中江兆民「続一年有半」読解2~1章(3)-(5) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●(3)躯殻の不滅

 

・この故に躯殻は本体である、精神は躯殻の働き即ち作用である。さればこそ躯殻一たび絶息すれば、その作用たる視聴言動は直(ただち)にやむのである。即ち躯殻死すれば精神は消滅する、あたかも薪(たき)燼(じん)して火の滅ぶと一般である。

 

《これだから、身殻は、本体である。精神は、身殻の働き、つまり作用である。そうであればこそ、身殻が一度、絶命すれば、その作用である視覚・聴覚・発言・行動は、すぐに、やむのである。つまり身殻が死ねば、精神は、消滅する。あたかも薪が燃え残って、火が滅ぶのと同様である。》

 

・この道理からいえば、いわゆる不朽とか不滅とかは精神の有する資格ではなく、反対に躯体の有する資格である。何となれば、彼れ躯体は若干元素の抱合より成れるもので、死とは即ちこの元素の解離の第一歩である。しかし解離はしても元素は消滅するものではない、一旦解離して即ち身腐壊(ふかい)するときは、その中の気体の元素は空気に混入し、その液体若(もし)くは固体のものは土地に混入して、要するに各元素相離れても、各々この世のいずれの処にか存在して、あるいは空気と共に吸嘘(きゅうきょ)せられ、あるいは草木の葉根に摂取せられ、啻(ただ)に不朽不滅なるのみならず、必ず何かの用を為(な)して、転輾(てんてん)窮已(きわまり)なしというのである。

 

《この道理からいえば、いわゆる不朽とか・不滅とかは、精神がもつ資格ではなく、反対に、身体がもつ資格である。なぜかといえば、この身体は、いくつかの元素の抱き合いにより、成立するもので、死とは、つまり、この元素の解離の第一歩である。しかし、解離しても、元素は、消滅するものではない。いったん解離して、つまり身体が腐敗・壊滅するとき、その中の気体の元素は、空気に混入し、その液体か固体のものは、土地に混入して、要するに、各元素が相互に離れ去っても、各々が、この世の中のどこかの場所に存在して、空気とともに、呼吸させられたり、草木の葉・根に摂取させられたりし、ただ不朽不滅なだけでなく、必ず何かの作用をして、転変は、極限がないというのである。》

 

・故に躯体、即ち実質、即ち元素は、不朽不滅である、これが作用たる精神こそ、朽滅して跡を留(とど)めないのである。これは当然明白の道理で、太鼓が破(やぶ)るれば鼕々(とうとう)の音絶える、鐘が破るれば鍧々(こうこう)の音は止まる。而(しか)してその破敗した太鼓や鐘は、その後如何(いか)なる形状を為(な)しても、如何に片々毀壊(きかい)せられても、一分(ぶ)一厘(りん)消滅することなく、何処(どこ)かで存在して居る、これが実質即ち元素の資格である、これが物の本体と、働らき即ち作用との別である。

 

《よって、身体、つまり実質、つまり元素は、不朽不滅である。これは、作用である精神こそ、朽ち滅して、跡をとどめないのである。これは、当然、明白な道理で、太鼓がやぶれれば、トントンという音も途絶える。鐘がこわれれば、カンカンという音も止まる。そうして、そのこわれた太鼓や鐘は、その後、どのような形状をしても、どのように粉々にこわされても、ごくわずかも消滅することなく、どこかで存在している。これが実質、つまり元素の資格である。これが物の本体と、働き、つまり作用の分別である。》

 

・春首(しゅんしゅ)路上南風に吹(ふき)揚げらるる黄埃(こうあい)、彼れ如何(いか)に疎末に、如何にはかなく見られても、これまた不朽不滅のものである、あるいは河水に混じ、あるいは廛頭(てんとう)の物品に附着し、時に随(したご)うて処を変じても、必ず存在して決して消滅しないのである。彼れ如何に疎末でもやはり若干元素の抱合に成って、吾人(ごじん)の躯体と類を同(おなじ)くして居る。宗旨家若(もし)くは宗旨に癮黴(いんばい)せられたる哲学者のいう所ろの虚無なる精神、または吾人のいう所ろの躯体の一作用なる精神とは、科を同くせぬのである。故に塵埃(じんあい)は不朽不滅なるも、精神は朽滅すべき資格のものである。

 

