中江兆民の「一年有半」・「続一年有半」での理3~精神の能力の発揮、合理/背理 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■精神の能力の発揮

 

 前述の、名実論では、内実(内心)としての理義がまさり、体用論では、朽滅する作用(働き)としての精神を前提としたので、この精神の能力を発揮することになりますが、兆民は、2書で、推理・理会・理由の3理を、取り上げています。

 なお、精神は、不滅・不変でなく、人間は、5感覚器官(目・耳・鼻・舌・皮膚)を経由し、観念(意象)・イメージ(影象)を作成・記憶・変更していくとみています。

正・不正、義・不義、美・不美等、無形の観念や、神・霊魂等、無形のイメージも、同様なので、観念・イメージは、先天的に具備されていません(続2‐11:意象~15:意象の聯接)。

 よって、精神の能力の奮起・向上により、宗教家の卑劣な見方を打破し、世界の大理を捕獲・熟考すべきだとされています(前述、2‐5:精神の能)。

 

 

●推理

 

 推理は、次のように、まず、哲学者の基本である推理を、聖職者の基本である妄信から区分し、つぎに、精神の能力を、推理の一能力、想像の一能力、記憶の能力、自省の一能力等に、区分しており、このうち、推理の一能力には、演繹と、帰納の、2方法があると、紹介しています。

 

・哲学者:推理が基本 ~ 科学:理学(哲学)

・聖職者:妄信が基本 ~ 宗教

 

・推理の一能力:この理からあの理へと向かって無限

・想像の一能力:自由自在の働き・作用

・記憶の能力:事の観念を蓄積し、智識を進歩

・自省の一能力:道徳上・法律上で正か不正か ~ 精神の健全をしるす証拠

 

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○自己心中の推理力を満足すべき

・たとい殺風景でも、剥(むき)出しでも、自己心中の推理力の厭足(えんそく)せぬ事は言われぬではないか。(続1‐1:霊魂)

《たとえ、殺風景でも・露骨でも、自己の心中の推理力が満足しない事は、いわれないではないか。》

 

○推理を基本とする哲学者、妄信を基本とする聖職者

・波羅門(バラモン)教、仏教、猶太(ユダヤ)教、基督(キリスト)教、回々(フイフイ)教及(および)古昔(こせき)プラトン、プロタンの徒より、デカルト、マルブランシ、ライプニツトの属、皆唯一神説を皇張(こうちょう)するにおいて、基督教僧侶とその説を上下し、人をして恍然これ恐(おそら)くは推理を本(もと)とする哲学者ではなくて、妄信を基とする僧人なるべしと想(おも)わしむる度に至(いたっ)て居る。(続1‐6:唯一神の説)

《バラモン教・仏教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教や、昔のプラトン・プロティノスの門徒から、デカルト・マルブランシュ・ライプニッツの同属は、すべて、唯一神説を大いに主張することにおいて、キリスト教は、仏僧と、その説を上位と下位で競い合い、人をうっとりさせ、これは、おそらく、推理を基本とする哲学者ではなくて、妄信を基本とする聖職者であろうと、思わせるほどに至っている。》

 

○現実派の想像・推理=極限ありの道理

・かくの如きものに限極のある道理がない、もし限極ありとの科学の検証があっても信ずべからずではないか、何ぞ現実派の想像に怯懦(きょうだ)なるやといわねばならぬ。(中略)この道理は決して吾人(ごじん)人類中の道理でなく、十八里の雰囲気中の道理でもなく、直(ただち)に世界の道理である、何ぞ現実派の推理に怯懦(きょうだ)なるやといわねばならぬ。(続2‐1:世界)

《このようなものに極限がある道理はない。もし、極限があるとの科学の検証があっても、信じることができないのではないのか。どうして現実派の想像に臆病なのかと、いわなければならないか。(中略)この道理は、けっして私達人類の中の道理ではなく、18里の大気圏の中の道理でもなく、直接、世界の道理である。どうして現実派の推理に臆病なのかと、いわなければならないのか。》

 

