海外駐在していく上の心構えとして、一番大切にしなければいけない事は何かと考えると、
それは、

「健康」と「安全」です。

「自分を見失って天狗にならない事」
海外駐在を任されて意気揚々と赴任すると「俺は選ばれた」とか「おれは仕事が出来る」とか、自信ややる気と共に、奢りや、自信過剰も出てきます。常に客観的に自分自身を戒める姿勢が必要です。
「現地社員との人間関係」
現地社員との良好な関係なくして、駐在員として仕事は出来ません。あくまでも主役は現地社員、駐在員は黒子に徹する事が必要だと思います。しかしながら、現地社員を見下したり、偉そうに振舞ったりして、現地社員から相手にされず、日本に返された駐在員も大勢居ます。
「焦らず、慌てず、諦めず」
とかく、海外では、日本と違って思うように仕事が進まないもの。バックヤードのサポートや地域での商習慣、生活環境など、自分自身で切り開いて解決しなければいけない事は多々あります。その時に、焦らないで、慌てないでじっくり取り組む事、そしてどんなに遅々として物事が進まなくても決してあきらめない事。これは駐在員の間でよく言われる名言です。
しかしながら、これらよりももっと大切な事は「健康」と「安全」です。体も、心も健康を害してしまったら即帰国です。
私の同僚でも、志高く毎日深夜まで残業して業務をこなしていましたが、突然胸に痛みを感じて緊急手術し、その後帰任する事になりました。せっかく頑張っていたのに残念な話です。
「健康第一」とは言うものの、実際にそうなってみないと実感出来ないので、普段は疎かになってしまいがちです。
また、不幸にもご家族が事故で亡くなられて、駐在どころではなくなった経験もあります。
思い出す度に「安全」の大切さを身に染みて感じます。
その他にも、ご子息の日本人学校でのいじめや、ご家族の精神疾患など、なれない海外生活の中では、仕事以外にも様々な困難に出会う事があります。海外でビジネスの経験やキャリアを積み重ねる事が出来るのも、ご本人やご家族の「健康」と「安全」があってこそだとつくづく感じてします。
日本でビジネスをする上でも同じ事が言えるのですが、特に海外は、環境が大きく違うので、日本以上に気を付けたいです。
1998年から2003年まで5年間、シンガポールとマレーシアに海外駐在していたのですが、その際は、家族5人で行きました。
ちょうど1歳、3歳、5歳の息子乳達と一緒でしたので家内も含めて子育てと慣れない海外の生活で大変でしたが、廻りの駐在員のご家族にも助けられて何とか乗り越えられました。
「3つ子の魂100まで」と言われますが、この頃の経験は息子達にとってはどう影響したのかいつか聞いてみたいと思っています。

男の子は10歳までは父親の影響を、10歳からは父親以外の男(例えば学校の先生とか、バイト先の上司とか)に影響を受けて育つと言われています。その事もあって、駐在期間中は出来るだけ子供達と接してあげようと考えていました。土日は付き合いでゴルフをする方が多かったですが、私は、家族と過ごす事を優先していました。
とは言っても日本のように遊園地に出来開けたりとか、ドライブして観光地に出かけたり出来なかったので、コンドミニアムにあったプールで泳いだり、日々の買い物に出かけたりとか、そういった他愛もない時間を過ごす事でした。

ひとつだけ意図してした事があります。

土曜日の休日ですが、息子達を職場のオフィスに連れて行きました。

サラリーマンをしていると父親が仕事をしている姿を見る機会がなく、家でゴロゴロしている姿しか見ていないので、父親の仕事場を見せてやろうと思った次第です。
というか、単純に忘れ物があって、オフィスに取りに行くついでに息子達を乗せていっただけなのですが。
海外ではマネージャーは部屋がありますから、その部屋の机の前の椅子に座らせたり、ワーターサーバーで紅茶をいれて飲ませたり、ただそれだけなのですが。

大人になって、少しでも記憶の片隅に残ってるのでしょうか?

