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小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

丸の内にローマの巨大な浴場窓!

世界の歴史の中でガラス窓が登場したのはローマ時代、紀元前65年といわれています。このローマ時代の窓といえば大きな半円形の窓。ディオクレティアヌス大浴場に設けられていたため、ディオクレティアヌ窓とか浴場窓と呼ばれています。ディオクリティアンというのは、AD.284305まで務めていた皇帝の名です。

ディオクレティアヌスは、全体の形が半円形の窓で、マリオン(縦枠材)で3面に仕切られています。中央の面は左右より大きいのが特徴です。

このディオクレティアヌス、イタリアのルネサンスの時代の建築家A.パラディオ(150880)が引用し大ヒット。まあ、一世を風靡した建築家ではあるんですが、パラディオ様式とまで呼ばれた建築様式に取り入られています。使い方は、壁面いっぱいにとったり、ベネチアン窓(アーチ窓の両側に矩形窓を配置した窓)と組み合わせたり。ベネチアンのすぐ上に置く扱いが多いようでした。建物の最上階、屋根裏部屋、地下室などに使用されています。

このディオクレティアヌス、わが国の近代建築ではほとんど見られませんが、東京・丸の内明治生命館の基壇部分でたっぷりと使われています。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-浴場窓01


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-浴場窓02

窓は額縁、すべてを絵画にしてしまう?

窓ガラスが普及すると、イギリスの貴族社会でベイウィンドウ、つまり出窓が現れました。というのは、部屋の中から外の風景を見たい、という要望を満たすためです。
ただし、このころはまだルネサンスの影響を受けている時代。建物を全体的に見た場合、片一方にだけはみ出しというか出っ張りがあるのはおかしい、ということで、意味なくもう片一方にも出窓をつけ左右シンメトリックにつくり上げたりしていました。
こうして、中から外を見る、という新しい窓が誕生したわけですが、外から見ると、寅さんのように幸せそうに見えます。元に戻って、イングランドのベイウィンドウでもそうでしょう。だって、お金持ちでしょ! と思ってしまいます。その家の中が火の車だったり、積み木崩し状態だなんて想像する人はいないでしょう。
となると、外から窓の中を見る、というのは具体性を追うのではなく、“窓の中”、とう一つの抽象的世界で一括しているように思えてなりません。そこに人間性が入っていかない。
ということでオランダの「飾り窓」や吉原の「格子の窓」の中が本来、同じ人間であるにも拘わらず、同じ人間としてではなく、広小路の店の商品や銀座のウィンドウショッピングのごとく、抽象化された商品にしか見えない。本来なら絶対に「許せない!」と叫びたくなるはずなのに、素通りしてしまう。人の思考を停止させてしまう、そんな魔力もある。窓枠や一枚のガラスを通すと非現実的な絵画の世界に陥る、というのが今ボクが考えているところです。
当初、フェルメールたちが描いた窓はフェミニズムの萌芽、つまり家庭内の女性の解放というぼんやりした発想が、突き詰めていくと、話は逆の方向へ向かってしまいました。

窓の中の幸せ

西洋の窓は、屋根のちょいと下、高窓からはじまります。それは「採光」と「通風」が目的。

時代はくだって、1415世紀頃、窓にガラスが嵌められはじめ(この頃ガラスが普及し出しました)窓にさまざまな装飾が施されました。さらにときを経て1600年代にはいるとレンブラントやフェルメールのようにガラス窓やガラス窓越しの光、さらに窓から外を眺める絵画が発表されはじめます。まさに、採光、通風に眺望という新しい概念が付加されたのです。これにより、窓の高さは8090cmから上になっています。

この外の世界を見ることができる、というのが新たな窓の価値で、とともに外からも見られることになりました。

寅さんにこんなシーンがありました。さくらの連れ合い・博の父親である志村喬に諭されるシーンです。人間一人じゃ生きていけないよ、ってな話のフリの部分です。

暗い夜道を心細く歩いていると、ポツンと一軒の農家が建ってるんだ。 リンドウの花が、庭いっぱいに咲いていてね。開けっ放した縁側から、明かりのついた茶の間で家族が食事をしてるのが見える。まだ食事に来ない子供がいるんだろう。母親が大きな声でその子供の名前を呼ぶのが聞こえる。

……

庭一面に咲いたリンドウの花。明々と明かりのついた茶の間。にぎやかに食事をする家族達。私はその時、それが、それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと、ふとそう思ったら急に涙が出てきちゃってね。

外から見る室内、というのはみな幸せそうに見える、というのが小生の見方です。

窓にまで税金!?

