中江兆民「一年有半」抜粋1~第1 | ejiratsu-blog

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福沢諭吉「学問のすすめ」要約

福沢諭吉の本意

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 中江兆民は、1847(弘化4)年に、土佐藩・高知城下町の、足軽の家に誕生し、15歳で、父の死去により、家督を相続、16歳で、藩校の文武館へ、開校と同時に入門し、漢学・蘭学を修得、19歳で、英語修学のため、長崎に派遣され、20歳で、江戸に遊学し、長崎・江戸では、フランス語を修学しました。

 22歳で、明治維新(1868年)となり、25歳で、司法省の出仕として、フランス留学のため、岩倉使節団に同行し、26~28歳には、フランス留学、29歳で、東京外国語学校の校長となりましたが、すぐに教育方針で文部省と対立して辞職、30歳まで、憲法案作成のための調査・翻訳に参画しています。

 31歳で、出仕を依願退職すると、それ以降は、在野で活動し、新聞を創刊・主筆したり、書籍を出版、36歳で、フランスのルソー『社会契約論』を漢文訳し、『民約訳解』を刊行、41歳で、『三酔人経綸問答』を刊行しました。

 44歳で、帝国議会開始のため、第1回総選挙の衆議院議員に当選し、立憲自由党の結成にも尽力しましたが、45歳で、党内の土佐派が造反し、政府予算案に賛成・成立したことに憤慨して、議員辞職しています。

 46歳以降は、実業家としても活動しましたが、いずれも失敗し、55歳で、咽頭(いんとう)ガンと診断され、医師に余命一年半を聞き出し、療養生活しながら、『一年有半』を、6月に執筆開始し、9月に刊行、『続一年有半』を、9月に執筆開始し、10月に刊行、1901(明治34)年12月に、死去しました。

 

 『一年有半-生前の遺稿』は、最晩年での大病の療養生活と、現況の認識・今後の提案等が、混交しているので、ここでは、このうち、兆民の思想の主張を抜粋し、漢文調を現代語訳してみました。

 なお、目次と見出しは、兆民の指示で、門下生の幸徳秋水が付けたものです。

 

 

●第1(1901/明治34年7月11日)

 

○一年半は悠久なり

・一年半、諸君は短促(たんそく)なりといわん、余は極(きわめ)て悠久(ゆうきゅう)なりという。もし短といわんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。それ生時(せいじ)限りありて死後限りなし、限りあるを以て限りなきに比す短にはあらざるなり、始(はじめ)よりなきなり。もし為(な)すありてかつ楽(たのし)むにおいては、一年半これ優(ゆう)に利用するに足らずや、ああいわゆる一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わなみ)はこれ虚無海上一虚舟(いちきょしゅう)。

 

《1年半を、諸君は、差し迫っているのだというだろう。私は、とても長く続くのだという。もし、短いといいたいとならば、10年でも短いのだ、50年でも短いのだ、100年でも短いのだ。それは、生前が有限であって、死後が無限で、有限を無限と比べれば、短くはないのだ、最初から無なのだ。もし、なすことがあって、そのうえ、楽しむことにおいて、1年半は、これが余裕で、利用するのに不足なのか(いや、充分だ)、ああ、いわゆる1年半も、無なのだ、50年・100年も、無なのだ。つまり私自身は、このように、虚無の海上にある、一隻の空虚な舟なのだ。》

 

 

○暗殺は必要なり

・……文運(ぶんうん)大(おおい)に開け法律用なくして、道徳独り力を逞(たくま)しくして、乃(すなわ)ち一国人々皆君子なる暁(あかつき)は知らず、いやしくも社会の制裁力微弱なる時代にありては、悪を懲(こ)らし禍(か)を窒(ふさ)ぐにおいて、暗殺けだし必要欠くべからずというべき耶(か)。

 

《……文化の気運が大いに開花し、法律が無用で、道徳だけが力強くて、つまり一国の人々が皆、君子になることを知らず、もしも、社会の制裁力が微弱な時代にあっては、悪をこらしめ、災禍をふさぐことにおいて、暗殺は、思うに、必要で、欠かすことができないというべきではないか。》

 

 