○推理の一能力=この理からあの理へ向かい無限、想像の一能力=自由自在の働き・作用

・彼(か)の推理の一力(いちりょく)を看(み)よ、この理より彼(かの)理に赴(おもむ)き、層累(そうるい)して上(のぼ)りて乃(すなわ)ち十八里の雰囲気を透過して、夐(はるか)に太陽系天体の外(ほか)にも馳騁(ちてい)するではないか。(続2‐5:精神の能)

《あの推理の一能力を見よ。この理から、あの理へ向かい、積み重ねて上昇して、つまり18里の大気圏を通過して、はるかに太陽系・天体以外にも、行動するのではないのか。》

 

○推理・想像の事

・推理の事、想像の事は、前に已(すで)に叙述したので最早(もはや)ここに言うの必要はない。(続2‐15:意象の聯接)

《推理の事・想像の事は、以前すでに、順を追って述べたので、もはや、ここでいう必要はない。》

 

○推理の一能力、推理の方法=演繹・帰納

・余は前章で既に推理の一力を論述したが、更に細(こまやか)に論ずれば、推理の方法に自(おのずか)ら二種ありて、一は演繹で、一は帰納である。(続2‐18:帰納・演繹)

《私は、前章で、すでに推理の一能力を論述したが、さらに、細やかに論考すれば、推理の方法には、自然に2種があって、1つは、演繹で、もう1つは、帰納である。》

 

 

●理会

 

 理会は、道理を会得すること(理解)で、宗教(妄信)に依存せず、哲学者の講釈により、物を空間・時間の観念に想像し、事を理会すべきだとされています。

 

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○背理の極致:身殻の解離・自己の死後も精神あり、宗教なしで精神を理会

・躯殻既に解離して精神なおありとは背理の極、いやしくも宗教に癮黴(いんばい)せられざる、自己死後の勝手を割出しとせざる健全なる脳髄には、理会されべきはずでない。(続1‐1:霊魂)

《身殻が、すでに解離して、精神が、なおあるとは、背理の極致で、もしも、宗教に中毒化・バイ菌化させられなければ、自己の死後が勝手に割り出せない健全な脳内には、理解されることができるはずはない。》

 

○精神が物を空間に想像して万事を理会

・或る者はいう、空間とは真にその物のあるのではなく、特に吾人(ごじん)の精神がこの物あるが如くに想像して万事を理会することとなって居ると。(続2‐6:空間)

《アル人は、いう、「空間とは、本当に、その物があるのではなく、特に私達の精神が、この物があるように想像して、万事を理解することになっている」と。》

 

○空間・時間の観念:哲学者の講釈で理会

・かつ空間といい時といい、少数なる哲学者にして始(はじめ)て理会すべき、否な哲学者の講釈を聴きて理会すべきもので、児童や田舎人の徒は始よりこの意象は所持して居ない。(続2‐7:時)

《そのうえ、空間といい、時間といい、少数の哲学者で、はじめて、理解することができ、いや、哲学者の講釈を聞いて、理解できるもので、児童・田舎者の人達は、はじめから、この観念は、所持していない。》

 

 

●理由

 

 精神の発揮のひとつである、断行は、その要因が、次のように、行為の理由と、意思の自由に、大別していますが、いずれも薄弱な精神とされています。

 

・行為の理由=目的:自か他かの誘導力 ~ 自然:自(おの)ずから

・意思の自由=撰択:行為の理由が無力 ~ 作為:自(みずか)ら

 

 行為の理由は、自己か、他者の、目的(力)にしたがい、自由のない自然なので、善に賞賛・称賛したり、悪に刑罰・憎悪したりするのは、本質からズレることだとされ、意思の自由は、行為の理由が無力なので、作為で、選択することになります。

 ただし、兆民は、以下のように、意思の自由による選択決定は、環境(境遇・階級)が多大に影響するので、普段の教育・修養・習得や、交際する友人が、とても大切とし、不正に誘惑されず、邪道に陥落せず、正を選択決定するには、意思の自由を軽視し、行為の理由を重視すべきとみています。

 

「吾人(ごじん)の目的を択ぶにおいて果(はたし)て意思の自由ありとすれば、そは何事を為すにも自由なりと言うのではなく、平生習い来ったものに決するの自由があるというに過ぎないのである。」(続2‐16:断行、行為の理由・意思の自由~以下同)