《春先の路上で、南風に吹き上げられた、黄色の土ボコリ、これが、いかに粗末に・いかにはかなく見られても、これは、また、不朽不滅のものである。川の水に混入したり、店先の物品に付着したりし、時にしたがって、場所が変わっても、必ず存在して、けっして消滅しないのである。それらが、いかに粗末でも、やはり、いくつかの元素の抱き合いで成立して、私達の身体と同類でいる。宗教家・宗教の主旨に中毒化・バイ菌化させられた哲学者がいう、虚無である精神、または、私達のいう、身体の一作用である精神とは、科目を同類としないのである。よって、チリ・ホコリは、不朽不滅であるが、精神は、朽ち滅びるべき資格のものである。》

 

・釈迦耶蘇(ヤソ)の精魂は滅して已(すで)に久しきも、路上の馬糞(ばふん)は世界と共に悠久(ゆうきゅう)である、天満宮即ち菅原道真の霊は身死して輒(すなわ)ち亡(ほろ)びても、その愛した梅樹の枝葉は幾千万に分散して、今に各々世界の何処(いずこ)にか存在して、乃(すなわ)ち不朽不滅である。

 

《シャカ・キリストの精魂は、滅びて、すでに長いが、路上の馬のフンは、世界とともに、永久である。天満宮、つまり菅原道真の霊は、身体が死んで、つまり滅亡しても、彼が愛した梅の木の枝・葉は、何千万に分散して、今は、各々が世界のどこかに存在して、つまり不朽不滅である。》

 

・不朽不滅の語は、宗旨家の心においては如何(いか)に高尚に、如何に霊妙に、如何に不可思議かは知らないが、冷澹(れいたん)なる哲学者の心には、これはおよそ実質皆有する所ろの一資格で、実物中不朽不滅でないものは一(ひとつ)もない。真空に等しい虚無の霊魂は、啻(ただ)に不朽不滅でないのみならず始より成立て居ないのである、虚霊派哲学士の言語的泡沫である。

 

《不朽不滅の言葉は、宗教家の心においては、いかに立派で上品か、いかに霊妙か、いかに不思議かは、知らないが、冷淡な哲学者の心に、これは、だいたい実質が、すべて、もつ一資格で、実物の中で、不朽不滅でないものは、ひとつもない。真空に等しい、虚無の霊魂は、ただ不朽不滅でないだけでなく、はじめから、成立していないのである。虚霊派(唯心論)の哲学者の言語的泡沫である。》

 

 

●(4)未来の裁判

 

・宗旨家及び宗旨に魅せられたる哲学家、往々言う、この世界は洵(まこと)に不完不粋のもので、善を為(な)すも必(かならず)しも賞せられず、悪を為すも必ずしも罰せられず、甚(はなはだし)きは悪人栄耀(えいよう)栄華に飽いて、善人はあるいは寒(かん)餓死を免(まぬが)れない、これだけでも吾人(ごじん)の良心は如何(いか)にも満足することが出来ぬ、これ必ず未来の世界の存する証拠である、故に未来の世界において、完粋(かんすい)整備なる裁判のあるありて、善の大小、悪の軽重に従うて、それぞれ賞罰して寸分も権衡(けんこう)を錯(あや)まらず、而(しか)してこの世界の不公平を償(つぐの)うて、以て不平なる良心を満足させるのである、しかるに人もし身死して精魂即ち滅するにおいては、この最後の裁判を受くることが出来ない、万能なる神の所為はかくの如き不完全なるものではない、善人必ず賞を得て、悪人必ず罰を蒙(こう)むりて、幸(さいわい)に逭(のが)るることを得ないことになって居る云々(うんうん)、それには精魂の不朽不滅が必要である云々。

 

《宗教家・宗教の主旨に魅了された哲学者が、しばしば、いう。この世界は、本当に、不完全・不純粋なもので、善をしても、必ずしも賞賛されず、悪をしても、必ずしも刑罰されない。ひどいのは、悪人が栄光・栄華に飽きて、善人は、寒さでの餓死を逃れられなかったりする。これだけでも、私達の良心は、どうしても満足することができない。これは、必ず未来の世界が存在する証拠である。よって、未来の世界において、完全・純粋に整備された最後の審判があって、善の大小・悪の軽重にしたがって、それぞれ賞賛・刑罰して、わずかも均衡を錯誤しない。そうして、この世界の不公平を補償して、それで不公平になった良心を満足させるのである。それなのに、人は、もし、身体が死んで、精魂が、つまり滅びることにおいては、この最後の審判を受けることができない。万能な神の振る舞いは、このように、不完全なものではない。善人は、必ず賞賛を得て、悪人は、必ず刑罰を受けて、幸いに、逃れることができないことになっている、等々。それには、精魂の不朽不滅が必要である、等々。》