○灰殻連の欺偽

・世にはまた一種の灰殻連(はいかられん)というべき輩は、己(おの)れ文明人たる事を示めさんと欲し、むやみに同情を被害者に表(ひょう)し、意を枉(ま)げて奨賛媚悦(しょうさんびえつ)し、加害者は則ち直(ただ)ちに兇漢(きょうかん)を以てこれを目(もく)して、以て自家の文明温和の人たるを衒耀(げんよう)し、その衷情(ちゅうじょう)を問えばあるいは正(まさ)にこれと反対にて、心窃(ひそか)にこの事件を快(かい)とせる者多々なるを知る、欺偽(きぎ)の世の中なる哉(かな)、教育の如きは要当(ま)さに根本より革(あらた)むべきなり。

 

《世の中には、また、一種のハイカラ連というべき仲間がいて、自己が文明人である事を示したいとし、無闇に同情を被害者に表わし、意思を曲げて、称賛・こびへつらい、加害者は、つまり、すぐに悪者によって、これをみなし、それで自分が文明的で温和な人であることを誇示し、その本当の心情を問えば、これと正反対だったりして、心ひそかに、この事件を愉快とする者が多々いることを知る。欺瞞(ぎまん)の世の中なのだな、教育のようなものは、必要で、当然、根本から改革すべきなのだ。》

 

 

○井上、白根今則ち亡し

・それその能(よ)く創見する所あるを得るは何ぞ、その人学術衆に抜くあるに由(よ)るといえども、そもそもまた真面目なるに由らずんばあらず。彼(か)れニユートンや、ラウオアジエーや、極めて正経(せいけい)の人なり、極(きわめ)て真面目の人なり。人あるいはニユートンに問うに、何を以て能く爾(し)かく大発見あることを得たると。ニユートン答(こたえ)て曰(いわ)く、われただ思うてやまず故に得たり。その心胸面目(めんもく)如何(いか)なる人たるを知るべきにあらずや、これ小才識(しょうさいしき)小学術ありて、俗にいわゆる横着なる、俗にいわゆるヅウヅウしき小人(しょうじん)輩の企及(ききゅう)すべき所ならん哉(や)。今やわが邦中産以上の人物は、皆横着の標本なり、ヅウヅウしき小人の模範なり。余近時(きんじ)において真面目なる人物、横着ならざる人物、ヅウヅウしからざる人物ただ両人を見たり。曰く井上毅(こわし)、白根専一(せんいち)。今や則ち亡(な)し。

 

《それで、それが充分に独創的な見解することができるのは、どうしてなのか。その人が学術の中で、抜きん出たものがあることによるといっても、そもそも、また、真面目なのによらないことはない。あのニュートン(イギリスの物理学者)も、ラヴォアジエ(フランスの化学者)も、とても正道の人なのだ、とても真面目な人なのだ。人がニュートンに質問したりする、「何によって、充分に、そのような大発見であることができたのか」と。ニュートンが返答していう、「私は、ただ思って止まないから、できたのだ」と。その心中・容貌が、どのような人であるのかを知ることができるのではないか。これは、少ない才知・見識や少ない学術があって、俗に、いわゆる横着な、俗に、いわゆる図々しい、庶民の人達が匹敵できることでないのだ。今や、わが国の中産階級以上の人物は皆、横着の見本なのだ、図々しい庶民の典型なのだ。私は、近頃において、真面目な人物・横着でない人物・図々しくない人物は、ただ2人を見たのだ。(2人を)いえば、井上毅と白根専一だ。今や、つまり死亡している。》

 

 

○ロベスピエール現出せんとす

・古今東西の歴史を看(み)よ、興国(こうこく)の人は皆真面目なり。衰国の人、亡国の人は皆不真面目なり。……

 

《昔と今・東と西の歴史を見よ。興隆する国の人は皆、真面目なのだ。衰退する国の人・滅亡する国の人は皆、不真面目なのだ。……》

 

 

○日本に哲学なし

・わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤(あつたね)の徒は古陵(こりょう)を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至っては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎徂徠の徒、経説につき新意を出(いだ)せしことあるも、要、経学者たるのみ。ただ仏教僧中創意を発して、開山作仏の功を遂げたるものなきにあらざるも、これ終(つい)に宗教家範囲の事にして、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某(それ)、井上某、自(みずか)ら標榜して哲学家と為(な)し、世人(せじん)もまたあるいはこれを許すといえども、その実は己(おの)れが学習せし所の泰西(たいせい)某々(たれそれ)の論説をそのままに輸入し、いわゆる崑崙(こんろん)に箇(こ)の棗(なつめ)を呑(の)めるもの、哲学者と称するに足らず。それ哲学の効(こう)いまだ必ずしも人耳目(じんじもく)に較著(こうちょ)なるものにあらず、即ち貿易の順逆、金融の緩漫(かんまん)、工商業の振不振等、哲学において何の関係なきに似たるも、そもそも国に哲学なき、あたかも床の間に懸物(かけもの)なきが如く、その国の品位を劣にするは免(まぬか)るべからず。カントやデカルトや実に独仏の誇(ほこり)なり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自(おのずか)ら関係なきを得ず、これ閑(かん)是非にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄(せんぱく)を免れず。

