入江悠監督、河合優実、佐藤二朗、稲垣吾郎、河井青葉、広岡由里子、早見あかり ほか出演の『あんのこと』。PG12。

 

2020年。覚醒剤の使用と所持で捕まった香川杏(河合優実)は、刑事の多々羅(佐藤二朗)や週刊誌記者の桐野(稲垣吾郎)らの協力もあって更生への道を歩みだす。しかし、そんな彼女にさまざまな障害が立ちはだかる。

 

ネタバレがありますので、映画をご覧になってからお読みください。

 

今、一番旬の女優さんである河合優実主演映画、ということで昨年の時点から気になっていたんですが、ただ僕は入江悠監督の『22年目の告白 -私が殺人犯です-』を観て激しい怒りに駆られてから(その理由は感想でお確かめください)、その後同監督の映画は観ていませんでした。

 

だけど、ちょっと前に話題になった宮藤官九郎さんの脚本によるTVドラマ「不適切にもほどがある!」も、普段、朝ドラを除くTVドラマをほぼ観ない僕としては珍しく観ていたし(あのドラマにもいろいろ言いたいことはありますが、割愛)、ここで彼女の主演映画を観逃すのはもったいない気がして悩んだ末に鑑賞。

 

平成生まれなのに「昭和顔」と言われてしまう

 

入江監督がある新聞記事に衝撃を受けて、またコロナ禍でお知り合いのかたを亡くされたことなど監督ご自身の体験も含めて描いた、2020年というわずか4年前の現実にあった事実をもとにした映画。

 

僕は劇場パンフレットを買っていないし、だから作品の裏側についてはネットで拾った監督のインタヴュー記事の中に書かれていたことぐらいしか参考にできるものがないんですが、それらいくつかのインタヴュー記事で、入江監督は登場人物の背景は史実に近いことや、後半に創作を加えたことなどを述べられていました。

 

監督が読まれたという新聞記事を僕は読んでいないし、「創作」というのがどこのことなのかもわからないんですが、「後半」ということは、主人公の杏が他人の赤ちゃんの世話をするところだろうか。

 

違ってたら申し訳ないですが、入江監督はいろいろと配慮されたからでしょうか、インタヴューの中で映画の内容について史実との違いやその忠実度についてあまり具体的に語られていないので、こちらで勝手に想像するしかなくて。

 

その新聞記事を書いた記者のかたは、映画で稲垣吾郎さんが演じている桐野記者のモデルなのだそうですが。

 

 

 

佐藤二朗さん演じる多々羅刑事の人物造形は、どこまで史実がもとになっているんでしょうね。

 

河合さんが目当てだったというのもあるんだけれど、予告篇を観て、まず僕は佐藤さんの演技に魅せられたものですから。何よりもまず佐藤二朗さんを見たい、と思ったのでした。

 

佐藤二朗さんは『さがす』の時にも気になったし、僕がただ無知なだけで恐縮ですが、長らく佐藤さんのことはちょっと「飛び道具」というか、おふざけキャラ専門の人、みたいな勝手な偏見があったので、でもそうじゃなくてちゃんと演技で見入らせてくれる人なんだとわかったから。

 

母子家庭で母親からDVを受け続けて、小学生の時から売春を強要されて学校に行けなくなり、ドラッグも覚えて警察に捕まったひとりの若い女性が、どん底から立ち直っていこうと努力するが…という、ある意味非常にストレートなお話で、途中で一ヵ所「…えっ!?」という驚きの展開はあるけれど、実在の女性がたどった人生をなるべく忠実に追った結果か、最後には彼女は自ら命を絶ってしまう。

 

先ほど「ここが創作なのだろうか」と僕が思ったのが「他人の子どもの世話をすること」だったのは、つまり、主人公が自殺してしまう映画で、唯一の希望として幼い命を救った、というエピソードを入れたのだろうか、と。

 

そうでなければ、あまりに救いがないから。

 

あの逸話が事実なのか創作なのか僕は知りませんが、入江監督は劣悪な生活環境の中で介護の仕事を始めて夜学に通っていたその女性の中に、可能性を見出したようなことを仰っていたので。

 

だから、彼女ならこういうこともできたんじゃないだろうか、という想いも込めて、見知らぬ人にいきなり託された赤ちゃんの世話をする、というあの場面が生まれたのでは、と想像してみた(違ってたらごめんなさい)。