 

・ああこの言(げん)や非道理非哲理の極、意義ますます糾紛(きゅうふん)し錯雑し、あたかも古昔(こせき)の迷室の中に足を容(い)れたる如くに成り了(お)わるほかない。意義なき語句を聯結(れんけつ)して、いささかの意義を発せんと欲する故に、いよいよますます淆乱(こうらん)を致すのである。

 

《ああ、この言葉は、非道理・非哲理の極致で、意義は、ますます紛糾・錯綜し、あたかも昔の迷宮の中に、足を踏み入れたように、成立して終了するしかない。意義のない語句を連結して、わずかな意義を発語したいとするために、いよいよ、ますます、混乱になるのである。》

 

・それこの世界の裁判が不完全であるとは、正に五尺躯に局しての言い事である、人類の中に局しての議論である、善人あるいは賞に漏れ悪人多く罰を免(まぬか)るるは、果(はたし)て誰れの所為ぞ、吾人(ごじん)人類の自業自得ではないか。誰れに赴愬(ふそ)しても「これ汝(なんじ)ら自ら作(な)せる孽(つみ)なり、汝ら自ら改むるほか他に道なし」と一言に刎(は)ね付(つけ)られるべきものである。十八里の雰囲気外には不通の訴訟である、否な十八里の雰囲気中でも、特に横目縦鼻(おうもくじゅうび)の動物にのみ通用する議論である。盗蹠(とうせき)が栄えて顔回が窮(きゅう)したとて、鮒(ふな)や鯉(こい)には少(すこし)も関係はない、一時の風雲に乗じて僥倖(ぎょうこう)に顕達(けんたつ)の地を得てる不義の徒が、天下の大柄(たいへい)を弄(ろう)したとて、豕(ぶた)や牛のためには利害倶(とも)に頓着(とんじゃく)なしである。

 

《そもそも、この世界の裁判が不完全であるとは、まさに、5尺の体に限定(極限)しての言葉である。人類の中に限定しての議論である。善人が賞賛に抜け落ちたりし、悪人が多数、刑罰を免除されるのは、本当に、誰の振る舞いか。私達人類の自業自得ではないか。誰に告知しても、「これは、あなた達が自分でした罪なのだ。あなた達が自分で改める以外に、道はない」と、一言で、はねつけられるべきものである。18里の大気圏外には、通用しない訴訟である。いや、18里の大気圏の中でも、特に、目が横・鼻が縦の動物(人間)だけに通常する議論である。盗跖(春秋時代の魯/ろの盗賊の親分)が繁栄して、顔回(孔子の高弟)が困窮したとしても、フナ・コイには、少しも関係ない。一時の風雲に乗って、幸運にも栄達の地を得た不義の人達が、天下の大権力をもてあそんだとしても、ブタ・ウシのためには、利害とともに、執着がないのである。》

 

・それ無始無終無辺無限の世界に立ちて、芥子粒(けしつぶ)にも比すべからざる人類間の出来事を把(と)りて、この世の裁判の、未来の裁判の、神の、霊魂の、善人の、悪人のと喋々(ちょうちょう)して、而(しか)して人類中の事は人類中で遣(やっ)て除(の)け、不正は追々(おいおい)と避け、正義は追々近寄ることを勗(つと)めて、乃(すなわ)ち自己脚跟(きゃっこん)下の事は自己の力で料理するよう做(な)し将(も)ち去らずして、世界あるべからざる神を影撰(えいせん)し、事理容(ゆ)るすべからざる霊魂の不滅を想像して、辛(かろ)うじて自己社会の不始末を片付けんとするのは、むしろ生地(いくじ)なしといわねばならぬ。

 

《そもそも無始・無終・無辺・無限の世界に存立して、ケシ粒とも比較することができない人類の間での出来事を取り上げて、この世の中の裁判の・未来の最後の審判の・神の・霊魂の・善人の・悪人のと、よくしゃべり、そうして、人類の中の事は、人類の中でやってのけ、不正は、しだいに避け、正義は、しだいに近寄ることを努力して、つまり自己の足下の事は、自己の力で処理するように実行しないで、世界にあることができない神をイメージし、事の理を容認することができない霊魂の不滅を想像して、どうにか、自己社会の不始末を片づけようとするのは、むしろ、意気地なしといわなければならない。》