 

《わが日本は、昔から今に至るまで、哲学がない。本居宣長・平田篤胤の門徒は、昔の天皇陵を探究し、古い言葉を修得した、一種の考古学者にすぎず、天地・本性(生まれ持った本来の性質)・運命の理に至っては、暗いのだ。伊藤仁斎・荻生徂徠の門徒は、経書の解説について、新しい意味を出したこともあるが、要するに、儒教経典の学者であるのだ。ただ仏教僧の中で創意を発揮して、開山・作仏の功績を成し遂げたものがいなかったわけではないが、これは、結局、宗教学者の範囲の事で、純粋な哲学でない。近頃は、加藤弘之(憲法・議会が君民の上位と主張)・井上哲次郎(ドイツ観念論を紹介)が、自分で標榜して哲学者とし、世の中の人も、また、これを許容したりしたといっても、その実際は、自己の学習したことが、ヨーロッパのだれそれの論説をそのまま輸入し、いわゆる丸ごと、このナツメの実を(噛んで味わいもせずに、)呑み込むようなもので、哲学者と称するには不足だ。それは、哲学の効果が、まだ必ずしも人の耳・目に顕著なものでなく、つまり貿易の輸出入、金融の緩慢、商工業の振興・不振等が、哲学において、何の関係もないのに類似しているが、そもそも国に哲学がないのは、まるで床の間に、掛軸がないようなもので、その国の品位を劣らせるのに、免れることができない。カント・デカルトは、実際に、ドイツ・フランスの誇りなのだ、2国の床の間の掛軸なのだ、2国の人民の品位において、自然に関係がないことができず、これは、どうでもよくて、どうでもよくない。哲学のない人民は、何事をしても、深遠な意味がなくて、浅はかなのを免れない。》

 

○総(すべ)ての病根此(ここ)にあり

・わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明(あきらか)に、善く時の必要に従い推移して、絶(たえ)て頑固な態なし、これわが歴史に西洋諸国の如く、悲惨にして愚冥(ぐめい)なる宗教の争いなき所以(ゆえん)なり。明治中興の業、ほとんど刃(やいば)に衄(ちぬ)らずして成り、三百諸侯先を争うて土地政権を納上(のうじょう)し遅疑(ちぎ)せざる所以なり。旧来の風習を一変してこれを洋風に改めて、絶て顧籍(こせき)せざる所以なり。而(しか)してその浮躁(ふそう)軽薄の大病根も、また正(まさ)に此(ここ)にあり。その薄志弱行(はくしじゃっこう)の大病根も、また正に此にあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実に此にあり。これ一種小怜悧(れいり)、小巧智(こうち)にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり。極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出(ていしゅつ)することは到底望むべからざるなり。亟(すみや)かに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに務むるを要するは、これがためのみ。

 

《わが国の人は、これを海外諸国から見ると、極めて事の理が明らかで、よく時代の必要にしたがって推移して、まったく頑固な状態がない、これが、わが歴史に、西洋諸国のような、悲惨で愚鈍な宗教の争いがなかった理由なのだ。明治の中興の事業は、ほとんど刃を血で汚さないで成立し、300の大名達が先を争って、土地を政権に上納し、迷って遅くならなかった理由なのだ。旧来の風習を一変して、これを洋風に改めて、まったく惜しまなかった理由なのだ。そうして、それがさわがしくて軽薄な、大病の原因も、また、まさに、ここにある。その意志・行動が薄弱な、大病の原因も、また、まさに、ここにある。それが独創の哲学もなく、政治において主義がなく、党争において継続がなく、その原因は、実際、これにある。これは、一種の小利口・小智巧で、そうして、偉業を建立するのに不適当な理由なのだ。極めて常識に富んだ民なのだ、常識以上に傑出することは、到底、望むことができないのだ。速やかに教育の根本を改革して、死んだ学者よりも、活きた人民を、打ち出すのに務めることを必要とするのは、これのためなのだ。》

 

