後、1901(明治34)年9月に執筆を開始し、10月に刊行したもので、中江兆民は、12月に死去しており、『一年有半』が、エッセイ風なのとは対照的に、『続一年有半』は、理論を体系化しているので、最晩年の集大成といえます。

 ここでは、全文を紹介します。

 

 

■第1章:総論

 

・理学即ち世のいわゆる哲学的事条(じじょう)を研究するには、五尺の躯(からだ)の内に局して居ては到底出来ぬ、出来ることは出来ても、その言う所ろが知らず識(し)らずの間皆没交渉となるを免(まぬが)れぬ。人類の内に局して居てもいかぬ、十八里の雰囲気の内に局して居ても、太陽系天体の内に局して居てもいかぬ。

 

《理学、つまり世の中の、いわゆる哲学的事項(条項)を研究するには、5尺(1.515m)の体の範囲内に限定(局限)していては、到底、できない。できることは、できても、そのいうことが、知らず知らずの間に、すべて、没交渉になることを免除されない。人類の範囲内に限定していても、いけない。18里(70.632㎞)の大気圏内に限定していても、太陽系・天体の範囲内に限定していても、いけない。》

 

・元来空間といい、時といい、世界といい、皆一つありて二つなきもの、如何(いか)に短窄(たんさく)なる想像力を以て想像しても、これら空間、時、世界という物に始めのあるべき道理がない、終のあるべき道理がない。また上下とか東西とかに限極のある道理がない。しかるを五尺躯とか、人類とか、十八里の雰囲気とかの中に局して居て、而(しか)して自分の利害とか希望とかに拘牽(こうけん)して、他の動物即ち禽獣虫魚(きんじゅうちゅうぎょ)を疎外し軽蔑して、ただ人という動物のみを割出しにして考索(こうさく)するが故に、神の存在とか、精神の不滅即ち身死する後なお各自の霊魂を保つを得(う)るとか、この動物に都合の能(よ)い論説を并(なら)べ立てて、非論理極まる、非哲学極まる囈語(ねごと)を発することになる。

 

《本来、空間といい、時間といい、世界といい、すべて、1つであって、2つとないものは、どんなに短い・狭い想像力によって、想像しても、これら空間・時間・世界という物には、始めのあるべき道理がない、終りのあるべき道理がない。また、上下とか・東西とかに、極限のある道理がない。それを、5尺の体とか・人類とか・18里の大気圏とかの中に限定していて、そうして、自分の利害とか・希望とかに拘束して、他の動物、つまり鳥・獣・虫・魚を除外・軽蔑して、ただ人という動物だけを割り出して考察・思索するために、神の存在とか・精神の不滅、つまり身体の死後も、なお各自の霊魂を保ち得るとか、この動物に都合のよい論説を並び立てて、非論理の極致・非哲学の極致で、寝言を発語することになる。》

 

・プラトンや、プロタンや、デカルトや、ライプニツトや、皆宏遠(こうえん)達識の傑士(けつし)でありながら、知らず識(し)らずの間己(おの)れの死後の都合を考慮し、己れと同種の動物即ち人類の利益に誘われて、天道、地獄、唯一神、精神不滅等、煙の如き否(い)な煙なら現(げん)にあるが、これらの物はただ言語上の泡沫(ほうまつ)であることを自省しないで、立派に書を著(あら)わし臆面もなく論道して居るのは笑止千万(しょうしせんばん)である。また欧米多数の学者が、いずれも母親の乳汁と共に吸収して身躯(しんく)に血管に浹洽(しょうこう)して居る迷信のために支配せられて、乃(すなわ)ち無神とか無精魂とかいえば大罪を犯したるが如く考えて居るとは笑止の極である。

 

《プラトン・プロティノス・デカルト・ライプニッツは皆、広大・遠大で達見の優秀な人でありながら、知らず知らずの間に、自己の死後の都合を考慮し、自己と同種の動物、つまり人類の利益に誘惑されて、天道・地獄・唯一神・精神不滅等、煙のようなもの、いや、煙ならば、現実にあるが、これらの物は、ただ言語上の泡沫であることを自己で内省しないで、立派に著書し、遠慮もなく、道を論考しているのは、とてもバカバカしいのである。また、欧米の多数の学者が、いずれも母乳とともに吸収して、身体に・血管に、隅々まで行き渡らせている迷信のために支配させられて、つまり無神とか・無精魂とかいえば、大罪を犯したように、考えているとは、バカバカしい極致である。》

 

