中江兆民「続一年有半」読解3~1章(6)-(10) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●(6)唯一神の説

 

・唯一神の説は、多数神の説に比すれば数層進歩した痕迹(こんせき)が見える。けれどもその源頭は多数神の説に胚胎(はいたい)し、時世と共に幾分か進歩し、幾分か学術的となったので、その間高華雄深の才を負うて当世を風靡(ふうび)し後代を圧倒せんとする者が、その想像の能力を思うままに馳騁(ちてい)して、凡を厭(いと)い平を嫌い奇を衒(てら)い新を耀(かがや)かすの余に出(いで)たのと、並(ならび)に彼らも人生限りありて朝夕を図らざるに、心窃(ひそか)に憂愁(ゆうしゅう)し、身後(しんご)に憑頼(ひょうらい)する所ろあるを願うと同時に、己(おの)れ既にこの弱点があるので、人もまた同じかるべきことを料(はか)り、縦説横説その詭弁(きべん)を弄(ろう)して、ここに一神の説を称(とな)うるに至ったものと見ゆるのである。波羅門(バラモン)教、仏教、猶太(ユダヤ)教、基督(キリスト)教、回々(フイフイ)教及(および)古昔(こせき)プラトン、プロタンの徒より、デカルト、マルブランシ、ライプニツトの属、皆唯一神説を皇張(こうちょう)するにおいて、基督教僧侶とその説を上下し、人をして恍然これ恐(おそら)くは推理を本(もと)とする哲学者ではなくて、妄信を基とする僧人なるべしと想(おも)わしむる度に至(いたっ)て居る。

 

《唯一神の説は、多数神の説と比較すれば、数段進歩した痕跡が見える。けれども、その根源は、多数神の説に、はじまり、時代とともに、いくらか進歩し、いくらか学術的となったので、その間に、高上・立派・雄大・深遠な才能を請け負って、当時に流行し、後世を圧倒しようとする者が、その想像の能力を思うままに行動して、平凡を忌み嫌い、新奇を誇示(衒耀/げんよう)するあまりに、出現したのと、また、彼らも人生にかぎりがあって、朝夕を図らないで、心ひそかに憂い悲しみ、死後を頼りにすることがあるのを願うと同時に、自己がすでに、この弱点があるので、人も、また、同じであるべきことを図り、自由自在に述べ説き、そのこじつけを、もてあそんで、ここに一神の説を称えるのに至ったものと見えるのである。バラモン教・仏教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教や、昔のプラトン・プロティノスの門徒から、デカルト・マルブランシュ・ライプニッツの同属は、すべて、唯一神説を大いに主張することにおいて、キリスト教は、仏僧と、その説を上位と下位で競い合い、人をうっとりさせ、これは、おそらく、推理を基本とする哲学者ではなくて、妄信を基本とする聖職者であろうと、思わせるほどに至っている。》

 

・惟(おも)うにその説、瓢々(ひょうひょう)然塵寰(じんかん)の表に抜き大(おおい)に俗紛を脱した如くであるが、実は死を畏れ生(せい)を恋い、未来においてなお独自一己(いっこ)の資格を保たんとの都合好(よ)き想像、即ち自己一身に局し、人類に局したる見地より起(おこ)ったのである。その卑陋(ひろう)なのは霊魂不滅の説と全く同一である。

 

《思うに、その説は、フラフラとし、俗世の表世界を抜け出し、大いに世俗の紛糾を脱出したようなものであるが、実際には、死を畏怖し、生を恋慕し、未来において、なおも独自・一人の資格を保とうと、都合のよい想像、つまり自己一身に限定し、人類に限定した見地から生起したのである。それが卑劣なのは、霊魂不滅の説と、まったく同一である。》

 

・唯一神説には二種ある、一(いつ)は余これを名(なづ)けて主宰神の説といい、一はこれを名けて神物同体説という。

 

《唯一神説には、2種ある。1つは、私が、これを名づけて、主宰神の説といい、もう1つは、これを名づけて、神物同体の説という。》

 

 

●(7)神物同体説

 

