中世の公会議(第1ラテラノ公会議~ヴィエンヌ公会議)
カトリック教会の公会議というと、古代の二ケア公会議やカルケドン公会議、近世のトリエント公会議、現代では第二バチカン公会議などが有名ですが、中世のいくつかの公会議については全く知らなかったので、基本的な情報を調べてまとめたことがありました。以下、その時のメモです。●第1ラテラノ公会議(1123年/教皇カリストゥス2世) この公会議においては、新しい教義宣言はまったくなされていない。 俗権の教会への介入や、聖職者の堕落、宗教的無知、聖職売買(Simonia)などの弊害を取り除き、一新するための公会議であった。これらの弊害は、後に教会史家カエサル・バロニウス(+1607)が「暗黒時代」と名づけた880~1046年間に起こったものである。 公会議はラテラノ大聖堂で行われ、300 ~500 人の司教が集まったとされる。議事録は現存しておらず、召集状や年代記の記録、公会議のカノン(規定)からその内容を知ることができるのみである。 公会議では、まず皇帝との「叙任権闘争」の決着をつけた「ヴォルムス協約」が承認され、その後教会と司祭職に関する25条のカノンが決議された。 第1条では聖職売買が禁じられ、第3条・第7条では聖職者の私通関係、「妻」との同居が禁じられている。第4条・第8条・第9条では、信徒が教会の事項(司教の職務であるもの。教会財産のことなど)を処理することを禁じている。また第10条では、結婚生活を守るため、近親結婚を禁止した。そればかりでなく、公道における強奪や放火、通貨の偽造、行使を断罪した(第15~17条)。 このような社会生活に関する規定は、すでに公会議がキリスト教世界の中心的存在であり、法廷であったことを示している。ほかにも、十字軍の兵士には部分免償が与えられること、その家族と財産は保証されるべきことなどが定められた。●第2ラテラノ公会議(1139年/教皇インノケンティウス2世) ホノリウス2世の死後、インノケンティウス2世が教皇に選ばれたが、彼を認めない枢機卿たちは、アナクレトゥス2世を選出した。彼はユダヤ系であったため、「ゲットー出身の教皇」と呼ばれた。インノケンティウス2世はフランスに逃亡したが、聖ベルナルドゥスや聖ノルヴェントゥス、フランスやイギリスの王、さらにはドイツ皇帝の支持を獲得し、正当な教皇と認められるに至った。対立教皇アナクレトゥス2世が死ぬと、教皇は公会議を召集した。これは、対立教皇によって叙階された司教を追放し、離教に終止符を打つためであった。 議事録は現存しておらず、公会議には500 人とも1000人とも言われる参加者があった。対立教皇派の破門とともに30条のカノンが採決された。一般的な倫理については、利子を取って金を貸すこと(第13条)、馬上槍試合をすることが禁じられ、新種の武器を使わないこと、年に2回の「戦いを休む日」を守ることが決められた。 聖職者については、それまでは単に非合法であるとされていた聖職者の結婚を「無効」(第7条)とし、独身を守っていない司祭のミサに出席することが禁じられた。司祭の子供を叙階することも禁止された(第21条)。また修道者は医学や法律学を研究することが禁止された(第9条)。司教選挙権については、それは司教座聖堂参事会に帰属することが確認された(第27条)。教義の面では、犯した罪の一部分しか悔い改めない誤った痛悔が批判(第22条)され、また第23条において、聖体、幼児洗礼、司祭職、婚姻の4つの秘跡を否定したブリュイのペトロスの異端が断罪された。 この公会議は、列聖式の舞台ともなった。フルダ修道院の初代院長ストゥルミが列聖された。また、この時代に最も大きな影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドがこの公会議に出席していなかったことは意外な事実である。●第3ラテラノ公会議(1179年/教皇アレキサンデル3世) 教会と俗権の問題は、1122年の「ヴォルムス協約」によって終止符を打ったはずだったが、アレキサンデル3世が教皇に選ばれると(1159年)、かねてから彼を敵視していた皇帝フリードリッヒ1世は、教皇に対抗するために対立教皇を立てた(ヴィクトール4世)。 しかし結果的に3人の対立教皇を立てた皇帝もついには譲歩し、1177年、ヴェネツィアでの講和に承諾した(「ヴェニスの和」)。