中江兆民の「一年有半」・「続一年有半」での理1~日本の特徴、世界/万物 | ejiratsu-blog

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中江兆民「一年有半」抜粋1~4

中江兆民「続一年有半」読解1~8

中江兆民「三酔人経綸問答」考察1~4

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 中江兆民(1847~1901年)の『一年有半』(1901年刊行)・『続一年有半』(1901年刊行)は、最晩年の2書なので、兆民の最も主張したい内容が、取り上げられているとみることができ、その中心を一言でいえば、「理」といえるのではないでしょうか。

 よって、ここでは、正・続の2書から、「理」についての文章を抜粋し、兆民の主張をまとめてみることにします。

 

 

■日本の特徴

 

 まず、理について、兆民は、次のように、日本人が、事理・利害に明るい一方、天地性命の理・理義に暗いと、指摘しています。

 

※日本

・明るい:事理(→ものわかりがよい)、利害

・暗い:天地(自然)・性命(生物)の理、理義(道理・正義)

 

 そのうえ、日本人は、従うことを好み、考えることを好まないのが、天下(国家)の明白な道理で、以下のように、考えても浅はかで、落ち着きがないとみています。

 

「それただ考うることを好まず、故におよそその為す所浅薄(せんぱく)にして、十二分の処所(しょしょ)に透徹すること能(あた)わず。」(正2:考えることの嫌いな国民)

《そもそも、ただ考えることを好まず、よって、だいたい、そのすることが浅はかで、充分すぎる落ち着く場所に、貫徹することができない。》

 

 なお、日本は、欧米強国の物質の学術に、驚嘆させられた一方、北清事変(義和団事件、1900年、兆民没年の前年)で、強国にも、弱点・失点があるとわかり、強国の理義は、日本より、下等ではないが、劣等もあるので、恐外病治癒のため、卑賤すべきことを見て、尊敬すべきことを見ないとしています。

 つまり、もし、理よりも、情のほうが、まされば、以下のように、普通の人の感情が両極端を揺れ動き、合理がなく、右往左往し、その都度、空気に支配されるのが、最近でも、日本の特徴で、情しかないのが子供で、理があるのが大人ともいえ、大人が子供を統制する、優勝劣敗の大理につながります。

 

「一の極より他の極に走るは常人の情なり。」(正3:恐外病と侮外病)

《一方の極端から他方の極端へ走るのは、普通の人の情なのだ。》

 

 ここでの理(理学)とは、哲(哲学)のことで(哲理=哲学上の道理)、「わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。」《わが日本は、昔から今に至るまで、哲学がない。》(正1:日本に哲学なし)という、有名な言葉での哲学は、理学(理化)を指し示しています。

 それで、「哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄(せんぱく)を免れず。」《哲学のない人民は、何事をしても、深遠な意味がなくて、浅はかなのを免れない。》(正1:日本に哲学なし)と、国の人民の品位を、哲学の意味の深浅で評価されています。

 この理学(哲学的研究)とは、物理学・化学の2学科で、当時は、農業社会から工業社会への過渡期なので、科学をもっと普及すべきとされ、理学は、アル範囲内に限定せずに、荘厳で、美醜を分別・差異しないので、感情とは対照的に、冷淡・露骨・殺風景になるとみられています。

 

* * *

 

 

●理

 

○日本:天地性命の理に暗い

・わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤(あつたね)の徒は古陵(こりょう)を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至っては瞢焉(ぼうえん)たり。(正1:日本に哲学なし)

《わが日本は、昔から今に至るまで、哲学がない。本居宣長・平田篤胤の門徒は、昔の天皇陵を探究し、古い言葉を修得した、一種の考古学者にすぎず、天地・本性(生まれ持った本来の性質)・運命の理に至っては、暗いのだ。》

 

 

●事理

 

