中高生時代は、小学校時代のはっきりと成績の付かず、集団横並びとは違って、
明確にテストの点数で序列が付きましたし、
塾では、毎回の小テスト、上位者は貼りだされ、私の名前が載っていると小躍りしたものです。
つまり、自分はトップを争っているという自負が子どもなりにあった。
やはり、今考えると、塾も学校も学習という点で考えると私にとってはよいものだったと思います。
競争は私にとって一つの充実でした。
やっぱり、「うちの学校サイコー!」と誇りを持てますし、中高生時代の友人との日々の語らいが私を成長させてくれたことは否めません。
文化祭、体育祭は楽しかったし、あんなに燃えられるイベントは社会ではないですね。
ですから、学校に行かないほうがよかったとか、
学校はなくてもいい、というのは私の口からは言えないのですがね。
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なんだ、私、学校好きだったんだなあ。
実は「集団行動」、これは大好きでした。
体育祭では、テレビで放映されたこともあるんですが、マスゲームや行進をするわけです。
そこで、私は先頭をつとめ、見事に胸を張って歩き通した感動があります。
休み時間も図書室にこもって、好きな本の世界に好きなだけ没頭できる。
学校に行ってなかったなら、学べない学びは数多くあった。
しかし、学校は同時に、辛かったですね。
さて、問題は何かと言うと、
一つ目が、家庭の問題。
二つ目が、「いじめ」の問題。
三つめが、勉強の問題。
この三つについて論じていきたいと思います。
ひとつめ。家庭、というか毒親。
ここまで書いた通り、親の教育熱心によって、私はトップレベルの成績を取って優れた学習環境も与えられたわけですが、
問題は、親が過干渉してきたり、気まぐれでヒステリーを起こすことが常態であり、
自分は親のために生きているのかなんなのか分からない。
さて、この親の態度があったからこそ、私は高い学力を維持できたのかといえば、
思い返してみるに、残念ながら、そうだと言わざるを得ない。
要するに、「私はそのままの存在でいていいんだ」と思えない、
この態度こそが、私を押し上げた。
無論後述のように、それには恐ろしい代償が伴いましたが。
もし仮に、うちの母親が物分かりのいい、人間的にバランスの取れた母親であれば、
私は中学受験などせず、そこそこの平凡な成績を取って、部活に友人関係に勤しみ、それなりに充実した公立ライフを謳歌していたかもしれないと思います。
そして、そう言う人生に憧れたりもしました。
お城暮らしで毎日舞踏会と政治の勉強に大忙しの王妃が、庶民の暮らしに憧れるように。
「いじめ」の問題ですが、これも複雑です。
隣の友人が、私の心を傷つけるような馬鹿にしたことをサラッと言う。
人を馬鹿にすることやからかうことが「イケてる」。
まあ、中学高校なんてそんなものです。
それに対して言い返せないというか、傷ついたそぶりを見せられない。
ある日はそうやって馬鹿にされたかと思いきや、ある日はいい話をしながら一緒に帰っていたりする。
トラウマになるようなそういうわかりやすい陰湿な暴力はないのだけれども、まあ「名誉棄損」罪「侮辱罪」みたいなことなら白昼堂々と行われているのが学校という空間なのです。
知性と言うよりも、ノリとかが支配している。
頑張ってテンションをあげて、はみ出ないようにしてそのヒエラルキーでなるべく上にいきたい。
楽しいし熱いんだけれども、息苦しい。
自分の本当の感情を押し込めなければ生きていけない。
三つめが勉強の問題。
何が辛いかと言うと、一番がやはり勉強だったなあと。
得意な気分になれたのも勉強でしたが、絶望的な悔しさや無力感にかられたのもやはり勉強でした。
勉強の何が辛いかと言うと、
授業が分からない、授業中じっとしてなきゃいけない、ひたすらしんどい。
英語でも数学でも国語でも何を言ってるか分からないハイレベルの授業に遅れまいとついていかなきゃいけない。
どう勉強したらいいか分からない。
たくさん勉強したつもりになっても、成績は下。
みんな一体どういう頭をしてるんだ、と。
受験も迫ってきて、成績が上がらない、勉強はどう手に付けたらいいか分からないという絶望的な焦りの感覚がおそってくる。
こうした詰め込みの勉強だけがすべてなのか?
