十代の頃、何を自分の人生の軸にして生きていけばいいのか、わからなかった。

何になったらいいのか、どう生きればいいのか……。見当もつかなかった。

 

目に入るのはスポーツ選手やアーティストのような才能あふれる人たちばかりで、

彼らの真似をすることはできないと分かっていた。

 

自分の生きている意味は何なのだろうか。

 

「意味なんてないよ。人間なんて水と脂肪とタンパク質のかたまりに過ぎないんだから」

と友人は言った。

 

そうかもしれない。でもそうなら、なぜ人は、生きがいとか、真実とか、平和とか、

善などに、そんなにこだわるのだろうか。

 

どちらにしても、死んですべてが終わるのなら、どうでもいいじゃないか。

誰も死んだ後に後悔することなんて、できないのだから。

 

そうだ。きっとその程度の存在なんだ、人間なんて──。

 

そう思って数年が経った。

 

でも、何かを思い、考えるには、何らかの価値観なり基準なりを

自分の心の中に置かなければ、ただ迷うだけで、

周囲に流されて生きるだけの人生になってしまうように感じた。

 

周りの人たちは、何をどう考えているか分からなかったが、楽しそうに見えた。

しかし、彼らのように刺激を追い求めて生きていくだけだとしたら、

人生は長すぎるように思えた。

 

そんなとき、ある友人が

「死の問題の解決ができなければ、生きていくことは虚しい」と、ぽつりと言った。

 

それができなければ、人間は動物や虫けらと何ら変わらない。

ただ食べて、寝て、子孫を増やして、食べて、寝ての繰り返し……。

確かに、そうかもしれない。

 

ある哲学者が言っていたように、どうせ死んでしまうのなら、

なぜ生きていかなければならないのだろうか。

 

しかしこの問いに、人間が答えを出せるのだろうか。

 

死の向こう側を知らない我々人間がこの問題に答えを出すことはできないだろう。

どんなに天才であっても、超越的な視点で、この問題を考えることはできないのだから。

 

では、どのような存在が、人間の生死の問題に正解を出すことができるのだろうか。

 

それは、生物学者でも医師でも哲学者でもない。

人間とは違う超越的な視点をもつ存在──神しかいない。

その神に由来する教えを自分の軸とするしかないのかもしれない。

 

20歳を過ぎたころ、ふとそんな思いをいだき始めた。