第4回「横丁・小径学会」「『東京市及接続郡部地籍地図』で歩く芝の小径」を開催しました。
ナビゲーターは23区内の商店街をすべて歩いて踏破した志歌寿ケイト氏。
遊歩したのは三田台地の麓、駅から第一京浜を渡った北側でした。
このあたり、再開発はされていますが、街区を潰しスーパー街区にして巨大な再開発をする、ということがなく、それぞれの街区の中での再開発にとどまっていました。そのため、かつての街区の道路がそのままのこっています。と同時に、木造戸建てのかつての昭和の芝のイメージそのままの街並みも堪能できました。そのなかで、板蔵を発見! 開口部の窓の扉が朽ち果ててしまったり、一部板貼りが剥落してしまっているものの貴重な建造物です。これは収穫!
遊歩は地積図を志歌寿さんが読み解き、かつてあった水路を辿りました。意外と多かったのが、現在段差歩道となっているところ。歩道部分が水路で、それに沿った道が拡幅され、現在の幅広の車道となっているところが結構ありました。
圧巻は、汚穢(おわい)路地。ある一画、路地というにはあまりにも狭い、犬走りが各家の脇や裏を通っていました。この路地にかつてはくみ取り式の便所があって(なんと、こんなところまで地図から読みとる!)、汚穢を汲み取っていたそうです。通常、便所は北側につくることが多く、また、くみ取りの関係から表に面してつくることが多いと思っていましたが、ここ芝では、建物の裏に設けていたというのは発見。と同時に、路地から路地、それらがみな基本的に抜け路地で、各家に行くには路地からでないと入れない、つまり建物の表が路地という家々がなんと多いこと、というのも発見です。
最後は、齋藤さんに母校の三田校舎のなかの図書館(旧館)や事務局棟、それに演説館を案内していただき、慶応通りへ。この慶応通り、昔と変わらない、と思っていましたが、「かつてあったのは定食屋や麻雀店。それが今は飲み屋街」といわれ、たしかに、と納得。三十数年前には飲屋街ではありませんでした。それと、学生以外あまり通らなかったと思いますが……。かつては雀荘だったという場所の焼き鳥屋で一献、盛り上がりました!
光と風を採り入れる窓は二回、大きな変遷を経験しました。
その一つは、ゴシック建築時に誕生したステンドグラス。これは、吹きガラスといって高温で熱したガラスを拭き竿に巻き取り、息を吹き込んで成形する画期的な方法。現在でもこの吹き竿製法は続いています。
ただし、この方法で平らなガラスをつくろうとすると、息を吹き込んだ後、竿を振って円筒形をつくり、すかさず切り開いて面(わが国では江戸時代、この技の習得に四苦八苦したそうです)にしなければなりません。そのため、大きな面をつくることができません。そこで、鉛を使って平たく切り開いたガラスどおしを繋ぐというステンドグラスが開発されました。
これは、ある意味、窓の革命です。巨大な建物は権威とか威厳のプロバガンダ、アジテーションになりますが、窓もここから、アジテーションの一翼を担うことになりました。絵で見せる宗教の情宣活動です。
この後、16世紀になり、ガラスに一大革命が起こります。板ガラスの誕生です。これなら大きな平面をつくることができます。この板ガラスの誕生、普及から、イギリスの貴族は部屋の中からピクチャレスクな庭園を見るため、ベイウィンドウ(出窓)を誕生させています。旧古河庭園や旧岩崎邸などのような一部屋分そのものが窓、サンルームといってもいい大掛かりなものです。
一方、ネーデルランドでもフェルメールなどが窓を採り入れた絵画を描くようになり、窓は採光と換気から、「眺望」という新たな意味が付け加えられました。新たな意味の創造、窓にとっての大革命です。
この眺望する窓は、オランダの飾り窓のようにリアリティを失い抽象的な世界をつくりあげました。、ソトから見る部屋の中は寅さんの世界。夕暮れの道を歩いていると、垣根越しにリンドウの花が咲いていて、その先の家の中で、家族が団らんする幸せなそうな家庭が垣間見られる――という世界。窓枠は額縁となり、窓ガラスは絵画となり、リアリティを剥奪し、みな幸せそうに見えるという具合です。
採光と換気のためのロマネスク時代の高窓・壁の穴から、ゴシック建築での大きな尖塔アーチの窓(ステンドグラス)が生みだされ、それが板ガラスの開発による眺望する窓、産業革命後には鉄とガラスによる連窓へ、さらに現代では、窓が拡大され、壁面全面がガラス張りの窓、ガラスカーテンウォールへ。窓の拡大を希求した結果、窓という枠組みを飛び越え、窓を消滅させ元の壁に戻らせてしまいました。
窓を拡大し、ついには窓の消滅にまで至った、というこの窓の変遷を引っ張ってきたエネルギーとは何だったのか、いま思いを巡らせています。何方か、解明したかた教えてください!
