すごく個人的な理想の教育論。その一。 | 救魂録

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カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

今から書くことは、

あくまでも「私にとって」こういう教育が最高だ。

「私だったら」こういう教育を受けたいなーーー!

というものだから、

「日本中すべての教育がそうなるべきだ、なってほしいな」と言える類のものでないことはご了承ください。

 

 

 

 

実は、私は勉強がものすごく好きで、学校そのもの自体もやっぱり行くことに意味があったと思っています。

勉強嫌いの子からすれば、狂ってるようですが、今でも、勉強がしたくてしたくてたまらないですし、学校に行って学びまくれたらいいなあなんて思っていますし、

今でも、スペイン語、フランス語、ヘブライ語、物理、科学、ゼロから自主学習しています。

 

受験なんかで、学校に行ってない時期というのは少しはありましたが、

「行ってたらよかったなー」と思うこともあるし、「まああれでよかった。潰れなくて済んだ。」と思うこともありますが、

どっちを選ぶにしても、後悔ははしないと言い聞かせてきたので、その時点で最高の決断と選択をしていた自分をほめてあげたい。

 

小学校の時は、学校の授業はほとんど聞かずに、もっぱらすべての時間は漫画を描くために費やされました(笑)

しかし、テストでは常に百点。

なぜなら、自宅で親から大量の公文式をやらされていたからであり、おそらくやった量は市内で一番なんじゃないでしょうか。

ですから、「学校の授業を聞く意味」というのが全く分からなかったですし、そういうものを「みんな一斉に」というのが、つくづく馬鹿らしく思えたものです。

 

「ごめんなさい、先生」と思いますが、

教壇に立って思ったことは、

分かってるんだったら「内職大歓迎」と素直に思います。

 

目的が、学力を上げることよりも「横並び一直線の社会に適合させること」になってしまっている。

 

授業を聞きたい人もいるので、私語は叩きだす必要が大いにありますが、人の邪魔をしないのであれば、自分の時間は自分で使わせてくれよと思います。

 

やはり、学びたいときに学びたいものを思う存分学ぶのが効率的でした。

 

一方、中学受験の塾では、問題を三回間違えたら、体罰が当たり前。

机越しに蹴られたり、ビンタで鼻血が出たり、赤本で叩かれたり。

殴られる基準は決まっていたし、真剣に受験に合格したいなら、甘い気持ちでやってはいけない。

先生と生徒の信頼関係があったので、それでも、十分後には切り替えてケロリで笑いあっている。

大して心に傷は残っていません。

 

正直、嫌な性格の先生が子どもの心をネチネチ傷つける発言のほうがはるかに嫌でした。

 

現在の私は、ちょっとでも人に注意されるだけでやたら神経質に自分を責めてしまう傾向がありますが、

小学生の時のあれほどの叱責を含む、体罰でそうならなかったのはなぜだろうと。

 

あとは、授業中声を出してあくびをしたら、先生から胸倉をつかまれドアの外に放り出されまし、しばらくはショックでしたが、

あとは互いに罰悪そうにしていましたが、その後、ものすごく仲良くなりました。

一番怒られたのと、褒められたのはその先生だったと記憶しています。

 

 

体罰を用いず、言葉で、社会の慣習から人を叱責する行為。

これは、私にとっては深く傷つく。

なぜなら、「まともな社会」から見ておまえはそのあり方自体が間違っているんだ、という烙印をやんわりとおされてしまう、ジャッジされてしまう気持ちになるからです。

暴力のないまともな社会から上から目線で繰り出される「正論」というものは、逃れようのないほど発達障碍者を追いやる威力を持っている。

 

一方、体罰を含む、「怒り」に関しては、決して「マシ」ではないものの、

個人の感情がストレートにその個人にぶつけられるわけです。

ここに「公の正義」は介在しえない。

叱られた私は、「ああ、この人は私に対してこう言う感情を持っているんだ、ショックだなあ」となる。

 

無論、体罰は教育の原理上許されるものではありませんが、

時に道理によって人を裁くことが人を追い詰め、

短絡的な怒りのほうが個々人の間の人間関係の距離を調節するのに自然な役割を果たしていることもあるのではないか、

と今振り返って思います。

 

 

続く。