《私達の目的を選択することにおいて、本当に、意思の自由があるとすれば、それは、何事をするにも自由なのだというのではなく、普段、習得してきたものに、決定する自由があるというにすぎないのである。》

 

「人をして道徳的二個以上の事項が目前に臨む時に、必ずその正なる者について不正なる者を避けしめようとするのには、幼時よりの教育が極(きわめ)て大切である。平時交際する所ろの朋友(ほうゆう)の選択が大(おおい)に肝要である。(中略)意思の自由を軽視し行為の理由を重要視して、平素の修養を大切にすることが、これ吾人(ごじん)の過(あやま)ちを寡(すくな)くする唯一手段である。」

《人に、道徳的な2個以上の事項が、目前に臨む時には、必ず、その正なるものにつきしたがって、不正なるものを避けさせようとするのは、幼少時からの教育が、とても大切である。普段に交際する友人の選択が、大いに重要である。(中略)意思の自由を軽視し、行為の理由を重要視して、普段の修養を大切にすることが、この私達の過失を少なくする唯一の手段である。》

 

 このように、普段の教育・修養・習得や、交際する友人が、とても大切だとする、陳腐な言葉が、理義だといわれています。

 

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○行為の理由/意思の自由

・また断行の一事について古来相応に議論があって、これに由(よ)りて行為の理由と意思の自由との二項目が出来て、随分(ずいぶん)争論の種となって居る。(続2‐16:断行、行為の理由・意思の自由~以下同)

《また、断行の一事について、古来、それなりに議論があって、これによって、行為の理由と、意思の自由の、2項目が出てきて、とても論争の種になっている。》

 

○行為の理由=目的

・行為の理由とは、吾人(ごじん)が何か為(な)さんとするの場合には必ず一定の目的がある。この目的が乃(すなわ)ち云々(しかじか)せしめまたは斯々(かくかく)せしめるので、これ正(まさ)に行為の理由である。而(しか)してこの行為の理由即ち目的がただ一箇であればそれまでだが、二箇以上である時には、わが精神は果(はたし)て自身に撰択してその一(いつ)を取り、少(すこし)も目的から制せらるることはないのであるか。(中略)これを要するに、行為の理由が実に全権を有して居て、意思の自由は名のみであるか、またはた意思の自由は真に存在して、目的は吾人の撰択に任(まか)されつつあるか、これ実に大困難事である。

《行為の理由とは、私達が何かをしようとする場合には、必ず一定の目的がある。この目的が、つまりシカジカさせ、カクカクさせるので、これは、まさに行為の理由である。そうして、この行為の理由、つまり目的が、ただ1個だけであれば、それまでだが、2個以上ある時には、わが精神は、本当に、自身で選択して、その1つを選び取って、少しも目的から制限されることはないのであるのか。(中略)これを、要するに、行為の理由が、実際に全権をもっていて、意思の自由は、名ばかりであるのか、また、それとも、意思の自由は、本当に存在して、目的は、私達の選択に任されつつあるのか、これは、本当に大困難な事である。》

 

○行為の理由=目的 ⇒ 善悪で賞罰せず

・もし左はなくて吾人が常に目的即ち行為の理由のために誘われて、それに由(よ)りて断行するとした時は、善を為(な)しても必ずしも賞すべきでない、悪を為しても必ずしも罰すべきでない、

《もし、そのよう(左様)ではなくて、私達が、いつも目的、つまり行為の理由のために誘われて、それによって断行するとした時には、善をしても、必ずしも賞賛すべきではない。悪をしても、必ずしも刑罰すべきではない。》

 

○行為の理由=自己/自己以外

・もしさはなくてその上戸が故(ことさ)らに意表(いひょう)に出(い)でて牡丹餅を取(とっ)たとすれば、これは必ず一座の様子を見てかくしたもので、やはり自己以外に行為の理由があって、純然意思の自由から割出したのではないのである。