・古昔(こせき)希臘(ギリシア)の学士中、及び後世和蘭(オランダ)スビノザー、独逸(ドイツ)ヘーゲルの徒、皆神物同体説の一派に属して居る。

 

《昔のギリシアの学士の中や、後世の、オランダのスピノザ、ドイツのヘーゲルの門徒は皆、神物同体説の一派に所属している。》

 

・神物同体とは世界の大理即ち神で、およそこの森羅万象は皆唯一神の発現である、即ち吾人(ごじん)人類の如きも神の段片である、故に神は、世界万有を統(す)べたるもの即ち神である云々(うんうん)。但(ただ)この説にあっては、唯一神とはいうけれど、実はほとんど無神論と異(ことな)らぬのである。何となればこの神や無為無我で、実はただ自然の道理というに過ぎないのである。故に宗旨家及び宗旨に癮黴(いんばい)せられたる哲学者は、神物同体説を以て邪説として痛くこれを排斥して居る。それはそのはずである、宗旨家の唯一神説は正(ま)さに主宰神の説で、即ち左の如くである。

 

《神物同体とは、世界の偉大な理、つまり神で、だいたい、このあらゆる事象は、すべて、唯一神の発現である。つまり私達人類のようなものも、神の断片である。よって、神は、世界の万物を統一するもの、つまり神である、等々。ただ、この説にあっては、唯一神というけれども、実際には、ほとんど無神論と異ならないのである。なぜかといえば、この神は、無為・無我で、実際には、ただ自然の道理というのにすぎないのである。よって、宗教家・宗教の主旨に中毒化・バイ菌化させられた哲学者は、神物同体説によって、邪説として、ひどく、これを排斥している。それも、そのはずである。宗教家の唯一神説は、まさに、主宰神の説で、つまり左記(下記)のようである。》

 

 

●(8)主宰神の説

 

・曰(いわ)く、神は智徳円満豊備(ほうび)で、知らざる莫(な)く能(あた)わざる莫く、真の独立不倚(き)の勢(いきおい)に拠(よっ)て挺然(ていぜん)この世界万彙(ばんい)の表に立ち、而(しか)してこの世界万彙はその創造する所ろであるが故に、またその中にも寓(ぐう)せざる莫く、吾人(ごじん)浅智(せんち)の思議すべからざる霊威無限のものである。

 

《(こう)いう、神は、智恵・道徳が円満で充分に具備し、知らないことはなく、できないことはなく、本当に独立し、頼らない勢いによって、超然と、この世界の万物の表に確立し、そうして、この世界の万物は、それが創造することであるために、また、その中にも宿らないことはなく、私達は、浅はかな智恵で、思考することができない霊威が無限のものである。》

 

・また曰(いわ)く、神は万物を造り、万物を護(まも)り、特に人類を造り、これに自由を与えて、善悪共に自己の衷情(ちゅうじょう)から割出してこれを行うことを得せしめて居る。神は無始、無終、無限、無極で世界あらざる所ろなく、また過去、現在、未来を一串(いっかん)して通知せざる所ろなく、即ち神のためには過去もなく未来もなく皆現在である。

 

《また、(こう)いう、神は、万物を造り、万物を守り、特に人類を造り、これに自由を与えて、善悪ともに、自己の本当の心情から割り出して、これを行うことを得させている。神は、無始・無終・無限・無極で、世界にないことはなく、また、過去・現在・未来を一連して、通じていて知らないことがなく、つまり神のためには、過去もなく、未来もなく、すべて、現在である。》

 

・また曰(いわ)く、神は吾人人類の各個が、あるいは善を為(な)しあるいは悪を為すを前知して、一箇半箇も遺漏(いろう)する所ろはない。しかもかく吾人の所為に放任し置くのは、乃(すなわ)ち吾人人類に意思の自由を附与せる所以(ゆえん)であって、吾人この自由あればこそ、善を為せば吾人の功、悪を為せば吾人の責(せめ)で、未来の大裁判において、あるいは賞を得あるいは罰を獲(え)る所以である。

 

