1998年から2003年までシンガポールとマレーシアに駐在していましたが、当時様々な駐在員が居ました。

会社のカードを使って日用品から毎晩の夕食まで全部接待費、経費で落として給与には一切手を付けなかった社長
会社の命令で東南アジアの代表となると、各国にある法人の代表を兼任する事がよくあります。
その人はシンガポール法人の社長、タイ法人の社長、マレーシア法人の社長、フィリピン法人の社長を兼任していました。
シンガポールに居る時はタイ法人で用意したクレジットカード、タイに出張の際はシンガポールのクレジットカード、それぞれを使い分けてして出張先でクレジットカードで接待費や経費で落としていました。緊急出張の際は、歯ブラシまで経費で落としていました。
社長だからそれなりの給与を貰っているはずなのに、お金に卑しい人は大体こんな感じでした。

セクレタリと不倫関係になってしまった社長
法人の立上げでマレーシアに赴任したその社長は、採用したセクレタリーと不倫関係になってしまい。更迭されてしまいました。
恐らく、最初は、頑張ってくれたお礼としてお土産、プレゼントが、食事、その他に発展していったのではないかと思われます。
親切心から、歯止めが効かなくなって、海外という事もあり、道を誤ってしまうケースは、その後の駐在員生活でもよく目にしてきました。

出張者の夜のアレンジばかりで何も仕事をしない駐在員
海外に居ると、日本からの出張者が毎日のようにやってきます。打合せや顧客訪問もありますが、夕食のアレンジ、二次会のアレンジも全部面倒見ていました。出張者がその日無事にホテルまで帰るまで見届けていました。
その人は、朝から「来週は〇〇さんが来るから、夜はどうしようか?」とかずっと考えてました。
「出張者がハッピーになって帰ってもらう事で、仕事で支援、協力してもらうため」とは言うものの、仕事をしないで、その事ばかり考えています。
ちなみにその人の名刺ホルダーがいつも机の上に置いてあり、中味はお客様やサプライヤーではなく、レストランとバーの名刺ばかりでした。

5000万円の売掛金未回収をある日突然帳消しにしてしまう人
フィリピンで代理店に販売した商品の未回収金が5000万円くらいに膨れ上がって大きな問題になっていたのですが、ある日そのフィリピンの社長に聞くと、
「あ、あれ?あれはもういい。相殺処理した。」
とあっさりとした答えが返って来ました。経理上は未回収金として相殺したのですが、実際の回収業務はどうなったのか、当時のフィリピンはシンガポールからも非常に遠く、誰もわからない状況でしたので、現地の社長の言われるがままでした。
「2000万円だけ俺の銀行口座に支払ったら、会社としてはもうこれ以上請求しないで処理してやる」
という持ちかけも出来た訳です。バブルの頃の不動産担保物件の処理とおなじようなやり方です。

当時の社内監査は非常に緩く、ガバナンスが効いていなかかったので、現地の事を任された社長とかのポジションはやりたい放題でしたね。古き良き時代でした。
東南アジアが成長していた頃は、気候や風土もありますが、不正もおおらかだったかもしれません。
シンガポール駐在していた1.5年の間、上司の元で学んだ部下マネジメントの仕方があります。

サラリーマンの成功は上司と部下次第

というか、私自身が部下として、そういうマネジメントをされていた訳ですが。

少しだけ逃げ道を残しておく部下マネジメント

東南アジアで、現地に合った植民地マネジメントをしていた訳ですが、社員をプレッシャーをかけて追い込みながら仕事をさせるというマネジメントです。

植民地経営マネジメント

誤解しないで欲しいのは、ムチを持って人を痛めつけながら部下をマネジメントしするという訳ではなく、サボらないように常にプレッシャーをかけながらマネジメントするという意味です。
例えば、楽してサボらないように、ひとつのミッションを達成すると、すぐ次のミッションを与えるとか、どんどん仕事を放り込んでいくようなマネジメントです。これは、される側からすると凄いプレッシャーになります。
次から次から仕事や、さらに高いレベルの要求が降りてくるので、サボる暇が本当にありません。

しかしながら、こういうプレッシャーが長期間続くと、社員は辞めていってしまいますし、心の不調を招く事があります。
植民地時代だと、そのまま反乱とか暴動に発展するのが常ですが。
こういう時は、少しだけ手を抜いて部下のストレスを和らげるのです。敢えて逃げ道を作って、部下達を楽にしてあげるのです。
そうして、ストレスを発散した後は、もう一度プレッシャーをかけるの繰り返しです。

