瀬々敬久監督、佐藤浩市、夏川結衣、瑛太、永瀬正敏、綾野剛、榮倉奈々、窪田正孝、坂口健太郎、吉岡秀隆、滝藤賢一、仲村トオル、三浦友和、奥田瑛二ほか出演の『64-ロクヨン- 前編』。
原作は横山秀夫の小説。
昭和64年(1989年)、まだ雪の残る一月、7歳の少女が誘拐されて身代金の受け渡しの5日後に遺体で発見される。わずか7日間で元号が変わった昭和の最後の年にちなんで、事件は「64(ロクヨン)」という符丁で呼ばれた。犯人が捕まらず事件は未解決のまま時は流れ、平成14年(2002年)にあと1年で時効を迎えようとしていた。「64」の捜査にかかわり現在は広報官の三上(佐藤浩市)は、被害者の父親・雨宮(永瀬正敏)と再会する。やがて「64」には隠された事実があることが判明する。
評判がよろしいようで。
ここんとこ邦画を何本か観てて、ちまたでの評判の良さからこれも気にはなっていたのですが、『ちはやふる』に続いて前後篇ということもあって正直観る気はなかった。
最近目につくようになってきたこの二部作公開という形態が僕は嫌いで。予算の確保のためとかいろいろ事情があるらしいのは知ってますが、とにかく本来1本分の作品を2つに分けて2本分の料金を取られるのがうっとーしいし、映画と映画の間でいったん話が途切れるので単純に内容に集中しづらいから。
連続TVドラマなどを観慣れている人は平気かもしれないけど、僕はこれはまともな映画の公開の仕方ではないと思う。なんかまるでTVが普及する以前に先祖返りでもしてるみたいですが、だったら料金も割安にしてもらいたい。正規の金額で観るのがバカバカしくてしかたがない。
でもたまたま友人と映画館に行くことになって、開始時間が合ったのがこれだったので。
で、観終わって、友人も他の皆さんのように「見応えがあった。面白かった」と言ってました。
実際、まわりですでに観た人たちは褒めてます。
公開前に主演の佐藤浩市さんが「映画」というものへの熱い想いを語っていて、その言葉からは彼の映画へのこだわりが感じられたし、日本映画界の現状に対するさまざまな不満も伝わってきたので、佐藤さんをはじめ作り手が「映画とはこういうものなんじゃないか」と提示してきたものがどんな作品なのか素朴に興味はあった。
でもゴメンナサイ、僕はこの映画についてはかなり批判的に観てしまいました。
いろいろ腑に落ちなかったり不満に感じられる部分が多くて。
まぁ、最大の不満は先ほど述べた二部作にした、ということ自体なんですが。
だって「え、ここで終わる?」ってとこで終わっちゃうから。
これが「前編」でさらに続きがあることはわかってて観てはいるんだけど、でも2時間結構しんどい思いして観続けてきて、この「引き」はいくらなんでもちょっとどうかと。
連続TVドラマならいいですよ、来週続きが観られるんだから。でもこれは映画。1本の映画としてはあまりに不完全な代物と言わざるを得ない。
『ちはやふる』同様に後編を観終わってから感想書こうかとも思いましたが、後編観る頃には前編の内容を忘れてる可能性が高いんで、非常にモヤモヤしながら現時点での感想を述べていきます。
原作はまったく読んでいません。昨年放映されたというピエール瀧主演のTVドラマ版も観ていない。ですからそれらとの違いなどについてはわからないので、映画についてだけ書きます。
ストーリーについてのネタバレがありますので、未見のかたはご注意ください。
まず最初に白状しますと、僕はもともと鑑賞直前まで観るつもりがなかったから、劇場予告を観た以外は事前にこの映画や原作小説についての知識はまったくなくて、でも「わずか7日間しかなかった“昭和64年”に起こった事件」についての話、ということで、てっきり「実話を基にしたノンフィクション」だと思い込んでいたのです。
ちょうどポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』みたいな。
昭和64年当時にそんな事件があったという記憶はなかったけれど、だって天皇の崩御のこととか出てきたりしていかにも本当にあった事件みたいじゃないですか。
