前記事で述べたように、クリス・モモセ著『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』という本は、多くの問題をはらんでいます。この本を元にした動画もyoutubeにアップされていますが、そのコメント欄で意外に多かったのが、カトリックの十戒についての反応でした。

「カソリックは九戒として、プロテスタントは十戒として認識すればよいですね」とか「十戒まで違っていたとは…」などというコメントがありました。

それはこの本の以下の記述が原因です。

「5章 カトリックの偶像崇拝
 そしてそれ〔注、カトリックが聖像を用いること〕には想像を絶するような衝撃的な答えがあるのです。カトリックは、カテキズムや公式教理から、十戒の第二戒をもみ消してしまっています! 十戒を挙げるときに、第二戒(出エジプト記20:4~6)が完全に省かれてしまっているのです。このように大それた操作をほどこすために、カトリックでは第十戒のむさぼりについての戒めを二つに分けてあたま数をそろえ、「十戒」としています。……このように第十戒を分割することはとんでもなく不当なことです」
(93頁)

 この主張に視聴者は驚き、上記のようなコメントをしたわけです。
 それでは、その「十戒」について、クリス・モモセ氏の主張が本当かどうか、検証してみたいと思います。

 ●十戒の区分
 例外はありますが、プロテスタント教会では、以下のように「十戒」を区分します。

第一戒 あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
第二戒 あなたは、自分のために刻んだ像をつくってはならない。
第三戒 あなたは、主の名をみだりにとなえてはならない。
第四戒 安息日を覚えよ。
第五戒 あなたの父とあなたの母とを敬え。
第六戒 あなたは殺してはならない。
第七戒 あなたは姦淫してはならない。
第八戒 あなたは盗んではならない。
第九戒 あなたは隣人に対し偽証をしてはならない。
第十戒 あなたは隣人の家を欲しがってはならない。

こちらのほうが広まっていることもあり、この区分に親しんでいる人も多いでしょう。

一方、カトリック教会の区分は、以下のとおりです。

第一戒 われはなんじの主なる神なり、われのほか何者をも神となすべからず。
第二戒 なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三戒 なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。
第四戒 なんじ、父母を敬うべし。
第五戒 なんじ、殺すなかれ。
第六戒 なんじ、姦淫するなかれ。
第七戒 なんじ、盗むなかれ。
第八戒 なんじ、偽証するなかれ。
第九戒 なんじ、人の妻を望むなかれ。
第十戒 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
(『カトリック要理』改訂版、文語を使用)

クリス・モモセ氏はこの違いを見て、カトリック教会は「十戒の第二戒をもみ消して」いると主張しているわけです。

 では聖書の本文はどうなのでしょうか。
「十戒」(十の言葉/戒め、申4:13、10:4など)は、申命記5:6~21出エジプト記20:2~17に伝えられています。両者には若干違いがありますが、出エジプト記を例に全文を挙げてみましょう。

出エジプト記20:2~17
2 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
13 殺してはならない。
14 姦淫してはならない。
15 盗んではならない。
16 隣人に関して偽証してはならない。
17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

このように、数としては十以上、戒めに該当しそうな箇所があるので、それらをどのように「十」に分類するのかが問題になります。見やすい表にまとめられた資料がありますので以下参照してみましょう。

『新聖書注解/旧約1』(いのちのことば社、1976年、355頁)

 

 

 ●「第二戒」はどこに?
 このように「十戒」の分類は、教派間で異なっているわけです。ここだけ見てもクリス氏の言うような「不当なこと」ではないことがわかります。また、彼らが「第二戒」だと分類する4節の偶像規定は、ユダヤ教の分類でもカトリックの分類でも3~5節のまとまりの中にあるので、「もみ消して」いるわけではなく、ヘブライ語聖書の分類に従ったまでのことでした。

 このことについて『新カトリック大事典』は以下のように説明します。

「出エジプ卜記20章や申命記5章のそれはマソラ本文ではこの順番で分離記号(へブライ文字S)によって区別されている。この分離記号は、申命記5:6~22では以下のような順序でおのおのの戒めの「後」に付されている。
「あなたには、わたしをおいてほかの神々があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない……」(5:10の後)、
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(5:11の後)、
「あなたは安息日を守らなければならない」(5:15の後)、
「あなたの父母を敬え」(5:16の後)、
「殺してはならない」(5:17の後)、
「姦淫してはならない」(5:18の後)、
「盗んではならない」(5:19の後)、
「偽証してはならない」(5:20の後)、
「あなたの隣人の妻を欲してはならない」(5:21の後)、
さらに「あなたの隣人の家を欲してはならない」(5:21の後)。

ユダヤ教のタルムードや東方教会ばかりか、アウグスティヌスならびに西方教会に後に受け入れられた数え方による一つの「十の形式」は,こうした10個の分離記号に示唆されたものであろう。」
(同事典、「十戒」)

つまり、ヘブライ語の原典にはマソラ学者による分離記号がついていて、Sの文字(サーメク)の区切りに従って、6~10節を一まとまりとして理解しているということです。

以下、実際に原文を挙げてみます。ピンク色の部分が分離記号として使われているSの文字です(蛇足ながらヘブライ語は右→左です)。

 

 

上記の例は申命記を例にしていますが、出エジプト記20章の十戒も同様で、3~5節を一まとめに区切っています(参照:https://biblehub.com/wlc/exodus/20.htm)。

ここから分かるように、カトリック教会のように申命記5章6~10節(同様に、出エジプト記20章3~5節)を一まとまりとして「第一戒」として数えることは、ユダヤ教も同じであり、プロテスタントの区分でいう「第二戒」を隠しているのではありません。「神に対する戒め」として一つにまとめて数えているわけです。

