入江悠監督、藤原竜也、伊藤英明、夏帆、野村周平、石橋杏奈、竜星涼、早乙女太一、平田満、岩松了、岩城滉一、仲村トオル出演の『22年目の告白 -私が殺人犯です-』。

 

1995年に起きた5件の連続絞殺事件が時効となり、犯人が捕まらないまま真相は闇に消えた。しかしあの事件から22年経った2017年、犯人を名乗る男、曽根崎雅人(藤原竜也)が事件についての手記を出版することになる。かつて犯人と格闘の末取り逃がした刑事の牧村(伊藤英明)は、マスコミの前に姿を現わしパフォーマンスめいた行動を取る曽根崎を監視する。

 

SR サイタマノラッパー」シリーズの入江悠監督最新作。

 

僕はこれまでにすべて劇場で観た「サイタマノラッパー」三部作は好きなんですが、それ以降の入江監督のメジャー作品は未見で、この『22年目の告白』も最初は入江監督の作品だと知らずに予告を観て「あぁ、また『藁の楯』みたいな映画か」と、華麗にスルーするつもりでいました。

 

 

藤原竜也が演じる、事件の時効後に犯人を名乗って告白本を上梓する男の役って、そのクズなイメージがほぼ『藁の楯』の時のまんまだと思ったから。僕はご本人やファンのかたがたには申し訳ないけれど藤原竜也という俳優さんの演技はどうも苦手なので、今さら彼の主演映画をあえて映画館で観たいとは思わなかった。

 

でも、わりと評判がいいのと(普段から「人の評価は関係ない」とか言っときながら結構参考にしてますが)、久しぶりに入江監督作品を観てみよう、という気になって劇場へ。

 

韓国映画『殺人の告白』(2012)の日本版リメイクだそうですが、オリジナル版は観ていません。だからそちらとの比較はできないし、今回のリメイク版のどのあたりが韓国のオリジナル版に忠実で、どこがリメイク版独自の展開や描写なのか、ということは僕にはわからないので、すべてリメイク版に描かれているものから判断して書きます。小説版もあるようですが、それも未読。

 

 

 

さて、久々にこのフレーズを出しますが、残念ながら以降の感想ではこの作品を褒めていません。罵倒に近い形でディスっておりますので、お好きなかたは読まれない方がいいと思います。

 

…と言うと、つまらないのか、と思われるでしょうが、ヒットもしていて「面白かった!」と褒めている人も多いですし、どのあたりが面白かったのかは僕にも一応理解はできるので、あくまでもこれは僕個人のものの考え方、価値観による評価です。ご了承ください。

 

異なる意見を持たれるかたも当然いらっしゃるだろうと思います。

 

また、ストーリーのネタバレもあります。これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

まず、ライムスター宇多丸さんがラジオの映画批評で話されていた、さまざまに映像を加工することで1995年から始まる時代の流れを表現している、ということに関しては、映像はいろいろ凝っているのに「声」についてはずいぶんと無頓着だなぁ、という印象でした。

 

アヴァンタイトルで阪神淡路大震災の映像のバックに流れる中継の音声がまるでアニメで使われているような台詞廻しで、すぐにこの映画のための作り物であることがわかる。ニュース番組のアナウンサーたちの演技も同様。

 

その時点で、出来の悪いフェイク・ドキュメンタリーを観ているような気分に。

 

宇多丸さんがしきりに例に出されていた「Jホラー」的な映像表現についても、僕はそこに本物っぽさや嫌ァな後味の残る怖さというものを一切感じなかった。

 

そして、またあとでしつこいぐらい繰り返しますが、このフェイク・ドキュメンタリーとかホラーといった手法を使って現実に起こった震災や、現実に起こった凶悪事件を否が応でも連想させる事件を劇中で描き、結果的に箸にも棒にもかからないような話に仕立てたことに僕は言い様のない怒りを覚えました。

 

要するに倫理的な部分で非常に引っかかったのです。

 

以前も『ドント・ブリーズ』の感想で「倫理的な問題」という言葉を使って作品を批判したために抵抗を覚えられたかたがいらっしゃったし、今回の件についても「フィクションなんだから、そこで何が描かれようとそんなのいちいち目くじら立てる必要ないだろう」と感じられるかたもいらっしゃるかもしれません。

 