教皇はこの承諾が公的に承認されることを望み、公会議を召集した。 この公会議は、参加した司教の正式の名簿が現存している最古の公会議である。名簿では291 名の司教の名が見られるが、実際はそれより多かったとされている。修道院長や、国の使節を含めれば、かなりの数(約1000人とする説あり)であったと思われる。しかし議事録は現存せず、会議の結論である27条のカノンを知ることができるだけである。 第1条には、全枢機卿の3分の2の投票を得た者のみが教皇になることができるとあり、教皇選挙(コンクラーベ)が行われるようになった。これは将来の離教、対立教皇の出現を阻止しようとしたものである。また離教者の聖職位と叙階は無効であるとされた。第3条では、司教は30歳以上でなければならないと規定された(司祭は20歳以上)。 その他にも「聖職禄の累積」の禁止、各司教座には、貧しい学生や聖職者の教育のために1人の教師を置くこと、戦争用の資材をサラセン人に供給してはならないこと、ユダヤ人やサラセン人がキリスト教徒を奴隷として所有してはならないことなどが決議された。 また南フランスに蔓延していたカタリ派 catharism(アルビ派)への破門の宣告もなされた。同時にカタリ派の信徒に宿を提供したり、交易した者も破門されることとなった。司教に従いカタリ派に対し武力行使する者には、十字軍の戦士と同じく教会の保護下に置かれると規定された。 この公会議には、ワルド派 Waldenses(ヴァルド派Valdesii/リヨンの貧者)も参加していた。彼らは自国語に翻訳した聖書の承認と平信徒の説教活動の許可を願い出た。教皇は「信仰告知」ではなく「贖罪説教」のみを許したが、結果的にはその条件は守られず、そのためすべての説教が禁止されてしまった。良い動機から生まれたヴァルド派は、次第に過激になり、異端説まで奉じ、危険な地下活動に発展していったのであった。 中世期の異端は古代のものとは違い、信仰上の誤りとしてだけでなく、教会と社会を転覆させようとする運動であると理解されていた。それゆえ首謀者は公的権力によって処刑されることになったのである。●第4ラテラノ公会議(1215年/教皇インノケンティウス3世) 教皇は、当時サラセン人の支配下に置かれていた聖地を回復するため、また教会改革を徹底するため、公会議を召集した。召集状はギリシャの司教たちにも送付された〔参考文献1によれば、コンスタンティノープル総大司教区のギリシャ司教は参加しなかった。2によれば、コンスタンティノープル総大司教は参加した、と記されている〕。404 人(412 人?)の司教、800人以上の修道院長が参加した。特筆すべきは、これまで代表を送らなかったボヘミア、ハンガリー、ポーランド、リトアニア、エストニアなどの東欧諸国の司教たちの参加があったことである。また皇帝や国王たち、ジェノバなどの都市の代表など、教会だけでなく全キリスト教世界の代表者が集結した会議であった。 公会議では70条のカノンが決議され、その大部分は教会法に編入された。また聖地奪回のための十字軍に関する決定もなされたが、この公会議の議事録そのものは残っていない。 教義の面では、第1条においてカタリ派やワルド派の謬説を反駁するための信仰宣言が表明された。神が三位一体であること、物質的な世界と霊的な世界(天使など。悪魔は天使が堕落した存在)の創造主であることが定義された。秘跡については、ミサは司祭だけが挙行できること、ミサ聖祭においてパンとぶどう酒はキリストの体、血に「全実体変化」Transsubstantio されることが決議された。 またカタリ派を意識し、結婚が良いものであることが宣言された。第2条では、シトー会の大修道院長フィオーレのヨアキムの唱えた三位一体論(独特な救済史観に基づく様態論)が異端とされ、『神学命題集』の著者ペトルス・ロンバルドゥスとの論争に終止符が打たれた。第21条には、理性を働かせることができるすべての信徒は年に一度告解の秘跡を受け、復活祭の頃に聖体拝領することが義務づけられた。この規定は、平信徒の信仰生活に関しての最初のものであり、現在も受け継がれている。 教会改革については、次のような決議がなされている。教区は3か月以上空位のままに放置されてはならない(第23条)。司教は自ら説教(信仰告知)する義務があり、それが困難な場合は、説教師と聴罪司祭を司教座聖堂に置くことができるとされた(第10条)。