《また、(こう)いう、神は、私達人類の各個が、善をしたり、悪をしたりするのを、事前に知って、わずかも抜け落ちることはない。しかも、こうも私達の振る舞いを放任しておくのは、つまり私達人類に意思の自由を付与させる理由であって、私達は、この自由があればこそ、善をすれば、私達の功績、悪をすれば、私達の責任で、未来の最後の審判において、賞賛を得たり、刑罰を得たりする理由である。》

 

・また曰(いわ)く、神の吾人人類を造るや、その形は自己に象(かたど)りて、乃(すなわ)ち万物に霊長たらしむる事と為(な)したのである云々(うんうん)。果(はたし)てこの言が真(まこと)ならば、神もまた横目縦鼻(おうもくじゅうび)の一箇具体のものといわねばならぬ。

 

《また、(こう)いう、神が私達人類を造るのに、その形は、自己を型どって、つまり万物の中で、霊妙な長にさせる事をしたのである、等々。本当に、この言葉が真実ならば、神も、また、目が横・鼻が縦の動物(人間)の、1個の具体のものといわなければならない。》

 

・およそこれらの言、宗教家の口から出(いず)れば、中以下根機(こんき)の人を済度(さいど)するための方便として、やや恕(ゆる)すべきであるが、一切方便を去りてただ真理これ視るべき哲学者にして、かくの如き無意義非論理なる囈語(ねごと)を唱(とな)えて、而(しか)してその人、実にこの学において大家(たいか)の名を擅(ほしいまま)にして居るとは驚くべきである。神もし果(はたし)て万能にして為(な)すべからざるなく、遂(と)ぐべからざるなしとすれば、人類社会に賚(たま)うに、善あって悪なきを以てすれば、この世の裁判さえも不必要に帰すべきである、いわんや未来の裁判をやだ。故(ことさ)らに人に与うるに自由の意思を以てして、あるいは悪を為すを得せしめ、しかる後未来の裁判においてこれを殛罰(きょくばつ)するとは、これ神はその心を設(もう)くることが甚(はなはだ)陰険というべきでないか。

 

《だいたい、これらの言葉は、宗教家の口から出れば、中程度以下の教えを受ける能力がある人を、救済するための方便として、やや許すことができるのであるが、すべての方便を取り去って、ただ真理、これを見ることができる哲学者で、このように、無意義・非論理な寝言を唱えて、そうして、その人が、本当に、この学問において、大家の名をほしいままにしているとは、驚くことができるのである。神が、もし、本当に、万能で、成し遂げないわけにはいかないとすれば、人類社会に与えるのに、善があって、悪がないことによってすれば、この世の裁判さえも、不必要に帰着することができる。まして、未来の最後の審判は、なおさらだ。故意に、人に与えるのに、自由の意思によってして、悪をするのを得させたりし、そうして、はじめて、未来の最後の審判において、これを死刑にするのは、これでは、神が、その心を設定することが、とても意地悪ということができるのではないか。》

 

・此輩(このはい)また神の造物の説を唱えて居る。

 

《この人達は、また、神の造物の説を提唱している。》

 

 

●(9)造物の説

 

・曰(いわ)くこの世界の森羅万象は、神の創造する所ろである。その肇(はじ)め世界は実に無極であったが、神がその大威徳を発揮し、その大通力を播揚(はよう)して、無極よりして太極(たいきょく)を造り、ここに以てこの宇宙、この世界、山河草木、人獣虫魚より土石瓦礫(がれき)に至るまで、その掌裡(しょうり)から捏出(ねっしゅつ)せられて、この整然たる万物始(はじめ)て成立することを得たのである云々(うんうん)。

 

《(こう)いう、この世界のあらゆる事象は、神が創造することである。その最初に、世界は、本当に無極であったが、神が、その偉大な威徳を発揮し、その偉大な神通力を起こし広めて、無極から太極を造り、こういうわけで、この宇宙・この世界・山河・草木・人・獣・虫・魚から、土・石・瓦礫に至るまで、その手中から生み出されて、この整然とした万物が、はじめて成立することを得たのである、等々。》

 