僕は別に右寄りの人とかでは全然ないけど、でも昭和天皇の崩御をフィクションの中に取り込む、ということがあり得るというのをそもそも思いつきもしなかったので、まさかこれが完全な創作だとは気づかずに途中まで「事実」だと信じ込んだまま映画を観続けていたのです(モデルになったらしい実際の事件はあるが、もちろん昭和64年に起こったのではない)。
あとで知人から「原作は結構有名なんだから、それぐらい知っといた方がいい」と言われましたが。いえ、全然興味なかったから。
歴史を回顧するヴァラエティ番組とかならともかく、フィクションの中で元号が昭和から平成に変わったことがすでに「歴史上の出来事」のように扱われたことが地味にショックだった。27年前とはいえ、おっさんにとっては1989年はそこまで大昔じゃないので。
まぁ、ノンフィクションだと思い込んだのは僕の勝手な勘違いだから作品のせいじゃないけど、だとしたら一体この映画は何を描いていたのだろう。
「事実を基にしている」という一点で興味をそそられていたのが、そうじゃなかったことがわかった途端に「じゃあ、俺は2時間も何を見せられていたんだ?」という疑問や苛立ちに変わってきた。
俺は金払ってわざわざストレス溜めにきたんじゃねぇぞ。
硬直した組織の中で家庭でも問題を抱えた主人公がいろいろと板ばさみになる話?一応推理モノの範疇に入るんだろうけど、要するに“ヒューマン・ドラマ”って奴ですかね。
それにしちゃ映画全体からずいぶんと“いにしえ”の香りが漂っていたが。
1989年といえばバブルの頃だし、2002年なんてついこの前ですよ。みんなすでにケータイ使ってたし。
僕は警察のことは何もわかんないので「いや、あれは正確な描写だから」と言われれば「あぁ、そうなんですか」と答えるしかないんですが、たとえば瑛太演じる秋川たち記者クラブの面々の描写の古臭さ。まるで学生運動の時代の若者みたいだ。
抗議文を持って警務部に押し寄せて、三上と揉み合いになってはずみで持ってた抗議文が破られると「あぁ~!?」と激高するとことか、中学生か?って。
Wikipediaの「報道協定」の項を見ると、『ロクヨン』が参考にしたと思しき実際に1950~60年代に起きた誘拐殺人事件について書かれている。
だからこの作品で記者クラブの連中の描写が古めかしいのは意図的なものなのかもしれない。
だけど、だったら舞台を60年代にでもすればいいのにね。
まず「昭和64年」ありきで物語が作られているから、時代を最近にせざるを得なかったんでしょう。
少なくとも『前編』を観た限りでは、僕には事件が起こったのが「昭和64年」でなければならない(物語的な)必然性が感じられなかった。
そして警察についての知識のない僕にとって、この県警内での描写は腑に落ちないどころか意味不明で不可解で不愉快極まりなかった。
警察のキャリアたちの不遜で無理解な言動、そして記者クラブの奴らの横柄な態度。
県警ってあんなんなの?
記者クラブの連中は妊婦が起こした自動車事故で彼女の本名が発表されないことをしつこく追及するけど、なんで彼らがあんなに加害者の本名にこだわるのか理解できない。
もっと凶悪な犯罪ならともかく、動揺している妊婦の身体のことを考えて本名の発表を控える、というのがなぜそんなに許せないのか。
そして、そんな記者たちを説得するために三上がやったことといえば、被害者の老人の素性を彼らに語ることだった。
僕はあんなにもったいぶって語りだすからには実は被害者の方にも何か事故の原因になるような事情があったんだろうと思っていたんだけど、なんと三上が語ったその内容は、そのおじいさんは妻を愛しお酒飲むのが唯一の楽しみのとってもいい人だった、という、「…だからなんなんだ?」と胸ぐらを掴みたくなるようなものだった。
なのに、それを聴いていた記者たちは黙ってなんだか納得したような素振りを見せる。一番イキってた秋川なんかちょっとほだされて神妙な顔してるし。
…えっ?ですよ。意味がわからない。
お前ら、加害者の名前を教えろ!って喚いてたんだよね?それが被害者の紹介されただけでなんで納得してんの?
