売上2億円から始まった小さな組織も2000年頃には10億円になっていました。
バックヤードの部下の女性は退社してしまいましたが、
営業のF君は会社に残ってくれる事になり、ここから30億円を目指す会社の再建です。

当時は東南アジアの各国では、自国内の産業優先のために、輸入品に対しては高い輸入税がかけられています。
その中で唯一免税措置があるのが、お客様である工場が部品を海外から輸入して、生産品を輸出する加工貿易と呼ばれる活動をしている場合です。

工場を経営するお客様が部品を調達する方法は二つ、

①マレーシアならマレーシアで生産した部品を購入する。

②海外で購入した部品を自分自身で免税で輸入する。

部品販売をする私の会社は、マレーシアに営業拠点を置きながら、実は現物はシンガポールで引き渡していたのです。
競合の一部は既にマレーシアに自身の工場を建設しており、そこからお客様に部品を納入していました。

私の会社には、別にマレーシアに生産工場が稼働していましたが、そこで生産する部品は主に欧米向けの商品でした。
そこで目を付けたのが、

IPOライセンス

International Procurement Office
生産工場がモノを生産するために輸入した部品のうち、一定割合以下であれば、販売が出来るというライセンスです。
30億円程度の売上であれば、今の工場の部品購入量からすると問題なさそうです。

早速本社に掛け合って、マレーシア工場でIPOライセンスを申請してもらって、
そのライセンスを活用してマレーシア国内で部品の輸入販売をする事を提案しました。
その結果、お客様に納入する全ての部品がマレーシア国内で、お客様の工場のある場所にお届けする事が可能になりました。

マレーシアに工場を持っている競合は、
マレーシアで生産した部品はマレーシアの工場で受注しお客様の工場へお届け、生産していない部品はシンガポールの営業で受注しシンガポールで引き渡し


マレーシアに工場を持っていない競合は、
シンガポールの営業で受注し、シンガポールで引き渡し


これに対して、私の会社は
全てマレーシアで受注し、マレーシアのお客様の工場へお届け
という差別化をどこの部品メーカーより先に実現したのです。


営業活動さえしておけば、比較的簡単に競合からシェアを奪う事が出来たマーケティングのお手本のような戦略でした。
そして、私達の販売会社は、IPOを取得した工場の一角にオフィスを移転し、
その後30億円に向けて組織体制を固める事になるのです。


20代後半の頃のある日、大阪から名古屋へ名阪国道をぶっ飛ばしていました。
場所は亀山ジャンクションを越えて、東名阪道の料金所。
外側の料金ブースでチケットを取って、追い越し車線に入った時。

ちょうど内側の料金ブースから加速してきた白いクラウンに思いっきり煽られて後ろにビタ付けされた。

私の車は、フォードフェスティバ、1300cc、キャブ仕様。
追い越し車線を加速するも、当然クラウンのスーパーチャージャーには勝てず、煽られまくり。
110Km/hくらいまでスピードを上げるのが限界。
左車線に変更して道を譲りたいが、こちらにも遅い車列で車線変更出来ず。

ふと前方を見ると、えっ!車が停車してるーっ!

左側は車列で車線変更出来ず。
後方は白のクラインがビタ付けで急ブレーキ踏めず。
前方はなぜか追い越し車線で停車した車が。

①左車線の車列に接触して押しのけてでも割り込むか
②後ろのクラウンに追突されるか
③前方の車に追突するか


三者択一の絶対絶命のピンチが、多分0.3秒くらいの検討の余地。
その時、一瞬前方の車がわずかに左に動いたのを見た。

結論は、③’ 前方の車と左側のガー側壁のわずかな隙間に車を突っ込んで両サイドを擦りながら抜ける。咄嗟の判断。

前方の車の20mくらい手前で急ブレーキ!
後続の白のクラウンの車間を確認、みるみる接近して追突寸前!
前方の車に追突寸前に一瞬右にハンドルを切って左に切りなおし。
僅かに空いた車と側壁の間に進路を取る。