その時の私の上司は、その匙加減が非常に上手で、部下の状況を見ながら「えげつない」ほどプレッシャーをかけ続けて、「もう限界かな」と感じたところで、さ~っとマネジメントを緩めるのです。
皆で飲みに行ってドンちゃん騒ぎをしたり、あまり仕事を投げかけなくなったり、「ビジョン作り」など気楽な研修をしてみたり、手の緩め方は、様々です。これは、

部下達の様子をその眼でよく観察して感じ取る

事が出来ないと、出来ないマネジメントだと感じました。

実際、そんな「えげつない」マネジメントを一緒にされていた私ですが、やはりプレッシャーをかけられた中で、頑張った事で、スキルやセンスを磨いたような実感があります。
やはり人間は基本「サボりたい」生き物で、一部の自己マネジメントが出来る人を除くと、プレッシャーをかけられないと、自己成長も出来ない生き物かもしれないと思いました。
そういう意味で、出会った上司でサラリーマン人生も決まるとも言えます。

その上司がポロっと言った事は、

人間365日、24時間、集中して本気出して頑張るのは不可能ななぁ。。。
やる時は集中して本気でやって、あとは楽しく遊ぼうや。


でした。
現在の東南アジアの各国は経済成長して優秀な人財も大勢いますが、
1980年代に製造業が進出するまでは、南国ののんびりした国々ではなかったかと思われます。
当時は、

「暖かい気候で、海には魚、森には果物が勝手に取れるので、人々は働かなくてもいい」

だから「勤労意欲がない」という事がよく言われていました。
本当か、どうかは賛否両論あると思いますが、私の上司がやろうとした事は

植民地経営マネジメント

でした。
一人一人の意志に任せていては皆働かないので、ムチを持って監視しながら働かせるという考え方です。
ビジネスの世界では、目標を与えて、その目標に対する方法論を話し合って、その人を尊重しながらゴールを目指すというのが一般的ですが、東南アジアでは、自らゴールに向かって方法論を決めて実行する人財は少ないように思います。
そういう事が出来る組織や人財も居ますが、マネジメントが替わったり時間が経つと、何もしなくなり指示待ちというケースが多かった気がします。
現地の人達も植民地支配される事をある種受け入れているかもと感じる時がありました。

私の上司も40歳の若手経営基幹職としてシンガポールに赴任しました。東インド会社でインドに送り込まれた若手社員と同じ構造です。
そこで適当に仕事して不正をしている現地リーダーを解雇して、若手のバリバリ働く現地社員をリーダーに抜擢しました。
そうして、そのリーダーに強いリーダーシップで現地社員をマネジメントさせました。
そのリーダーは、日本人に対してはソフトで従順ですが、現地の部下に対しては非常に厳しいマネジメントをしていたようです。
どうも東南アジアの現地社員は、ケツを叩かれないと働かないみたいです。というか、

ケツを叩くようなマネジメントをされるとパフォーマンスを発揮する

と言い替えれるかもしれません。
植民地経営と言われると少しネガティブな印象があるかもしれませんが、
日本人も現地人も一緒になって
厳しいマネジメントの中で、やる時は必至で頑張る
遊ぶ時は一緒に羽目を外して遊ぶ
一緒にメシも食う
一緒にカラオケで歌う
ケツを叩かれて大変だったけども今思い返せば、愉しかったような気がします。

シンガポールでその上司と仕事をしたのは、わずか1年半だけでしたが、非常に密度の濃い時間でした。
2021年にマレーシアからシンガポールに異動し、その後のサラリーマン人生で大きな影響を受けた上司の元で、その間様々な経験と、様々な考えさせられる事がありました。
信頼する部下の退社
大量の不動在庫
未回収金と裁判
ベテラン幹部社員の解雇
ベテラン幹部社員の不正
若手現地社員の抜擢
若手社員の変貌
組織の新陳代謝