…どうもあれは、記者たちは事故そのものについてよりも「実名報道」にこだわっていて、だからなんとしてでも警察から加害者の実名を聞きだそうとしていた、ということのようで。
だから被害者も加害者も生きた人間で、いろんな事情もあるんだから(この場合は加害者がお偉いさんの娘)察してくれよ、ってことを三上は訴えていた、ということらしいんですが…。
わかりづれぇ…。
僕の頭が悪いせいなんでしょうが、この映画の登場人物たちのやりとりってこんなんばっかで、普通に観てると「こいつはなんでこんなこと言うのか」「こいつはなんでこんなことするのか」わかんなくていちいち混乱する。
登場人物の誰一人として共感できるキャラクターがおらず、だからといって客観的に観ていて楽しい話でもないので疲労感ばかり溜まっていくのだ。
とにかくですね、話がややこしすぎるんだよ。
物語の主軸は昭和64年に起こった誘拐殺人事件なんだけど、それに警察の事情やら主人公の家庭の事情やらがどんどん乗っかってくるんで、物凄くわかりづらくなっている。
三上は仕事やら何やらすべてのことに自分の個人的な家庭の問題をダブらせて行動するので、行く先々でいろいろやらかす。でも映画ではそれを何か「いい話」みたく描くもんだから観ててイライラしっぱなしだった。
この人は年頃の娘が彼に反抗して家を出て行方知れずになっていて、だから幼い娘を誘拐、殺害された被害者の遺族にいちいちそれを重ねるのだ。先ほどの妊婦の事故の件もそう。
それぞれまったく関係のないことが三上の頭の中では混線している。
「64」事件で信じられないような大ポカ(犯人の声を録音し損ねた)をやらかして上司に叱責されて鬱になって14年間引きこもってる元科捜研の男・日吉についても、三上は自分の娘と重ねて彼のことを心配する。
…って、異動したからとはいえ、14年間もその事実を知らなかったことの方が問題だと思うのだが。
僕はこの映画をノンフィクションだと信じて観ていた、と書きましたが、さすがにこのあたりから「おいおい、そんなわけないだろ」と思い始めた。
ノンフィクションなら事件と主人公の事情が直接絡みすぎだし、フィクションとしてはストーリーが煩雑で余計な要素が多すぎる。
この映画を褒めてる人たちは「長篇の原作を巧く脚色している」と評してますが、スイマセンが「どこが?」と。
原作のこと何も知らずに予備知識なしで観た俺が意味がわかんなかったりイラつかされたりするってことは、シナリオが巧くないってことではないのか。
繰り返しますが、原作は読んでないので原作については何も言いません。
でも、僕はこの作品はやっぱり長篇ドラマ向きだと思う。
それこそTVドラマで何話かに分けて描くのが一番で、それを1本ないしは2本程度の映画でまとめようとしたら、そりゃわかりづらくもなるでしょう。
映画では三上の娘がなんであれほど父親を嫌っているのかまったくわからないんだけど、原作のあらすじを読んでみると、どうやら原作の三上は佐藤浩市よりももっとゴツくて不細工なおっさんという設定で、だから娘はその父親の顔に似た自分を悲観して整形手術を望んだ、ということらしい。
だからTVドラマ版の主演はピエールだったんですなw で、映画版で主演が男前の佐藤浩市になった時点でそういう設定は変わらざるを得ないし、娘が父親を憎む理由は他にもいろいろあるだろうからそれは致し方ないと思うんですが、反抗的な娘を佐藤浩市が暴力的に抑えつけようとするのがまず説得力がないんですよ。