○経国の二大方針

・今の日本を大体このままに成し置き、漸次(ぜんじ)改正を加えて進み将(も)ち往くべき耶(か)、将(は)た亟(すみや)かに大改革して一(いつ)の欧羅巴(ヨーロッパ)国と為(な)すべき耶、これ今日国柄を秉(と)る者の最も首(はじめ)に胸中に決せざるべからざる事なり。これ予算に苦しみ、対議会に窘(くる)しみ、閣僚の統一に尽瘁(じんすい)して、その他一歩も余地を留(とど)めざる底(てい)の侯伯(こうはく)者流にありて、到底夢想し能(あた)わざる所なり。

 

《今の日本を、大体、このままに成し置いて、しだいに改正を加えて進み、それで行くべきか、それとも、速やかに大改革して、一種のヨーロッパの国となるべきか。これは、今日、国柄を固く守る者が、最初に心中で決定しないわけにはいかない事なのだ。これは、予算に苦しみ、議会対策に苦しみ、閣僚の統一に尽力・疲労して、その他に一歩も余地を留められず動けない、どん底の侯爵(伊藤博文)の一派にあっては、到底、無想できないことなのだ。》

 

○世界のルーマニヤ

・東洋大陸の事は余これを言うを欲せず、事外交に渉(わた)りかつ目下(もっか)にあるを以(もっ)て、言わずして行うを要す。ただわが日本は当(ま)さに自己の天職如何(いかん)と省覚(せいかく)すべきのみ、自己百年の運命如何と考慮すべきのみ。世界のルーマニヤとなること勿(な)くんば幸いなり。

 

《アジア大陸の事は、私が、これを発言したくない。事は、外交に渡り、そのうえ、眼前にあることによって、発言しないで行動することを必要とする。ただ、わが日本は、当然、自己の天職を、いかに省みて悟るべきかなのだ、自己の100年の運命を、いかに考慮すべきかなのだ。世界のルーマニアになることがなければ、幸いなのだ。》

 

 

○自殺論

・余は自殺死を排斥する者にあらず。但(ただ)自殺は大(おおい)に道徳に背(そむ)き、情義に反したる行いあるの後、自(みずか)ら悔恨(かいこん)して措(お)くこと能(あた)わざるの候(こう)、自殺して死を取り、以て罪過(ざいか)を懺悔(ざんげ)するが如きは、必ずしも悪(あし)からず。金銭のため病気のため等に原因して失望し、自殺を図るが如きはこれただ一味の惰弱(だじゃく)のみ、かつ病気蓐(じょく)にあるが如き、その中(うち)にまた自(おのずか)ら楽地なきにあらず、余が一年半の記述の如き正(まさ)にこれのみ。

 

《私は、自殺死を排斥するものではない。ただ自殺は、大いに道徳に背き、情・義に反した行いがあり、自分で後悔・残念がっても、据え置くことができない兆候で、自殺して死を選び取り、それで罪・過ちを懺悔するようなものは、必ずしも悪ではない。金銭のため・病気のため等の原因で失望し、自殺を図るようなものは、これがただ一種の意気地なしなだけで、そのうえ、病気で寝床にあるようなものは、その中に、また、自然に安楽な境地がないわけではなく、私の1年半の記述のようなものも、まさに、これなのだ。》

 

 

○死後は永劫なり

・人、七、八十にして死せば長寿というべし。しかれども死して以往(いおう)は永劫(えいごう)無限なり、七、八十年を以て無限と比せば如何(いか)に短促(たんそく)なるぞ。是(ここ)において乎(か)彭祖(ほうそ)を夭(よう)とし、武内宿禰(たけうちのすくね)を短命とせざるを得ず。

 

《人が70~80年で死ねば、長寿というべきだ。しかし、死んだ以降は、永遠・無限なのだ。70~80年を無限と比較すれば、いかに差し迫っているのか。こういうわけで、彭祖(古代中国の伝説上の長寿の仙人)を早死とし、武内宿禰(12~16代天皇の重臣)を短命とせざるをえない。》

 

 

○荘周(荘子)もいまだ言い得ず

・児(じ)生(うま)る、その生るるの瞬間より即ち徐(おもむ)ろに死しつつあるなり。何ぞや、その最長期たる七十八十に向(むこ)うて、進みて片時(へんじ)も休止することなければ、これ徐に死しつつあるというべし、何の不可かこれあらん。

 

《幼児が生まれれば、その生まれた瞬間から、つまり徐々に死につつあるのだ。どうしてか、それが最長期である70~80歳に向かって進んで、かたときも、休止することがなければ、これは、徐々に死につつあるというべきだ。これがあるのは、どうして不可なのか(いや、不可でない)。》

 

 

(つづく)