 

 

 

 

ただ、これは監督が河合優実さん演じる“杏”のモデルにした実在の女性に対する誠意としてこのように描いたのでしょうが、あの状況の中で生きる意欲を失いアパートから飛び降りて自殺する主人公に、僕は本当に残念な気持ちでいっぱいになりました。

 

人の心が折れるのがどんなきっかけなのか、どういうタイミングなのかはわからないし、だから自分の意志で生きることをやめた人たちのことをとやかく言ったりするようなことはしたくありませんが(むしろ、僕は亡くなっていく人たちの方にシンパシーを覚えずにはいられないし)、それでもこの映画の中の杏は、まだまだ生きていけるのではないかという可能性や活力があったように感じられたから。絶望するのは早過ぎるように思えてならなかった。

 

 

 

 

介護施設で彼女を慕い、別れを惜しむお年寄りがいたり、外国人や年配の人たちに混ざってともに学ぶ喜びを感じることができる人だったのだから。

 

映画では、杏はかなり適応力が高いんですよね。

 

しかし、彼女がどんなに這い上がろうとしても、そして少しずつそれが達成されていって…というところで必ず邪魔が入る。そのたびにまた逆戻りするような、希望を奪い取られるような体験を繰り返すうちに、脆くなった木が一気に折れて倒れるようにして杏は生き続けることを諦めてしまった。

 

たとえばこれが、杉咲花さん主演の『市子』の主人公のように、どこかしたたかで、泣きながらも生に執着する主人公であればどんなによかったか。

 

僕は入江監督の『22年目の告白』で史実が“三文刑事ドラマ”のネタに貶められていたことに怒りを覚えて批判したんですが、この『あんのこと』で主人公の杏を史実とは違って「生かすこと」は、けっして死者を冒涜することにはならないんじゃないか、と思ったんですよね。

 

監督ご自身も、「創作」を加えた、と仰ってるわけだし。劇映画として「希望」を添えたかったんでしょう。

 

だとしたら、何度も挫けそうになりながらも「生きる」方を選ぶ主人公に描き替えてもよかったのではないか。コロナ禍で亡くなっていった人たちへの鎮魂は、主人公を「生かす」ことでも可能だったのでは。

 

河合優実さんは、かよわそうに見えても実は芯の強い女性を演じられる俳優さんだと思うから。もっと図太くて、それこそ「ふてほど」での彼女みたいな役もきっとお手の物だろうし。

 

 

 

 

由宇子の天秤』で彼女が演じた女子高生は父子家庭だったけど、この映画の杏とよく似た境遇で、あの映画での彼女の風情、たたずまい、そしてその運命には胸をえぐられるような思いがしたし、だからこそ、『あんのこと』という新作では生き延びてほしいと願ったんですが。

 

もしも、『由宇子の天秤』(主演は瀧内公美さん)という映画をまだ鑑賞されていないかたがいらっしゃって、『あんのこと』に心打たれたのでしたら、お薦めですからぜひご覧になってみてください。

 

あるいは、この『あんのこと』を観てつらくなったら、観客が心の中で杏が生きていける世界を想像してみる、そういうことが求められているのかもしれませんが。

 

“彼女”が亡くなってしまったのは事実なのだから。あった「死」をなかったことにしてハッピーエンドにはできない。

 

なぜ彼女は生きられなかったのだろう。

 

杏が見上げたベランダの向こうの空を飛んでいくブルーインパルスは、これ以上ないほどにコロナ禍での絶望感を象徴していたけれど(当時、あれを見てはしゃいでた人間たちのことを俺は絶対に信用しない)。

 

確かに、ユーモラスでまるで父親のように彼女に接して親身になって更生の手助けをした多々羅が実は…という展開は、現実に起こりうる裏切り行為の最悪の部類に入るし(大変不謹慎ながら、あの部分は映画的に「面白かった」)、また桐野記者が多々羅の犯罪をスクープしなければ、杏が通っていた多々羅が主催する自助グループは解散せずに済んで彼女が居場所を失うこともなかったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

…だけど、それでは問題の解決にはならないし(現に多々羅の性犯罪による被害者がいるわけで)、少なくとも映画の中で彼女を死に追いやった最大の原因はあの毒母だ。

 