私が幼少の頃、やはり父親が会社の野球部の試合があって私を一緒に連れて行ってくた事がありました。
その試合後にオフィスに立ち寄った記憶があり

「お父ちゃんはこんな所で仕事しているのか」

と今でもそのだだっ広いオフィスの記憶が残っています。
他の事は殆ど忘れてしまったのですが、何故かこの記憶だけが50年以上経った今でも残っています。

結局、息子達に何を教える訳でもなく、何を伝える事もしないで、仕事ばかりしてきました。
今思うと、単身赴任が長かった事もあり、息子達と接する機会は圧倒的に少なかったと思います。
何もしてあげれなかった言い訳として、密度で残してあげる事が出来れば、、、
というのも父親の自己満足かもしれませんね。
立派に勝手に自分で成長してほしいと思います。所詮は自分自身が何を考え、どんな行動を興すかですから。
マレーシアでIPOライセンス活用と共に8名の体制で年間20億円まで順調に売上拡大して来た組織ですが、思わぬ落とし穴にも直面しました。それが営業拠点の法人経営で、この二つさえ管理出来ていれば、大やけどはしない管理指標の「死蔵在庫」と「売掛金管理」です。

マレーシアで今でも覚えている「回収出来なかった売掛債権」の経験があります。
そのお客様はマレーシアの企業で売上規模は200億円くらいの会社だったと記憶しています。
だいたい100万円/月くらいの中規模のビジネスがありましたが、そのお客様のビジネスは長い間私達の競合がSOMを取っていて、私達の会社のビジネスはゼロでした。
ある日、営業マンが、競合を切替に成功し、ビジネスをスタートしました。
その時は、マレーシアに営業拠点を作り、現地で納入出来るメリットで競合の切替に成功したと確信していました。

しかし3か月くらいして、そのお客様の支払いが期日通りにされていない事に気が付きました。
商品を納入して一回目は支払われていたのですが、
その後の納入分の支払いが期日を過ぎても一切されていない事に気が付きました。

当然、経理部門に支払いの督促をしましたが

「今はお金がないので支払えないが、今月末だと払えると思う」

という回答でした。
しかし、月末になっても支払いはありませんでした。
担当者から経理課長に話を上げても支払いはありませんでした。
お客様に乗りこんで支払いを督促しても、

「クライアントの支払いが遅れているので、回収出来たら支払える」

「CFOが承認しないと支払えない状況だ。」
とか、はぐらされてばかりです。
最後にCFOが出社する時を狙って、追っかけて支払いを督促しましたが、そのCFOが曲者でした。

お客様に訪問すると、いつもは見かけないベンツのEクラスのクーペが止まっていました。
担当者に聞くとCFOの車との事です。

「お金を払いたい気持ちはある。今後も一緒にビジネスを継続したい。でもお金がないものは仕方がない。今は支払えない。」

「ベンツ売ったら支払えるやろ!」

と心の中で叫びましたが、支払う気全くなしです。
挙句の果ては、
「支払いをしない代わりに、あなたのビジネスを増やしてあげる。もう少し安くしてくれたら倍の注文を出す。どうだWin×Winだろう。」
営業なので一瞬売上が増えると思いましたが、結局は不良債権を増やすだけで、何の徳にもならないのは明らかです。それを「Win×Win」と平気で提案してくるCFOに呆れ果ててしまいました。
後で調べると、このCFOは金融出身のやり手で、事業そのものには一切興味はない人物でした。
どう金を増やすか、私服を肥やすかしか考えてなさそうな人物でした。
マレーシアの製造業には似つかわしくない、高そうなスーツを来てベンツのクーペを乗り回しているCFOの経営する会社に半分だまされたようなものです。

怒り心頭で上司に未回収を報告し、金額は少ないですが、こちらも引く事は出来ないので裁判に持ち込む事にしました。マレーシアでは裁判を起こされた会社は事業経営出来なくなる法律になっています。裁判費用を考えると不良債権で処理した方が費用は少ないのですが、こちらも意地で裁判に持ち込みました。
結果は、申請が受理され、その会社は事業経営出来なくなりました。

裁判には勝ったのですが、敵もしたたかで、新しい会社を設立して事業をそのまま継続していました。会社の綴りのYをIに変更しただけの社名で、発音もほぼ一緒で、クライアントも混乱する事がなかったでしょう。ベンツのクーペとしたり顔のCFOは今でも決して忘れる事が出来ません。死蔵在庫に次ぐ、不良債権のトラウマです。

