中江兆民の「一年有半」・「続一年有半」での理2~名実論、体用論 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■名実論

 

 つぎに、理について、兆民は、次のように、物質(外物)の美と、理義の善を、分別すべきだとしています。

 

※名実論:理義(根本)>外物(末端)

・名=外面:物質(外物)、国家(大物) ~ 美:愛国心

・実=内面:理義(内心) ~ 善:理義の言葉=陳腐、理義の行動=新奇

 

 このうち、理義については、理義の言葉は、陳腐だが、理義の行動は、新奇で、陳腐な言葉は、国家において、とても必要とし、国家は、多数の個人の犠牲が提供されるので、大物といわれています(正3:議員政事家という啖人鬼)。

 もし、理義の言葉で、新奇を誇示すれば、邪道の弊害につながり、不道理になるおそれもあるようです(続2‐9:客観)。

 一方、物質については、当時は、農業社会から工業社会への過渡期で、恐外病治癒のために、自国で精巧な物品を製造・尊重する等、科学を普及させ(正3:巴里倫敦の愛国心)、物質の美を推進し、人民の愛国心を教化することが、大切だとみています。

 ところで、その物質である、世界の万物は、以下のように、アル形体が、自然に変化し、別の形体に純粋化(化醇)したものと定義され、無から有への創造もなく、有から無への消滅もないとされています。

 

「この広大無辺の世界、この森然たる万物が、一個の勢力に由(よ)りて一々に造り出されたというよりは、従前他の形体を有せしものが自然に化醇(かじゅん)して、この万彙に変じ来(きた)って乃(すなわ)ち自然に出来たというこそ、更に数層哲学的である。」(続1‐10:神に遇う)

《この広大・無辺の世界で、この荘厳な万物が、1個の勢力(たとえば、神)によって、ひとつひとつ造り出されたというよりは、以前、他の形体であったものが、自然に変化・純粋になって、この万物に変わり切って、つまり自然にできたということこそ、さらに、数段哲学的である。》

 

 ちなみに、理義は、『孟子』(11-147)で、以下のように、言及しており、口では、味を好み、耳では、声を聞き、目では、色を美しいと見るように、心では、理義を喜ぶと、言及されています。

 

・故曰、口之於味也、有同耆焉。耳之於声也、有同聴焉。目之於色也、有同色焉。至於心、独無所同然乎。心之所同然者何也。謂、理也、義也。聖人先得我心之所同然耳。故理義之悦我心猶芻豢之悦我口。

[故に曰(いわ)く、「口の味におけるや、同じく耆(たしな)むことあり。耳の声におけるや、同じく聴くことあり。目の色におけるや、同じく美とすることあり。心に至りて、独り同じく然(しか)りとする所なからんや」と。心の同じく然りとする所の者は何ぞや。謂(い)わく、理なり、義なり。聖人は先(ま)ず我が心の同じく然りとする所を得たるのみ。故に理義の我が心を悦(よろこ)ばすは、猶(な)お芻豢(すうかん)の我が口を悦ばすがごとし。]

《よって、いう、「口の味においては、同じように、好むことがある。耳の声においては、同じように、聞くことがある。目の色においては、同じように、美しいことがある。心に至って、それだけが、同じように、そのようだとすることがないのか」と。心が、同じように、そのようだとするものは、何か。いう、理なのだ、義なのだ。聖人は、まず私の心が、同じように、そのようだとすることを得るのだ。よって、理義が私の心を喜ばすのは、ちょうど家畜の肉が、私の口を喜ばすようなものだ。》

 

 つまり、物質は、外物で、理義は、内心といえ、理義(内実)の善をもとに、物質(外形)の美が表現されれば、理義が根本、物質(外物)が末端と、分別でき、物質よりも、理義のほうが、まさることになります。

 

* * *

 

 

●理義

 

○物質の美と理義の善の分別、理義が外物にまさる、理義の言=陳腐、理義の行=新奇

・もし根本より恐外病を痊(いや)さんと欲せば、教化を盛にし、物質の美と理義の善との別を明(あきらか)にするに如(し)くは莫(な)し。(中略)外物は竟(つい)に理義に勝つこと能(あた)わざるなり、本末の別あればなり。それこの言や今の灰殻(はいから)者流必ず言わん、陳腐聞くに堪(た)えずと。然(しか)りおよそ理義の言は皆陳腐なり。これを言うにおいて陳腐なるも、これを行うにおいて新奇なり。かつ公(こう)らの陳腐とする所は、国家において皆極めて必要とする所なり。(中略)公らいまだ理義の言に容喙(ようかい)するを許さざるなり。(正3:灰殻者流容喙の権なし)