泣いて馬謖を斬ったその後

その時に上司から言われた事は、

「お父ちゃんが、やって来た仕事を自分の子供に自信を持って語れるような仕事をしなさい」

これは別に成功を自慢しなさいと言っているのではありません。

「正しい倫理観を持って仕事をしたか」

という事です。
「人として正しい事をしたか?」「逃げずに一所懸命やったか?」という事を問われているのです。

たとえ失敗したであっても、ベストを尽くしてその結果、上手く行かなかったのなら、それは自信を持って子供達に語れます。

たとえ成功したとしても、他人を騙して、不正をして、私服を肥やしながら成功したを、子供達に自慢する事は出来ないでしょう。

当時の海外法人は、現在のようにガバナンスが機能しておらず、駐在員ですら不正をしていたような時代でした。
ましてや現地法人の社長のようなポジションでは、現地給与には一切手を付けず、
夕食は会社のカード
代理店からはキックバック
不良債権は相手から賄賂を貰ってもみ消し
など簡単に私服を肥やす事が出来ていたようです。

その中で、

「人としての倫理観」をよりどころに

「家族に対してその行為を自信を持って語れるか」を物差しに

という軸を強く持ってないと、駐在員生活であらぬ勘違いで、道を誤ってしまい兼ねないなぁと考えさせられました。

この事を上司に言われ、
過去にマレーシアで失敗して辞めようかと思うくらい落ち込んでいた気持ちも少し楽になった気がしました。
あらたな挑戦にも、失敗を気にせずチャレンジ出来るような気がしました。

もちろん、毎日のマネジメントは非常に厳しく、少しでも誤魔化しや、逃避があると厳しく指摘されます。
でも、だからこそ、結果に左右されず、自信を持ってやったと言えるのかもしれません。
再赴任したシンガポールでは私と同年代の30代の現地社員が営業トップとしてDirectorになりました。
Directorになった彼と私の違いは、覚悟と振る舞いだったかもしれません。

「日本人よりよっぽど優秀やで」

唯一の大きな違いは、法律上その国に登録されている法人に名前が登録されているという事。
なので、もしその会社が法律を犯したり、社会的に制裁を受けるような事になった場合は、
名前を連ねている役員は法的に責任を負わされるという事。
それが覚悟に現れるのだという事を感じました。

覚悟のある幹部の部下や周りの社員に対する言動や態度も自然と変わって来る事になります。
代表者が毎日暗い顔で会議ばかりしていると
「この会社大丈夫かなぁ」
と社員は不安になります。だから社員が自信を持って会社を成長に導くように、前向きで自信を持った態度になります。

もちろん、その結果、会社の業績が上がると成功報酬が得られるのです。
逆に、成果が出ないと契約を終了されて、明日から給与がもらえません。

当時の私は、大企業に就職して毎月給与を貰っている生活なので、マレーシアで責任者をしていた時も、
シンガポールで社長のサポートをしていた時も、
それほどの覚悟はなかったと今思います。

そもそも、何故私が、大学を卒業して、何の疑いもなく大企業の面接を受けて採用されてサラリーマンという人生を選択したのかと問われると、
正直何も考えていなかった。
サラリーマンの家庭で育った。
その他の選択肢がイメージ出来なかった。
当時は、大学を卒業して企業に就職するのがほぼ当たり前の時代で、
それ以外の選択肢は、海外に放浪の旅に出る位の貧困な発想でした。

それ以来、資本家が経営をする会社に雇われて、毎月一定額の給与を貰って、毎月の出費から余った少ない金を貯金し、
という人生を歩んで来たわけです。

入社面接で、

「大企業で働く事で、自分自身では出来ない大きなビジネスを経験したい」

と返答していました。もちろんたとえ10億円でも、20億円でも、個人で簡単に取引出来る金額ではありません。
企業に雇われたサラリーマンだと、企業の名前やポジションを借りて大きな金を動かす事が出来ます。
少なくとも、その会社がやりたい事と、自分がやりたい事、得られる経験が一致している場合に限りますが。

「経験をして、その後どうするの?」

と聞かれると、その場で答えが出来なくなるサラリーマンが大勢います。
もちろん、経験を得て、独立して自分でビジネスを始める人、転職してステップアップする人も居ますが、
サラリーマンの中で大多数の人は、そこまで志が高い人はどれくらい居るでしょうか?
そういう私も、そんなに深く考えていない人種の一人であったと思います。

マレーシアの営業所で部下と20億円の体制を立上げた事、
シンガポールで会社の利益で巧に私腹を肥やした幹部の解雇
若い同世代の抜擢とDirector抜擢

こういう場をサラリーマンとして経験しながら、私はなぜサラリーマンという職業を選んだのだろうと自問自答が続くのです。
ただ、この時、

「法人経営をやってみたい」

という思いが強くなり、私のサラリーマン人生のひとつの目標となりました。

1997年にシンガポールに赴任した後、マレーシアで20億円の営業オフィスを立上げ、2001年にシンガポールに戻って来ました。
その時の上司が私の前でしたのは、30億円のシンガポール拠点の幹部2名を解雇する事でした。
解雇した後、インド事業での不正が見つかり、その操作に関連していた数名のスタッフが密かに退社していきました。