映画というのはもともと「見世物」で、現実に起きた事件や事故を題材にしてフィクションとして扇情的に描き娯楽作品として消費する、というのはその草創期から行なっていることなので、こういうことを言い出すと物凄い本数の過去の映画にも文句をつけなければならなくなりますが、昔の映画のことはともかく、1995年の阪神淡路大震災や97年の神戸連続児童殺傷事件の犯人とされる元少年Aの手記の出版(2015年)、そして中東でのテロリストによる日本人ジャーナリストの殺害(2015年)などを、それとわかる形で(阪神淡路大震災はそのまんま)劇中に出して物語と絡ませる、というやり方には、僕はどうしても作り手の無神経さを感じずにはいられないのです。

 

 

 

 

僕は被災者ではないけれど当時は大阪に住んでいたので関東の人たちに比べればもうちょっとあの震災を身近に感じていますし、先日TVでやっていた元少年Aの手記の出版についてのドキュメンタリー番組を観て胸が潰れるような思いをしたばかりです。

 

施設で更生したと思っていた元少年Aは、犠牲者の遺族の許可もなく勝手にあの連続殺傷事件についての手記を出版した。それは遺族のかたがたの気持ちを踏みにじった本当に鬼畜の所業だと思います。

 

そのような現実に起きた、そして多くのかたが亡くなったり心に傷を負われた非常にセンシティヴに扱うべきことを、よりによって「どんでん返し」が見どころの娯楽映画として無責任に消費する。

 

さらにネタバレしますけど、この映画ではかつて戦場でテロリストに拷問されて仲間を殺されたジャーナリストが一連の事件の真犯人として描かれている。

 

…これは一体どういうことでしょうか。

 

こういうのを果たして「表現の自由」と言うんだろうか。

 

また、劇中では95年に阪神淡路大震災で被災して両親を失った伊藤英明演じる牧村の妹・里香(石橋杏奈)が、恋人の拓己(野村周平)とともに兄のアパートに避難してくる。

 

しかし、牧村に追われて拳銃で肩を撃たれた連続絞殺事件の犯人は牧村のアパートに忍び込んで密かに爆発物を設置、牧村とともにアパートに乗り込んだ上司の滝(平田満)が爆発に巻き込まれて死亡する。

 

里香は行方不明のまま時は流れ、2017年になって曽根崎が犯人を名乗り出たあとにさらなる自称・真犯人がYouTubeにUPしたアパートの爆破の瞬間の映像と、TVに出演したその覆面男が持ってきた里香の殺害映像によって、曽根崎は犯人ではなかったことが判明する。

 

曽根崎の正体は里香の恋人だった拓己で、彼は整形手術で顔を変えたのちに牧村とともに真犯人をおびき出すために自分を犯人と偽って大芝居を打ったのだった。

 

 

 

…これ、劇中に登場する事件がすべて架空のものだったらまだわかりますよ。

 

でもさっきから言ってるように、あの震災は現実に起こったものだし、殺人犯が手記を出版するとか戦場ジャーナリストとか、ちょっと現実をコピペしすぎではないか?

 

曽根崎が口にする「愚鈍な警察」という表現なんかも、モロ“酒鬼薔薇”だし。

 

石橋杏奈演じる心優しい妹が両親を助けられなかったことで罪の意識を背負って傷ついている理由に「阪神淡路大震災」を持ってくる必要がどこにあるのだろうか。物語用にフィクションの事件を作ればいいではないか。

 

震災はここではただ観客に、この物語があたかも時代とリンクした「リアリティ」のあるもののように錯覚させるためだけに使われている。

 

韓国映画『殺人の告白』が作られたのは2012年だけど、今年リメイク版を公開するにあたって、作り手が2015年の元少年Aの手記「絶歌」出版の件を参考にしているのは言うまでもない。戦場ジャーナリストの死だってそうだ。

 

 

 

以前やはり僕が酷評した『64-ロクヨン-』がそうだったように、どーでもいい内容の三文刑事ドラマのために史実を利用すんじゃないよ!しかも人の命にかかわるものを安易極まりないやり方で。

 

僕はこの映画の存在を否定しないし、どんな鬼畜で無神経な内容だろうとそれが犯罪でない限りは発表する自由はあると思います。

 

こんな映画公開するな、とか、褒めるな、とか言うつもりはない。

 

でも、だったら観る側にも作品を批判する自由はあるはずだ。だから批判する。

 

作品を発表すんのは人の自由だが、入江監督は自分が現実に犠牲者のいる災害や事件を利用してメシを食ってる人品卑しい人間であることを自覚すべきだろう。

 