《もし、根本から恐外病を癒したいとすれば、教化を盛んにし、物質の美と理・義の善の分別を明らかにすることに、及ぶものはない。(中略)外物は、結局、理・義に勝つことができないのだ。根本と末端の分別があるからなのだ。それは、この言葉が今のハイカラ(西洋風)の流派が、必ずいうだろう、「陳腐で聞くに耐えない」と。それで、だいたい理・義の言葉は、すべて、陳腐なのだ。これを発言することにおいて、陳腐なのも、これを行動することにおいて、新奇なのだ。そのうえ、貴公らが、陳腐とすることは、国家において、すべて、とても必要とすることなのだ。(中略)貴公らは、まだ理・義の言葉に口出しすることを許さないのだ。》

 

○物質と理義の別、理義・物質の別

・しかりといえども、単に物質と理義との別を明(あきらか)にするのみにてはいまだ足らず、即ち物質の美も、また大(おおい)に愛国心を催起(さいき)するにおいて力あり、而(しか)して愛国心の盛なる自然に恐外病を癒(い)やすに足る。(中略)故に中人(ちゅうじん)以下の如きは、独り理義物質の別を明かにするのみならず、直ちに物質の美を進めてこれを示(し)めし、以てその愛国心を発せしめざるべからず〈戦争の時の如き自ら別なり〉。(正3:物質の美と愛国心)

《そうはいっても、単に、物質と理・義の分別を明らかにするだけでは、まだ不足だ。つまり物質の美も、また、大いに愛国心をうながすことにおいて、力がある。そうして、愛国心が盛んなのは、自然に恐外病を癒すのに充分だ。(中略)よって、普通の人以下のようなものは、自分で理・義と物質の分別を明らかにするだけでなく、すぐに物質の美を進めて、これを示し、それでその愛国心を発現させないわけにはいかない〈戦争の時のように、自然な分別なのだ〉。》

 

○理義が適合すべき

・今日より各階級の人皆少(すこし)く自(みずか)ら修明して、理義の正に適合するを求むるに至るべし。(正3:このほか別に名策なし)

《今日から、各階級の人は皆、いささか自分で修養して立派になり、理・義が、まさに適合することを求めるのに至るべきだ。》

 

○純粋な理義の正しさを表現すべき

・既に理想という、たといその勢(いきおい)今日に行うべからざる者、即ち純然たる理義の正の如きも、これを口にしてこれを筆にし、他年他日必ずこれを実行に見ることを期するなるべし。(中略)それあるいは縲紲(るいせつ)の苦といえども辞せざるを期するなるべし、あるいは理義を解せざる狂漢の匕首(あいくち)をも避けざるべし。(正3:石碑の後より諸君を祝せん)

《すでに理想という、たとえ、その勢いが、今日に行うべきでないものは、つまり純粋な理・義の正しさのようなものも、これを言葉にして、これを文書にし、いつの年か・いつの日か、必ずこれを実行に見ることを、決心するようになるだろう。(中略)そもそも投獄の苦難といっても、やめないことを、決心するようになったりするだろう。理・義を解明しない狂人の短刀をも、避けなかったりするだろう。》

 

○理義を解明すべき

・生れて五十五年、やや書を読み理義を解して居ながら、神があるの霊魂が不滅というような囈語(ねごと)を吐(は)くの勇気は、余は不幸にして所有せぬ。(続1‐0)

《生まれて55年、徐々に書物を読み、理・義を解明していながら、神がある・霊魂が不滅というような寝言を吐く勇気は、私には不幸にして所有していない。》

 

○哲学者:理義を思索

・唐辛(とうがらし)はなくなりて辛味は別に存するとか、太鼓は破(やぶ)れて鼕々(とうとう)の音は独り遺(のこ)って居るとか、これ果(はたし)て理義を思索する哲学者の口から真面目に言わるる事柄であろうか。(続1‐1:霊魂)

《唐辛子は、なくなって、辛味が別に存在するとか、太鼓は、やぶれて、トントンという音だけが残っているとか、これは、本当に、理・義を思索する哲学者の口から、真面目にいわれる事柄であろうか。》

 