バラバラになったシンガポール拠点の現地幹部には、30代の私と同じ年齢の若い営業が抜擢されました。

高度成長期のシンガポールでは、50代の世代と30代の世代の生活環境や仕事に対する価値観も全然違います。

この20年の差はそんなに成長してない日本で言うと70歳と30歳くらいの年齢差と考えていいでしょう。
当時の50代は、不正や誤魔化しなど何とも思わないような価値観です。幼少の頃の貧しい原体験があるのでしょうか?会社の金を私用に使ってしまう事もよくあります。
30代は、シンガポールも豊かになり、幼少の頃には便利で豊かな生活をしていましたし、海外旅行なども行っていたようです。なので会社の金を横領するという事を考える事もなく、キャリア形成に価値観を置いていました。

当時の日本人駐在員は、現地に赴任するとマネージャーや責任者として、現地人の部下を使う立場でした。
実際、私もマレーシアでそうしてきました。

シンガポールではつい最近まで一緒に働いて来た現地の同世代の同僚がいきなり幹部になったわけです。
その際、上司から言われた事は、

「日本人よりよっぽど優秀やで」

でした。客観的に考えると
大学を卒業して、大手企業に入社して、様々な研修が用意されて、経験と共にポジションを与えれて来た日本人と
会社に入社して、自ら努力してスキルを磨き、転職、転職を繰り返しながら経験とスキルを身につけて来たシンガポール人
では、危機感が違います。シンガポールの社員は、いつ「あなた明日から会社来なくていいよ」と言われるか分からない環境で仕事をして来た人達です。
それを情報を自分だけのものとして相手を蹴落としながら自分の立場を守る当時の50代と、自己啓発しキャリアで付加価値を付けながら自分の立場を見つけていく30代の世代間ギャップの違いで、どちらも真剣そのものでした。

その時、日本人の駐在員として自分の甘さを思い知りました、

海外駐在で赴任すると、責任あるポジションが自動的に与えられると勘違いしてしまいそうですが、現地人の同世代の同僚に実力で持っていかれました。


その抜擢されたその社員は、目の色を変えて、土日も、深夜も関係なく働きました。
もちろん給料も2倍、3倍に大幅アップです。
日本人駐在員なら、30代が結果を出してもボーナスはそれほど変わりませんし、給与が2倍になる事などありません。
その辺りの危機感やモチベ―ションの違いかもしれません。
それを求める日本人なら、恐らく外資系の企業で仕事をしているはずですが、
日本の企業に入社してきた私をはじめとした、日本の同僚達は、安定と楽さを求めてたんでしょうかね。

いざ、現地社員の方が優秀でよく働くと認めてしまうと、
嫉妬や落ち込みもなくなり、むしろ自分自身を客観的に評価し、検挙になれた気がしました。
それからは、現地の社員を見下す事もなく、ある種リスペクトしながら一緒に仕事が出来るようになりました。

日本の会社のサラリーマンは、一体何を成し遂げたいの?

というのが、ここから20年以上続く自問自答になりました。
企業人として、会社に勤め、その中で何を自己実現していくのか?
給与?
肩書?
企業ブランド?

悩みは続きます。
シンガポールに再赴任して、直属の上司が私の目の前で最初にやった事は、
シンガポール営業拠点の現地人の幹部2名を解雇した事です。

https://ameblo.jp/edomaski/entry-12785793861.html

シンガポールは基本社員を簡単に解雇出来る雇用契約になっているのですが、
辞めさせるとなると何かと波風が立ちます。

一人目は年齢が50歳を超えていた事もあり、すんなり退職に応じましたが、
もう一名は陰険な抵抗に合いました。
その幹部は、長年の経験で市場や顧客をよく知っていた事もあり、日本の関係者からはある意味重宝されていました。
彼に聞けば直ぐわかるからです。
しかし、彼の言っている説明が本当の事かどうかは誰も確かめようがない状況でした。

私の上司がその幹部を辞めさせようとしているのは、彼はすぐに感じ取りました。
そこで彼が行った事は、
廻りの社員を自分の見方につけようと、私の上司が不当に解雇しようとしていると話はじめたのです。
またHQからの出張者に自分が如何に市場や顧客を知っているか、弊社にとって欠かせない人財かを猛烈にアピールし始めたのです。