映画ってそもそもそういうものだし、観客だってその共犯者なわけですが。

 

倫理がどうたら、と述べてきましたが、もっと単純にフィクションとしてもつまんなかったんですよね。

 

特に終盤、実は曽根崎は犯人ではなかったことが明らかになったあたりから映画がどんどん失速していった。

 

広げた風呂敷をうまくたためずにグッチャグチャにして強引に押入れにしまったような。

 

どう考えたって、劇中で与えられたピースだけでは仲村トオル演じるジャーナリストが22年前の連続絞殺事件の真犯人であるという説得力のある理由など生み出しようがない。

 

最初から無理があるオチを最後まで押し通そうとするから三流刑事ドラマになる。

 

そして、その犯人にこの映画は、彼が抱えた「闇」がどーたらこーたら、とクソみたいな台詞を長々と吐かせるのだ。

 

クライマックスに「闇」がどーたら、という長台詞が続く映画にろくなものはない。

 

酒鬼薔薇事件当時、やたらと「心の闇」なる表現が使われたが、本当に空疎な言葉だ。

 

では、あの陳腐極まりない台詞が現実の事象に対して何か批評的な効果を上げているかといえば、そんなものはどこにもない。徹頭徹尾カラッポな映画なのだ。

 

一見、時代やその中の社会問題を扱っているかのように見せかけて、実は中身が何もない。『64』がそうだったように。

 

そして、中身が何もなくたって面白けりゃいいんだが、どちらもつまんないから腹が立つのだ。

 

あれだったら、さらにもうひと捻り必要でしょう。たとえば、殺されたと思っていた牧村の妹が実は…みたいな展開とか。

 

岩松了演じる医師も岩城滉一演じるヤクザも物語のかなり早い段階で容疑者の候補から外れるから、登場人物の中で誰が怪しいのか考えれば真犯人の目星は容易につく。

 

だったら映画は観客の予想を覆して、さらにその裏をかかなければミステリーとしても失格でしょ。

 

しかも犯人の犯行の動機に1ミリも「…そうだったのか!」という意外性とか、でも思わず納得してしまうような説得力がないから、これは「ありえない話をありえない方法でむりくりまとめたポンコツ映画」としか僕には思えない。ふざけんのも大概にしてもらいたい。

 

演じている仲村トオルは、なんだかあの役をどう演じたらいいのかわかんなくて困ってるようにも見えた。それがもう露骨に演技に出ちゃってる。

 

報道番組でキャスターも務める知的なジャーナリストにはまったく見えませんでした。

 

あれはご本人の演技力のせいもあるが、役者から役柄に必要な演技を充分に引き出せなかった監督の責任も大きい。

 

藤原竜也の演技がかなりマシに見えてきたほどだもの。この映画での彼は、いつものように喚き散らしたり大仰な芝居をあまりせずに抑え目な演技をしていたので。

 

朝の連ドラ「ひよっこ」では優しい綿引巡査を演じている竜星涼が絵に描いたようにキレやすい若手刑事を演じてて新鮮だったけど(チンピラみたいな演技が安さ爆発だったが)、本筋にはほとんど絡まない。

 

狂言回しのように神出鬼没な鉄砲玉役で出ている早乙女太一は、ピアスだらけでいかにも「悪そう」な顔して睨みを利かせる。…あの演技もないなぁ。

 

みんな一所懸命作ったんだろうことは想像できますよ。『64』がそうだったように。

 

だけど、ならどうしてこんなにシナリオが杜撰で演出も残念なんでしょうか。

 

90年代から現在にかけて現実に起こった災害や事件をあえてフィクションの中に取り込むのなら、連続猟奇殺人事件を扱ったサスペンス・ドラマと見せかけて、そこから“今”の日本人の精神史にまで及ぶようなもっと深いヒューマン・ドラマにできたはず。

 

そのようなテーマが手に余るなら、最初からそんな重い題材を用いなければいい。

 

とにかく、これは「現実」を生きる人間の尊厳を安っぽい刑事ドラマに貶めた、きわめて無思慮で軽率な映画だと思います。

 

今年の上半期のマイ・ワースト1はすでに確定しているので、ワースト2を進呈いたしましょうかね。まぁ、実質ワースト1だと思っていただいて結構ですが。*

 

※結局、ビリから2番目は別の作品になりました。

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