○理義を弁別すべき

・三家村里の翁媼(おうおう)が、これら雲物または古人既滅(きめつ)の泡沫を拝禱(はいとう)するのはなお恕(ゆる)すべきも、読書し理義を弁ずる五尺躯の大男子にして真面目にこれらの物を拝するに至(いたっ)ては、実に言語に絶するのである。(続1‐5:多数神の説)

《家がわずかな村里の爺さん・婆さんが、これら雲の変異・昔に死滅した人達を拝礼・祈祷するのは、まだ許すことができるが、読書し、理・義を弁別する、5尺の体の立派な男子で、真面目に、これらの物を拝礼するのに至っては、本当に、言葉で説明できないのである。》

 

 

■体用論

 

 さらに、理について、兆民は、次のように、身体(身殻)は、本体(実質)で、精神(精魂)は、作用(働き)とし、身体が死亡すれば、精神も消滅するのが、真理(道理)だと主張しています。

 

※体用論:本体>作用、真理=身体の死亡で精神も消滅

・本体(実質):身体(身殻)、先祖→自身→子孫と連続 ~ 元素=不朽不滅:炭、薪、太鼓・鐘

・作用(働き):精神(精魂)、自身 ~ 朽滅:焔、火、音

 

 ただし、万物は、諸元素の相抱合で成立し、それまで遊離していた元素が、抱合すれば、物(身体)の生で、解散すれば、物(身体)の死と、変化するのが、科学の理なので、精神は、朽滅である一方、身体(物)の元素自体は、不朽不滅です。

 これを、生物にあてはめると、自身だけならば、朽滅ですが、先祖→自身→子孫と連続していれば、不朽不滅ということができます(続1‐2:精神の不滅)。

 そして、この朽滅する作用としての精神を前提とし、以下のように、科学の文明を開発・推進するために、精神の能力を発揮することになります。

 

「今日国家社会を構造するは誰の力ぞ、諸種学科を闡発(せんぱつ)し推進し、蛮野を出(い)でて文明に赴(おもむ)く者、皆いわゆる精神の力といわねばならぬ。」(続1‐1:霊魂)

《今日、国家社会を構築するのは、誰の力か。種々の学科を開発・推進し、野蛮を出て、文明に行くものは、すべて、いわゆる精神の力といわなければならない。》

 

 なお、言論の自由な道理に支配させられるべき今日において、理義の善(道理)は、道徳・風俗を破壊・混乱させず、科学の検証・実験の証拠が必要とは限らないが、自然の理に近く、誰かが作って人の技巧を経た器物だと、条件づけることができます。

 よって、兆民は、人間が中心の、人文科学・社会科学等の理を、人間が介入する余地のない、自然科学・宇宙科学等の理と、同等に見るつもりはありませんが、相対的な、人間の習慣・道徳・規則・法制を、絶対的な、自然・宇宙の法則と、近似して見ようとしていたのではないでしょうか。

 

* * *

 

 

●理・真理

 

○理:精神=作用・働き、身体の死(身殻の還元・解離)で精神も消滅

・精神とは本体ではない、本体より発する作用である、働きである。譬(たと)えばなお炭と焔(ほのお)との如きである、薪(まき)と火との如きである。漆園叟(しつえんそう)は既にこの理を覰破(しょは)して居る、それ十三若(もし)くは十五元素の一時の抱合たる躯殻(くかく)の作用が、即ち精神なるにおいては、躯殻が還元して即ち解離して即ち身死するにおいては、これが作用たる精神は同時に消滅せざるを得ざる理である。(続1‐1:霊魂)

《精神とは、本体ではない。本体から発動する作用である、働きである。例えば、ちょうど炭と炎のようなものである、薪と火のようなものである。荘子は、すでに、この理を見破っている。それは、13か15元素の一時、抱き合った身殻(身体・外殻)の作用が、つまり精神とするのにおいては、身殻が還元して、つまり解離して、つまり身体が死ぬのにおいて、これが作用する精神は、同時に消滅せざるをえない理である。》

 

○真理:身殻=本体、精神=作用・働き、身殻の死で精魂も滅亡

・故に躯殻は本体である。精神はこれが働らき即ち作用である。躯殻が死すれば精魂は即時に滅ぶのである。それは人類のために如何(いか)にも情けなき説ではないか、情けなくても真理ならば仕方がないではないか。(続1‐1:霊魂)

《よって、身殻は、本体である。精神は、これが働く、つまり作用である。身殻が死ねば、精魂は、即時に滅亡するのである。それは、人類のためには、本当に、情けない説ではないか。情けなくても、真理ならば、仕方がないではないか。》

 