・それ無よりして有を得る、これ何の言(こと)ぞ、完全な脳髄を所持する者に、理解し得らるべき言であるか。無は何処(どこ)までも無なるべきはずである、無が有となるを得るほどならば、その無は真の無ではないので、何かの種子を包容して居たものではないか。排気鐘中(しょうちゅう)の真空を、一年の間放過したとて、何物にも変ずるを得(う)べきはずはあるまい、これ無の有となるべからざる証拠である。如何(いか)に万能の神でも、悖理(はいり)の事の出来べきはずはないのである。造物の説はミケランジ、ラファエルの属(やから)が、その奇傑(きけつ)の腕前を揮霍(きかく)するための画題と為(な)すには極(きわめ)て適当ではあるだろうが、冷澹(れいたん)平静一(いつ)も非論理の禁を犯すを容(ゆ)るされない哲学者の口からして、神の造物の説を主張するとは驚くべきの極である。

 

《そもそも無から有を得る、これは、何の言葉か。完全な脳内を所持する者に、理解して得られることができる言葉であるのか。無は、どこまでも無であろうはずである。無が有となるのを得られるほどならば、その無は、本当の無ではないので、何かの種子を包み込んでいたものではないのか。排気できる釣鐘状のガラス器の中の真空を、1年間、放置しても、何物も変わり得ることができるはずはないだろう。これは、無が有となるはずがない証拠である。いかに万能な神でも、背理の事ができるはずはないのである。造物の説は、ミケランジェロ・ラファエルの同属が、その奇抜な豪傑の腕前を、振り回すための画題とするには、とても適当ではあるだろうが、冷淡・平静で、ひとつも非論理の禁制を犯すことを許されない哲学者の口から、神の造物の説を主張するのは、驚くべき極致である。》

 

・かつ神の造物の説が真だとすれば、実に近時の学術において大攪乱(かくらん)の種子を播(ま)き来(きた)ることとなる。何となれば、彼の仏蘭西(フランス)ラマルクに由(よ)りて創唱せられ、英国ダーウインに由りて集大成せられて、近代の科学に大効力を及ぼした事物進化の一説と造物の説とは、固(もと)より両立するを得(う)べからざるものである。

 

《そのうえ、神の造物の説が、本当だとすれば、実際に、近頃の学術において、大混乱の種子をまいてきたことになる。なぜかといえば、あのフランスのラマルクによって、はじめて提唱され、イギリスのダーウィンによって、集大成されて、近代科学に偉大な効力を及ぼした事物進化の一説と、造物の説は、元々、両立し得ることができないものである。》

 

・それ神万物を造りて、大は天体より小は蠛蠓(べつぼう)に至るまで、一定渝(か)ゆべからざる模型を製した以上は、甲の物は何日(いつ)までも甲(こう)の形を保ちて親子相い伝え、乙丙丁(おつへいてい)皆かくの如くで、即ち吾人の遠祖が尻尾(しっぽ)を有したなどの説とは相い容(い)るることは出来ない、獼猴(びこう)の或る種族が進化して人と成ったなどの論とは並び立つことは出来ない。古昔(こせき)学術草昧(そうまい)の世、今時よりいえばほとんど精神病者の如き人物に由(よ)りて想像せられて、一(いつ)も論理に適(かな)わない造物の説と、尋常に度越して居る博学俊傑(しゅんけつ)の士がこれを理に揆(はか)り、これを学に質(ただ)し、観察し、経験し、苦心惨澹(さんたん)の余に得たる進化の説と、いずれを信じいずれを非とすべきである乎(か)。胸中いささかの為(た)めにする所ろのない者は、この間に躕躇(ちゅうちょ)することあるまいと思われる。

 

《そもそも神が万物を造って、大は、天体から、小は、糠蚊(ぬかか)に至るまで、一定で変化することができない模型を製造した以上は、甲の物は、いつまでも、甲の形を保って、親子が相互に遺伝し、乙・丙・丁も、すべて、このようで、つまり私達の遠い祖先が、シッポをもっていた等の説とは、相互に許容することはできない。大ザルのアル種族が進化して、人となった等の論考とは、並び立つことはできない。昔の学術の初めで暗い時代、現在からいえば、ほとんど精神病者のような人物によって想像され、ひとつも論理に適合しない造物の説と、普通の程度を超越している博学・優秀な学士が、これを理にはかり、これを学問に問いただし、観察・経験し、苦心して思慮するあまりに得た進化の説と、どちらを信じ、どちらを非(誤り)とすべきであるのか。心中が、わずかのためにすることがない者は、この間に、ためらうことはないだろうと思われる。》