○日本:事理に明るい

・わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明(あきらか)に、善く時の必要に従い推移して、絶(たえ)て頑固な態なし、これわが歴史に西洋諸国の如く、悲惨にして愚冥(ぐめい)なる宗教の争いなき所以(ゆえん)なり。(正1:総ての病根此にあり)

《わが国の人は、これを海外諸国から見ると、極めて事の理が明らかで、よく時代の必要にしたがって推移して、まったく頑固な状態がない。これが、わが歴史に、西洋諸国のような、悲惨で愚鈍な宗教の争いがなかった理由なのだ。》

 

○事理を許容すべき、神をイメージ・霊魂不滅を想像=意気地なし

・乃(すなわ)ち自己脚跟(きゃっこん)下の事は自己の力で料理するよう做(な)し将(も)ち去らずして、世界あるべからざる神を影撰(えいせん)し、事理容(ゆ)るすべからざる霊魂の不滅を想像して、辛(かろ)うじて自己社会の不始末を片付けんとするのは、むしろ生地(いくじ)なしといわねばならぬ。(続1‐4:未来の裁判)

《つまり自己の足下の事は、自己の力で処理するように実行しないで、世界にあることができない神をイメージし、事の理を許容することができない霊魂の不滅を想像して、どうにか、自己社会の不始末を片づけようとするのは、むしろ、意気地なしといわなければならない。》

 

 

●理義

 

○日本:利害に明るい・理義に暗い、天下の明白な道理=従うのを好む・考えるのを好まず

・わが邦人(ほうじん)は利害に明(あきらか)にして理義に暗(く)らし。事に従うことを好みて考えることを好まず。それただ考うることを好まず、故に天下の最明白なる道理にして、これを放過してかつて怪(あやし)まず。(正2:考えることの嫌いな国民)

《わが国民は、利害に明らかで、理・義に暗い。事にしたがうことを好んで、考えることを好まない。そもそも、ただ考えることを好まない。よって、天下の最も明白な道理で、これを放置して、かつては、怪しまなかった。》

 

○強国の理義:日本より下等でない・劣等もあり

・けだし彼れ強国、その物質の学の術に至ては、真(まこと)に人をして驚嘆せしむるに足る、しかれども一(ひと)たび理義の際を察するに及(およん)では、その畏(おそ)るべきもの果(はたし)て安(いず)くにあるや。(中略)但(ただ)近日営(えい)を北清の野に連(つ)らね、聯鑣(れんひょう)して敵に当(あた)るに方(あた)り、彼らが大(おおい)いその弱失の処を見(あら)わして、蛮野(ばんや)の風を発せしを見て、わが邦軍人輩、皆始めて彼らのいわゆる文明の、往々形質の表に止(とど)まりて、理義に至ては我れと相下(くだ)らず、あるいは大に我れに劣るあるを知れり。(正3:恐外病と侮外病)

《思うに、あの強国は、その物質の学術に至っては、本当に、人を驚嘆させるのに充分だ。しかし、一度、理・義の際を推察するのに及ぶと、その畏れるべきものが、本当に、どこにあるのか。(中略)ただ、近頃、兵営を中国北部の荒野に引き連れ、馬を並べて隊列を組み、敵に直面するのにあたって、彼らが大いにその弱点・失点の箇所を現わして、野蛮な気風を発現するのを見て、わが国の軍人達は皆、はじめて、彼らのいわゆる文明が、しばしば、形質の表面に留まって、理・義に至っては、我らより相対的に下等でなく、大いに我らより劣等があったりするのを知った。》

 

 

●理学・理化

 

