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さて、本年は2020年と言う事で、形式・系列が「20」にちなんだ国鉄形保存車をご紹介したいと思いますが、再掲の画像が多くなる事をお許しください。また、実車解説ばかりとなった内容なので、興味の無い方はスルーしていただいても構いません。

まずはB20形。
1号機が北海道 岩見沢市に、そしてこの10号機が京都鉄道博物館に保存されています。
京都鉄道博物館のB20 10号機。
国鉄機とは思えない小形機です。
昭和19年(1944年)から製造が始まり、立山重工の産業用機関車を貨車入れ換え用として設計されたものを国鉄で採用したもので、B形で自重20トンなのでB20形と言う形式がそのまま採用されました。
飽和式ボイラーと、空気制動も無い割り切った設計で、いかにも戦時を乗り切れば良い。というのが伝わってきます。
空気制動や貫通ブレーキすら持たないので、本線運転は不可能です。
戦後になると本来の貨車入れ換え用として使用されたのはわずかで、特殊な構造が災いして早い時期に廃車、譲渡が進みましたが、現在保存されている1号機とこの10号機は機関区での無火機関車の入れ換えや石炭用貨車の入れ換え等で1970年代初頭まで残っていたため、機関区のマスコット的存在でしたので保存される事になりました。
京都鉄道博物館の扇形庫の中に形式無しのナンバープレートを付けた煙室扉が展示されていました。
なお現在、1号機は北海道 岩見沢市 万字線鉄道公園にて保存中です。


続いての形式「20」は…
やっぱり20系客車でしょう😊
福岡市 貝塚公園のナハネフ22 1007。
こちらは形式「20」ではありませんが、20系客車の顔として欠かせない車であります。
しかし、ナハネフ22形は20系登場時には存在しなかった比較的後年(昭和39年)から製造された形式です。

20系客車は言わずと知れた元祖「ブルートレイン」で、電源車を連結して全車冷暖房完備、食堂車も電気コンロ採用、空気バネ台車による乗り心地の改善などを盛り込んだ当時としては画期的な客車として華々しく昭和33年(1958年)に、豪華な車内設備で「動くホテル」とも呼ばれ、東京~博多「あさかぜ」でデビューしました。
20系客車の基幹形式のナハネ20形。
これは天竜浜名湖鉄道 天竜二俣駅近くに保存のナハネ20 347。
保存会の方々の地道な修復活動が続いています。
なお、20系客車は14系先行量産車の登場1年前の昭和45年(1970年)まで新製されています。
なお、詳しく調べていないのですが、347は恐らく最終ロットで製造された車です
天竜二俣駅にはこの車も含め、キロ80形等が何故か国鉄末期に集められましたが、現在残っているのは後述するキハ20 443とこの車だけです。

もう1つの形式「20」、京都鉄道博物館のナシ20 24。
20系客車の食堂車で、現存唯一の保存車。
大阪 交通科学館の保存を経て、この場所に移設されました。
交通科学館時代から食堂として利用されていましたが、京都鉄道博物館でも引き続き利用されています。
しかし、両側ともにプラットホームに囲まれ、下回りが全く見えない保存形態には閉口しました。

北海道と四国を除く全国の特急列車で華々しい活躍を続けていた20系客車ですが、昭和40年代後半に入ると老朽化が進んだ事もあり、後継の14系、24系に取って代わられるようになって、昭和52年(1977年)には東京口から、昭和55年(1980年)には「あけぼの」を最後に定期特急列車からは姿を消しました。
三重県 関ロッジで利用されていたナハネ20 2237。
この車は前述のナハネフ22 1007と同様の12系との併結改造車です。

特急列車からは撤退したものの、更に老朽化していた10系寝台車の置き換え用に急行列車への転用が昭和50年(1975年)頃から始まるようになり、2種類の方法で転用される事になりました。
一つは20系の特徴である「固定編成」のまま急行列車に転用する方法です。
しかし、20系客車は昭和43年(1968年)のダイヤ改正(いわゆる ヨンサントオ)から高速化に伴うブレーキの改良工事が行われていて、牽引する機関車から元空気ダメ管の引通を必須としていましたが、急行列車の場合にはそのような機関車の限定をするのは非効率となりますので、電源車カニ21形の荷物室に大形コンプレッサを搭載して編成に供給する方法が取られました。(この改造によりカヤ21形に改称)
まずは寝台専用急行列車の「銀河」や「天の川」に転用されましたが、当時の急行列車には座席車が必須でしたのでこの方法だと座席車は組み込めません。しかも座席車は新製の形式がこの当時にはもうありませんでしたので、ナロネ21形を座席車化改造したナハ21形を組み込んだ列車が登場し、「津軽」、「十和田」、「だいせん」に投入されましたが、「津軽」は座席車の利用客が圧倒的に多かったため、早々に14系座席車に置き換えられてしまいました。