これがピエール瀧ならありえると思いますが^_^;
佐藤浩市が演じている三上はそんな口よりも先に手が出そうな粗野な男ではなくて、もっと理知的な人物に見えるのです。彼なら娘がどうして自分に当たるのか親子でじっくり話しあおうとするだろう。
フィクションだからとか関係なく、そのあたりですでにリアリティがない。
広報室の部下たちとのやりとりを見ていても、佐藤浩市は動物的、感覚的に、周囲を無視してでも強引に行動する人間には見えないんだよね。なのにそういう人物を演じさせられているからすごく違和感がある。
部下たちがやたらと上司である三上に意見するのが気になったんだけど、あれも三上は問題行動の多い上司、という「設定」だからなんですね。
でもそれは映画を観ていてもわからなかった。佐藤浩市は真面目でちゃんとしてるように見えるから。
娘のことを反省したからといって、あんなふうに同じ人間が以前とガラッとものの考え方や行動を変えられるわけがない。人間はそう簡単に変われない。
映画の中で三上が上司や記者たちなどまわりに対していきなり居丈高になったと思ったら急に弱腰になったり、性格や態度がコロコロ変わるんでその一貫性のなさに辟易したんですが、結局それは「設定」と役者の演技に齟齬があったからではないだろうか。
彼が被害者の遺族の前でいきなり泣きだしたり警察で怒りにまかせてテレビを破壊したりすると、涙もろいからとか熱血漢だからというんではなくて、単なる情緒不安定なアブないおっさんにしか見えないのだ。
強面で大男のピエール瀧が急に泣きだしたらそこには理屈を超えたエモーショナルなものを感じるかもしれないが、普通に考えれば現役の警察関係者が娘を殺された被害者の前でいきなり泣きだして言葉が出なくなるなんてありえないでしょう。そんな警察官イヤだよ。
これは佐藤さんが演技がヘタなのではなく、演出する側が佐藤浩市という俳優のイメージに合わせてシナリオを変更することができなかったからなんじゃないだろうか。
彼が主演なら、思い切って原作を(って、僕は読んでないが)大胆にアレンジする必要があったのでは。
そしてただ原作を刈り込んでダイジェストにするのではなくて、映像にしたら不自然な部分は全面的に変更していくべきだったと思う。
先ほど書いたように、記者クラブの描写はどうも2002年や1989年よりももっとずっと昔に実際にあった事件の時のことを参考にしてるようなんですよね。
それで当時を知ってる僕たちの目にはやけに時代遅れで不自然に映ってしまったのだ。
父親と娘の関係とか「引きこもり」についても、すべてが図式的で古臭い。とても原作が2000年代に書かれた小説とは思えないぐらいに。
だから三上や窪田正孝演じる引きこもりの日吉の苦悩がとってつけたようにしか見えない。
これだって今の世の中のことをちゃんと把握してシナリオに盛り込んでいたら、もっと共感できる話にできたはず。
あとですね、吉岡秀隆はもういい年なんだから『ALWAYS 三丁目の夕日』の時みたいなフニャフニャした喋り方はそろそろやめたらどうでしょうか。
とても子連れの父親に見えないんだよ。いつまで万年青年続ける気なんだ。あんたもうちょっとで五十路だろ?