後日談ですが、私達の会社がビジネスを切り替えた競合の営業マンと話をする機会があって、この会社の話になりました。競合の営業マンによると、「支払いをしてくれないので納入をストップしてそれ以来、その会社とのビジネスを止めた。回収出来ず損をした。」という事でした。回収不良で競合が止めたビジネスに私達の会社が飛びついて、同じように不良債権を作ってしまったのです。私達の会社も結局納入をストップしてしまったのですが、別の競合がそのビジネスを持っていったようです。もちろん回収出来てないと思いますが。
東南アジアには、こういったズルい会社が結構ありましたので、信用取引と売掛金回収に関しては、その後在庫と同じように、気を遣うようになりました。
日本では信用取引が当たり前のようで、遅れても年末には支払うという暗黙の商習慣がありますが、海外では一切ありません。営業としてはビジネス欲しさに、妥協して信用取引をしてしまいがちですが、これが大きな落とし穴です。
「営業は、お金を回収してはじめて仕事が終わる」と新人教育で習うのですが、まさにそれを地で行く経験でした。
マレーシアでIPOライセンス活用と共に8名の体制で年間20億円まで順調に売上拡大して来た組織ですが、思わぬ落とし穴にも直面しました。それが営業拠点の法人経営で、この二つさえ管理出来ていれば、大やけどはしない管理指標の「死蔵在庫」と「売掛金管理」です。

ある日、IPOライセンスを活用している工場の社長から、

「在庫が凄い溜まっていると経理から聞いているが、一体どうなってるの?」

と聞かれました。

倉庫に行って見てみると、同じ商品の段ボールが倉庫中を埋め尽くしていました。
調べてみると、その商品だかで35百万円くらいありました。
年間20億円の売上で35百万円の在庫ですから、大体売上の2か月分くらいの在庫がその機種だけであったわけです。
さらに調べてみると、その商品の売上は、毎月35万円くらいしかなく、
35百万円の在庫が全部なくなるのに100か月、すなわち8.3年かかる計算になりました。
さすがに冷や汗が出ました。
調べてみると、受注を担当する女性のスタッフがお客様の注文を500個を間違えて50,000個とシステムに打ち込んでいたのです。二桁も間違ってしまったのです。
その女性のスタッフは間違って発注した事を、ずーっと黙っていたようですが、事実が発覚すると退社してしまいました。
残されたのは私達社員と35百万円の在庫。
それ以来、眠れない夜が毎晩続きました。

他のお客様に転売するにも、同じ商品を購入しているお客様はありませんでした。
日本や生産していた工場にも問合せをしましたが、他に購入しているお客様はありませんでした。
安くで引き取ってくれるブローカーのような業者も当たりましたが、汎用的な商品でないので引き取ってもらえませんでした。
上司からは、こっぴどく怒られました。

「全部自分の家に持って帰って積んどけ!」

とまで言われました。
この一言は、結構突き刺さる言葉で、倉庫に積上げられた大量の在庫が、自分の家にある事を想像すると、部下のミスとは言え、自分のやった事が、どれくらい深刻な被害なのか、自分自身に置き換えて考えさせられました。
退職して退職金で買い取ろうか、とか真剣に悩みました。

結局、本社に稟議書を発行して35百万円分を破棄したのですが、事業規模から考えるとこの金額は私ん取っては死活問題なくらい大きな金額とインパクトでした。

振返ってみると、
組織を作って役割と責任を決めてマネジメントしていたものの
発注数量をミスした担当者が、組織としてミスを見付けられないような業務プロセスで、
経理の数字で在庫が急増するまで気が付かない甘い経営をしていたわけです。
グループ長が数量をチェックするとか、毎月の注残をリストアップして確認するとか、
業務プロセスの中で、クロスチェックがかかるプロセスを構築していなかったのが、原因です。
20億円の組織体制で、抜けていた「業務プロセス」を、死蔵在庫がその初期の組織の限界を浮き彫りにした形です。

この経験が、私の法人マネジメントの大きなトラウマのひとつになりました。
それ以来、いくつかの営業法人をマネジメントしましたが、いつも在庫には、これでもかというほど、気を遣うようになりました。
不動在庫は作るのは簡単ですが、一旦出来てしまうと、消化するには何倍も何十倍も労力がかかり、経営的にも精神的にも非常に辛いです。
前任者が置いていった死蔵在庫を引き継いでマネジメントした事もありましたが、怒り百倍で処理しました。
(リンク)
しかし、毎日の掃除と同じで、きめ細かく在庫を日々管理していると、倉庫もモノが少なくなり、整理整頓されると同時に、経営的にもPL、BSもキレイな数字になる事が実感出来ます。

マネジメントも部屋や机の整理整頓と同じで日々の習慣ですね。

工場の経営だと在庫でも部品在庫、仕掛在庫など、付加価値に影響する指標が多くあるので大変ですが、営業法人経営の場合だと「製品在庫」と「売掛債権」だけ見ておけば大やけどはしないので、この二つは日頃から丁寧に管理しておけばよいと思います。