○理学士:不遇 ⇒ 理化(物理学・化学)の2学科(科学):普及すべき

・科学を普通にすること、これ人々の皆認めて必要とする所なり。ただ各種材学の中、わが邦においていまだ容易に世に售(う)られざる者あり、即ち理化の二学の如きこれなり。けだし土木の如き、鉱山の如き、若(もし)くは医の如き、その大学を出(いず)るや直ちに售られて、官または会社または個人に聘(へい)せらる。理化の二科の如きはかくの如く直ちに售らるること能(あた)わず、これ他なし、事業家及び資本家の数絶対に寡(すくな)くして、理化の二科において需用いまだ蕃(しげ)からざるが故なり。この故に理学士たる者、往々玩具商のために傭(やと)われて、意匠を玩具に用いて、乃(すなわ)ち神仏の縁日奇利を博(はく)するの用を為(な)して、わずかに口を糊(のり)する者ありという、(正3:理化の応用)

《科学を普及すること、これは、人々が皆、認めて、必要とすることなのだ。ただ各種の材料学の中で、わが国において、まだ容易に世の中に売られていないものがある。つまり物理学・化学の2学科のようなものは、これなのだ。思うに、土木のようなもの、鉱山のようなもの、医学のようなものは、その大学を出ると、すぐに売りものにされて、官庁・会社・個人に招聘される。物理学・化学の2学科のようなものは、そのように、すぐに売りものにされることができない。この他になく、事業家・資本家の数が、絶対的に少なくて、物理学・化学の2学科において、需要がまだ増えていないからなのだ。これだから、理学士である者は、しばしば、オモチャ屋のために雇われて、デザインをオモチャに用いて、つまり神仏の縁日の思いがけない利益を得るのに用いて、わずかに貧しく暮らす者があるという。》

 

○理学(哲学的研究):アル範囲内に限定せず

・理学即ち世のいわゆる哲学的事条(じじょう)を研究するには、五尺の躯(からだ)の内に局して居ては到底出来ぬ、(続1‐0)

《理学、つまり世の中の、いわゆる哲学的事項(条項)を研究するには、5尺の体の範囲内に限定(局限)していては、到底できない。》

 

○理学:荘厳、冷淡な道理

・殊(こと)に身大疾(たいしつ)に犯され、一年、半年と日々月々死に近づきつつある人物等にあっては、深仁(しんじん)至公(しこう)の神があり、また霊魂が不滅であって、即ち身後(しんご)なお独自の資を保ち得るとしたならば、大(おおい)に自ら慰(なぐさ)むる所があるであろう。しかしそれでは理学の荘厳(しょうごん)を奈何(いかん)せん、冷々然ただ道理これ視るべき哲学者たる資格を奈何せん、(続1‐0)

《とりわけ、身体が大病におかされ、1年・半年と日々・月々、死に近づきつつある人物等にあっては、深い仁・極めて公平な神がいて、また、霊魂が不滅であって、つまり死後に、なお独自の資質を保ち得るとしたならば、大いに自分で慰めることがあるであろう。しかし、それでは、理学の重厚さをどうするのか。とても冷淡とした、ただの道理、これを見るべき哲学者である資格をどうするのか。》

 

○理学者の義務(根本的資格):冷淡、露骨、殺風景

・余は理学において、極めて冷々然として、極めて剥(むき)出しで、極めて殺風景にあるのが、理学者の義務否(い)な根本的資格であると思うのである。(続1‐0)

《私は、理学において、とても冷淡とし、とても露骨で・とても殺風景にあるのが、理学者の義務、いや、根本的資格であると思うのである。》

 

○理化学の目:美醜を分別・差異せず

・試(こころみ)に理化学の目から見よ、血でも膿(うみ)でも、屎(くそ)でも尿(にょう)でも、七色燦然(さんぜん)たる宝玉錦繍(きんしゅう)と、何処(どこ)に美悪の別がある、小野の小町と狒々(ひひ)猿と、那辺(どこ)に妍醜(けんしゅう)の差がある。(2‐11:意象)

《試しに、物理学・化学の目から見よ。血でも・膿でも、糞でも・尿でもと、7色の光り輝く宝玉・錦の織物・刺繍と、どこに美醜の分別があるのか。小野小町と、ヒヒザルと、どこに美醜の差異があるのか。》