○不理:身体が滅亡しても精神が単独で存在

・もし彼(か)の卵が蛾の躯体と精神とを授(さず)かりて、而(しか)して彼の蛾もまた躯体のみ亡(ほろ)びて、その精神は独存すといわば、理において穏当(おんとう)であろうか。(続1‐2:精神の死滅)

《もし、あの卵が、ガの身体と精神を授かって、そうして、あのガも、また、身体だけが滅亡して、その精神は、単独で存在するといえば、理において、妥当であろうか。》

 

 

●道理

 

○不道理:物の終始・極限

・元来空間といい、時といい、世界といい、皆一つありて二つなきもの、如何(いか)に短窄(たんさく)なる想像力を以て想像しても、これら空間、時、世界という物に始めのあるべき道理がない、終のあるべき道理がない。また上下とか東西とかに限極のある道理がない。(続1‐0)

《本来、空間といい、時間といい、世界といい、すべて、1つであって、2つとないものは、どんなに短い・狭い想像力によって、想像しても、これら空間・時間・世界という物には、始めのあるべき道理がない、終りのあるべき道理がない。また、上下とか・東西とかに、極限のある道理がない。》

 

○今日:言論の自由な道理に支配

・十七世紀前の欧洲では、もし無神無精魂の説を主張すれば、あるいは水火の酷刑に処せられたので、やむをえぬ事情もあったかは知らぬが、言論の自由なる道理に支配せられべき今日にあって、なおこの囈語(ねごと)を発するとは何たる事ぞ。(続1‐1:霊魂)

《17世紀以前のヨーロッパでは、もし、無神・無精魂の説を主張すれば、火・水の過酷な刑に処罰されたりするので、やむをえない事情もあったかは、知らないが、言論の自由な道理に支配させられるべき今日にあって、まだこの寝言を発語するとは、何たる事か。》

 

○道理:不朽不滅=身体の資格

・この道理からいえば、いわゆる不朽とか不滅とかは精神の有する資格ではなく、反対に躯体の有する資格である。(続1‐3:躯殻の不滅)

《この(身殻は本体、精神は作用という)道理からいえば、いわゆる不朽とか・不滅とかは、精神がもつ資格ではなく、反対に、身体がもつ資格である。》

 

○明白な道理:身体・元素(実質)=不朽不滅、精神(作用)=朽滅

・故に躯体、即ち実質、即ち元素は、不朽不滅である、これが作用たる精神こそ、朽滅して跡を留(とど)めないのである。これは当然明白の道理で、太鼓が破(やぶ)るれば鼕々(とうとう)の音絶える、鐘が破るれば鍧々(こうこう)の音は止まる。(続1‐3:躯殻の不滅)

《よって、身体、つまり実質、つまり元素は、不朽不滅である。これは、作用である精神こそ、朽ち滅して、跡をとどめないのである。これは、当然、明白な道理で、太鼓がやぶれれば、トントンという音も途絶える。鐘がこわれれば、カンカンという音も止まる。》

 

○道理:道徳・風俗を破壊・混乱させない

・即ち欧米人が無宗旨の人を忌(い)むこと、盗賊も啻(ただ)ならざる姿であるのは、此処(ここ)の道理である(続1‐4:未来の裁判)

《つまり欧米人が、無宗教の主旨の人を忌み嫌うこと、盗賊も、普通でない姿であるのは、ここの(道徳・風俗を破壊・混乱させない)道理である、》

 

○自然の道理=無為・無我の神

・但(ただ)この説にあっては、唯一神とはいうけれど、実はほとんど無神論と異(ことな)らぬのである。何となればこの神や無為無我で、実はただ自然の道理というに過ぎないのである。(続1‐7:神物同体説)

《ただ、この説にあっては、唯一神というけれども、実際には、ほとんど無神論と異ならないのである。なぜかといえば、この神は、無為・無我で、実際には、ただ自然の道理というのにすぎないのである。》

 

○道理=誰かが作って人の技巧を経た器物、不道理=偶然ひとりでにできた品物

・竹頭木屑(ぼくせつ)ならばともかくも、いやしくも人巧(じんこう)を経(へ)たる物、譬(たと)えば各種器物でるとか、更にはまた極(きわめ)て縝密(しんみつ)の機械に具(そな)えてる時辰儀(じしんぎ)等であった時には、誰れかこの物を作った者があるだろうということは不言の間に明瞭である。箇様(かよう)の品物が偶然独りで出来て途に落て居る道理はないからである。(続1‐9:造物の説)

