この本は、ICM出版というプロテスタント教会の出版部門から1999年に発行されたカトリック反駁書です(クリス・モモセ著、227頁)。

 Amazonの同書のページには以下のような紹介文があります。
──プロテスタントやカトリック指導者たちが「キリストにある兄弟姉妹」と呼び合ったり、両者の和解、できれば再統一をという声が高まる中で、多くの人は「プロテスタントとカトリックは今やキリスト教の根本的な教理に同意しているのだろうか」といぶかっています。カトリックの公式文書から200以上に及ぶ引用を盛り込み、その公式教義を聖書と比較しています。 本書は独習用にも週日の聖書研究会などのグループ学習にも用いられ、現代のような妥協の風潮の中にあっても神のみことばの真理を愛するクリスチャンにとって、大いに役立つ参考書となることでしょう。──
 
 つまりエミュメニズムを危険視する著者によると、カトリックとプロテスタントが相容れないものだと知るための資料として最適だということのようです。
 「カトリックの公式文書から200以上に及ぶ引用」がなされているということで、資料として価値があると判断した人たちが、ネット上で引用することもありました。

 20年以上前のことですが、「ヤフー掲示板」でTさんという方が投稿した時の例を挙げてみましょう(応答したのは私です)。 

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〔Tさんの引用〕
>「すべての人は救いのために教皇に対する服従が絶対必要であると宣言し、明記し、定義する。」(教皇ボニファチウス8世)「我々はカトリック教会の外に救いはないと宣言する。」(教皇レオ12世)「カトリック教会のみが独自で、聖霊の守りと導きのもとに、真理の源なのである。」(教皇ピウス12世)

〔私の応答〕
 よく調べましたね、と言いたいところですが、Tさん、もしかしたら『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』(ICM出版、クリス・モモセ著)から引用していませんか?


 これまでの議論もここから引っ張ってきた感じですね。でもこの本は、あまりお勧めできない本です。正直、かなり問題のある本だと言わざるを得ません。創価学会の『折伏教典』みたいに、相手をやり込める目的で作られた本のようです。エホバの証人の『聖書から論じる』とも似ています。もっとも、そういう精神性の問題より、内容自体が困った本だと言えます。

 この著者は、確かにデータ的には一生懸命調べていて、それはそれはご苦労な作業なのですが、そのデータの読み方を知らないのが致命的です。ファンダメンタリストの聖書に対する読み方を、そのままカトリックの公文書に当てはめてしまっています。公文書は、時代の産物ですから、それがどういう背景で書かれたのかを考慮して読まなくてはなりません(上の教皇の発言も同様)。これは『カトリック教会文書資料集』などを読むときにも鉄則です。やってはいけないミステイクです。
 
 カトリックにはカトリックの、プロテスタントにはプロテスタントの、その教義や思想なりを構築する枠組み(パラダイム)があります。著者の先生は、こういったことをまったく無視しているように思えます。これでは議論はかみ合いませんし、仮想した「カトリック教会の教え」を攻撃しているに等しくなってしまいます。もっとご自分の頭の中でシュミレーションしてから文字化するべきだったのではないでしょうか。とにかく文脈というものをまったく考えていない印象を受けました。
 

〔Tさんの文〕 
>救い・義化・赦し・煉獄・マリア・行い・告解・洗礼・償いなどの問題を今後語っていきたいと思います。
 

〔私の応答〕
 ほぼ目次通りですね。
 
 Tさんがこの本を知っていたかどうかはわかりません。もし違っていたら、すみません。けれども私としては、(忘れていた)こういう希有な本を紹介できるきっかけとなって良かったです。

 この方面に関心があって、多少、教義にうるさいカトリック信者の皆さん、ぜひ購入し「反論」にトライしてみてください。(困ったタイプの)ファンダメンタリストのカトリック批判がどのようなものかわかります。話し合いの糸口が見えてくることがあるかもしれませんが、相当イヤな気持ちになること請け合いですから、その点、責任は負えませんので悪しからず。

      
 なお、同書は銀座の教文館に置いてありました。1400円。
 注文は、ICM出版(奈良県生駒市俵口町983-2)まで。

 エキュメニカル運動(教会一致運動)というものがありますが、私はまだまだ、相互理解の段階だと思っています。
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 ヤフー掲示板への投稿は以上です。
 Tさんは、これをきっかけに、相手が何を主張しているのかを、テキトウな資料集によってではなく、相手側の文書を実際に読むことによって学ぶことに同意し、カトリックについてもそのようにしてくれました。このような人はかなり稀です。

 ネットの書き込みなどで顕著ですが、安直なカトリック批判をする人は、エホバの証人と精神性があまり変わらないので、間違いを指摘しても時間の無駄になります。「いや、教皇が言ったことは事実なんだから」と開き直る人もいるでしょう。こういう人は物事を正確に分析したり正しく解釈することには関心がなく、批判のために必要な言質さえ取ればそれで十分と思っているようなので、実りある対話になることはありません。

「クリスチャン」と自称する人が、聖書だ、キリストだ、聖霊だ、救いだと口にしているからといって、その人に知的誠実さがあるとは限りません。神からもそういった導きを受けていないのでしょう。

 何よりも、資料の扱い方以上に、基本的な立場の違いを理解できていないのは致命的な欠陥です。ボクシングの選手が空手の選手に「空手は蹴り技があるので間違っている」と言うことができないのと同じです。ルールが違うからです。そう主張したいなら、「格闘技は蹴ってはいけない」ことを証明すべきです。
 それと同じです。彼らは「聖書と聖伝」を信仰の基準にするカトリック教会を、「聖書のみ」の立場で批判する無意味さを理解する必要があるでしょう。まず「キリスト教は聖書のみでなけばいけない」理由を証明するべきです。誰がいつ決めたのでしょうか。

 ちなみに、同じプロテスタントでも、(語弊があるかもしれませんが)きちんとした大学の神学部で学んだ牧師さんたちは、カトリックに親近感を感じていなくてもこの本のレベルの批判を言ったり書いたりはしません(日本人の場合)。彼らは当然、そんなことは理解していますし、水掛け論になることも分かっているので、神の言葉を語り、教会を牧する人間としてその品性を大事にしているわけです。エキュメニカルな場面でも両者の違いを承知した上で対話をしているのであって、「妥協」しているのではありません。

 最近、福音派と思われる若い牧師さんがYouTubeでカトリックを論じる動画をアップしていました。まさかネタ本が『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』ではないだろうなと思ってクリックしてみたところ、危惧した通りでした。多分、この本の仕掛けに気づかずに取り上げているのだろうと思われます。

 20世紀に出版された古い本にもかかわわらず、未だに影響力をもってしまっているようですが、カトリック教会に対する偏見が助長されるだけでなく、事実を覆い隠すこともなるわけですから、この本の罪深さはあなどれません。


 もちろん、プロテスタントの立場からカトリックとの違いに触れるのは自由ですが、内容の妥当性だけではなくキリスト者にふさわしい品性、誠実さがあってもいいのではないかと思います。ただ私のこれまでの経験では、聖書原理主義者にそれを求めるのは難しかったので、何よりもその原因となる党派心にまみれた書物が一日も早く淘汰され、カトリック教会に対する誤解や偏見が広がらないように願うばかりです。