それ以外に、もっと大切なことを考えなきゃいけないんじゃないか?
てなところに逃げて、本を読みだしてそっちに集中しちゃう。
「ああ、はやくこの辛い勉強から解放されて思う存分やりたい勉強をやれる、
学びたい分野を好きなだけ学べる生活がしたい!」
と思っていましたが、それが半分叶っており、それが仕事にも生かすことのできる現在は本当に幸せでたまりません。
いや、ほんと、嫌なことから逃げてやっちゃったことというのが本当にやりたいことだとおもうし、
お金にもなることだと思うのですよ。
ちなみに、こうして物を書くというのは受験生時代、息抜きにやってたことなのです。
しかし、二度と人生で使わない、微分積分とか世界史とかそういうものを網羅的に学べるのって中高生時代をおいてほかにないんです。
学校の勉強はいわば、「世界のパッケージ、ガイドブック」。
余談ですが、偏差値は同じでも、全科目を網羅している点で、私立よりも国公立のほうが上ですね。
人生とは何か、青春とは、どう生きるべきか、
そういう話題を読んだり、先生や仲間と心を開いて語り合える時間は、学業に追われる学生生活の中でも喜びと息抜きのひとときでした。
しかし、「詰め込み教育」は好きでした!
もし、その内容が理解できて、自分の中で咀嚼できたら、私は膨大な量の知識を詰め込むことに快感すら感じていましたし、
社会で得意な分野であれば、常に「誰にも負けない」くらいの自負はありました。
あと、勉強する意味についてですが、、、、
そんな意味を問うことよりも、私は純粋にスポーツとおなじ、そういう知的な教義の点数を競って、喜んだり悔しがるゲームだと思捉えていました。
詰め込みは重要です。
もし、その内容を自分自身の問題に惹きつけて理解していたとすれば、です。
徹底的な、教養や知識の詰め込みがないと、いざ政治について語れ、歴史について語れ、教育について議論しようとなっても、
論理的で説得的な言論の構成はできない。
詰め込み教育も、頂点まで行くと、必然的に「物事を考える」方向に繋がっていく、と思っています。
つまり・・・
勉強が好きになれたら学校ほど居心地のいい場所は無いし、
勉強が消化できなかったら、学校は絶望的。
これは、仕事でもそうだと思うのです。
仕事の内容が、自分にあっており、与えられたスキルを存分に発揮でき、他人にも喜んでもらえることであれば、その職場は最高ですし、
仕事の内容が、自分にあっておらず、何を努力してもできず、怒られてばかりで、ただ最低限の賃金だけ得るために死んだように働くのであれば地獄です。
あとは、いろいろしんどかったことは思い出せないのですが、
これらの三つのしんどさをクリアすれば、
心から、「もう、学校生活思い残すことない、パーフェクト!最高!」と思えますし、
それぞれ形は違いますが、
「ああ、この学校で教育を受けられて、ここのこんな先生や友人に出会えたことは宝だなあ」と思う人が日本中で溢れるような教育の選択が保障されたら、この国の力や幸福度はずいぶんと上がることだろうと思います。
少なくとも、今の日本各地で上がっているマイナスの悲鳴がないことが望ましい。
学校は、好きだったんです。
教育実習の終わりの日、すべての教室に向かって一礼し、感謝をささげました。
好きだったからこそ、、、
本当の意味で学校を素敵な場所にしたかったからこそ、
「私にとっても」最高の教育が受けられる余地はあるか、
創るにはどうしたらいいか、ってことを考えたい。
うちの教会すごいんだよね。
カトリック小学校で教えてた先生と、生徒が「あのころはやんちゃだった」とか一緒に盛り上がって仕事してんのよ。
心から教育って素敵だなあって、教える側も学ぶ側も思える、そういう学校の体制の整備って必要なのよね。
続きます。