1997年にシンガポールに海外赴任し、
東南アジア各国のお客様を訪問して課題やニーズを確認しました。
各国の輸入販売ライセンスの活用、
インドネシア工場の活用による域内貿易の推進で、
市場での優位性を作り上げ、
同時にマレーシアに異動し、マレーシアでの体制構築を行ってきました。
売上の急増にサプライチェーンを支える体制が追い付かなくて、
信頼していた社員の退社もありました。
マレーシア工場のIPOライセンスを活用して販売体制を構築し、
その結果、2002年には売上約20億円、社員8名の小さな組織が出来上がりました。
これまでの経緯を振り返ってみると、

2億円、社員4名で、個人が個人の動きでビジネス拡大
10億円、社員5名で、個人に頼り切ったマネジメント体制が破綻
20億円、社員8名で、組織図の描ける体制、役割と責任を2~3名のチームで実践

という進化を3年程度で経験して来ました。
10億円の壁にぶち当たり、10億円の壁を乗り越えた経験でした。
もちろん、部下の働きのおかげですが、本社HQの支援や、工場の協力のおかげでもあります。そして何よりも自分の思いを好きにやらせてくれた上司や関連する部門の責任者の懐の深さのおかげでもあります。

30代は権限を貰って働け

を実践させて貰いました。
その時の上司や上位職の方々の見守りは、その後、私自身のマネジメントの考え方に大きく影響しました。
あれこれ事細かく指示命令を出すのではなく、任せてやらせてみる事でその人は成長する。

京都の有名な庭師の16代佐野藤右衛門さんがこいう事を言っておられました。

「植物というのは、放っておくと雑草や、蔦にからまれて成長しないし、
逆に手をかけすぎたり、水を与え過ぎると枯れてしまうものなのです。
だから、適当に手をかけてやる。
どの枝が伸びればいいかをじ~っと観察して、
邪魔な枝、余分な枝をちょっと刈ってやるだけでいいんです。
あとは、自分で勝手に成長していくもんです。
人間も同じ、
あまり手をかけすぎないで、親が注意してその子を観察して、良いところを見極めて、
間違った方に伸びないように、
余分な枝をちょっと刈ってやるだけで、あとは勝手に成長していくもんです。
最近の子供は、親があれやこれやと手をかけすぎるので、何か問題にぶち当たると、すぐに自殺したり、駄目になってしまう子が多いですねえ。」

奥深いですね。
55歳を過ぎた頃から、会社の価値観と自分自身の価値観の距離がどんどん離れていく自覚があります。
キャリア形成、専門分野、アントレプレナー、マネジメント、企業経営、人脈形成…

意識高い系の言葉を信じて努力を重ねていれば、企業人として成功に近づく

を続けて、それなりの成果を残して、それなりの地位に来たつもりですが、
山を降り始め、ふと考える時間が多くなりました。
60歳以降にこれらの経験や知識がどう役立つのか?
残りの時間で自分自身が本当に大切にしたい時間はどんな時間か?
と考えると、私の結論は

自然を愛でながら、美味しい食べ物を食べる

事かと最近考えています。
早朝の鳥の囀り、渓流の水の音、山の頂から見る雲海とご来光、降り積もる雪、凍る滝、軒を叩く雨音…
山奥から沸きだした水…
取れたての野菜のシャキッとした歯ざわり、水揚げされたばかりの魚達、
自然の素材と手間暇かけて限られた数量だけ作られた、醤油、酒、味噌…。
職人がこだわった鮨、蕎麦、天ぷら、
手間暇かけて調理されたイタリアン…

車やファッションは飽きますが、食べるのに飽きた事はありません。
自然を感じる事に飽きるという事はありません。

そう考えると、日々仕事で接する事にふと疑問を抱き始め、
いや、ずっと前から疑問は抱いていましたが、距離を保ちながら仕事をしてきましたが、
だんだんとその距離感を保つのが難しくなってきました。

買い替え需要を創り出して、大量消費社会で儲ける製造業などの資本家達
環境破壊という名のSGDS。世界中で環境を破壊しているのは、グローバル製造業。
CO2の排出が一番多いのは牛のゲップ。
その牛を食べるために、
飼料となるトウモロコシや大豆の農地のために大量に焼かれる森林。
SGDSを煽って金儲けをする金融業界。
それに乗っかる企業の資本家達。