また第9条では、信徒が母国語で説教を聞くことができるように配慮するように勧められている。聖職者の教育水準を高めるために、各司教座聖堂には文法の教師が、首都大司教座には学識ある神学者が置かれることになった(第11条)。 また、「秘密結婚」は禁止とされ(第51条)、聖遺物崇敬や巡礼につけこむ宗教上の詐欺に対する防御措置についての規定がなされた(第62条)。政治に関係した規定には、フリードリヒ2世を神聖ローマ帝国の皇帝として承認することなどがあった。●第1リヨン公会議(1245年/教皇インノケンティウス4世) 第4ラテラノ公会議によって最高潮に達した教会の権威は、インノケンティウス3世の死後下降していく傾向にあった。政治面にまでも影響力を持ってしまった教会は、ある意味で大きな負債を背負ってしまったといえる。教会と俗権との争いは次第に表面化し、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世を破門するに至った(1228年)。その後破門は解かれたが(1230年)、シシリア問題で再度破門されたので(1239年)、フリードリヒ2世はローマに向かって軍を進めた(1241年)。計画されていたローマでの公会議は武力で阻止される結果となった。1244年、教皇インノケンティウス3世は、皇帝軍による軟禁状態から脱し、1245年、リヨンにおいて公会議を召集した。 皇帝が公会議の開催に妨害(海路の遮断、出席禁止令)を加えたこともあり、参加した司教の数は150人程度であった。しかし、議事録や年代記が現存していることもあり、会議の様子は生き生きと伝えられている。教皇は、聖職者の罪悪、エルサレムの喪失、ラテン帝国の困窮、蒙古のヨーロッパ侵入、フリードリヒ2世問題の「5つの苦悩」について語った。フリードリヒ2世は破門され、ドイツ国王、ローマ皇帝位を剥奪された。また、 22条のカノンが決議されたが、教義上の決定はなされなかった。教会法の整備(訴訟制度)についての規定のほか、聖地奪回問題、ラテン帝国への援助問題、蒙古人(タタール人)の侵入に対する防衛費についての取り決めなどがなされた。●第2リヨン公会議(1274年/教皇グレゴリウス10世) 1263年、ビザンツ帝国皇帝ミカエル・パレオログスは教皇の意向を受け入れ、ギリシャ教会の司教たちがカトリック教会に対して抱いていた偏見を一掃しようと試みた。その結果、司教たちは教皇の首位権と、唯一の教会に復帰することを認めるに至った。皇帝は政治的な理由から一致を望んだが、教皇は宗教的な動機から教会一致を願い、公会議を開催することを宣言した。 公会議の出席者は1000名を超えたとも言われるが、特筆すべきは、元コンスタンティノープル総大司教ゲルマヌス、ニケア大司教、東ローマ帝国の官房長の3名のギリシャ教会の代表者が参加したことである。また、元(蒙古)のフビライの使節も参加した。元側には、イスラム勢力(マメルク朝)に対抗するため教会と同盟を結ぼうとする意図があった。同盟は実現しなかったが、元の使節の一人はこのとき洗礼を受けたといわれる。神学者では、ボナベントゥラは会議に参加したが、時の最大の人物トマス・アクィナスは、リヨンに向かう途中、ローマ近郊の修道院で没した。 公会議のミサでは「フィリオクエ」の語を含む使徒信経がラテン語とギリシャ語で唱えられた。それだけでなく、ギリシャ教会の代表者が携えてきた3通の書簡(皇帝、皇帝の長男、ギリシャ教会の司教たちのもの)のラテン語訳が読み上げられた。それには、聖霊の発出についてカトリック教会の見解に同意すること、ローマ教皇はペトロの後継者であり、その首位権を認めることが宣言されていた。しかし、ギリシャ教会がそれまで保ってきた信経を保持することも認められたことや、皇帝の政治的意図が教会一致を推し進めていたことなどの理由で一致の基礎は弱く、和解は長続きしなかった。8年後、皇帝が他界すると再びギリシャ教会は分離していった。 また教皇選挙法「ウビ・ペリクルム」はこの公会議で採択された。これはわずかな修正を加えただけで現在でも通用している(外界との厳重な遮断。選挙が長びくと食事が減らされてゆくシステムなど)。 第4ラテラノ公会議のように政治問題の解決もなされた。ドイツ帝冠をめぐるカスティリア王とハプスブルグ家の争いについて、教皇はカスティリア王の廃位を勧告したことによって、事実上の決着をつけたのであった。