 

 

■世界/万物

 

 また、理について、兆民は、次のように、全体としての世界は、時間的には、無始・無終で、空間的には、無辺・無極の、無限とみています。

 一方、個体としての万物(万有)は、諸元素の相抱合で成立するので、有限とし、それまで遊離していた元素が、抱合すれば、物の生で、解散すれば、物の死と、変化するのが、自然の理といっており、全体と個体の両方を、世界の大理と設定しています。

 

※世界の大理

・全体=無限:死後、世界=無始・無終(悠久の大有、時間的)、無辺・無極(博広の大有、空間的)

・個体=有限:生前、万物=諸元素の相抱合で成立 ~ 変化:遊離 → 抱合=生 → 解散=死

 

 万物のうち、生物は、身体が死滅すれば、精神(霊魂)も滅亡するので、生前は、有限で、死後は、無限とも、設定でき、親が死んでも、子孫が残ることを、乗除の大理(剰除の数理)といっており、世界の大理を捕獲(理解)するには、精神の奮起・向上の能力が必要とされています。

 そして、たとえば、君権では、無智な人民が、智者の政権に、利益を提供する、優勝劣負の大理になりがちなので、兆民は、政権の高官で重職の人・代議士・政党員を、啖人鬼(たんじんき、食人鬼)といい、だから、民権を至理、自由・平等を大義とみており、理義を尊重すべきだとなっています。

 

* * *

 

 

●大理

 

○優勝劣負の大理=無智な人民が智者に利益を提供

・人民とは何ぞや、無智なる農夫最も多きに居る、これ天まさに優勝劣負の大理に因(よ)て、他の智者の利益に供せらるべき物体にあらざる乎(か)。(正3:議員政事家という啖人鬼)

《人民とは何か。無智な農夫が、最も多くいる。これは、天が、まさに優勝劣敗の偉大な理によって、他の智者の利益に提供させられることができる物体ではないのか。》

 

○世界の大理=神物同体・神、万事(森羅万象)=唯一神の発現

・神物同体とは世界の大理即ち神で、およそこの森羅万象は皆唯一神の発現である、(1‐7:神物同体説)

《神物同体とは、世界の偉大な理、つまり神で、だいたい、このあらゆる事象は、すべて、唯一神の発現である。》

 

○剰除の大理(剰除の数理)=親が死んでも子孫を残す

・かつ生産の一事について一考せよ、剰除の大理について思索せよ。およそ懐生(かいせい)の物は、皆己(おの)れの身後に児孫を留むるのである。而(しか)してその児孫には、これが親たる者が己れの躯体とこの躯体より発すべき精神とを分与して、即ち児は親の分身であって、而して親は死し児は留まりて、剰除の数理に副(かな)うのである。(1‐2:精神の死滅)

《そのうえ、生産のひとつの事柄について、一度考えてみよ。乗除(増減)の偉大な理について思索せよ。だいたい生きとし生ける物は、すべて、自己の死後に、子孫を残すのである。そうして、その子孫には、これが親である者が、自己の身体と、この身体から発出すべき精神を、分与して、つまり子は、親の分身であって、そうして、親は、死に、子は、残って、乗除の数理に適合するのである。》

 

○剰除の数理に不適合:子供を残して死後の霊魂も増えて無限に繁殖

・即ち李四張三各々児子(じし)を遺(のこ)して、而してその李四張三も死後霊魂独存して滅びないとすれば、これ霊魂国の人口は非常の滋息(じそく)を為(な)して、乃(すなわ)ち十億、百億、千々、万々、十万億と無限に蕃殖(はんしょく)して、一箇半箇も滅することがないであろう、これ果(はたし)て剰除の数理に合するといわれようか。(1‐2:精神の死滅)