昔は牛肉は月1回食べる位。鰻も年に1~2回
その頃の牛肉や鰻の方が美味しく感じたし、食べた時の幸福感が多かった。
今は、コンビニで鰻が買える。ゴムみたいな鰻。

テレビや家電製品も10年以上使っていた。
今は一年位で故障して、すぐ交換。

CO2削減の具体策、排出するCO2の計測、
「社会に役に立つ」とか「二酸化炭素の削減に貢献する」と前置きしたら何でもOKの事業成長戦略
会議や報告で、なされるこれらの企業活動に
全くの関心がなくなってしまいました。

株式会社って一体何者なんだろうね。といち労働者は考える。

最近のキャンプブームも、便利過ぎて何でも手に入る、社会システムに疑問を投げかけた
不便を愉しむ事に気付いた人達が最初に火をつけたのかも。
それに乗っかる何も考えないフォロワー達も増えてしまいましたが。

と、

こうやって、中年は、正論で屁理屈でをこねるいやな爺になっていくのかと、自覚した。

旨いもん食べて「美味しいー!」でいいやん。と思った。
マレーシアやインドネシアの郊外や地方に行くと、かつて1960年代に日本で活躍していた車が走っているのをよく見かけました。
少年の頃に心ときめいた車達をまさかマレーシアの田舎で見かけるとは思いもしませんでした。
マレーシアの地方では、
トヨタカローラ
三菱ギャラン
などをよく見かけました。
インドネシアでは圧倒的に
ダイハツミゼット

ジャカルタのミゼット

これは6~7年前まではジャカルタ市内で見かけましたね。
フィリピンは自作の車が主流なので日本の旧車はあまり見かけませんでした。

そこで考えるのは、

この車を日本に送ってレストアして売れば商売になるかも?

インドネシアでは、ベスパを生産していますので、それを安く購入して日本で乗るという事も可能です。
当時の20フィートコンテナは10~20万円くらいの値段だったと思います。
但し、よっぽど好きな人でないと、排ガス規制や、登録手続きを代行してくれる業者など対応出来ないですね。
エンブレムやパーツが純正のものかどうか、というチェック項目も知っていないといけないですね。
インスタのミゼットが純正のハンドルとエンブレムが着いていたので、兄ちゃんに、「いくらだったら売る?」って聞いてみたら

日本円で10万円

って言ってました。
1960年代の車が30年近くを経た後でも活躍している姿を思い出し、現在の旧車ブームであの時何か出来なかったかなぁと思ってます。
海外に駐在していると、様々な商売のヒントがあって、例えば、
現地の食材やお土産を日本に輸出してして売るとか、
高級そうな家具なども安くで手に入りますし、
タイ式マッサージ嬢を日本に連れて来て店をオープンしたり、
気分は実業家になります。
但し、考えていた事の大体は、誰かが先にやってましたが、最近では大手商社や量販店が大々的にやられてます。

生産をインドネシアに移管して
マレーシアで輸入販売ライセンスを取得して
競合の切替が順調だったかというと、そうでもありませんでした。

あるお客様の工場の資材の担当者に提案したら、是非使いたいという事で
日本の設計に、試験と承認を依頼してくれました。
日本の設計の方も承認し、お客様の図面に部品を登録してくれました。
さあ注文書というところで待ったがかかりました。
本社資材部が使用を認めないというのです。

日本まで出張してその方に面談して注文のお願いをしに行きました。
その方の話によると、

数年前に、御社のインドネシア工場を訪問して
「是非インドネシアで生産をして欲しい」
とお願いをしました。
その時の私の会社の回答は、
「出来ない」でした。
なので、縁がなかったと思い、しかたなく他者の部品を採用しました。
あなたが悪いのではないですが、会社対会社の話として
「今更言って来てももう遅い」
というのが正直なっ回答です。

そこで、冒頭のタイトルにもあるように
誰が何を言って来ようと

私が目の黒いうちは、御社の部品は絶対に使いません。

という事でした。全く筋の通った話です。
この話を当時の上司に話をしたら、その方は工場の責任者を経験されていたのですが、
「すごい、解るわー!」
「俺でも同じように思うわー!絶対使ったらへんと思うもんなぁー。」
お客様は関東の方で、優しい口調でしたが、上司は関西弁で困っている私に留めを刺されました(涙…)