アドレナリン出まくり・・・


で結果は、
前方の車にも、側壁にも接触出来ずに擦り抜けられた。
車幅の狭いフェスティバでよかった。
その時、後方のクラウンの急ブレーキの音が聞こえた。

キーーーイッ! ガッ、シャーーーンッ!
後ろのクラウンが前に居た車に追突して、ボンネットが思いっきりめくれ上がったのが、バックミラーで確認出来た。

そこから先、東名阪道を走行する車は私の車だけ、後続車は事故で通行止め。
警察に電話して確認したが、その後特に連絡もなく。

この時、ホントに誰かに守られていると強く感じました。未だに、無傷で脱出出来た事がどう考えても信じられないまま四半世紀が過ぎました。

なぜこの話を書いたかというと、社会人生活、企業人としてキャリアを積む中で、何度かこの守護霊さんが登場する事になるのです。

その守護霊は、助けてもくれるし、お灸も据える

またいつかお話ししたいと思います。
バックヤードを守っていた大切な社員が退社したのは、需要急増に対する納期対応のプレー―シャーに精神的に耐えられなかった事が原因ですが、時期を同じくして一緒に新規受注で売上成長を引っ張って来ていた営業が辞めると私に告げて来ました。
当時の私の会社は日系企業という事もあり大変安いサラリー水準でした。
競合メーカーの給料と比べると2分の1か、場合によっては3分の1くらいしかありませんでした。
高専を卒業してわが社に入社した当時は初任給はほぼ一緒ですが、キャリアを重ねると段々上昇して差が出てきます。
GDPが成長しているマレーシアなので、賃金上昇のスピードがとても速く、1年後に倍以上の給与になる事もよくあります。

その営業マン(F君と言っておきましょう)は、アシスタントマネージャーで
営業で顧客を訪問して、お客様や違う会社で働く友人と情報交換するうちに、自分自身のサラリーが、友人とどんどん差が出ていってる事に気付き、ある日私に、

「他の会社の給与は倍以上だ。この会社が好きでずっと働きたいが、この給与では将来がない。」

という事を私に言ってきました。
ご本人は本当に今の会社が大好きで、同僚とも離れたくないという気持ちでいっぱいです。
毎日毎日悩み抜いた末での相談でした。

私も辞められては大変!とシンガポールに居る上司に掛け合い給与を上げるようにしましたが、
当時の日本の人事制度をそのままコピペしたような人事制度では、2倍とか3倍とかは不可能で、
出来ても20%アップとか、そこくらいまででした。
ご本人は散々、悩んだ末に、ほぼ退社するところまで来ていました。
私も覚悟を決めて、唯一残るもう一人の営業マン(K君です)と

「二人っきりになってしまったけど、一緒に頑張ろう!」

胎を括ったところでした。
そしたら、ある日突然、そのF君が、

「熟考に熟考を重ねた上で、やっぱりこの会社に残る」

と言ってきました。胎を括っていた私にとっては、逆に意外中の意外でしたが、よく話を聞いてみると。
自分でも悩みに悩んでいて、自分自身に決断が出来なかったそうです。
で、おばあちゃんに相談したらしいです。そうしたら、

「辞めずに今の会社で続けなさい」

という話でした。おばあちゃんにキャリアを決めてもらった訳ですが、大体は

人生や仕事の重大な決断は、他人の何気ない一言が背中を押してくれる事で出来る

のかもしれません。
欧州のグローバル企業だと思って入社した日本企業で5年程度キャリアを得た20代の若いマレーシア人も、世代相応の悩みを抱えながら人生の大きな決断をした訳です。

でF君のその後ですが、現在もわが社で働いていてDirectorをしています。マレーシアだけでなく、東南アジア全域を責任持たされて日々仕事をしています。K君も今はシンガポールに異動して営業責任者をしています。
第3者の何気ない一言がなかったら、今のこの状況は全然違った風景になってたでしょう(笑)。
シンガポールからマレーシアに異動して1年。
売上は2億円から10億円に増えました。
以前説明した、日系のお客様には、インドネシア生産でシェアアップ。ITバブルでEMSといわれる謎の製造委託会社から数百万個の注文など、処理する注文の数を倍倍で増えていきました。
納期担当は優秀な若い女性の部下が1名で対応していました。増員で1名採用しましたが、新規注文は来るわ、注文数量は増えるわ、工場は生産キャパオーバーで対応出来ないわ、お客様はモノが入らないので電話で毎分督促するわ、それを一人でこなしていました。
しかし、一人で廻すのも限界。精神的に参ってしまって辞めていってしまいました。
事業の成長に対応が追い付かなくなってしまいました。
営業の売り込みは出来なくても何も起こらないだけで問題ないですが、納期は放っておくと問題が更に大きくなって収拾がつかなくなります。
アットホームな4名のチームで信頼していたスタッフに辞められたのはショックでした。