もう1つの方法が、12系客車との併結でした。
しかし、20系と12系では電源電圧の違い(20系は三相交流600V、12系は三相交流440V)と20系は手動ドア、12系は自動ドアなどの差違があるために改造されたのが、ナハネ20・ナハネフ22・23の1000番台、ナハネ20 2000番台です。
ナハネ20 1000番台を12系との併結車として、昇圧用トランスを搭載し、ジャンパ栓の交換、貫通路の高さ変更、ホロの交換等の改造を行い、ナハネフには自動ドアの操作スイッチ取り付け、全車共通の改造として、ドアの自動化、ドア横のサボ受け設置、寝台表示窓の埋め込み等が行われました。
ナハネの2000番台車はナハネ1000番台とナハネフ1000番台の中間に組み込まれる車両です。
これらの改造車の改番は元番号+1000または+2000で行われました。
これらの改造車は寝台車の需要の比較的少ない列車、「ちくま」、「さんべ5・6号」、「かいもん」、「日南」で使用されました。
この2237は20系客車としては最後の2015年まで宿泊施設として利用されていた車。

急行用格下げ改造車の内、12系併結改造車の車番はペンキ書きになりました。
また、形式の前の▲マークは汚物処理装置などの取り付けにより、実は重量オーバーが発覚し(ナ級で収まるはずが、実はオ級だった)、特例として▲マークで対応する事になりました。
国鉄最後のダイヤ改正、昭和61年11月には定期運用が終了、民営化時には波動用として、東日本と西日本に引き継がれた車両もありましたが、1997年にさよなら運転が行われて、線路上の活躍は幕を閉じました。
また、20系客車初期車の廃車の時期が国鉄蒸機の廃止の時期と重なった事もあり、各地で設置された「SLホテル」の客車として結構な数が利用されましたが、ブームが過ぎると廃業や老朽化による解体が相次ぎ、現在での20系客車の残存数も数えるばかりとなってしまいました。
最大14形式もの形式数を数えた20系客車ですが、今でも6形式が残存しています。
今年は全てを網羅したいですね😉
ちょっと無理だろうなぁ…😅

さて次はキハ「20」形です。
キハ20形は昭和32年(1957年)から製造が始まった一般形気動車で、10系客車で確立したセミモノコック構造を採用し、非力なDMH17系でも車体断面を大形化して客車や電車並みの居住性を達成したキハ55系の成功を受け、一般形気動車にもこの技術を取り入れたのがキハ20系になります。
碓氷峠鉄道文化むらで保存のキハ20 467。
キハ20形はこの系列の基幹形式で、両運転台にトイレ付の車体構造を持っています。
当初製造された0番台はバス窓の車体に台車も10系気動車と同様のDT19系列の台車を装備して製造されましたが、昭和33年(1958年)から製造された200番台からは台車はDT22系列に、車体も二段上昇窓に変更されました。
この467は最後には高崎運転所に配置され、足尾線の3セク化まで活躍しました。
また、この車では無いとは思いますが、八高線でも使用されていたのを八王子駅で撮影した事があります。

天竜二俣駅近くでナハネ20 347と連結されて保存されているキハ20 443。
驚く事に、この車は新製から廃車までを二俣線(現 天竜浜名湖鉄道)で一生を過ごしたそうです。

真岡鐵道 真岡駅 SLキューロク館に保存のキハ20 247。
余談ながら、キハ20形は「キハ20系」の基幹形式。とは言いますが、国鉄部内では特急形以外の気動車を「系」で呼ぶ事は無かったそうで、ファンの間や趣味誌などで便宜上、「系」と呼ぶようになったと思われます。
その定義付けは言葉にするのは難しいかも知れません…

キハ20形は408両が製造され、北海道を除く全国のローカル線を中心に活躍し、私鉄にも同形車が登場するようにもなりました。
民営化時にはJR北海道と東海を除く旅客4社に継承され、JR線上では1993年まで使用されました。
また、私鉄に譲渡された車もあり、その中でも ひたちなか海浜鉄道のキハ205は車籍を有しており、イベント時などで現在も運転されています。
国鉄・JR車のキハ20形の保存車は上記3両を含めて6両あります。(この他に0番台のカットモデルが1両あります)