 

・見よ社会の現状は此輩(このはい)の囈語(ねごと)に管せず、人類中の事は人類中で料理して、古昔(こせき)に比すれば悪人は多くは罰を免(まぬか)れず、善人は世の称賛を得て、乃(すなわ)ち社会の制裁は漸次(ぜんじ)に力を得つつあるではないか。法律制度漸次改正せられて、蛮野(ばんや)より文明に赴(おもむ)き、大数(たいすう)において進歩しつつあるではないか。何ぞ必ずしも未来の裁判を想像し、神を想像し、霊魂の不滅を想像するの必要はないのである。宗教及び宗教に魅せられたる哲学の囈語を打破しなければ、真の人道は進められぬのだ。

 

《見よ、社会の現状は、この人達の寝言に、心をかけない。人類の中の事は、人類の中で処理して、昔と比較すれば、悪人は、多数が刑罰を免除されず、善人は、世の中の称賛を得て、つまり社会の制裁は、しだいに力を得つつあるのではないか。法律・制度は、しだいに改正されて、野蛮から文明へ向かい、大体において、進歩しつつあるのではないか。どうも、必ずしも未来の最後の審判を想像し、神を想像し、霊魂の不滅を想像する必要は、ないのである。宗教・宗教に魅了された哲学の寝言を打破しなければ、本当の人道は、進められないのだ。》

 

・此輩(このはい)輒(すなわ)ち言う、未来においての至厳至密の裁判を畏(おそ)るればこそ、吾人(ごじん)人類の過半数否なほとんど全数が幾分か自ら戒慎(かいしん)して善に就(つ)き悪を避くるよう勗(つと)むるのである。それこの畏れがありてすら、刑辟(けいへき)に触れる者があるのに、ましてこの世はこの世限り、栄耀(えいよう)をすればそれだけの利益、刑罰を逭(のが)るればそれだけの幸福、公正にして貧窮(ひんきゅう)に陥(おち)いるは愚の極と言う事になったならば、道徳風俗は如何(いか)に壊乱するか測られないのだ。即ち欧米人が無宗旨の人を忌(い)むこと、盗賊も啻(ただ)ならざる姿であるのは、此処(ここ)の道理である云々(うんうん)。

 

《この人達は、つまり、いう、未来においての至極厳密な裁判を畏怖すればこそ、私達人類の過半数、いや、ほとんど全員が、いくらか自分で、いましめ・つつしんで、善をし、悪を避けるよう、努力するのである。そもそも、この畏怖があってすら、刑罰に抵触する者があるのに、まして、この世の中は、この世かぎりで、栄光をすれば、それだけの利益が、刑罰を逃れれば、それだけの幸福が、公正であって、貧困に陥るのは、愚鈍の極致という事になったならば、道徳・風俗は、どんなに破壊・混乱するのか、測れないのだ。つまり欧米人が、無宗教の主旨の人を忌み嫌うこと、盗賊も、普通でない姿であるのは、ここの道理である、等々。》

 

・ああこれ何たる卑陋(ひろう)の言(げん)ぞ、およそ善のために善を為(な)し、悪のために悪を避け、一切身外(しんがい)の利益を眼底に措(お)かず、即ちいささかの為(た)めにする所ろなくしてこそ、善称すべくして悪罰すべきである。もし他に為めにする所ろあるときは、善も善にあらず、悪も悪にあらず、善悪混乱し、邪正淆雑(こうざつ)して適従する所ろを知らなくなる。かつ宗教の道徳におけるのは、その力実に微弱である、その証拠は欧洲にあって宗教の尤(もっと)も盛(さかん)なのは中古の時であった。しかるにこの時諸国皆封建制度に循(したが)って、君主と諸侯と常に相軋(あつ)し、刑罰の如き実に苛酷(かこく)を極めたもので、爾来(じらい)科学が漸(ようや)く盛に赴(おもむ)いて、宗教の信仰漸く減退に向った十七、八世紀が、かえって人道において夐(はるか)に多くの進歩を為(な)し、中古の時の比でなかったのではないか。更に支那日本に観よ、二国倶(とも)に宗教には極めて冷澹(れいたん)なるにかかわらず、人民の温和で、人をして酸鼻(さんび)せしむる悪事を敢行(かんこう)する者は、古昔(こせき)欧洲諸国に比して大(おおい)に罕(まれ)であるではないか。故に未来の裁判の畏(おそ)れが巨悪大憝(だいたい)に対して銜轡(がんぴ)の功を奏し居るということは、吾人(ごじん)の信せざる所ろである。