●ヴィエンヌ公会議(1311~1312年/教皇クレメンス5世) 「テンプル騎士団」(神殿騎士修道会)の問題、聖地奪回、教会改革の問題を解決するために公会議が召集された。会議には約180名の司教が参加した。議事録の大部分は失われている。また、この公会議の開会式の儀式は典礼的なものであり、以後の公会議の開会式の骨組みとなるものであった。 テンプル騎士団は巡礼者を守るため、聖地の防衛を任務としていたが、イスラム教徒に聖地を奪回されてからは本来の任務を失っていた。この騎士団が非常に裕福であることに目をつけたフランス王フィリップ4世は、騎士団の財産を国有化しようと企み、この会の「堕落」を口実にテンプル騎士団の解散を主張した。この裏には、自分を破門した前教皇ボニファチウス8世を断罪する要求と騎士団の解散の要求を引き換えるという、政治的かけひきがあった。公会議ではこの問題を教皇による行政処分という形で解決することに決定した。結果的に、王の圧力によりテンプル騎士団は解散させらたが、その全財産はヨハネ騎士団に譲渡されることになった。ボニファチウス8世に対する審議は取り止めとなった。 十字軍についても討議されたが、異教徒征伐の思想は弱まり、布教活動に焦点が合わされた。哲学者ライムンドゥス・ルルスの提案により、ユダヤ人やイスラム教徒への布教のため、大学にはヘブライ語やアラビヤ語の講座を設けることが命じられた。これは、聖書解釈をよりよく行うためでもあった。しかし、人材が不足していたため、ほとんど実行に移されることはなかった。 教義の面では、フランシスコ会の「厳格主義派」の指導者ペトルス・オリヴィの教説を排斥した。その結果、理性的な霊魂は本質的に身体の形相であること、つまり霊魂は人間が生きるために必要なものであること、また洗礼においては幼児も大人に等しく成聖の恩恵とすべての注入徳を受けることなどが確認された。-----------------------------------------------------◆中世の7つの公会議の特徴 ①「教皇の公会議」であったこと。公会議は皇帝によってではなく、教皇によって召集された。②「ラテン公会議」であったこと。公会議の参加者は、わずかの例外を除き西方教会に属していた。③公会議の中心テーマが「教会改革」であったこと。教会を世俗の権力から引き離すこと、聖職者の風紀を正すこと、規定の発布により教会の規律を再興することなどであった。※補足的感想これらの公会議は、当然、現代のカトリック教会にとっても有効なものであるが、注意しなければならないことは、採択された決定、特に「規定」(カノン)のかたちで公表された教会規律に関する法規は、限定された一時代の特殊な状況において効果を持つことである。例えば、第2ラテラノ公会議の「利子を取って金を貸すこと(第13条)、馬上槍試合をすることが禁じられ、新種の武器を使わないこと、年に2回の「戦いを休む日」を守ること」などは、その当時の社会背景を前提にした取り決めである。当時は政教分離の時代ではなかったため、公会議において、政治や社会生活に関する取り決めもなされていたが、このことは現代の公会議とは大きく異なっている。 また、これら中世の公会議においては、新しい教義決定はなされておらず、教義に関する規定であっても、その当時問題となっていた異端に対する宣言のかたちでなされていた(正統教義の確認)。教義決定がなされていないことは公会議自体の評価や意義とは関係がないことがわかる。さらに、この時代、聖職者の倫理が大きな問題であったことが読み取れる。古代の公会議ではこのような問題が議題に上ることはことはなかった。教会の堕落は、教会が表面的に安定し、霊的な隙が生じたことによる淀みのようなものなのだろうか。教会改革は永遠のテーマでもあるのだろう。《参考文献》1)F・イェディン『キリスト教公会議史』エンデルレ書店、1967年2)南山大学編『歴史に輝く教会』中央出版社、1969年3)J・P・ラベル編『公会議』ドンボスコ社、1962年4)A・フランツェン『教会史提要』エンデルレ書店、1992年5)M・D・ノウルズ他『中世キリスト教の成立』講談社、1990年6)M・D・ノウルズ他『中世キリスト教の発展』講談社、1990年7)デンツィンガー『カトリック教会文書資料集』エンデルレ書店、1982年