個人技に頼る10億円の会社の壁

2億円では上手く廻っていたマネジメントは、ここで破綻をしてしまいました。
納期を対応してくれるバックヤードスタッフが誰も居なくなってしましました。
急遽、以前居たシンガポールのバックヤードスタッフに緊急で支援してもらって、一から採用し直しになりました。

1~2億円の会社は、優秀な営業が1~2名いればすぐに10億円に成長しますが、組織経営は10億円が限界で、
同じ体制では10億円で破綻してしまうという、事業成長の壁を経験したのは、これが最初でした。

辞めた女性社員は、その後結婚して元気にしておられます。
旦那さんがテーラーの仕立て屋さんで、スーツを一着作ってもらいました。
マレーシアを去る時、もう一着作ってくれて日本まで送ってくれました。
その際、旦那さんと3人で朝ごはんで飲茶を一緒に食べました。
1998年当時、20世紀も終わりを迎える頃。
東南アジアはアジア金融危機を乗り越えて再び成長軌道に戻り始めた頃でした。
当時の日本の製造業はTV業界、オーディオ業界、家電業界、パソコン業界などでGDP成長を牽引していました。
私が任されたマレーシアの営業拠点も日系のTV、オーディオ業界を中心に外資の加工貿易中心に保税工場、ローカルの非保税工場のお客様を中心にビジネスを展開していました。

ある日、ローカル(だと思っていた)お客様から突然何百万個という部品の注文が入って来ました。
そういてるうちに、別のお客様からも同じ部品が、同じように何百万個という注文が入って来ました。
ちなみに当時圧倒的なビジネスを占めていたTVを生産しているお客様でさえ、30万個くらいの発注でした。

桁違いの注文に、日本の工場もパニック!

なんていう顧客で、どんな製品で、どんなところに使われていて、なぜ急にそんな注文がくるのか
日本のHQから質問の嵐で、報告を求められました。

Jabil Circuit…?Solectron…?
当時あまり欧米系にはなじみがなく、知らなかったのですが、マレーシアのローカル企業だと思っていたのですが、
欧米系の大きな会社だというのが分かりました。

EMC…?EMS…? それって何者?

Electronic Manufacturing Company あるいは Service。日本語では製造請負サービスです。
EMSって何?って日本から散々聞かれました。
日本の偉い人に説明しても理解されないので、最後はマレーシアに出張してもらって一緒に工場を見に行きました。

何か白衣みたいな服来たマレーシアのイケイケってポイ若い女性社員が出て来た!

日本の40~50代のおっさんの部長とか、田舎モンっぽい現地社員の担当が作業服来て対応してくれる日本のお客様とは全然違い、カルチャーショックでした。
当時は携帯電話が普及し始めた通信業界でNokiaやEricsonなどの通信機器メーカーがインフラ投資のために生産を発注していたのが、現在では超有名なFlextronics、Jabil、最近ではFoxconなどのEMSという業態でした。
ITバブルのはじまり。

しかし、この後、このITバブルが、2億円の会社の運命を大きく変えていく事になるのでした。

定年退職まであと3年を切りました。
大学を卒業して23歳で社会人になった時には、37年もの月日が天文学的な長さだと考えてましたが、いよいよカウントダウン。
まだ34年間ですが、山がみっつありました。

ひとつめは寿命の山

人生80年と考えると、ちょうど真ん中が40歳
40歳まではい「生きる」ために生きる
人生を豊かにするために人脈や知識、経験を積み上げていく事で人間として成長していくやり方で山を登ります。
40歳からは「死ぬ」ために生きる
生涯を豊かにするために、積上げた人脈や知識、経験を活かして、後半も悔いなく、成長しながら、40歳までの登りの大変さ噛みしめながら、少しずつ山を降りていく。