・なるほど人の肉を肝にして恣睢(しき)暴戻(ぼうれい)を極めた盗跖(とうせき)が長寿して、亜聖ともいわるる顔回(がんかい)が夭死(ようし)し、その他世上(せじょう)往々逆取順守を例とせる盗賊的紳士が栄えて、公正の行(こう)を守る人物が糟糠(そうこう)だにも飽かずして死するを見ると、未来に真個(しんこ)公平の裁判所があるというが如きは、多数人類に取りて都合の好(よ)い言い事である。殊(こと)に身大疾(たいしつ)に犯され、一年、半年と日々月々死に近づきつつある人物等にあっては、深仁(しんじん)至公(しこう)の神があり、また霊魂が不滅であって、即ち身後(しんご)なお独自の資を保ち得るとしたならば、大(おおい)に自ら慰(なぐさ)むる所があるであろう。しかしそれでは理学の荘厳(しょうごん)を奈何(いかん)せん、冷々然ただ道理これ視るべき哲学者たる資格を奈何せん、生れて五十五年、やや書を読み理義を解して居ながら、神があるの霊魂が不滅というような囈語(ねごと)を吐(は)くの勇気は、余は不幸にして所有せぬ。

 

《なるほど、人の肝を膾(なます)にして食い、勝手気ままで残酷・非道を極めた盗跖(春秋時代の魯/ろの盗賊の親分)が長寿して、亜聖ともいわれる顔回(孔子の高弟)が早死し、その他、世の中は、しばしば、道理にそむいた方法を取り、道理にかなった方法を守ることを例とする、盗賊的紳士が栄えて、公正の行いを守る人物が、粗末な食事にも飽きずに死ぬのを見ると、未来に真実・公平な裁判所があるというようなものは、多数の人類にとって、都合のよい言葉である。とりわけ、身体が大病におかされ、1年・半年と日々・月々、死に近づきつつある人物等にあっては、深い仁・極めて公平な神がいて、また、霊魂が不滅であって、つまり死後に、なお独自の資質を保ち得るとしたならば、大いに自分で慰めることがあるであろう。しかし、それでは、理学の重厚さをどうするのか。とても冷淡とした、ただの道理、これを見るべき哲学者である資格をどうするのか。生まれて55年、徐々に書物を読み、理・義を解明していながら、神がある・霊魂が不滅というような寝言を吐く勇気は、私には不幸にして所有していない。》

 

・余は理学において、極めて冷々然として、極めて剥(むき)出しで、極めて殺風景にあるのが、理学者の義務否(い)な根本的資格であると思うのである。故に余は断じて無仏、無神、無精魂、即ち単純なる物質的学説を主張するのである。五尺躯(く)、人類、十八里の雰囲気、太陽系、天体に局せずして、直ちに身を時と空間との真中(まんなか)〈無始無終無辺無限の物に真中ありとせば〉に居いて宗旨を眼底に置かず、前人(ぜんじん)の学説を意に介せず、ここに独自の見地を立ててこの論を主張するのである。

 

《私は、理学において、とても冷淡として、とても露骨で・とても殺風景にあるのが、理学者の義務、いや、根本的資格であると思うのである。よって、私は、断固として、無仏・無神・無精魂、つまり単純な物質的学説を主張するのである。5尺の体・人類・18里の大気圏・太陽系・天体に限定しないで、直接に、身体を時間と空間の真ん中〈無始・無終・無辺・無限の物に真ん中があるとすれば〉において、宗教の主旨を眼中におかず、先人の学説を気にかけず、ここに独自の見解を確立して、この論考を主張するのである。》

 

 

●(1)霊魂

 

・第一霊魂より点検を始めよう、霊魂とは何物ぞ。

 

《第一に、霊魂から点検をはじめよう。霊魂とは、何物か。》

 

・目の視るや、耳の聴くや、鼻口(びこう)の嗅食するや、手足の捕捉(ほそく)し行歩(こうほ)するや、一考すれば実に奇々妙々といわねばならぬが、誰かこれを主張するのである。想像の力記憶の力に至ってはその奇なることは更に甚(はなはだ)しい。乃至(ないし)今日国家社会を構造するは誰の力ぞ、諸種学科を闡発(せんぱつ)し推進し、蛮野を出(い)でて文明に赴(おもむ)く者、皆いわゆる精神の力といわねばならぬ。もしそれ体躯(たいく)はただ五尺とか六尺とかに限極せられて、十三元素とか十五元素とかを以て捏(こ)ね固められて、畢竟(ひっきょう)一(いつ)の頑肉である、しかれば霊妙なる精神が主と為(な)りて、頑肉なる体躯はこれが奴隷であらねばならぬ云々(うんうん)。