西洋では「煙突の数が富を表す」、なんて言い方があります。実際、イギリスでは、暖炉の数だけ税が掛けられた時代がありました。

この「ハース・タックス」が不評をかい、次に出現したのが「ウィンドウズ・タックス」。今度は窓の数だけ税を掛けよう、という了見。

課税の根拠は窓に嵌めるガラスが高価なため贅沢という判断。

窓の数で課税が決まったため、窓を仮に塞いだり、最初から塞いだ窓をつくったり、ということも行われました。

さらに、「一対窓」のように窓どうしの間隔を詰め(12インチ・約30cm以内なら一つの窓として数えてもらえました)たものも登場しています。

その一方で、多くの窓を取り付け、富を誇示する物も現れたそうです。

この窓税、不評ながらも150年にわたって続き、1800年代の半ばからは「家屋税」へと移行しています。



小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-盲目


上野博物館・表敬館のブラインド・ウィンドウ

これは、左右バランス等を考慮し、最初から窓を塞いでいます。

窓らしき物がなかったら重々しすぎる建物になっていたでしょう。

切り妻を乗せた窓

西洋建築の場合、石や煉瓦を積み上げて家を建てるのため、構造上では窓は極力つくりたくありません。とはいえ、陽を浴びることは必要。そのため、極力小さな“穴”を開けることになりますが、その穴は細い縦長の穴でした。古い西洋建築を思い起こしてください、日本のような横長の窓なんてほとんど見たことがないはずです。

その縦長の窓ですが、その窓はルネサンス以降、装飾の場となりました。窓の上部に三角の切り妻(ペディメントといいます)を載せて装飾を施したり、円柱や角柱、付け柱などで支えて祠にしたり、とさまざまな装飾を凝らす、というものです。このペディメントはギリシャ・ローマ時代の破風の引用です。これは富の象徴、誇示でもあります。

ペディメントはイギリスではルネサンスの後のジョージア朝(17141830)に流行りました。明治に入ってから西洋建築に触れた我々にとってはひと時代もふた時代も古い建築ですね。

とはいえ、結構魅力があったりします。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-大阪日銀

             日銀大阪支店の“窓”

ガウディの曲線はどうやって描いた?

アーチ(半円アーチ)

上端部に弧を描いたもの。石ないし煉瓦で積みます。弧を描く出発点を迫り元といい、迫り元と迫り元の中間点がコンパスの中心点。これを半径に弧を描いた形が半円アーチ。

支保で支えながら、材料を積み上げていき、頂点となるところに要石(キーストーン)を入れるとグッと沈むものの、ある位置で留まる。力が支持点に集まるとともに分散し、曲線形を保つ。

例えば、コピー用紙の端部を持ち、紙の面を水平に保とうとするとグニャリと軟らかく折れ曲がるが、指で曲面をつくってやるとキチッと地平面に対して平行に伸び、その形を保つことができる。「曲面は強い」ということを古代の西洋人は知っていた、ということがこのアーチで判ります。

尖塔アーチ

通常のアーチはコンパスの針を左右の中心当て、芯をグルッと描くとできあがりますが、迫り元からもう一方への迫り元までを円の半径として弧を描き、さらにもう一方の迫り元から弧を描く。すると、二つの弧が交わったところが尖った形になる(この弧と弧は上部と下部で交わりますが、その接点と接点を結ぶと線の二等分ができます。これ中学時代に習った幾何)。これが尖塔アーチといわるもの。この尖塔アーチ。半円アーチより強度が高い。

ゴシック時代に用いられたため、この窓が使われていたらゴシック様式です。

と、ここまでは、教科書的な世界。では、高度な図面など描けなかった時代のガウディのサグラダ・ファミリアの曲線なんぞはどうやってつくっていたか? って疑問に思いませんか? 実は、現場に行って、鎖をぶら下げ、それを写し取り、逆さにしたのが例の形。まぁ、わが国でも図面に描かず(そんな単純な二次元の図面には書き込めない?)、現場に来て、地面に弧を描き、この形でつくって欲しい、なんていっていたの超有名な建築家先生もいらっしゃいましたが……。

主婦がうらやましがる掃き出し窓

西洋の城にはトイレがありませんでした。では、どこで用を足すかというと、クローゼットの中です。狭い箪笥のような中で、いっぱい衣裳もあるだろうに、そんな中で、ドレスの裾をまくしあげ場所を確保する? なんて、考えてしまいますが、どうしてこのクローゼット広かったそうで、用を足すスペースも充分ありました。

で、その中で、どうやって、というとおまる(丶丶丶)で用を足していました。まあ、この話はおまるを持って城中どこでも、なんて話もありますが、ここで話題にしたいのは、その物(ぶつ)の処理。トイレがありませんので、いわゆる糞溜もありません。ということで、彼らはどうしていたかというと、城の窓からポイ! まあ、城周辺は糞尿で本当に臭かったともいわれています。

