車を走らせていた時、家に近いところに空手の道場があることに気づいた。今まで気にもとめなかったが、昨年のオリンピックで話題になったので、記憶のどこかにあったのかもしれない。

 

調べてみると、常設の道場ではなく、公民館などの場所を借りて、週に1、2回、開かれているだけだが、教える人は、単なる有段者ではなくその流派の師範の資格を持つ人だった。

 

開始時間が「19時」となっているのは、会社員を対象にしているからなのかと思いきや、そうではなく、師範の先生が仕事をもたれていて、自分の仕事が終わってから道場を開いているからだとわかった。師範や指導員が会社員であったり、介護福祉士などの仕事を持ちつつ、道場運営をされていることも多いようだ。

 

そういう2足の草鞋を履いている先生方は、自分自身の稽古に関しては、朝や夜、あるいは仕事の合間の時間を見つけて行い、武道家として精進しているのだと、ある方のブログで知った。「教える立場の人間は、常に稽古をし、学び続けなければならない」という。全生涯を空手にかけているということなのだろう。

 

しかし空手だけで食べていけるのは、総本山とか、本部道場に関わる一握りの人で、多くの道場主は、自分の生活費は自分で稼ぎ、ただ武道を追求するという志で、道場を守り、精進しているようだった。

 

あまりにもかっこよすぎて、この正月は何人もの空手家のブログやHPを拝見した。

皆、空手を教えるために、自分の鍛錬のために、給与までも犠牲にして、その道を生きている──。

 

自分が、もし、カトリック信仰の普及のために、週1、2回でいいから夜、時間をとってくれ、と言われたら、そのために待遇が悪くなっても時間を作れる職種に変え、受講生のために、朝晩聖書を勉強し、閑古鳥がなきそうであっても、準備をし続けることができるだろうか。そう思うと、頭が下がった。

 

 

今の教会の状況を考えると、数年後は分からないが、近い将来、志のある信徒たちによって、秘跡をのぞく教会の宣教活動が担われる時が来るかもしれない。教会の責任ある方々も、そうなるだろうと言っている。

 

もちろん司祭から直接教えを受けた方がいいとは思うのだが、司祭不足でそれがかなわなかった場合、彼ら「在俗信徒宣教師」がその役割を引き受けるようになるだろう。そして彼らの志、生きざまを見た人は、きっとここに何かある、と感じてくれるのではないかと思う。神の霊に導かれるであろう彼らに期待できると思った。きっと光はともされる。