 

《目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ・口で食べる、手で捕獲する・足で歩行することは、一度考えてみれば、本当に、とても奇妙といわなければならないが、誰かが、これを主張するのである。想像力・記憶力に至っては、その奇異なことが、さらにひどい。または、今日、国家社会を構築するのは、誰の力か。種々の学科を開発・推進し、野蛮を出て、文明に行くものは、すべて、いわゆる精神の力といわなければならない。さて、躯体は、ただ5尺とか・6尺とかに極限させられて、13元素とか・15元素とかによって、練り固められて、結局、ひとつの頑丈な肉である。それならば、霊妙な精神が主人となって、頑丈な肉である躯体は、これが奴隷であらねばならない、等々。》

 

・この言(げん)やこれ正(まさ)に大謬戻(びゅうれい)に陥(おち)いる第一起頭(きとう)である。精神とは本体ではない、本体より発する作用である、働きである。譬(たと)えばなお炭と焔(ほのお)との如きである、薪(まき)と火との如きである。漆園叟(しつえんそう)は既にこの理を覰破(しょは)して居る、それ十三若(もし)くは十五元素の一時の抱合たる躯殻(くかく)の作用が、即ち精神なるにおいては、躯殻が還元して即ち解離して即ち身死するにおいては、これが作用たる精神は同時に消滅せざるを得ざる理である。炭が灰になり薪(まき)が燼(じん)すれば、焔(ほのお)と灰とは同時に滅(き)ゆると一般である。躯殻既に解離して精神なおありとは背理の極、いやしくも宗教に癮黴(いんばい)せられざる、自己死後の勝手を割出しとせざる健全なる脳髄には、理会されべきはずでない。唐辛(とうがらし)はなくなりて辛味は別に存するとか、太鼓は破(やぶ)れて鼕々(とうとう)の音は独り遺(のこ)って居るとか、これ果(はたし)て理義を思索する哲学者の口から真面目に言わるる事柄であろうか。十七世紀前の欧洲では、もし無神無精魂の説を主張すれば、あるいは水火の酷刑に処せられたので、やむをえぬ事情もあったかは知らぬが、言論の自由なる道理に支配せられべき今日にあって、なおこの囈語(ねごと)を発するとは何たる事ぞ。

 

《この言葉は、これがまさに、大きな誤り・背きに陥る、第一の最初である。精神とは、本体ではない。本体から発動する作用である、働きである。例えば、ちょうど炭と炎のようなものである、薪と火のようなものである。荘子は、すでに、この理を見破っている。それは、13か15元素の一時、抱き合った身殻(身体・外殻)の作用が、つまり精神とするのにおいては、身殻が還元して、つまり解離して、つまり身体が死ぬのにおいて、これが作用する精神は、同時に消滅せざるをえない理である。炭が灰になり、薪が燃え残りになれば、炎と灰は、同時に消滅するのと同様である。身殻が、すでに解離して、精神が、なおあるとは、背理(背反の道理)の極致で、もしも、宗教に中毒化・バイ菌化させられなければ、自己の死後が勝手に割り出せない健全な脳内には、理解されることができるはずはない。唐辛子は、なくなって、辛味が別に存在するとか、太鼓は、やぶれて、トントンという音だけが残っているとか、これは、本当に、理・義を思索する哲学者の口から、真面目にいわれる事柄であろうか。17世紀以前のヨーロッパでは、もし、無神・無精魂の説を主張すれば、火・水の過酷な刑に処罰されたりするので、やむをえない事情もあったかは、知らないが、言論の自由な道理に支配させられるべき今日にあって、まだこの寝言を発語するとは、何という事か。》

 

・故に躯殻は本体である。精神はこれが働らき即ち作用である。躯殻が死すれば精魂は即時に滅ぶのである。それは人類のために如何(いか)にも情けなき説ではないか、情けなくても真理ならば仕方がないではないか。哲学の旨趣(ししゅ)は方便的ではない、尉諭(いゆ)的ではない、たとい殺風景でも、剥(むき)出しでも、自己心中の推理力の厭足(えんそく)せぬ事は言われぬではないか。

 

《よって、身殻は、本体である。精神は、これが働く、つまり作用である。身殻が死ねば、精魂は、即時に滅亡するのである。それは、人類のためには、本当に、情けない説ではないか。情けなくても、真理ならば、仕方がないではないか。哲学の趣旨は、方便的ではない、慰安・諭旨的ではない。たとえ、殺風景でも・露骨でも、自己の心中の推理力が満足しない事は、いわれないではないか。》

 