 

《ああ、これは、何という卑劣な言葉なのか。だいたい、善のために善をし、悪のために悪を避け、すべて、自身以外の利益を眼中におかず、つまり、わずかのためにすることを、なくしてこそ、善を称賛することができて、悪を刑罰することができるのである。もし、他のためにすることがあるときは、善も善でなく、悪も悪でない。善悪が混乱し、正邪が混雑して、つきしたがうことが、わからなくなる。そのうえ、宗教の道徳におけるのは、その力が、本当に、微弱である。その証拠は、ヨーロッパにあって、宗教の最も盛んなのは、中世の時代であった。それなのに、この時代の諸国は、すべて、封建制度にしたがって、君主と諸侯が、いつも相互に軋轢(あつれき)があり、刑罰のようなものは、本当に、過酷を極めたもので、それ以来、科学が、ようやく隆盛に向かって、宗教の信仰が、ようやく減退に向かった、17~18世紀が、反対に、人道において、はるかに多くの進歩をし、中世の時代の比ではなかったのではないか。さらに、中国・日本を観察せよ、2国ともに、宗教には、とても冷淡なのにもかかわらず、人民が温和で、人によって悲痛させられる悪事を敢行する者は、昔のヨーロッパ諸国と比較して、大いに、まれであるのではないか。よって、未来の最後の審判の畏怖が、巨悪・大悪に対して、抑止の功能を成し遂げ(奏効し)ているということは、私達の信じないことである。》

 

・かつこの世界で善を勧(すす)め悪を懲(こ)らすために、未来の裁判を想像し、神を想像し、霊魂を想像するのは、これ方便的である、決して哲学的ではない。哲学的はたとい一世に不利であっても、いやしくも真理ならばこれを発揮するこそ本旨というべきである。

 

《そのうえ、この世界で、勧善懲悪のために、未来の最後の審判を想像し、神を想像し、霊魂を想像するのは、これが方便的である。けっして哲学的ではない。哲学的は、たとえ、一時代に不利であっても、もしも、真理ならば、これを発揮することこそ、本旨というべきである。》

 

・今や英、仏、独、即ち科学の最も盛(さかん)なる欧洲の第一流国にあって、その中心学術を信ずるので、辻褄(つじつま)の合わない宗旨の事条に関しては、窃(ひそか)に冷澹(れいたん)を極めつつある輩(はい)が随分(ずいぶん)寡(すくな)くない。乃(すなわ)ち旧教檀越(だんおつ)の尤(もっと)も多い仏国の如きでも、精進日たる水曜日において、公々然牛仔(ぎゅうし)を食して憚(はば)からざる者極めて衆(おお)いのである、しかも一般道徳は、中古に比してすこぶる進めりというべきである。宗教の方便的信条が道徳の実際に力のないことは、他にも証拠を挙げようと思えば沢山ある。

 

《今は、イギリス・フランス・ドイツ、つまり科学の最も盛んなヨーロッパの一流国にあって、その中心の学術を信じるので、辻褄の合わない宗教の主旨の事項(条項)に関しては、ひそかに冷淡を極めつつある人達が、とても少ない。つまり旧教は、信者の最も多いフランスの国のようなものでも、精進の日である水曜日において、おおっぴらに、子牛を食べて恐れない者は、とても多いのである。しかも、一般の道徳は、中世と比較して、たいそう進んでいるということができる。宗教の方便的信条が、道徳の実際に、力のないことは、他にも証拠を挙げようと思えば、たくさんある。》

 

 

●(5)多数神の説

 

・神に至(いたっ)ては、その唯一たると多数たるとに論なく、その非哲学的なる尤(もっと)も甚(はなはだ)しといわねばならず。

 

《神に至っては、それが、唯一であるのと、多数であるのは、いうまでもなく、その非哲学的なのが、最もひどいと、いわなければならない。》

 