 

 

『市子』の主人公が生活していたのも杏ととてもよく似た環境だったし、あの映画でもこの『あんのこと』でもいつも“父親”は不在で、父親代わりの男はろくでなしばかりだ。

 

杏の母は、客の男を家に連れ込んだり、保険証も持っておらず、家のことも何もやらずに人前で実の娘に暴力を振るうような非常識極まりない人物だが、彼女をああいう境遇にしたパートナーの責任が問われることはない。そこに大きな問題がある。

 

杏の母親を演じる河井青葉さんはほんとにああいう人なのかと錯覚させるような迫真の演技で素晴らしかったですが、濱口竜介監督のオムニバス映画『偶然と想像』では、三話目で物腰の柔らかい優しそうな女性を演じていました。役柄も雰囲気も全然違うんで、あらためて俳優さんって凄いな、と思います。

 

広岡由里子さんがおばあちゃん役というのも、あぁ、もうそういう時代なのね、と。劇中で「コロナに罹った」と言われていたけど、あのおばあちゃんは無事だったのだろうか。でも、家ではこれまで通りにこたつに入ってたから、もしかして、あれは母親のウソ…?

 

正直なところ、あの赤ちゃんのくだりはよくわからなくもあって、最初、早見あかりさん演じるあの女性が何者なのか理解できなくて、どうやら同じアパートに住む隣人、ということみたいだけど、なんであんな激しくドアを叩いて叫んでる見知らぬ人にドアを開けるのか、母親にアパート(DV被害者用のシェルター)に来られて「ばあちゃんがコロナに罹ったっぽい」みたいに言われてノコノコついていくのも、人が好過ぎるというか、警戒心なさ過ぎだろ、とも思ったんですよね。案の定、「ガキを殺す」と脅されて、命じられた通り再びカラダを売りにいく。

 

そのけっして消すことができない人の好さ、優しさが逆に彼女を追いつめていく。

 

観ていてほんとにじれったくてもどかしくて、さすがにもうちょっと自分を守ろうとしろよ、と思った。

 

でも、きっと監督はそういう根が真面目で、母親に包丁を向けても「刺せんのか、母親を」と居直られて、けっして親を刺し殺すことなどできない、そういう女性として彼女を描いたんですね。ああいう人だからこそ、生きられなかったのだ、と。

 

あの赤ちゃんの若い母親が、杏が自分の息子を守ってくれた、お墓参りがしたい、などと、なんか「イイ話」みたいに最後に笑顔で語ってるのが僕には寒々しかった。いや、あんたのせいでもあるだろ。息子の代わりに死んでくれた、みたいに言うなよ、と。この女性には彼女なりの切羽詰まった事情があったんだろうけど。

 

 

 

コロナ禍の最初期を描いていて、非正規雇用の人たちが介護施設で仕事を失うところなど、わずか4年前のことですが、いろいろと思い出しました。

 

当時、「コロナで風俗嬢に若い子や美人が増えて嬉しい」みたいなこと言ってたお笑い芸人もいたなぁ。とんでもない暴言だったことがあらためてよくわかりますが。

 

少し前に観た『ミッシング』の感想でも書いたように、石原さとみさんと河合優実さんという、ちょっと顔が似ている女優さんたちのそれぞれの主演映画を観てみて、どちらも違う見どころがあったし、似てる、といっても年齢も離れているし彼女たちには異なる魅力と個性があるから、どちらが上とか下とかじゃなくて、その違いがとても面白かった。

 

お二人は特にぽってりした唇のあたりが似ているけれど、最大の違いは目許ですよね。そこの表情の作り方の違いが大変興味深かったです。

 

そういえば、『ミッシング』で石原さんの弟役だった森優作さんは河合優実さんと同じ芸能事務所なんですね。エンドクレジットの中に事務所と彼の名前もあったけど、どこに出ていたのかわかりませんでした。

 

童謡「どんぐりころころ」の歌詞を久しぶりにフルで聴いたけど、2番目がせつないですね。この映画で描かれてたことだよな。

 

この映画の中にいた“杏”という女性は、誰もが持ちうる力、人とシェアし合えるはずのもの──「優しさ」を持っていた。

 

今、僕たちに一番必要とされているものかもしれませんよね。

 

 

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