このアウグスティヌスによるとされる区分については、さらに次のように説明されます。「十のおきては、神と隣人への愛が要求することを表現しています。最初の三つは神への愛に、次の七つは隣人への愛に関するものです」(『カテキズム』613頁)。3と7に分けようとするのは、アウグスティヌスらしい感じもします。この「3は三位一体」を現しているという説明もあります(『新聖書注解/旧約1』356頁)。

ですので、カトリック教会の十戒区分に対するクリス・モモセ氏の指摘は、憶測でしかありません。
ただ、ほかでも同様の主張がされているので、彼だけを責めるわけにはいかないと思いますが。


「彼らの公教要理を読みますと、モーセの十戒中、第二戒目の「偶像を造ってはならない。拝んではならない。仕えてはならない……」(出エジプト20・4~6、申命記5・8~10)、がカットされ、第十戒目が二戒に分割されて十戒を形成しているのです。彼らはほとんど聖書を読まずに、公教要理で教えられる場合が多いのです。彼らはその公教要理の中に、偶像礼拝を禁じる公文は書けないのです」(森山諭『現代日本におけるキリスト教の異端』ニューライフ出版社、1976年、39頁)

なぜ、このような邪推がなされ、私たちの信仰が非難されるのかについては、知る由がありません。ただ、少し調べれば分かることなので、批判者たちの物事に取り組む姿勢が問題なのでしょう。さらには彼らの党派心が限度を超えているということなのかもしれません。

上記のように、カトリック教会の採用する十戒の区分は、へブライ語のマソラ本文に従いつつ、アウグスティヌスによって整理されたもので、十分な根拠のあるものです。

どちらが正しいか、ということより、その根拠を正確に知ることが大切なのではないでしょうか。


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[付記]
「カトリックは十戒を変形させている」という批判は、求道中に何かのパンフレットによって知っていました。批判者にとっては「おいしい」ポイントなのかもしれません。カトリックの門をくぐった後、聖書学者の神父様に質問したところ、「まだそんなことが言われているのか」と驚かれ、簡単な説明をしてくれました。しかし私は、まがりなりにも信仰者を名乗る人が書いたのであれば、その批判には何らかの意味があるのではないかという気持ちもあり、すっきりしなかった記憶があります。もちろん今では、熱心さのあまり自分の力の及ばないことをやってしまう人がいることは分かっています。残念なことですが。

『カトリック教会のカテキズム』606~608頁には、「神の十戒」の表が掲載され、出エジプト記と申命記とカテキズムの3つの区分が比較できるようになっています。もちろん、「公教要理の中に、偶像礼拝を禁じる公文は書けない」などということはなく、偶像事項についても説明されています(629~630頁、『カトリック要理』も同様)。

『十戒・主の祈り』(関田寛雄、日本キリスト教団出版局、1972年)には「十戒の区分」が簡潔に説明されています。これがプロテスタント教会の標準的理解だと思われます。
「十戒の区分について述べておきましょう。それは「二枚の石の板」(出エジプト記31・18、申命記9・10)に記されてあったという記事の示すとおり、内容的に二部に分かたれます。
 アウグスチヌスは最初の二条を第一戒として順次くり上げ、最後に第十戒として「あなたの隣人の妻を貪ってはならない」(申命記5・21)を付加し、一~三戒を神に対する義務と見、第四~十戒を人に対する義務と見て、3+7=10と区分いたします。これは今日のカトリック教会の区分法になりました。
 古代ユダヤ人史家ヨセフスは、出エジプト記十戒の形をそのまま受けついで、これをやはり神と人とに対する関係の規定という観点から、第一~四戒および第五~十戒、すなわち、4+6=10と区分しました。これはだいたいプロテスタント教会の区分法になりました。
 しかし中には第一~五、六~十戒、すなわち5+5=10と区分し、第5戒の「父母を敬え」を神に対する義務の中に数える人(内村鑑三など)もいますが、やはりヨセフスの区分法が内容から考えても一番適切なやり方のように思います」。
(21~22頁)

 カトリックの九戒、十戒の区切りの意味にもふれています。やはり本職は違いますね。

カトリックの立場の人でも、聖書学では、プロテスタントの区分に従う人が少なくないようです。聖書学の分野は、プロテスタントの研究者が多いので、その状況に合わせているからだと思われます。10の戒めを聖書本文から特定しても、旧約に書かれている十戒の文章を削除しているわけでも否定しているわけでも、ましてや隠しているわけでもないので、こだわる必要はないのでしょう。

『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』を元に動画を作成したyoutuberの方には、以下のコメントをお送りしました。

動画のネタ本となっている『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』について記事を書きました。お暇な時にでもご覧ください。https://ameblo.jp/catho-clb/entry-12843962155.html

また、他のコメントのどこかで「教皇の不可謬性」についてのやり取りを見かけましたが、それについての記事もあります。
「ローマ教皇の不可謬性とは」 https://ameblo.jp/catho-clb/entry-12510611036.html
よかったらどうぞ。

さらに、十戒の区分についてですが、『新聖書注解/旧約1』(いのちのことば社)の354~357頁に「十戒の区分」についての説明があります。「聖書はこの戒律を第一、第二というようには区別していない。…その結果、種々の分け方が採用されてきた」として、ユダヤ教、カトリック、正教会、ルーテル派、改革派などのそれぞれの区切り方が表にされています。問題の第2戒については、ユダヤ教とカトリックとルーテルは同じ考え方です。ご参考までに。


論争を望んでいるわけではありませんが、間違いは間違いとして情報提供をさせていただきました。