ものすごく個人的な教育論。その3 | 救魂録

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カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

さて、以上を踏まえて、私が受けたい教育は何かと言うと。

 

 

ひとつめ。

 

家庭問題に関していえば、

「大きな家庭」みたいなコミュニティがいつも身近にあればいいんじゃないか。

 

毒親がいて、その家庭で十代は出られず我慢しなきゃいけないというのは、今の制度ではどうしようもないけれど、

そういう家での辛いことをみんなで分かち合ったり支えあったり共感して励まし合えるコミュニティは必要。

 

暴走族とか不良グループとか、夜中街を徘徊している少年少女なんかも、結局は居場所がないんだよな。

引きこもるか、不良になるか、

現代では、ネット依存症。

 

いずれも不健全な帰属の欲求をみたすための手段。

人間はどうしても知識や知恵とか力やお金だけでは生きていけない。

「帰属の欲求」というものはよほどの人でない限りある。

 

まずは、学校が規則規律だけの場所でなく、あたたかい帰属の場であれたらいい。

オランダでは、クラスは何でも話しあえ尊重しあえる疑似家族のような役割を果たしている。

学校のクラスでも、単に楽しいだけ、管理するだけと言うよりも、

先生と生徒同士の絆、応援しあい、助け合いみたいなものが作れたら最高なのですけれども。

障害をカミングアウトしても、排除したり邪魔者扱いしたりせず、全員が受け入れてくれて、助け合えるクラスは素晴らしい。

 

そうなれば理想なのですが、いつも楽しいクラスがあれば、一方で辛いクラスもある。

そうでない現状があるならば、選択の幅を広げることもあり。

 

そうでなければ、学校以外に帰属先を持つ。

 

教会学校や青年会の活動は自分を取り戻すきっかけになることもあるだろうし、

すごく勢いを伸ばした宗教団体がやっていたことは、地域ごとに座談会をひらき、都市化が進んで孤立しがちだった人びとを草の根レベルで相互依存の関係を作りだしたことだろうと思う。

 

私自身、家にいちゃダメだと思って、あるキリスト教組織に数年間寄せてもらったけれど、ほとんどみんな親戚かそれ以上の近い距離なので、

「辛い」はたくさんあったけれども、「死にたい」「生きている価値がない」とは思えなかった。

 

ちなみに社会学は、自殺の原因について、都市化によって個人同士の絆がバラバラになって孤立化していくことにあると明かしている。

 

イエスのやろうとしていことなんか、それこそ血縁共同体をこえた大きな家族づくりだったんじゃないか。

どこに行っても、愛を持った仲間が迎え入れてくれるよ。

みんなで分かち合ってるよ。

こういう神の国をつくろうぜっていうことをやってたんじゃないかな。

 

 

二つ目。

いじめの問題についても、「固定の席に座っていなくちゃいけない」「いつも同じクラスで固まってなくちゃいけない」っていうのがいけない。

 

「受け入れてくれるあたたかい居場所が無数にある」っていう状態を常につくりだしておくと、

嫌な奴がいても、無理に隣にずっと我慢していなきゃいけないってことはないよな。

 

私なんか、ちょっと気の合わない人がいるだけでも、すぐに顔も合わせない、コンタクトも取らないってことをしているだけで、

随分関係性はよくなった。

 

じゃあ、どういう学校が良かったか、っつたら、

嫌な奴と顔合わせ中いけないんだったら、

「今日は、集団授業出ずに、図書館か自習室か個別ブースいって自習を選択します。」って言えたら楽だし、

席なんかも固定にせずに、大学みたいに自由に座っていいことにする。

 

授業は選択制、単位制にして、

辛くて授業に出れなくても、音声を聞いて課題を提出すれば単位を認めるでもいいし。

 

個人個人が自由に自分のペースで学習できる空間をつくってもいいんじゃないかな。

 

先生の機嫌のためでも、組織のまとまりのためでもなく、学力を伸ばすためだったら、それが一番合理的だと思うわけよ。

 

 

 

三つめ。勉強。

 

「効果的に最大限の詰込みを楽しく行える勉強方法をできる」場所。

そのためには、単に教科の優れた知識の教授法も必須ですが、心理的な部分も非常に重要になってくる。

教師の声のかけ方や、人格も重要になってくる。

 

学習に関しては、もっと科学的に効果的な方法や脳の使い方が模索され、実践されてもいいでしょう。

 

「素読」みたいに、長年行われてきた伝統的な学習方法が見直されることもあるし、

漢字や英語のの書き取りみたいな不合理なやり方は別の効果的な暗記方法に取って替わられるでしょう。

 

毎回のこまめな小テストも必要です。

このテストは、点数を取るためや評価よりも、自分の足りない点を埋めるために機能するべきでしょう。

 

宿題に関しては、何が目的かを見定める必要があります。

単に課題をこなせばそれでオッケー、先生の言うことを聞く良い子なのか、

それとも、学力をアップさせるためとか、次の授業につながることなので欠かせない予習復習なのか。

 

しかし、それだけになってしまうと、予備校と何ら変わることはない。

 

 

科目等で得た知識を基に、プレゼンテーションやゼミ、討論、研究発表を行える場所や授業がもっとあってもいいと思います。

というか、私が教職課程で教わった先生はすでにそのような社会を多角的に見る参加型授業の実践をしていらっしゃいました。

 

受けたい教育を選べるということ。

ぶっちゃけて言えば、点数特化型の学習は予備校型にして、選択肢を豊富にする。

 

協働型やプロジェクト型の学習に関しては、大学のゼミみたいにしてやってもいいんじゃないかあ。

 

 

うん!

 

こういう学校だったら、私は苦しみなく通えたとは言わないけれども、少なくとも積極的に意欲的に通って学べたんじゃないかなあ。

 

そして、こういう学校で教師をやることに憧れて戻ってきたかもしれない。

 

 

続く。