・先(ま)ず多神から点検しよう。即ち太陽、太陰、その他山川、雲物(うんぶつ)等を神としてこれを崇拝しこれを祭祀する等の如きは、一噱(いっきゃく)にも直(あた)いせぬ、論破する価値はないのである。もしそれ古昔(こせき)豪傑(ごうけつ)、及び国家に功あった人物、または一宗派の開山たる祖師の如きも、これを祭り、自己敬虔(けいけん)の意を致すことは別に不便なことはないが、禱祠(とうし)して霊験を求むるが如きは尤(もっと)も謂(いわ)れないのである。これらの人物も、身死すると同時にその神は滅したもので、これを禱祠してもいささかの応験のあるべきはずがない、いわゆる淫祠(いんし)たるを免(まぬか)れない。三家村里の翁媼(おうおう)が、これら雲物または古人既滅(きめつ)の泡沫を拝禱(はいとう)するのはなお恕(ゆる)すべきも、読書し理義を弁ずる五尺躯の大男子にして真面目にこれらの物を拝するに至(いたっ)ては、実に言語に絶するのである。

 

《まず、多神から点検しよう。つまり太陽・月、その他、山川・雲の変異等を神として、これを崇拝し、これを祭祀する等のようなものは、一笑の値打ちもない、論破する価値がないのである。さて、昔の豪傑・国家に功績があった人物・一宗派を開山した祖師のようなものも、これを祭り、自己の信仰の意思をいたすことは、別に不都合なことはないが、祈祷・祭祀して御利益を求めるようなものは、最も根拠がないのである。これらの人物も、身体が死ぬと同時に、その神は滅んだもので、これを祈祷・祭祀しても、わずかの御利益があるであろうはずがない。いわゆる、いかがわしい祭祀であるのを免除されない。家がわずかな村里の爺さん・婆さんが、これら雲の変異・昔に死滅した人達を拝礼・祈祷するのは、まだ許すことができるが、読書し、理・義を弁別する、5尺の体の立派な男子で、真面目に、これらの物を拝礼するのに至っては、本当に、言葉で説明できないのである。》

 

・而(しか)してこれ啻(ただ)に悖理(はいり)笑うべきのみならず、人事の実際に害すること甚(はなはだし)きものがある。即ち疾病(しっぺい)あるに方(あた)って、医師に頼り適当の治を施すことはしないで、叨(みだり)に禱祠(とうし)祈誓(きせい)して自(みずか)ら得たりとし、竟(つい)に癒すべからざるに至る者が往々(まま)あるのである。また一日一刻を争う商工事業に関して、行旅しようとする者が、これら神祠(しんし)の告示に由(よっ)て、俄(にわか)に逡巡し延期して、期を逸(いっ)し、了(お)わる者も往々あるのである。甚きに至ては禱祠に藉口(しゃこう)して、男女慇懃(いんぎん)を相通ずるの媒(なかだち)をして以て利を博し、阿芙蓉(アヘン)莫爾比涅(モルヒネ)の毒薬を菓餅(かへい)の中に入れて一時の効験を示し、若(もし)くは止痛の功を誇って信徒を蠱惑(こわく)する者も往々あるのである。これは哲学者にあってはこれを言うさえ慙(は)ずべきである、哲学を題目とした書には、これを筆するさえ厭(いと)うべきである。しかも霊魂不滅の囈語(ねごと)の弊は、正に此(ここ)にまで至るのである、而して牛矢の不滅馬糞(ばふん)の不滅は、科学的真理なる故に絶(たえ)てその弊を見ぬのである。

 

《そうして、これは、ただ背理で、笑うことができるだけでなく、人の事が、実際に危害になることは、ひどいものがある。つまり病気があるにあたって、医師に頼り、適当な治療を施すことをしないで、無闇に、祈祷・祭祀・誓願して、自分で得られたとし、結局、治癒ことができかったことに至る者が、まあまあ、いるのである。また、一日・一刻を争う商工事業に関して、行程しようとする者が、これら神の祠(ほこら)の告示によって、すぐに決断せず、延期して、時期を逃し、終了する者も、まあまあ、いるのである。ひどいのに至っては、祈祷・祭祀にかこつけて、男女関係で通じ合うのを媒酌(ばいしゃく)して、それで利益を獲得して、アヘン・モルヒネの毒薬を菓子の中に入れて、一時の御利益を示し、または、痛み止めの功能を誇って、信徒を魅惑する者も、まあまあ、いるのである。これは、哲学者にあって、これをいうことさえ、恥じるべきである。哲学を題目とした書物には、これを執筆することさえ、避けるべきである。しかも、霊魂不滅の寝言の弊害は、まさに、ここにまで至るのである。そうして、ウシのクソの不滅・ウマのフンの不滅は、科学的真理であるために、途絶えて、その弊害を見ないのである。》

 

 

(つづく)