当然、職場はザワザワ、HQもザワザワしはじめ、
「やっぱり解雇はよくないんじゃない」みたいな事を本社から言ってくる人も出始めました。
解雇した事で自分が担当する商品や顧客の売上が下がらないか不安で言ってくる人達ばかりでした。

私の上司は、そういう助言には耳も貸さず、初志貫徹。結局解雇してしまいました。

実は、私も解雇するとシンガポールや当時担当していたインドのビジネスがわからなくなるのではないかと多少不安だったのですが、
結論を言うとあまり影響はありませんでした。

解雇した後でわかった事は、その幹部は、インドで中抜きをして私服を肥やしていたという事です。
赤字のビジネスがあって、インドは競争が厳しく、この価格でなければビジネスは取れないと主張し、
HQもインド事業拡大のプレッシャーで赤字でビジネスを承認してしまっていたのですが、
調べて見ると、マージンがとても高く、インドのパートナーだけ大儲けしていたのです。
それが発覚するのを避けるために、インドは部下には担当させずに、その幹部しかわからない状況を作っていたのです。
解雇して正解でした。
その後、その不正をサポートしていた納期対応のスタッフなどが数名、ひそかに辞めていきました。

これまでは、情報統制で自分自身の価値を上げ、不正をしていた幹部の下で、若手は入社しては辞めを繰り返していた組織なのですが、トップを解雇して、まともなトップに入れ替える事で、入社してくるその下の部下のレベルも高くなり、組織全体のレベルっが改善する事になりました。

組織は上から腐る

リストラは幹部をまずクビにしろ

という事を学んだ出来事でした。
2001年、マレーシアからシンガポールに拠点を移してサラリーマン人生で最も影響を受けた上司と一緒に東南アジア全域の事業構築をする事になりました。
具体的に何をしていたかと言うと、上司の社長のする事を側でずっと見ていたとも言えます。

その上司がまず手を付けたのが、シンガポールの営業トップ2名の解任です。
当時のシンガポール拠点は、50歳前のベテラン2名を含めて10名程度の組織で約30億円/年のビジネスをしていました。
日本の製造業が東南アジアに生産拠点をシフトしていく中で、東南アジア各国の部品の調達拠点としてシンガポールが成長してきました。
そして、調達拠点もシンガポールから徐々に現地調達に切り替わる中で30億円前後で低迷している状況でした。


事件は現場で興っている。

その2名のベテラン社員は、シンガポール拠点の立上げ事から10年近く弊社のために働いて来た2名です。
顧客の事もよく知っているし、市場の事もよく知っている、何かトラブルがあっても解決出来る。
文字通り、

この人が居ないと仕事が廻らない

スタッフです。
しかし、弊害もあって、

知ってる事で自分の地位を守る

という傾向があって、情報を部下とシェアせず、自分だけが知ってるブラックボックス状態になっていました。
なので、そのスタッフが居ないと仕事が廻らないわけです。
こういう状態では、優秀な若い部下は入社しても直ぐに辞めていきます。
少し頭の回転が悪くて、パシリのような部下しか居ないわけです。

日本人駐在員に対しては、ブラックボックスにした情報を、自分のボーナスや昇進、昇格に有利に働くように小出しにして長らくマネージャーのポジションを確保していました。
なので、回収とか不動在庫とか課題もあれこれと言い訳して放置するような状態で、説明を聞いても全体像をそのスタッフしか把握していないので、状況説明を信用するしか方法がなかったわけです。

廻りからすれば、仕事をしていない訳ではないので、売上が下がろうが、その本質的な課題がわからず、売上が下がる説明を聞いて、何か違和感を感じながらも、「そうですか」としか言いようがなかったわけです。
だいたいの駐在員は、面倒で、この状態を長い間放置していました。

私の上司は東南アジアの新任社長として赴任して、この2名を解雇したのです。
その時に私に言われた事は、
「人間としては悪いやつではないけど、組織や社員にとってマイナスなやつなのでクビにする」

泣いて馬謖を斬る

という事です。
「辞められたら困る」と殆どの日本人が口を揃えて言っていたのですが、私もその時は、少し意外に感じました。
その上司からもうひとつ言われた事は、

クビにする時は、まずその組織のトップをクビにする

でした。「組織は上から腐る」と言われますが、出来ない担当者をクビにしても組織全体は変らず、
上を交替させる事が組織全体を立て直すKFSと言えます。

2名のキーマンを解雇した後、シンガポールがどうなったか。次の機会にお話したいと思います。
マレーシアでの体制立上げにひと段落がついて、シンガポールに異動を命じられました。
シンガポールからマレーシアに異動する際は自ら申し出たのですが、
シンガポールへ戻るのは当時の上司の命令でした。