マーケティングの競合差異化、勝てる戦略、ゲームチェンジなど色々ありますが、
ビジネスの最後は人間の感情、人と人との関係、義理人情が大きなポイントだと痛感した経験でした。
逆に、
「あの時御社の〇〇さんにはお世話になりました。今でも覚えています!」
と、どんどん採用してくれる方もいます。

今私達、あなた方が会社でお客様に対して行っている行為は、5年後、10年後の後輩がそのお客様に接した時に答えが出る

後を引き継ぐ後輩を困らせるような仕事の仕方はしたくないですね。
10億円を超えたマレーシアの会社は、信頼していた部下に辞められ、信頼する辞めかけた部下に残られしながら、
輸入販売ライセンスを活用する事でさらに市場SOMアップを目指していました。

https://ameblo.jp/edomaski/entry-12779242596.html

そして、クアラルンプールから車で30分程度離れたペタリンジャヤにある工場の一角にオフォスを引っ越して、
工場のIPOライセンスを使ってビジネスをする事になりました。

2名いた営業マンは、2名増員して4名に
庶務関係は、以前退社された部下の替わりに採用した女性1名
納期関係はアシスタントマネージャーを1名採用し、さらに2名の担当者を採用
私と合わせて総勢9名のチームになりました。

9名になって、私をトップとした組織図というのがはじめて描けるようになりました。

営業はF君に、その下に部下3名
納期はEさんに、その下に部下2名
そして庶務はAさんに

このような組織図になりました。

製造業、部品事業に留まらず、一般的に言えるかもしれませんが

10億円程度の規模のビジネスでは個人個人で

20億円程度の規模のビジネスではそれを組織化したチームで


事業の規模に合った組織マネジメントがある事を経験しました。
その後、20億円近くまで売上拡大し、30億円の壁に直面するのですが、
30億円を目指そうとすると、また違う組織体制が必要になって来ます。

後から振り返ってみると、

10人程度で20億円くらいの事業経営が、
責任も自由度もスタッフとの人間関係に関しても、
ワークライフバランスも、
一番充実して愉しかったかも


マレーシアという国がそうだったのかもしれませんが。

長く大企業のサラリーマンをやっていて強く感じている事は、

引継ぎの時に前任の仕事の仕方がよく解る

という事です。

前任が、して来た人事、作って来た組織、そして残した財産、負の遺産。。。

負の遺産の話は以前書いた事がありますが、
売りっぱなしの負の遺産https://ameblo.jp/edomaski/entry-12766933070.html?frm=theme

人事や組織も同じような事が言えます。私が一番たちが悪いと感じているのは、

組織の箱だけ作って、無理矢理そこに人を配置しただけの組織を作る人

上位方針を着実に実行する人
自分自身が組織変更して自己主張する人
上司の指示や助言を自身の意図ではないのに組織に反映する人
部下のキャリアや家庭事情を気にせず組織要請という名の元にコロコロと人を動かしてきた人
自分の任期中の目標達成だけに集中し、5年後、10年後の体制や人事を考えない人

これは、サラリーマンの世界では超優秀で、最高のサラリーマン職人と言えるのですが、
私は、そこまで組織のミッションを着実に実行できる人間ではありませんでした。
むしろサラリーマン失格かもしれません。

こういうマネジメントの下で、モチベーションを落としていった部下達、辞めていった部下達、家庭崩壊した部下達、優秀な部下が事業成長ではなく社内報告の業務部門に集まったりするのを沢山見てきました。
こういう組織を引き継ぐと、元に戻すのに2年も3年もかかります。

これに対して、

部下のキャリアや能力、要望をベースを元に組織体制を作る

方法がありますが、私はこのやり方でした。
経営手法、組織経営としてそれが正しいか、正しくないかというと、正しくないかもしれません。

私の場合は、結局、作りたい理想の組織は出来ずに、

前任が作りあげて来た歪なブロックの塊を少しず壊して、綺麗に並べて終わり

というケースが多かったです。
プロフェッショナルなキレがなかったのかもしれません。
その分、私を引き継いだ後任は、やり易かったかも。
私が引き継いだ後で事業が成長するケースが多かったと多少自慢しておきます。

組織を壊して機能組織や人財をパーツ毎に補修して綺麗に並べるプロセス

並べたパーツを元に組織を作り上げていくプロセス

どうやら私は、組織を壊す事ばかりしていたようです。
唯一の自慢は、その時の部下やスタッフがその後10年以上にわたってキーマンとしてエクセレントな事業運営をしてくれている事です。