 

・造物の説にまた極(きわめ)て謬巧(びゅうこう)なのがある。

 

《造物の説には、また、とても巧みな誤りなのがある。》

 

・曰(いわ)く、吾人途(みち)を行(ゆ)いて物を拾(ひろ)うことがあるとせよ。竹頭木屑(ぼくせつ)ならばともかくも、いやしくも人巧(じんこう)を経(へ)たる物、譬(たと)えば各種器物でるとか、更にはまた極(きわめ)て縝密(しんみつ)の機械に具(そな)えてる時辰儀(じしんぎ)等であった時には、誰れかこの物を作った者があるだろうということは不言の間に明瞭である。箇様(かよう)の品物が偶然独りで出来て途に落て居る道理はないからである。しかるにこの世界の万有は如何(いかん)、その巧妙なること人造の器物時辰儀に比すべき所ろでない。それ鳥は空中を飛行する、故に羽翮(うかく)がある。それ魚は深淵に潜(しず)む、故に尾䰇(おひれ)がある。鶴鷺(かくろ)は泥沢(でいたく)に下りて、鰌鰻(しゅうまん)の属を食とする、故に嘴(くちばし)が長い。鴨鵞(おうが)は水中に住(すみ)て常に游泳する、故に足に水掻(みずかき)がある。その他禽獣(きんじゅう)について言うならば、これを大にして鷲鯨(しゅうげい)の類がある、これを小にして蠛蠓(べつぼう)の属がある。蚊の足の繊(ほそ)いのも神経筋肉細胞より成立して、而(しか)して細胞中にはまた核を具えて居る。更に人体に至りてその精緻はまた他の獣魚の比俦(ひちゅう)でない、肺の呼吸における、胃腸の消化における、脾(ひ)の血球における、肝の胆液における、脳神経の運動知覚における、その他極精の顕微鏡にさえ看(み)るべからざる神経血管の抹消細胞組織等に至(いたっ)て、いよいよ研究すればいよいよ精緻なことが解(わか)る。もしそれ天体に至っては、日月星辰(じつげつせいしん)の大物が空中に旋躔(せんてん)廻転して、各々その軌道を守って寸毫(すんごう)も違(たが)わない、あるいは一月一廻転、あるいは一年一廻転、あるいは十年十数年一廻転して、かつてその約を渝(か)えることがない。この精微の極、広大の極、微妙の極、雄深(ゆうしん)の極たる世界万物人獣虫魚の属が、造主なくして自然に湧(わき)出したとは受取れぬ議論である。護持(ごじ)する者なくして保たれて居るとは承諾の出来ぬ言い事である。一箇の時辰儀すらなおかつ造主なくして独りでは出来ない、この世界万象が造主なしに出来たとは何の論理であるか云々(うんうん)。

 