東南アジア全体の事業戦略立案と実行

いわゆる、Business Planningという部門です。
東南アジアに駐在していた期間は1997年4月~2003年年3月の5年間で、
最初の1年はシンガポール、
その後マレーシアで2.5年、
シンガポールに戻って1.5年をこれから企画部門として東南アジア全体の事業戦略の立案と実行をしていくのですが、
その時の上司の仕事を直下で学ばせて貰いました。
その時の経験が、自分自身のサラリーマン人生の仕事のやり方のベースを作ったとも言えます。
期間は1.5年間と非常に短い期間でしたが、その密度は何倍も何十倍も高かったと感じています。

マレーシアでは部下に恵まれて20億円まで事業成長し
シンガポールでは上司に恵まれて経営、人生哲学を叩きこまれ
その後のサラリーマン人生に大きく影響した1.5年間でした。

その上司は、40歳の管理職1年目
本社で東南アジアの事業戦略を立案し、その後自らシンガポールに駐在し自分自身の描いた事業戦略を自分自身で実行しに来られました。
事業戦略を描くだけ描いて実行はしないスタッフが多い中で有言実行の人でした。
もちろん様々な問題もありましたが、大変な思い、苦労もしながら、それでも愉しく、羽目を外しながら一緒に実行しました。
一言で言うと

量、質、スピード全部がめちゃめちゃ厳しいマネジメントをする中で、壊れそうになると、そっと逃げ道を作っる繊細さと優しさ

でマネジメントする上司かと思います。
仕事は厳しいですが、遊びは楽しく豪快で、よく一緒に遊びました。
サラリーマン人生、自分自身の実力というよりは、よい上司、よい部下に恵まれて成果を出してやりたい事が出来る事を実感します。
マレーシアで工場のIPOライセンスを活用して2億円/年だった組織を2年間で20億円近くまで成長させました。
マレーシアで輸入販売をする

そこでの経験をまとめると

少人数のチームなので、その相棒が「出来るやつ」か「出来ないやつ」でパフォーマンスが決まる
日系企業の場合は、賃金体系が比較的低い水準なので、優秀な出来る人財は外資系に流れます。そこで、どんな優秀な人財を確保して一緒に仕事出来るかです。ケチらず高い賃金を支払う事が出来ればいいのですが、無理なら学卒か、若くて経験が少なくまだ賃金が上がり切っていない人財から優秀な出来るやつを探す事です。
ただ、最後は、「この日本人と一緒に仕事したい」という人間関係というのは言うまでもありません、

ひとつのミスが命取り
売上規模がまだ小さいので、ひとつの小さなミスによる損害が経営の命取りになるリスクが常にあります。
顧客のフォローが疎かになる事によるテーマの失注や競合への切替
発注ミスによる死蔵在庫
安易な信用取引による不良債権
急成長する中で、マネジメントが緩くなってしまうとこういった問題がよく発生します。好景気の期間、成長している時はいいですが、一旦受注が鈍化したり、成長が止まったりすると様々な問題が表に噴出します。

2億円、5億円、10億円でマネジメントの仕方は違う
100億円から110億円に10億円のプラス成長をする場合は組織もマネジメントの仕方も同じでいいですが、ビジネスの規模が小さいと同じ10億円の成長をするにも、成長に合わせて頻繁にマネジメントの仕方を変える必要があります。
2億円から5億円は個々が勝手に活動し情報を共有するマネジメント
5~10億円は営業の場合は後方支援するスタッフをつけてマネジメント
10億円前後では、それを組織化して役割と責任を明確にするマネジメント
いずれにしても業務のプロセスを個人で担う規模、個人と個人で繋ぐ規模、組織で繋ぐ規模と3段階ありそうな感じです。

事業成長と共に、死蔵在庫や不良債権の発生と処理、信頼していた部下の退社と新しい仲間との出会いなどを経て20億円まで成長しました。
私自身のキャリアとしては、この後シンガポールに戻って、東南アジア全体で約50億円規模の会社設立と戦略立案を担う事になります。そこで30億円の会社、50億円の会社経営というモノを経験する事になりました。