ふたつめは能力の山

40代は心技体のバランスがもっともよい年代。
体力は衰えるが、気力、技を使いながら、さらに上を目指して登っていきます。
ひょっとしたら人生の黄金期かもしれません。
この年代の過ごし方で、50代以降の生き方ややりがいに影響してくるかもしれません。
50代は心技体のバランスが崩れ始める年代。
体力に加えて、気力が衰え、技も多少古くなって通用しなくなってきます。
更年期障害というのが疑われる年代です。まず気力が振り絞れなくなります。人によって年齢差はありますが。
新しいITツールについていけなくなる。パソコンやスマホの文字が見えなくなります。
同じ事を何度も言います。
仕事の能力としては、少しずつ山を降り始めざるをえないですね。

みっつめは組織ポジションの山

いわゆる、課長まで部長までいった、役員までいった、みたいな話です。
名誉職とか、関係会社出向とかです。
サラリーマンとして山を降り始める時。
キャリア面接していると、この辺りの年代の方々が多く応募してきます。
「65歳に定年が伸びて、環境を変えてもう一度何かを成し遂げたい」と言う思いの方が多いです。
過去のしがらみや肩書を捨てて、自分自身で何が出来るか、身の丈チャレンジかもしれません。
早期退職してサラリーマンを辞める選択をする人達もいます。
50代を生きるには人徳が必要です。
気が付いた時にはもう遅いですね。明日人徳が出来る訳でもないですし。
山を周りの景色を愉しみながらゆっくり降りていくのか、山登りの疲れに配慮して休み休み自分のペースで降りていくのか、崖を崩れ落ちながら山を降りていくのか、暴風雨の中で雨具に身を隠すように降りていくのか、人それぞれですね。

そしておっさん達は、ブログとか個人出版で自分史を作りはじめるのです。
若き頃、体力など気にもせず、必死に山に登っていたマレーシアを懐かしんでいるとふとこんな気になりました。
ちゃんちゃん!


企業人になって数年経験を積むと、グループ長や係長など、部下数人をまとめる業務を任されます。
私がはじめて、部下や他のメンバー達をまとめる仕事をしたのが、マレーシアの営業拠点の2億円の売上と3名の部下でした。

私 33歳 はじめての海外駐在
Fさん 27歳 高専を卒業してわが社に入社。会社の名前から欧州の企業だと思って入社したらしい
Kさん 27歳 Fさんと同じ高専の友達。社員募集と聞いてFさんが誘って採用され入社したばかり
Yさん 27歳 女性 ちゃきちゃきして何でもやってくれる 日本人幼稚園の入園申し込みにも着いていってくれて、日本語もわからないのに日本人の園長先生と一緒向き合ってニコニコしてました。

Fさんは外資系のお客様担当、Kさんはマレーシアローカルのお客様対応、Yさんは納期やその他全て担当。
私は、同行と携帯電話でそれぞれのメンバーから報告受けて、指示をして、それで仕事が廻ってました。
個々の活躍で仕事が廻る2億円の会社
お客様の名前も、各お客様の売上も、購入されている商品も大体は頭の中に入っている状況です。

皆さん、若いけども優秀で、今から思えば、幸運にもよい部下に恵まれたなと思います。
Yさんはその後退社して新しいキャリアを目指しましたが、
Fさんは現在東南アジア統括のDirector、Kさんはシンガポールの拠点長、今でも頼りになる気心の知れた同志です。
ここからが、私の本当の企業人としてのキャリアのはじまりです。
1997年5月にシンガポールに赴任し、インドネシアでの輸入加工による販売スキーム作り、中国からの生産移管を営業として提案した後で、翌年の1月にシンガポールからマレーシアに異動する事にしました。
「なりました」というより、自分で「行きます」と言って異動しました。
20代の現地マレーシア人の営業2人、アシスタント1名、私と合わせて4名で売上は2億円でした。
マレーシアの販売会社の小さなひとつの課でした。
この後、2年半の間に売上は20億円、社員は10名まで拡大しましたが、
信頼しきっていた社員の退社
不良債権の処理
誤発注による大量の不動在庫
急成長による納期トラブル