こんな話を聞くと、日本はきわめて、合理的。戦(いくさ)の際には、郭の上から石とともに糞も落としたとか。まあ、これで敵方も戦意喪失、ということですね。

話は戻って、建物の中から、玄関を通らずに、モノを捨てる、という習慣。日本人にはない(たまに、マンションの上からタバコの吸い殻を捨てる輩もいないではないですが)、と考えられている、といっていいでしょう。ところが、建物の中から、ポイッってことをやっていた時代があります。

このポイ捨て、一つは、トイレの掃き出し窓。和式の金隠しの前に横長に空いていた窓で、たいがいはガラスの引き戸付き。高さは10cmほどでした。このトイレには、手のひらサイズの箒があってその箒でチョイとゴミを掃き出す、そのため窓でした。

このトイレの掃き出し窓は可愛いものですが、しかし、部屋の中、足もとにある場合もありました。これは本格的な掃き出し窓。背丈よりちょっと低い箒を持って部屋の隅々を掃き、それをちりとりでとって、というのではなく、掃いたらそのまま、サッと外へ。こちらも高さは10cmほど。旅館の宴会場や料理屋などによくあった、と記憶しています。

この掃き出し窓、窓枠の底辺が床面の位置にある窓のことをいうため、現在では背丈が人の高さの窓も“掃き出し窓”と呼んでいます。ただし、こちらはどなたもゴミをそのままはき出すことはないでしょう。まあ、電気掃除機の時代になったわけですが。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-掃き出し

出入りできるフランス窓

窓というのは、建物に穴を開ける開口部です。でもこの開口部は窓だけではありません。そう、出入り口だって開口部です。というか、出入り口がなければ建物の中に入ったり、出てきたり、ということができなくなってしまいます。

ということで、窓と出入り口の違いは、人が出入りできるかどうか、つまり人が出入りできない開口部のころを「窓」、といっています。

と、ここまでは皆さんご理解願えるところ。ところが人が出たり入ったりできても窓という場合があります。「フランス窓」です。

このフランス窓は床まで開口部が広がり、ベランダやバルコニー、テラスなどに出入りできるものです。でもマンションからベランダの物干しへと出る引き戸は、なぜか“フランス窓”とはいってもらえませんね。なぜか。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-前田侯爵邸

右手に見えるのがフランス窓。この窓を開けるとテラスに出ることができる。(東京駒場・旧前田侯爵邸)

関東大震災で倒れた建物と残った建物

関東大震災の際、地盤の強い本郷台地では建物が無事に残ったといわれます。
東大の前、本郷通りを渡ったところが旧森川町。ここでの建物は無事。ところが、その隣町の西片では、崩れ落ちた家が結構あり、さらに本郷台地を下った旧柳町では全壊。ここが谷の底です。しかし、その上、伝通院の裏は無事でした。
これらは、どういうことを意味するかというと、本郷台地とか伝通院の台地というような大まかなエリアではなく、ほんの数百メートルの間で地質が大きく変わり、建物の倒壊はその変わった地質に大きく左右された、ということです。
これらをさらに詳しく見ていくと、この地質による影響は木造について当てはまっていましたが、鉄筋コンクリート(RC)造りにおいては、地盤の強弱による差は見出せませんでした。
そこで、木造家屋について、さらに詳しく見ると、丸太が乗る程度の石を地面に置き、その上に束を立てて家を乗せるという、点で支えるタイプの木造家屋が多く倒壊したことが判り、ベタ基礎というように線で支えるタイプの家は持ちこたえていたました。(現在の木造家屋は布基礎やベタ基礎の上に乗っています)
ということで、関東大震災後、政府は鉄筋コンクリート造りを推奨したんですが、政府が無償で建ててくれるわけではないので、普及の度合いは皆さん街で見るとおり。ちなみに、わが家も寒い寒~い木造です(トホッ!)

第4回「横丁・小径学会」三田遊歩の行程が決まりました!
23区内の商店街をすべて歩いて踏破した志歌寿さんが三田を案内してくれます。

「『東京市及接続郡部地籍地図』で歩く芝の小径」
ナビゲーター:志歌寿ケイト
日時 1月26日(土) 14時~
集合場所 JR山手線 田町駅改札前
(北・南改札とも向かい合っていますのでどちらを出てもOK)
大正元年発行の"東京市及接続郡部地籍地図"をもとに、
現在の芝地域(芝一丁目から五丁目あたり)を歩きます。
明治大正期からある数々の街路、
ないようである水路の痕跡など、「小径」を中心に歩行します。

ご興味のある方、ご参加ください! 誰でも参加でき、みんなが代表、みんなが参加者、という集まりです!!
(東京市及接続郡部地籍地図は国会図書館サイトで無料公開されています。
当日は志歌寿さんが比較資料を作って来てくれる予定です)