・もし宗旨家及(および)宗旨に魅せられたる哲学者が、人類の利益を割出としたる言論の如く、果(はたし)て躯殻(くかく)の中に、しかも躯殻と離れて、躯殻より独立して、いわゆる精神なる者があって、あたかも人形遣(つかい)が人形を操(あやつ)る如く、これが主宰となって、躯殻一日(いちじつ)解離しても、即ち身死してもこの精神は別に存するとすれば、躯殻中にある間は、いずれの部位に坐を占めつつあるか、心臓中に居るか、脳髄中に居るか、そもそも胃腸中に居るか、これ純然たる想像ではないか。これら臓腑(ぞうふ)はいずれも細胞より成立ちて居るからは、彼れ精神は幾千万億の細片となってこれら細胞中に寓居しつつあるか。

 

《もし、宗教家・宗教の主旨に魅了された哲学者が、人類の利益を割り出していった言論のように、本当に、身殻の中に、しかも、身殻と離れ去って、身殻から独立して、いわゆる精神なるものがあって、あたかも、人形遣いが人形を操るように、これが中心となって、身殻は、終始、解離しても、つまり身体が死んでも、この精神は、別に存在するとすれば、身殻の中にある間は、いずれの部位に居場所を占有しつつあるのか。心臓の中にいるのか、脳内の中にいるのか、そもそも胃腸の中にいるのか。これは、純粋な想像ではないか。これら内臓(5臓6腑)は、いずれも細胞から成り立っているから、彼らの精神は、何千・何万・何億の細片となって、これら細胞の中に居住しつつあるのか。》

 

・曰(いわ)く、精神は無形なり実質あるにあらずと。この言や正(まさ)に意味なき言語である。およそ無形とは吾人(ごじん)の耳目に触れない、否(い)な触れつつあっても吾人の省(せい)しないものをいうので、即ち空気の如き、科学の目にのみ有形で、顕微鏡にのみ有形で、肉眼には正に無形である。およそ無形とは皆かくの如く実質はあっても極めて幺微(ようび)で、吾人これが触接を覚えないでも、その実はやはり形あるものをいうのである。彼れ精神の如き、もしかくの如くでなく、純然無形で実質がないとすれば、これ虚無ではないか、虚無が躯殻の主宰なりとは、果(はたし)て穏当(おんとう)なる言い事であるか。

 

《(こう)いう、「精神は、無形なのだ、実質があるのではない」と。この言葉は、まさに、意味のない言語である。だいたい無形とは、私達の耳・目に触れない、いや、触れつつあっても、私達が自己で内省しないものをいうので、つまり空気のようなもので、科学の目にだけ有形で、顕微鏡にだけ有形で、肉眼には、まさに、無形である。だいたい無形とは、すべて、このように、実質はあっても、とても微小で、私達は、これが接触を自覚しなくても、その実際は、やはり、形あるものをいうのである。彼の精神のように、もし、そのようではなく、純粋・無形で、実質がないとすれば、これは、虚無ではないか。虚無が身殻の中心なのだとは、本当に、妥当な言葉であるのか。》

 

・およそ無形というものは、皆今日までの学術でいまだ捕捉(ほそく)し得ないか、または学術では捕捉されても、肉体に感得せられないものである。即ち光、温、電等の如きでも、学術ますます進闡(しんせん)した後は、果(はたし)て顕微鏡で看破(かんぱ)し得るかも知れないではないか。彼れ精神の如きでも、灰白色脳細胞の作用で以て、その働らくごとに極(きわめ)て幺微(ようび)の細分子が飛散しつつあるかも知れないではないか。およそ学術上未解の点について想像の一説を立るには、務めて理に近いものを択(えら)ぶが当然である。即ち精神の如きも、躯殻(くかく)中に脳神経が絪縕(いんうん)し摩蘯(まとう)して、ここに以て視聴嗅味及び記憶、感覚、思考、断行等の働らきを発し、その都度瀑布(ばくふ)の四面(よも)に濆沫(ふんまつ)飛散するが如くに、極々精微の分子を看破し得るに至るだろうと臆定(おくてい)し置(おい)ても、必ずしも理に悖(もと)りて人の良心を怒らすが如き事はないではないか。これに反し、分子も形質もなき純然たる虚無の精神が、一身の主宰となりて諸種の働らきを為(な)すというが如きは、如何(いか)にも悖理(はいり)ではあるまいか、人の良心を怒らすべき性質ではあるまいか。

 