《もし、そうではなくて、その上戸が、故意に、意表を突いて、ボタモチを選び取ったとすれば、これは、必ず一座の様子を見て、そうしたもので、やはり、自己以外に行為の理由があって、純粋な意思の自由から割り出したのではないのである。》

 

○行為の理由=無力 ⇒ 意思の自由

・もし行為の理由即ち目的物に少(すこし)も他動の力がなくて、純然たる意思の自由に由(より)て行いを制するものとすれば、平生(へいぜい)の修養も、四囲(しい)の境遇も、時代の習気も、およそ気を移し体を移すべき者は皆力なきものとなり了(お)わるであろう。

《もし、行為の理由、つまり目的物に、少しも他を動かす力がなくて、純粋な意思の自由によって、行為を制限するものだとすれば、普段の修養も、四周の境遇も、時代の慣習も、だいたい気を移し、体を移すことができるものは、すべて、力がないものとなって、終了するであろう。》

 

 

■合理/背理

 

 最後に、理について、兆民は、論理・哲理や、背理(悖理)で、正誤を明確化することにより、説明してようとしています。

 

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●論理・哲理

 

○非論理の極致・非哲学の極致:神の存在、精神の不滅、身体の死後も霊魂を保持

・しかるを五尺躯とか、人類とか、十八里の雰囲気とかの中に局して居て、而(しか)して自分の利害とか希望とかに拘牽(こうけん)して、他の動物即ち禽獣虫魚(きんじゅうちゅうぎょ)を疎外し軽蔑して、ただ人という動物のみを割出しにして考索(こうさく)するが故に、神の存在とか、精神の不滅即ち身死する後なお各自の霊魂を保つを得(う)るとか、この動物に都合の能(よ)い論説を并(なら)べ立てて、非論理極まる、非哲学極まる囈語(ねごと)を発することになる。(続1‐0)

《それを、5尺の体とか・人類とか・18里の大気圏とかの中に限定していて、そうして、自分の利害とか・希望とかに拘束して、他の動物、つまり鳥・獣・虫・魚を除外・軽蔑して、ただ人という動物だけを割り出して考察・思索するために、神の存在とか・精神の不滅、つまり身体の死後も、なお各自の霊魂を保ち得るとか、この動物に都合のよい論説を並び立てて、非論理の極致・非哲学の極致で、寝言を発語することになる。》

 

○非哲理の極致:子孫が不滅なら自身も不滅

・しかるに既に児孫を以て不朽なるを得て、なおその上に自身も別に不朽なるを得(う)るとは、余り勝手過ぎたる言い事である、非哲理極まるのである。半死の田舎媼(でんしゃおう)の口からいえばともかくも、哲学者を以て自(みずか)ら標榜する人物にして、かくの如き非哲理極まる言を吐(は)くとは、直ちに人間羞恥(しゅうち)の事を知らぬのである。(続1‐2:精神の死滅)

《それなのに、すでに子孫を不滅であることを得ても、なお、そのうえに、自身も特別に不滅であることを得るとは、あまりにも勝手すぎる言葉である、非哲理の極致である。死にそうな田舎の婆さんの口からいえば、ともかく、哲学者を自分で標榜する人物で、このように、非哲理の極致の言葉を吐くとは、すぐに人間の恥ずかしいと思う事をわからないのである。》

 

○非道理・非哲理の極致:精魂の不朽不滅

・ああこの言(げん)や非道理非哲理の極、意義ますます糾紛(きゅうふん)し錯雑し、あたかも古昔(こせき)の迷室の中に足を容(い)れたる如くに成り了(お)わるほかない。(続1‐4:未来の裁判)

《ああ、この(精魂の不朽不滅の)言葉は、非道理・非哲理の極致で、意義は、ますます紛糾・錯綜し、あたかも昔の迷宮の中に、足を踏み入れたように、成立して終了するしかない。》

 

○無意義・非論理:神が自己を型どって人類を造った

・およそこれらの言、宗教家の口から出(いず)れば、中以下根機(こんき)の人を済度(さいど)するための方便として、やや恕(ゆる)すべきであるが、一切方便を去りてただ真理これ視るべき哲学者にして、かくの如き無意義非論理なる囈語(ねごと)を唱(とな)えて、而(しか)してその人、実にこの学において大家(たいか)の名を擅(ほしいまま)にして居るとは驚くべきである。(続1‐8:主宰神の説)