など、営業拠点としての一通りのあるあるを経験して来ました。
10億円の会社のマネジメント
これは、
個人プレーで廻す事で成長出来る
一方で、
20億円を超えて30億円、50億円を目指そうと思うと、個人プレーでは廻らず破綻してしまいました。
個人で廻る会社から、
組織と役割で個人を支える会社
への変化でした。
会社も人間と一緒で、成長と共に着る服のサイズも色や柄も着替えていかないとよろしくないですね。
1997年当時は、日系製造業の東南アジア進出は成熟期に差し掛かってました。
シンガポールやマレーシアから始まった工場進出は、インドネシア、タイ、フィリピンに拡大し、
サプライヤーの工場進出も進行して、東南アジアで調達、生産して欧米や日本へ輸出という経済圏が出来上がってました。
私が働いていた会社はサプライヤーにも関わらず、東南アジアの工場は東南アジアの顧客向けの部品ではなく、欧米の顧客向けの部品を中心に生産していました。
ふたつ幸運だった事がありました。一つは、改革開放施策の中国でいち早く生産し安価でシェアを獲得していた競合メーカーは中国生産であった事、二つ目は前任の責任者が市場、競合、自社を分析する事なく、シンガポールで出張者対応と称してとグルメとショッピングにしかしていなかった事です。これまで右肩上がりで成長していた東南アジアの売上は3年連続で下落中で、競合に取られてシェアを落としていました。
答えは簡単でした。わが社も東南アジア向けの部品は日本や中国で生産していたのですが、インドネシアにあった工場に生産移管してもらったのです。それと各国の輸入販売ライセンスを活用して、各国国内で輸入販売が出来るようにしたのです。当時の東南アジア各国は自国に付加価値を落とすために加工貿易を推奨していたので、付加価値の落ちない輸入販売に規制をかけて国内生産品の調達を推奨していました。規制には特例もあって、例えば生産活動をしていれば売上の何%は輸入販売していいとか、特別の条件を満たせばIPO(International Procurement Office)ライセンスが取得出来るとかあったのです。
この二つで市場を席捲していた競合メーカーと肩を並べるシェアを挽回出来ました。価格では中国に不利な中で、現地調達という価値で差異化した事が復活のきっかけになりました。結局その競合メーカーはキャッシュが廻らずコングロマリット企業に買収されてしまいました。
30歳くらいの若造でしたが、ゲームチェンジというの実感した経験でした。
私が勤めていた会社にはインドネシアのジャカルタに工場がありました。
ジャカルタ市内から1時間くらいの工業団地の中にありました。
その工業団地には、同じように日本から進出してきた会社の工場が沢山ありました。
まずは、そこのお客様の訪問です。
当時インドネシアでは加工貿易に対する優遇施策が取られていたため、部品を輸入して保税(加工して輸出する)のお客様に販売するライセンスは発行されていませんでした。
これはフィリピンやタイなどでも同じで、何らかの加工をする工場の設立しか認められていませんでした。
外資の工場は部品をシンガポールや日本から買って、インドネシア国内で加工して、そして輸出するという条件で保税のライセンスを発行してもらってました。
しかし、お客様の話を直接聞いてみると、
「納期調整に時間と手間がかかる」
「電話、FAXでのやり取りで言語も違うのでとても大変」
「緊急時の対応に困る」
といった大変な話ばかりでした。シンガポールで調達したとしても、手元に部品が届くまでに最低でも2週間くらいかかっているようです。
私の会社の工場の道を隔てた向かいにお客様の工場があるのですが、このお客様は大量のわが社の部品を日本から調達しています。
残念ながら、わが社のインドネシア工場では、お向かいのお客様が使用する部品を生産していませんでした。

そこで考えたのですが、わが工場がお客様の替わりに部品を輸入して、簡単な加工を加えてお向かいのお客様に届けるという発想でした。お客様はわが社の部品に簡単なハーネスとコネクタの加工を行っていたのですが、その工程をわが社でする事で、部品をインドネシア国内で販売する事が出来る事が分かったのです。

日本の営業や関係部門を説得して、実現した際には、お客様にとても感謝されました。
ハーネス加工を取り込んだので日本で部品を納入している時よりも3倍の売上金額になりました。
各国の輸入販売ライセンスは取得出来ないですが、工場の加工輸出ライセンス、加工販売ライセンスを活用して、輸入した部品を国内で販売する方法を見つけ出すきっけになった話でした。