高柳俊一神父様(イエズス会)がお亡くなりになりました。

 

神父様から直接教えを受けたわけではなく、単発の聖書講座でお話をうかがったことがあるだけですが、その著作から大きな恩恵を受けました。

 

新共同訳聖書が準備~刊行された時期は、日本のカトリック教会が信徒の聖書教育に力を入れていた時期でもあり、あちこちで聖書講座が開かれていました。

 

しかし同時に、一部のリベラルな聖書学者(非カトリック)の主張が、ある種の混乱を生み出していた時期でもありました。専門家が書いたものだからと、信じてその聖書解説書を読んだところ、得るものがないばかりか、信仰が揺さぶられてしまったという人もいたようです。

 

実際、あるカトリック書店で「こんな本を置くべきではない」と抗議している人を偶然見かけたこともあります。かくいう私も、教会の伝統的な教えと聖書学者の主張との間に整合性を見いだすことができず、ひとり悩んでいたことがありますが、まるで昨日のことのように覚えています。

 

ある聖書の専門家の神父様に質問をぶつけたら、「どちらも大事にすればいいのでは」という回答をいただきましたが、あまり満足のゆくものではありませんでした。確かにその問題は聖書研究そのものの課題ではなく、むしろ基礎神学や教義学の問題であるからなのでしょう。

 

▲高柳俊一師(1932~ 2022年7月28日)

 

そんな中で手にした高柳神父様の著作は、聖書学と信仰のつながりについてヒントを与えてくれるのもので、大きな助けになりました。それは『聖書という本』(あかし書房)と『聖書と理解』(上智大学キリスト教文化研究所、あかし書房)の2冊です。どこがよかったのかと言えば、要するに、聖書学に反発して原理主義や相対主義に逃げ込むのではなく、聖書と教義と調和させるヒントがさりげなく扱われていたからです。

 

2冊とも、黙想的に読むとか、霊的に読むというジャンルのものではなく堅い感じの本ですが、類書が少ないように思いますので、関心のある方は手に入れられることをお勧めします。

 

補足的に神父様について思いつくがままに。

本来は英文学者で、T・S・エリオットなどを研究されていたようですが、聖書や神学にも造詣が深く、『カール・ラーナー研究』(南窓社)などの専門書や、『現代人の神学― キリスト論的素描』(新教出版社)という一般向けの本も書かれています。後者は新奇な説に振り回されない教科書的なものとしてお勧めできると思います。入手が困難になってしまったのが残念です。

 

『キリストを示す』(南窓社)などの聖書学の本には、パウロについて書いた論文が掲載されています。『聖書を読む 1  マタイによる福音書』(筑摩書房)、『知恵文学を読む』(筑摩書房)などの啓蒙的な著作も執筆されています。

 

また、神父様は『カトリック研究』という学術誌に、一時期、長編の書評を毎号何冊分も書かれておりました。関心のある分野のものを何本か読んだことがあるのですが、非常に長く、かつ難しく、何もわからなかった記憶があります。一般向けではないので当然ですが。

 

神父様のような日本の教会の神学を支えてくださった方がお亡くなりになってしまい、本当に残念に思っています。これからは天から教会のためにお働き下さることでしょう。ありがとうございました。