この人が演じる元科捜研の男・幸田は今ではスーパーの駐車場係をやってるんだけど、そこに哀愁や悲壮感を感じさせないといけないのに、彼がまるで学生みたいだからちっとも哀れに見えないのだ。
出演者に説得力がないとすべてがガタガタと崩れて、いくら主演俳優が作品について熱く語ったって映画はただの絵空事になる。
この映画にはちゃんとした「大人」がほとんど出てこない。いや、年齢的には大人の俳優は何人も出てますが、誰一人として「あぁ、この人を見ていれば安心」というような大人が出てこないのだ。全員どこか未熟だったり頼りなかったり身勝手だったりする。うんざりだ。
何かといえばバカの一つ覚えみたいに大声張り上げて怒鳴ってるだけだし。そういうのを“熱演”とは呼ばない。
刑事モノとか警察モノって、その“リアリティ・ライン”の範囲がものすごく広くて、それこそ「太陽にほえろ!」や『ダイ・ハード』みたいな空想科学デカからきわめて事実に近い実録モノまでヴァラエティに富んでるけど、最初の方で書いたように僕はこの『64 -ロクヨン-』を途中までは限りなくノンフィクションに近い作品だと思って観ていたのです。
でもさすがにツッコミどころが多すぎて「あ、これフィクション?」と気づいたんだけど、1本の作品の中で“リアリティ・ライン”の変動が激しすぎたんで、事実を基にしたリアルな再現ドラマを観ていたつもりが最後の模倣犯の出現で急に「劇場版 踊る大捜査線」になっちゃった、みたいなガッカリ感が。
だったらこんな地味で陰々滅々とした話じゃなくて最初からカーチェイスでもやればいいのに。
後編ではきっと佐藤浩市が「犯人は、まだ昭和にいる。」とかキメ台詞言うんでしょ?「事件は会議室で起きてるんじゃない」みたいに。知らないけど。
すごくTVドラマっぽいっスよね、悪い意味で。2時間刑事ドラマみたい。監督が瀬々敬久だからってのもあるのかもしれないが、ちょっとピンク映画っぽくもある。安いのだ。エロ要素は皆無だけど。
署内の部屋の中でしょっちゅう大声で叫んだりして、外の連中に筒抜けじゃないか。アーケード街で署長に掴みかかってこれまた人に聞かれたらヤバいことを大声でベラベラと喋ったりしてて、ありえないことだらけなんだよ。
小田和正の主題歌もいかにもTVドラマっぽいし。だったらTVドラマでいいじゃん、なんでわざわざ映画化したんだ、と。
そのわりには出演者が豪華すぎるんだけど(TBSの力ですね)、ワンシーンの顔出しみたいな出演も多いから、有名俳優陣の無駄遣い、という感は否めない。
榮倉奈々演じる三上の部下・美雲が、「ズルいです」とか言ってボスを労ったりするシーンが人情モノっぽかったりするのかなぁ。
昭和だなぁ、って。
榮倉奈々もこの映画の中ではイマイチどんな役割を果たしてるのかわからない。
この映画こそがまだ昭和にいるんじゃないのか。
後編の予告が長すぎて参った。
ほとんどTVのしつこい番宣と同じノリで、どんだけ煽るんだよ、と。
あんなテロップ入りで次回作の宣伝する映画初めて観たよ。
今まで観た中でも最低ランクの予告だった。
あれももしかしたら昭和の時代の映画の宣伝を模したのかもしれませんが。
多くの人たちの賞賛の声に反してはっきりディスってますけど、唯一、いいなぁ、と思ったのが、滝藤賢一演じる警務部長の赤間。
三上にも基本敬語を使ってるんだけど、いきなり「…あなたがやりなさい」と命令口調になる。「やってほしい」でも「やってくれないか」でもなく、「やりなさい」。挙げ句の果てには「早くやれよウスノロ」と捨て台詞。滝藤さんのちょっとハスキーな声がまた役柄によく合ってる。
警察のキャリアに限らず、ああいう物言いをする人間ってどこにでもいますからね。
そういうリアリティが滝藤さんの演技にはあった。お見事でした。続篇で死ねばいいのに。
友人と久しぶりに映画を観られたのはよかったし続きが気になるから後編も観ようと思いますが、今後はこういう二部作興行はマジでやめてほしいです。
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