窓は額縁、すべてを絵画にしてしまう?
窓ガラスが普及すると、イギリスの貴族社会でベイウィンドウ、つまり出窓が現れました。というのは、部屋の中から外の風景を見たい、という要望を満たすためです。
ただし、このころはまだルネサンスの影響を受けている時代。建物を全体的に見た場合、片一方にだけはみ出しというか出っ張りがあるのはおかしい、ということで、意味なくもう片一方にも出窓をつけ左右シンメトリックにつくり上げたりしていました。
こうして、中から外を見る、という新しい窓が誕生したわけですが、外から見ると、寅さんのように幸せそうに見えます。元に戻って、イングランドのベイウィンドウでもそうでしょう。だって、お金持ちでしょ! と思ってしまいます。その家の中が火の車だったり、積み木崩し状態だなんて想像する人はいないでしょう。
となると、外から窓の中を見る、というのは具体性を追うのではなく、“窓の中”、とう一つの抽象的世界で一括しているように思えてなりません。そこに人間性が入っていかない。
ということでオランダの「飾り窓」や吉原の「格子の窓」の中が本来、同じ人間であるにも拘わらず、同じ人間としてではなく、広小路の店の商品や銀座のウィンドウショッピングのごとく、抽象化された商品にしか見えない。本来なら絶対に「許せない!」と叫びたくなるはずなのに、素通りしてしまう。人の思考を停止させてしまう、そんな魔力もある。窓枠や一枚のガラスを通すと非現実的な絵画の世界に陥る、というのが今ボクが考えているところです。
当初、フェルメールたちが描いた窓はフェミニズムの萌芽、つまり家庭内の女性の解放というぼんやりした発想が、突き詰めていくと、話は逆の方向へ向かってしまいました。