《つまり凡人が各々、子供を残して、そうして、その凡人も、死後に霊魂が単独で存在して、滅亡しないとすれば、これは、霊魂国の人口が、非常に増加して、つまり10億・100億・1000億・1万億・10万億と、無限に繁殖して、わずかも滅亡することがないであろう。これは、本当に、乗除の数理に適合するといわれるのか。》

 

○世界の大理=無始・無終・無辺・無極の世界で有限な数の元素が抱合

・要するにこの無始無終無辺無極の世界は、畢竟(ひっきょう)有数元素の抱合にほかならぬのである。而(しか)して地球十八里の雰囲気中に蠢動(しゅんどう)して居る人類もこの大理を免(まぬ)がるる訳(わけ)には往かぬのである。(2‐1:世界)

《要するに、この無始・無終・無辺・無極の世界は、結局、有限な数の元素の抱き合いにほかならないのである。そうして、地球の18里の大気圏の中に、騒ぎ立てている人類も、この(世界の)偉大な理を免除されるわけにはいかないのである。》

 

○精神の奮起・向上の能力⇒世界の大理を捕獲

・即ち吾人(ごじん)が宗旨家の卑陋(ひろう)の見(けん)を打破して世界の大理を捕捉せんと擬するは、正(まさ)に精神にこの振抜(しんばつ)挺騰(ていとう)の能力があるから出来るのである。(2‐5:精神の能)

《つまり私達が宗教家の卑劣な見方を打破して、世界の偉大な理を捕獲しようと、熟考することは、まさに、精神に、この奮起・向上の能力があるからできるのである。》

 

○帰納:個々の道理から上昇して包み込む大理へ遡行

○演繹:一の大理から下降して個々の道理を拾い採る

・帰納は箇々の道理を攻究し層累(そうるい)して上(のぼ)って、これら道理を包容する所ろの大理に遡洄(そかい)するをいうのである。演繹は正(まさ)にその反対で一の大理を前に置き層累して下(くだ)って、これが包容する所ろの箇々の道理を採摭(さいせき)するをいうのである。(2‐18:帰納・演繹)

《帰納は、個々の道理を修め究(きわ)め、積み重ねて上昇して、これらの道理を包み込む偉大な理に、遡行することをいうのである。演繹は、正反対で、ひとつの偉大な理を前提とし、積み重ねて下降して、これが包み込む個々の道理を拾い採ることをいうのである。》

 

 

●至理

 

○至理=民権、大義=自由・平等、理義に背反⇒罰あり、理義を尊重すべき

・民権これ至理なり、自由平等これ大義なり。これら理義に反する者は竟(つい)にこれが罰を受けざる能(あた)わず、百の帝国主義ありといえどもこの理義を滅没することは終(つい)に得(う)べからず。帝王尊(たっと)しといえども、この理義を敬重(けいちょう)してここに以てその尊を保つを得べし。この理や漢土にありても孟軻(もうか)、柳宗元(りゅうそうげん)早くこれを覰破(しょは)せり、欧米の専有にあらざるなり。(正2:民権自由は欧米の専有にあらず)

《民権、これは、至極の理なのだ。自由・平等、これは、偉大な義なのだ。これらの理・義に反するものは、結局、これが罰を受けないことはできない。100の帝国主義があるといっても、この理・義を消滅することは、結局、できない。帝王が尊貴だといっても、この理・義を尊重して、こういうわけで、その尊貴を保つことができる。この理は、中国にあっても、孟子・柳宗元(唐代中期の学者)が早く、これを見破り、欧米の専有でないのだ。》

 

○至理:民にあり・王候・公族・将軍・宰相になし

・王公将相なくして民ある者これあり、民なくして王公将相ある者いまだこれあらざるなり、この理けだし深くこれを考うべし。(正2:未之有也)

《王候・公族・将軍・宰相になくて、民にあるものは、これがある。民になくて、王候・公族・将軍・宰相にあるものは、まだこれがないのだ。この理(至理)は、思うに、深く、これを考えるべきだ。》

 

 

(つづく)