《(こう)いう、私達が道を行って、物を拾うことがあるとせよ。竹の切れ端・木クズならば、ともかくも、もしも、人の技巧を経た物、例えば、各種の器物であるとか、さらには、また、とても精密な機械が備わっている時計等であった時には、誰か、この物を作った者があるだろうということは、無言の間に明瞭である。このような品物が、偶然ひとりでにできて、道に落ちている道理はないからである。それなのに、この世界の万物は、どうか。それが巧妙であることは、人工の器物の時計に比較できることでない。そもそも鳥は、空中を飛行する。よって、羽・翼がある。そもそも魚は、深くに潜る。よって、尾ヒレがある。ツル・サギは、泥沼に下りて、ドジョウ・ウナギを食べる。よって、口ばしが長い。カモ・ガチョウは、水中に住んで、いつも遊泳する。よって、足に水かきがある。その他の鳥・獣についていうならば、これを拡大して、ワシ・クジラの同類がある。これを縮小して、糠蚊(ぬかか)の同属がある。蚊の足が細いのも、神経・筋肉・細胞から成立して、そうして、細胞の中には、また、核を備えている。さらに、人体に至って、その精緻は、また、他の獣・魚の仲間ではない。肺の呼吸における、胃腸の消化における、脾臓の血液における、肝臓の胆液における、脳神経の運動・知覚における、その他の至極精密な、顕微鏡でさえ見ることができない、神経・血管の抹消細胞等に至って、いよいよ研究すれば、いよいよ精緻なことがわかる。さて、天体に至っては、日・月・星々の大物が、空中で旋回・巡転して、各々がその軌道を守って、ほんのわずかも違わない。1ヶ月で1回転したり、1年で1回転したり、10年・10数年で1回転したりして、かつての、その制約を変化することがない。この精緻の極致・広大の極致・微妙の極致・雄大で深遠の極致である世界の万物の人・獣・虫・魚の同属が、創造主がなくて、自然に湧き出たとは、受け入れられない議論である。守護するものがなくて、保たれているとは、承諾のできない言葉である。1個の時計ですら、それでもやはり、創造主がなくて、ひとりでにできない。この世界のあらゆる事象が、創造主なしにできたとは、何の論理であるのか、等々。》

 

・吾人は反対に言いたくなる、人巧に出(いで)たる器具時辰儀(じしんぎ)の類は、如何(いか)に緻密でも、これを天然物に比すれば、天然物の最も麁末(そまつ)なるもの、蛞蝓(なめくじ)の如き海月(くらげ)の如きものに比しても、なお遠く及ぶべきでない。いわんや人獣の構造組織の如き、広大無辺なる星象(せいしょう)の旋躔(せんてん)廻転の如き、如何なる通力あるにせよ、一箇の力でこれを造ったとは、それこそ論理において受け取れぬ、自然の理に頼(よ)りて、絪縕(いんうん)し、摩蘯(まとう)し、化醇(かじゅん)し、浸漬(しんし)して出来たという方(ほう)如何ほど道理に近くはあるまいか。

 

《私達は、反対にいいたくなる。人の技巧で出現した器具・時計の同類は、いかに緻密でも、これを天然物と比較すれば、天然物で最も粗末なもの、ナメクジのようなもの、クラゲのようなものと比較しても、やはり遠く及ぶことはできない。ましてや、人・獣の構造組織のようなものは、広大・無辺な星座の旋回・巡転のようなもので、どんな神通力があるにせよ、1個の力で、これを造ったとは、それこそ論理において、受け取れられない。自然の理によって、元気で、勢い盛んで、変化・純粋になり、浸透してできたという方が、どれほど道理に近くではないだろうか。》

 

・また果してこの世界万象を製造したる神があるならば、世界の那処(どこ)に居るのであるか、もしまた神はあらざる所ろなしといえば、何日(いつ)か何処(どこ)かで吾人にこれが兆朕(ちょうちん)を見(あら)わしそうな物である。神の形が既に吾人人類に同じといえば、その顔はいくばくの大(おおき)さである、その四肢(しし)はいくばくの長さである、その胸腹(きょうふく)はいくばくの容積である、宗旨家は神が某処(ぼうしょ)に現われたる事があると言(いっ)て居る、けれどもこれは特にその仲間中での言のみで、固(もと)より信を置くには足らず。

 

《また、本当に、この世界のあらゆる事象を製造した神があるならば、世界のどこにいるのであるか。もし、また、神はいないことがないといえば、いつか・どこかで、私達に、これが兆候を現わしそうな物である。神の形が、すでに私達人類と同じといえば、その顔は、どれほどの大きさであるか、その手足は、どれほどの長さであるか、その胸・腹は、どれほどの容積であるか。宗教家は、神が、何々の場所に現われた事があるといっている。けれども、これは、特に、その仲間の中での言葉だけで、元々、信用するのには不足だ。》

 

 

●(10)神に遇う

 