《だいたい、これらの(神が自己を型どって人類を造ったという)言葉は、宗教家の口から出れば、中程度以下の教えを受ける能力のある人を、救済するための方便として、やや許すことができるのであるが、すべての方便を取り去って、ただ真理、これを見ることができる哲学者で、このように、無意義・非論理な寝言を唱えて、そうして、その人が、本当に、この学問において、大家の名をほしいままにしているとは、驚くことができるのである。》

 

○非論理の禁制:神の造物の説

・造物の説はミケランジ、ラファエルの属(やから)が、その奇傑(きけつ)の腕前を揮霍(きかく)するための画題と為(な)すには極(きわめ)て適当ではあるだろうが、冷澹(れいたん)平静一(いつ)も非論理の禁を犯すを容(ゆ)るされない哲学者の口からして、神の造物の説を主張するとは驚くべきの極である。(続1‐9:造物の説)

《造物の説は、ミケランジェロ・ラファエルの同属が、その奇抜な豪傑の腕前を、振り回すための画題とするには、とても適当ではあるだろうが、冷淡・平静で、ひとつも非論理の禁制を犯すことを許されない哲学者の口から、神の造物の説を主張するのは、驚くべき極致である。》

 

○論理に不適合:造物の説

・古昔(こせき)学術草昧(そうまい)の世、今時よりいえばほとんど精神病者の如き人物に由(よ)りて想像せられて、一(いつ)も論理に適(かな)わない造物の説と、尋常に度越して居る博学俊傑(しゅんけつ)の士がこれを理に揆(はか)り、これを学に質(ただ)し、観察し、経験し、苦心惨澹(さんたん)の余に得たる進化の説と、いずれを信じいずれを非とすべきである乎(か)。(続1‐9:造物の説)

《昔の学術の初めで暗い時代、現在からいえば、ほとんど精神病者のような人物によって想像され、ひとつも論理に適合しない造物の説と、普通の程度を超越している博学・優秀な学士が、これを理にはかり、これを学問に問いただし、観察・経験し、苦心して思慮するあまりに得た進化の説と、どちらを信じ、どちらを非(誤り)とすべきであるのか。》

 

○論理:万事が創造主なしにできた

・この世界万象が造主なしに出来たとは何の論理であるか(続1‐9:造物の説)

《この世界のあらゆる事象が、創造主なしにできたとは、何の論理であるのか、》

 

○論理:1個の力で天然物を造った

・いわんや人獣の構造組織の如き、広大無辺なる星象(せいしょう)の旋躔(せんてん)廻転の如き、如何なる通力あるにせよ、一箇の力でこれ(天然物)を造ったとは、それこそ論理において受け取れぬ、(続1‐9:造物の説)

《まして、人・獣の構造組織のようなものは、広大・無辺な星座の旋回・巡転のようなもので、どんな神通力があるにせよ、1個の力で、これを造ったとは、それこそ論理において、受け取れられない。》

 

○不論理・非哲理:不朽不滅の霊魂、虚霊真空の精神、身殻の死後も精神が単独で存在・記憶を保存

・彼れ独り勝手に不朽不滅の霊魂、虚霊真空の精神、躯殻の中に居て躯殻を支配し、躯殻死すれば独存して記憶を存する精魂を有するという不論理非哲理は、決して容(ゆ)るされぬのである。(続2‐1:世界)

《それらは、単独で勝手に不朽不滅の霊魂・虚霊真空の精神、身殻の中にいて身殻を支配し、身殻が死ねば、単独で存在して、記憶を保存する精神をもつという、不論理・非哲理は、けっして許容されないのである。》

 

○始=本当の意義(哲理的の意義)なし

・だから始という語は、真の意義即ち哲理的の意義はないのである。(続2‐2:無始)

《だから、始という語句は、本当の意義、つまり哲理的な意義がないのである。》

 

○始=意義なき非論理、世界の万物=無始が明白

・されば世界万有が無始であるのは当然明白の事である。もし始(はじめ)があったら大変で、意義もなき非論理となる。(続2‐3:無終)