《竹の切れ端・木クズならば、ともかくも、もしも、人の技巧を経た物、例えば、各種の器物であるとか、さらには、また、とても精密な機械が備わっている時計等であった時には、誰か、この物を作った者があるだろうということは、無言の間に明瞭である。このような品物が、偶然ひとりでにできて、道に落ちている道理はないからである。》

 

○自然の理からできた⇒道理に近似

・自然の理に頼(よ)りて、絪縕(いんうん)し、摩蘯(まとう)し、化醇(かじゅん)し、浸漬(しんし)して出来たという方(ほう)如何ほど道理に近くはあるまいか。(続1‐9:造物の説)

《自然の理によって、元気で、勢い盛んで、変化・純粋になり、浸透してできたという方が、どれほど道理に近くではないだろうか。》

 

○現実派哲学:光り輝く明白な道理⇒実験の証拠がないと抹殺

・かく論ずる時は、この一派は極(きわめ)て確実拠(よ)るべきが如くに見えるが、その現実に拘泥(こうでい)するの余り、皎然(きょうぜん)明白なる道理も、いやしくも実験に徴し得ない者は皆抹殺して、自ら狭隘(きょうあい)にし、自ら固陋(ころう)に陥(おち)いりて、その弊や大(おおい)に吾人(ごじん)の精神の能を誣(し)いて、これが声価(せいか)を減ずるに至るのである、(続2‐1:世界)

《こう論考する時、この(現実派哲学の)一派は、とても確実さによるべきだというように見えるが、その現実に執着するあまり、光り輝く明白な道理も、もしも、実験に証拠(徴証)が得られないものは、すべて、抹殺して、自分で狭小にし、自分で固執に陥って、その弊害は、大いに私達の精神の能力をあざむいて、これが評判を低減するのに至るのである。》

 

○不確実な道理⇒半分以上抹殺とはかぎらず、道理=科学の検証なしもあり、不道理=限極あり

・惟(おも)うに今日世の中の事、必ず目視て耳聴き科学検証を経たるもののみ確実で、余は悉(ことごと)く不確実だといわば道理の半(なかば)以上は抹殺せねばならぬこととなり、極(きわめ)て偏狭固陋(ころう)の境に自画(じかく)せねばならぬこととなる。かつ日常の事、必ずあり得(う)べきもの、または必ずあるべからざるものは、皆直(ただ)ちに人言を信じて、必(かならず)しも検証を施さないで、それで己(おの)れも許し人も許して、而(しか)して真に確実で動(うごか)すべからざるものが幾何(いくら)もある。且(か)つたとい科学の検証を経ずとも、道理上必ずあるべき、またあるべからざる事も、幾何もある。即ち世界が無限であるという事の如き、たとい科学の検証がなくとも限極があるといえば、大変大怪大幻詭(げんき)であるといわねばならぬ。世界とは唯一の物で、およそ容(い)れざる所ろないもので、有も容るべく無も容るべく、空気も容れ依天児(エーテル)も容れ、太陽系天体も容れ千数太陽系の天体も容れ、もしこの系の外(ほか)真空界なりとせば、この真空界をも容れて居るはずである。かくの如きものに限極のある道理がない、(続2‐1:世界)

《思うに、今日、世の中の事は、必ず目で見て、耳で聞いて、科学の検証を経たものだけが確実で、私は、すべて、不確実だといえば、道理の半分以上は、抹殺しなければならないことになり、とても偏向・狭小・固執の境界を、自己で画定しなければならないことになる。そのうえ、日常の事で、必ずありえることができるもの、または、必ずあることができないものは、すべて、すぐに人の言葉を信じて、必ずしも検証を施さないで、それで自己も許し、人も許して、そうして、本当に確実で、動かすことができないものが、いくらでもある。そのうえ、たとえ、科学の検証を経ないでも、道理上、必ずあるべき、または、あるべきでない事も、いくらでもある。つまり世界が無限であるという事のようなものが、たとえ、科学の検証がなくても、極限があるといえば、大変化・大怪奇・大幻惑・大詐欺であるといわなければならない。世界とは、唯一の物で、だいたい許容しないことがないもので、有も許容することができ、無も許容することができ、空気も許容し、エーテルも許容し、太陽系・天体も許容し、数1000の太陽系の天体も許容し、もし、この系以外が真空界なのだとすれば、この真空界も許容しているはずである。このようなものに極限がある道理はない。》

 