・モイーズ、アーロンの徒が神に某(それ)山の巓(いただき)で逢ったとか、斯々(かくかく)云々(しかじか)の垂示(すいじ)を授(さず)かったとか、当時風気(ふうき)未開の世にあって、かつ宗教上衆生(しゅじょう)済度(さいど)の方便としてかくの如き言を為(な)しても、必ずしも咎(とが)むべきではなかったが、学術進闡(しんせん)した今日にあっては、たとい宗旨家といえどもその荒誕無稽(こうたんむけい)この度に至るを容(ゆる)さない。まして哲学者としてはこれを主張するは勿論(もちろん)、これを攻撃するさえ恥かしさに堪(た)えぬほどである。

 

《モーセ・アロン(弟・兄)の門徒が、神に何々山の頂上で逢ったとか、カクカク・シカジカの教示を授かったとか、当時の気風が未開の時代にあって、そのうえ、宗教上の人々救済の方便として、このような言葉を作為しても、必ずしも非難すべきではなかったが、学術が開発・推進した今日にあっては、たとえ、宗教家といっても、それが、荒唐無稽で(でたらめで根拠がなく)、この度合に至るのを許容しない。まして、哲学者としては、これを主張するのはもちろん、これを攻撃することさえ、恥ずかしさに耐えられないほどである。》

 

・かつ日用器具時辰儀(じしんぎ)の類も、人巧(じんこう)を経なければ自然に出来べきものでない、まして世界万彙(ばんい)が自然に出来べきはずがない、必ず造化主宰の手に出来たに違いないとは、これ正(まさ)に余が前に論じた如く、人類社会に局しての言語である。目を世界の上に放(はな)ち、心を塵寰(じんかん)の表に遊ばしての言論ではない。なるほど時辰儀は人巧に成れるに違いない、しかしこれが財料たる金属宝石の類は、元より存在して居たものである。即ち時辰儀工はこれら財料を聚(あつ)めて、時辰儀と号する一箇の形を与えたるに過ぎないのである、文字の真の意味においての造ではない。

 

《そのうえ、日用器具・時計の同類も、人の技巧を経なければ、自然にできるはずのものではない。まして、世界の万物が、自然にできるはずがない。必ず造化の主宰の手で、できたに違いないとは、これが、まさに、私が前に論考したように、人類社会に限定しての言語である。目を世界の上に解放し、心を俗世の表世界に交遊しての言論ではない。なるほど、時計は、人の技巧で成立するに違いない。しかし、これの材料である金属・宝石の同類は、元々、存在していたものである。つまり時計の職工は、これらの材料を集めて、時計という、1個の形を与えたのにすぎないのである。文字の本当の意味においての創造ではない。》

 

・神の造物の業におけるのはこれと異なる。従前あった所ろの財料を聚(あつ)めて、世界万彙(ばんい)を製出したのではなく、全く無よりして有、即ち真空の中にこの森然(しんぜん)たる世界万彙を造ったもので、それかとすれば、また物は造らねば自然には出来ぬというて、無よりして有なると、有の中でただ場所を換(か)ゆるのとを混同して居る。余は繰返していう、この広大無辺の世界、この森然たる万物が、一個の勢力に由(よ)りて一々に造り出されたというよりは、従前他の形体を有せしものが自然に化醇(かじゅん)して、この万彙に変じ来(きた)って乃(すなわ)ち自然に出来たというこそ、更に数層哲学的である。完全なる判断力を有するものは、この二説の間に、決して躊躇(ちゅうちょ)せぬであろうと思われる。

 

《神の創造物の事業におけるのは、これとは異なる。以前にあった材料を集めて、世界の万物を製造・出現したのではなく、まったく無から有、つまり真空の中に、この荘厳な世界の万物を造ったもので、そうだとすれば、また、物は、造らなければ、自然にはできないといって、無から有になると、有の中で、ただ場所を変化するのを、混同している。私は、繰り返しいう、この広大・無辺の世界で、この荘厳な万物が、1個の勢力によって、ひとつひとつ造り出されたというよりは、以前、他の形体であったものが、自然に変化・純粋になって、この万物に変わり切って、つまり自然にできたということこそ、さらに、数段哲学的である。完全な判断力をもつものは、この2説の間に、けっして、ためらわないであろうと思われる。》

 

 

(つづく)