《だいたい無形というものは、すべて、今日までの学術で、まだ捕獲し得ないか、または、学術では、捕獲されても、肉体に感得させられないものである。つまり光・温度・電気等のようなものでも、学術は、ますます開発・推進した後は、本当に、顕微鏡で見破ることができるかもしれないのではないか。あの精神のようなものでも、灰白色の脳細胞の作用によって、それが働くたびに、とても微小の細分子が、飛散しつつあるのかもしれないのではないか。だいたい学術上未解明の点について、想像の一説を確立するには、務めて理に近いものを選択するのが当然である。つまり精神のようなものも、身殻の中に、脳神経が元気・勢い盛んで、これによって、視覚・聴覚・嗅覚・味覚、記憶・感覚・思考・断行等の働きを発動し、その都度、滝の4方に水しぶきが飛散するようなもので、非常に精緻の分子を見破ることができるのに至るだろうと、憶測で設定しておいても、必ずしも理に背(そむ)いて、人の良心を怒らすような事はないのではないか。これとは反対に、分子も形質もない、純粋な虚無の精神が、ひとつの身体の中心となって、種々の働きをするというようなものは、本当に、背理(背反の道理)ではないのか。人の良心を怒らすことができる性質かもしれない。》

 

 

●(2)精神の死滅

 

・かつ生産の一事について一考せよ、剰除の大理について思索せよ。およそ懐生(かいせい)の物は、皆己(おの)れの身後に児孫を留むるのである。而(しか)してその児孫には、これが親たる者が己れの躯体とこの躯体より発すべき精神とを分与して、即ち児は親の分身であって、而して親は死し児は留まりて、剰除の数理に副(かな)うのである。

 

《そのうえ、生産のひとつの事柄について、一度考えてみよ。乗除(増減)の偉大な理について思索せよ。だいたい生きとし生ける物は、すべて、自己の死後に、子孫を残すのである。そうして、その子孫には、これが親である者が、自己の身体と、この身体から発出すべき精神を、分与して、つまり子は、親の分身であって、そうして、親は、死に、子は、残って、乗除の数理に適合するのである。》

 

・看(み)よ蚕蛾(さんが)が既に卵を生んだ後は、間もなく死滅するではないか、もし彼(か)の卵が蛾の躯体と精神とを授(さず)かりて、而(しか)して彼の蛾もまた躯体のみ亡(ほろ)びて、その精神は独存すといわば、理において穏当(おんとう)であろうか。即ち李四張三各々児子(じし)を遺(のこ)して、而してその李四張三も死後霊魂独存して滅びないとすれば、これ霊魂国の人口は非常の滋息(じそく)を為(な)して、乃(すなわ)ち十億、百億、千々、万々、十万億と無限に蕃殖(はんしょく)して、一箇半箇も滅することがないであろう、これ果(はたし)て剰除の数理に合するといわれようか。

 

《見よ、カイコのガが、すでに卵を生んだ後には、間もなく、死滅するではないか。もし、あの卵が、ガの身体と精神を授かって、そうして、あのガも、また、身体だけが滅亡して、その精神は、単独で存在するといえば、理において、妥当であろうか。つまり凡人が各々、子供を残して、そうして、その凡人も、死後に霊魂が単独で存在して、滅亡しないとすれば、これは、霊魂国の人口が、非常に増加して、つまり10億・100億・1000億・1万億・10万億と、無限に繁殖して、わずかも滅亡することがないであろう。これは、本当に、乗除の数理に適合するといわれるのか。》

 

・およそ生気あるもの、即ち草木といえども人獣と異(ことな)らぬのである、都(すべ)て父祖たる者は、児孫を以て始めて不朽なるを得るものである。しかるに既に児孫を以て不朽なるを得て、なおその上に自身も別に不朽なるを得(う)るとは、余り勝手過ぎたる言い事である、非哲理極まるのである。半死の田舎媼(でんしゃおう)の口からいえばともかくも、哲学者を以て自(みずか)ら標榜する人物にして、かくの如き非哲理極まる言を吐(は)くとは、直ちに人間羞恥(しゅうち)の事を知らぬのである。

 

《だいたい生気があるものは、つまり草木といっても、人・獣と異ならないのである。すべて、先祖であるものは、子孫によって、はじめて、不朽であることを得るものである。それなのに、すでに子孫を不朽であることを得ても、なお、そのうえに、自身も特別に不朽であることを得るとは、あまりにも勝手すぎる言葉である、非哲理(哲学上の不道理)の極致である。死にそうな田舎の婆さんの口からいえば、ともかく、哲学者を自分で標榜する人物で、このように、非哲理の極致の言葉を吐くとは、すぐに人間の恥ずかしいと思う事をわからないのである。》

 

 

(つづく)