それから、イエスは弟子たちに言われた。「……ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。(ルカ17・22~30)



この箇所をある神父様の講座で学んだことがある。天地異変に関する記述もあるので、解説者が説明に苦労する個所だと思うが、そのときの話で印象に残ったのは、ここに出てくる「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」、「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」とは、人間が神を忘れて日常を送っている様子だということだった。「食べたり、嫁いだり、買ったり、植えたり」すること自体が倫理的に問題とされているのではない。それは誰もが送っている通常の生活の一部である。しかし、ここに描かれているのは、神がいないかのように、ただこの世のことだけを中心に漫然と日常を生きていることであり、それが神の目から見れば、罪なのだということだった。
もちろん、誰でも「食べたり飲んだり」しているわけなので、日常を生きるということに専心しすぎて、み心にかなう生き方から外れてしまわないようにしなければと、そのとき思った。

数年後、別の勉強会で、以下の聖書個所が取り上げられた。

そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカ14:16~24)



その時の解説では、ここで言う「断りの理由」は、ある意味、もっともなことだということだった。畑や牛のような高価な買い物をしたら、それを調べるのは当たり前だし、新婚であれば、生活形態そのものも変わるので、いろいろと忙しくなるだろう。だから、断りの理由それ自体に何か道義的な問題があるわけではなく、ただ、宴会の招き主が誰であるかさえ忘れてしまっているような日常生活が問題なのだという指摘があった。

現代のわれわれも、現実としての日常生活に流されて、いつの間にか、ミサという主の招きに応じなくなってしまうこともあり得るだろう。漫然とした信仰感覚で日常を過ごしてしまう危険性はつねにあると思う。

 

                   

 

先日、ある有名な高齢のプロテスタント神学者のメッセージを聴いた。ご自分のこれまでの宣教活動を振り返る中で、とくに興味深かったのは、以下の話だった。

──最近は、神に対する人々の関心が薄まっている。第二次大戦中でさえ、生死の問題に直面し、その問題を解決するために教会の門を叩く人は多く、受洗した人も多数いた。しかし、今はそういうことが非常に少ない。このような状況で、伝道していくのは本当に大変だと思う──

 

確かに、人間のあり方というか、質のようなものが変化しているように感じる。我々信者であっても、その淀んだ空気に何らかの影響を受けているかもしれない。本当に自分の信仰生活を再点検しなければと、改めて思った。

 

実は、同様のことを感じている人も意外に多いようだ。ただ、それを言いにくい。共有しにくい。そんな雰囲気がある。人それぞれの人生なので、第三者がどうこう言う必要はないのかもしれないが、元来、キリストの教会には、信仰的無関心というのは、あり得なかったはずだ。しかし、今の時代感覚に従えば、誰かが信仰的に道を外れたとしても、もはや周囲の助けは期待できない、そんな時代になってしまったように思う。

しかし、自分たちを取り巻く霊的な環境がどうであろうと、福音書の教えのとおり、「いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21:36。マタイ24:42、25:13など)というみ言葉を心にとめて、自己管理をしていくしかないのかもしれない。

 

とくにコロナで変わってしまった信仰生活の感覚を元通りにしなくてはと、「待降節」を前にそんなことを考えました。