さて最後になりましたが、「こだま」形「20」系電車です。
川崎重工業兵庫工場にて美しく「復原」され、保存されているクハ26001。

20系電車と言われても??な方々が多いとは思いますが、この「こだま」形電車はデビュー当時は20系と言う系列でした。
当時の旧形国電の空き番号の「20」番台を使用したため、20系電車と呼ばれました。
この電車がデビューした昭和33年(1958年)当時には101系以降のいわゆる「新性能」電車と言う位置付けは無く、空き番号に形式を当てていく方法が採られました。
101系はモハ90形、153系は91系、155系は82系と呼ばれ、その中の形式も当時の電車形式呼称に則り呼称されました。
例えば…
101系は
Mcはモハ90500奇数車
(のちのクモハ101)
Mc´はモハ90500偶数車
(クモハ100)
Mはモハ90000奇数車
(モハ101)
M´はモハ90000偶数車
(モハ100)
Tはサハ98000奇数車
(サハ101)
T´はサハ98000偶数車
(サハ101。101系は全電動車編成として計画され、サハも電装準備をしていたため、奇数車、偶数車が存在した)
153系は
Mはモハ91000奇数車
(モハ153)
M´はモハ91000偶数車
(モハ152)
Tsはサロ95形
(サロ153)
Tcはクハ96形
(クハ153)
とまぁ、かなりややこしい感じでした。
このモハ20系も
Mはモハ20形
(モハ151)
Mb´がモハシ21形
(モハシ150)
Tsがサロ25
(サロ151)
Tcがクハ26
(クハ151)
と呼ばれていました。
昭和34年(1959年)に車両称号規定の変更により、これから増えるであろう新性能電車は三桁の数字を組み合わせる称号となり、151系へと変更されました。
産まれ故郷でまさに「復原」されたクハ26001。
製造メーカーの心意気すら感じます。
この20系電車は昭和33年(1958年)にモハ90形のメカニズムを応用し、空気バネ台車に冷暖房完備、電車初となる食堂車(半室ビュフェ)など当時最新の技術をフル活用した特急形電車で、東京~大阪を所要時間6時間30分で走るビジネス特急「こだま」としてデビューし、当時客車列車だったつばめ」、「はと」の7時間30分を大きく上回り、不可能だった東京~大阪の日帰りを可能にしました。
誕生時から車両称号規定の改定が予定されていたので、20系電車の形式車号はプレートを取り付けて取り外せるような構造になっていました。
そこまで再現されているのには恐れ入りました。
デビュー当時の編成は
Tc M MB´ Ts+Ts MB´ M Tc
でTsを境に4両が背中合わせに連結された8両編成で、Ts車には簡易運転台が取り付けられ、4両単位での方向転換も可能な構造で、8両編成3本が製造されました。
その後、昭和35年(1960年)には「つばめ」、「はと」もパーラーカーを連結した12両編成となった151系に置き換えられ、「こだま」も共通の編成に組み換えられました。
更に「つばめ」の広島延長運転が昭和37年(1962年)から始まり、瀬野~八本松の急勾配は出力不足のため、補機を連結して運転されていました。

川崎重工業兵庫工場では後継車とも言える0系新幹線21形と並んで保存されています。

東海道本線では花形として活躍した151系でしたが、東海道新幹線開業の昭和39年(1964年)には山陽本線特急へ転身するも、東海道本線より旅客需要は少なく、豪華編成ももて甘し気味となりました。
同時に交流区間の九州乗り入れも開始され、専用電源車サヤ420形を連結して機関車牽引で博多までの運転を行っていました。
昭和40年(1965年)からは出力補強のため、主電動機の換装などの工事が行われて、「181系」を名乗るようになりましたが、山陽本線特急の485系や581系化に置き換えられ、「とき」「あずさ」「あさま」の東日本地区への転身が計られ、そして、ついに老朽化により昭和57年(1982年)「とき」を最後に181系は引退しました。

このクハ26001は廃車後、長らく関東仕様のミニスカート、スノープロウなどを取り付けた廃車時の状態で保存されていましたが、2016年に登場時の姿に「復原」されました。

これで国鉄形「20」にまつわる形式・系列のお話を終わりにしたいと思います。
大変、拙い実車解説が長くなってしまい読者の方々には退屈されたのではないでしょうか?
そのように思われた方がいらしたら、お詫び申し上げます🙇

昨年から今年に掛けて保存車解体の暗いニュースが多くなっていますし、私事ながら、現在はなかなか保存車巡りに行けるような状況ではありませんが、これからも訪問した車両をご紹介していきたいな。と思っております。
本年もよろしくお願いいたします🙇