《そうであれば、世界の万物が、無始であるのは、当然、明白の事である。もし、始があったら大変で、意義もない非論理となる。》

 

○非論理・非哲理・幻泡影・前後矛盾・自己矛盾・大混雑・大混乱:無から有への始、有から無への終

・もし一物でも無よりして有で、即ち始めがあってその有が、また無になりて、即ち終があるというと大変な事で、非論理、非哲理、泡沫、幻影、前後矛盾、自家撞着(どうちゃく)、大混雑、大混乱となり了(お)わるのである。(続2‐3:無終)

《もし、ひとつの物でも、無から有で、つまり始めがあって、その有が、また、無になって、つまり終りがあるというと、大変な事で、非論理・非哲理・泡沫・幻影・前後矛盾・自己矛盾・大混雑・大混乱となって、終了するのである。》

 

○道徳・論理

・かくして道徳論理と順次論道すべきはずではあるが、元これ組織的に哲学の一書を編するのではない、(続3‐0)

《こうして、道徳・論理と、順次、道を論考するだろうはずではあったが、元々、これは、組織的な哲学の一書を編集するのではない。》

 

 

●背理(悖理)

 

○理に背く(悖る):官吏の過失をこらしめるような却下・恩恵を与えるような許可

・人民出願し及び請求することあるに方(あた)り、これを却下する時はあたかも過挙(かきょ)あるものを懲(こら)すが如く、これを許可する時はあたかも恩恵を与うるものの如し、何ぞそれ理に悖(もと)るの甚しきや。(正2:官とは何ぞ)

《(官吏へ)人民が出願・請求することがあるのにあたって、これを却下する時は、あたかも過失があるものを、こらしめるようで、これを許可する時は、あたかも恩恵を与えるもののようで、どうして、そのように、理に背(そむ)くのが、ひどいのか。》

 

○理に背く(悖る)・背理(悖理):人の良心を怒らす

・即ち精神の如きも、躯殻(くかく)中に脳神経が絪縕(いんうん)し摩蘯(まとう)して、ここに以て視聴嗅味及び記憶、感覚、思考、断行等の働らきを発し、その都度瀑布(ばくふ)の四面(よも)に濆沫(ふんまつ)飛散するが如くに、極々精微の分子を看破し得るに至るだろうと臆定(おくてい)し置(おい)ても、必ずしも理に悖(もと)りて人の良心を怒らすが如き事はないではないか。これに反し、分子も形質もなき純然たる虚無の精神が、一身の主宰となりて諸種の働らきを為(な)すというが如きは、如何(いか)にも悖理(はいり)ではあるまいか、人の良心を怒らすべき性質ではあるまいか。(続1‐1:霊魂)

《つまり精神のようなものも、身殻の中に、脳神経が元気・勢い盛んで、これによって、視覚・聴覚・嗅覚・味覚、記憶・感覚・思考・断行等の働きを発動し、その都度、滝の4方に水しぶきが飛散するようなもので、非常に精緻の分子を見破ることができるのにいたるだろうと、憶測で設定しても、必ずしも理に背(そむ)いて、人の良心を怒らすような事はないのではないか。これに反し、分子も形質もない、純粋な虚無の精神が、ひとつの身体の中心となって、種々の働きをするというようなものは、本当に、背理ではないのか。人の良心を怒らすことができる性質かもしれない。》

 

○背理(悖理):理・義を弁別する男子が物に礼拝

・而(しか)してこれ啻(ただ)に悖理(はいり)笑うべきのみならず、人事の実際に害すること甚(はなはだし)きものがある。(続1‐5:多数神の説)

《そうして、これ(理・義を弁別する男子が物に礼拝すること)は、ただ背理で、笑うことができるだけでなく、人の事が、実際に危害になることは、ひどいものがある。》

 

○背理(悖理)の事:万能か神でも不可能

・如何(いか)に万能の神でも、悖理(はいり)の事の出来べきはずはないのである。(続1‐9:造物の説)

《いかに万能な神でも、背理の事ができるはずはないのである。》

 

 

(おわり)