○不道理:無から有へ

・吾人(ごじん)がしばしば論じた如く、無よりして有とは道理においてあるべきではない。(続2‐1:世界)

《私達が、しばしば論考したように、無から有とは、道理において、あるであろうことではない。》

 

○不道理:有から無へ(実質が消滅)、世界の道理:実質が消滅せずに変化

・またこの世界が何らかの原因ありて終るべきもの、即ち有より無に入るべきものといえば、これまた道理上あり得べからざる事である。何となれば、実質が如何(いか)にするも消滅すべき道理がない、場所を替え形を易(か)ゆることはあっても、純然消えて無となる道理がない。この道理は決して吾人(ごじん)人類中の道理でなく、十八里の雰囲気中の道理でもなく、直(ただち)に世界の道理である、(続2‐1:世界)

《また、この世界が、何らかの原因があって、終わるであろうもの、つまり有から無に入るであろうものといえば、これは、また、道理上、ありえることができない事である。なぜかといえば、実質が、どのようにしても、消滅することができる道理がない。場所を変え、形を変えることがあっても、純粋に消滅して、無となる道理がない。この道理は、けっして私達人類の中の道理ではなく、18里の大気圏の中の道理でもなく、直接、世界の道理である。》

 

○不道理:形身が死・解離しても精神が単独で存在、生前の記憶を保持

・吾人(ごじん)死して形躯(けいく)解離するが故に、精神独り存して生前の記憶を保つよう致したいという乎(か)、それは都合は好(よ)いかは知らねど真面目には言えぬ不道理である。(続2‐2:無始)

《私達が死んで、形身が解離するために、精神が単独で存在して、生前の記憶を保持するように、いたしたいというのか。それは、都合がよいかは、知らないが、真面目にはいえない不道理である。》

 

○不道理:無から有へ

・その実およそ何物も無よりして有なる道理はなく、研究を加うれば必ず卵の蛾における、蚕の卵におけるが如くである。(続2‐2:無始)

《それが実際には、だいたい何物も、無から有である道理はなく、研究を加えれば、必ず卵のガにおける、カイコの卵におけるようなものである。》

 

○不道理:有から無へ

・有が無になる道理はない。(続2‐3:無終)

《有が無になる道理はない。》

 

○明白な道理:邪道の弊害を警戒して新奇を誇示せず

・都(すべ)て哲学者の多くは天姿高邁(てんしこうまい)で奇を好むより、従前の途轍(とてつ)に循(したが)うのを屑(いさぎよ)しとしない。異を立て新を衒(てら)わんとして思索を凝らし、遂に目前無造作の事物でも非常に奇怪視して、いわゆる謬巧(びゅうこう)錯雑(さくざつ)の言を為(な)し、自分も知らず識(し)らずの際、邪路に陥(おちい)りて自(みずか)ら出ること出来なくなるのが往々である。吾人(こじん)は務(つとめ)てこの弊を去ろうと欲するので、古人の聚訟(しゅうしょう)した事条についても、ただ務めて当面明白の道理を発して絶(たえ)て新奇を衒わぬのである、(続2‐9:客観)

《すべて、哲学者の多くは、生まれつき優秀で、奇異を好むので、以前の筋道にしたがうことを快く思わない。奇異を確立し、新奇を誇示しようとして、思索に熱中し、結局、目前の無造作の事物でも、とても奇怪視して、いわゆる巧みさを誤って錯綜する言葉となり、自分も知らず知らずの間に、邪道に陥って、自分から出ることができなくなるのが、しばしばである。私達は、努力して、この弊害を離れ去りたいとするので、昔の人の争議した事項(条項)についても、ただ努力して、当面は、明白な道理を発動して、まったく新奇を誇示しないのである。》

 

○不道理:先天的な観念

・吾人もし仮りに隤然(たいぜん)たる渾沌(こんとん)的肉塊(にくかい)であったならば、何の影象も得るに由(よし)なくて、乃(すなわ)ち吾人の記性は常に愣然(りょうぜん)として無一物(むいちぶつ)であろう、海に浮(うか)ぶ海月(くらげ)と一般だろう、何の先天的の意象もあるべき道理はない。(続2‐13:神の意象)

《私達が、もし、かりに、だらしない混沌的肉塊であったならば、何のイメージも得る理由がなくて、つまり私達の記憶力は、いつも、ぼんやりして、何ひとつないであろう。海に浮かぶクラゲと同様だろう。何の先天的な観念も、あるであろう道理はない。》

 

 

(つづく)