昨日、母親の見舞いに行くと寝ていたため、
「おッ母さん、イチローだよ!」と呼びかけました。すると、うっすらと目を開け「あぁ~、珍しいね!」だって! えぇ? 「昨日来たでしょ!」
たしかに、年が明けてからあまり、行っていない、ということもありますが、そんなに久しぶり、ってわけじゃない!
50歳を数日後に控えて逝ってしまった友だちもそうでした。何年か闘病生活をしましたが、「お前は見舞いに来ない!」というのがその友人の口癖で「○○は来てるぞ! なのにお前はぜんぜん来ないじゃないか!」という叱責ばかり。でもその来ているという友人はたしかに見舞いに来たけれども一度か二度。それで充分ですが、こちらは週何度も。しまいには、こちらも切れて「○○なんて一度か二度来ただけじゃないか! オレは週何回来てると思ってるんだ!」それにもめげず、友人は「毎日来たっていいじゃないか! なんで来られないんだ!」こんなやり取りばかり。病院の食事だけではかわいそう、と事務所の同僚に鯛飯や松茸ご飯を炊いてもらって持ち込んだり(煮炊きの道具は中小出版社と編プロの必需品。やくざな商売です)、そんな時には楽しいひとときを過ごせたんですが、数日明けようものなら、病院でずっと叱責。なんでオレばかり来ないなんて言われなきゃならないんだよ! といつもいつも思っていました。こんな想い出ももう十年も前のことになってしまいました。
でも、なんで“見舞いに来ない奴”ってレッテルをはられるんだ! ひとは雰囲気だけで判断するんじゃない?
「『東京市及接続郡部地籍地図』で歩く芝の小径」
ナビゲーター:志歌寿ケイト(23区内の商店街をすべて歩いて踏破した方です)
日 時/1月26日(土) 14時~
集合場所/JR山手線 田町駅改札前(北・南改札とも向かい合っているため、どちらでもOK)
内 容/大正元年発行の"東京市及接続郡部地籍地図"をもとに、現在の芝地域(芝一丁目から五丁目あたり)を歩きます。
明治大正期からある数々の街路、ないようである水路の痕跡など、「小径」を中心に歩行します。
*ご興味のある方、ご参加ください!
誰でも参加でき、みんなが代表、みんなが参加者、という集まりです!!
原稿の戻りが来なくて、空いてしまった昨日、フッと思いついたんですが、もう一度、「社会科見学」なんてものをやってみたらどうだろう。そして、それをみんなでネットに掲載する。そりゃ面白いものができるんじゃないかな、ということです。これはもちろん、出版企画にはならない、つまり、商業ベースには乗らない、というところがいいところ。(かつて、江戸の町割りを描いて、表店、裏店、長屋、棟割り長屋を周囲の人々や行きつけの飲み屋で分譲(もちろんお遊びです)したことがありました)。
そもそも、ボクは東京生まれの東京育ちなんていっても、東京の田舎。なので都内どうしでも、どこどこに遠足に行ったとか、社会科見学にいったなんていう話になるとまったく噛み合いませんでした。そんな記憶もあって、もいちどそれぞれが気になった社会科見学や遠足をしてネットでまとめられないかな、なんて考えました。全国の社会科見学が蘇ったら面白い! いざ、実際やろうとす ると大変ですが……。
屋根を見せ、深い軒先をつくるわが国の建築物は、柱と梁で組んだ構造美を見せます。木目を見せた柱(西洋人はこの木目を嫌い、ペンキで塗りたくったりします)を現(あらわ)しにし、白い漆喰と鮮やかなコントラストを表現する真壁や虫籠窓、格子、出格子、肘掛け縁などファサードの表情が豊か。
その一方、西洋建築はなんとも無粋な世界。石や煉瓦を積んで囲った西洋の建築物は無機質。人の温かみが感じられません。しかし、人はどうしても外面で判断します。そのため、西洋では装飾によって覆われた装飾建築が長い間続いていました。
このため、あくまで外見重視。例えば、階段窓など、上り下りする利用者にとっては人の目線に沿って窓を設けて欲しいわけですが、見てくれからデザインを考えているため、高窓のような位置に配置されまったくソトの風景が見られなかったり、という建築物も多く見られます。これは日本ですと、明治から大正期までそのようなビルを見かけることができます。中央棟をちょっとせり出させて中心性を強調し、左右両翼をシンメトリーに窓を綺麗に並べる、なんてのがその手です。
これが、昭和に入っての東大安田講堂になると階段窓は目線に沿って配置され(階段上から窓を見ると上下では千鳥に配置されているように見えます)、かつソトから見ても綺麗に連なっている、という工夫がされています。これは、外見上だけでなく、内部からの眺望も考慮される時代になってきたということです。竣工は1923(昭和12)年。設計は後に東大総長となった内山祥三。
この4年前有楽町の駅前に誕生したのが日劇(日本劇場)。こちらは帝冠建築で知られた渡辺仁。
日劇が取り壊され、もう30年以上経ちますので覚えていらっしゃる方も少ないかも知れませんが、建物の上の方に円窓が綺麗に並べられていました。屋根裏部屋といった高さです。実はその階は踊り子さんたちの着替え室だったそうで、着替えた後、イス座ってフッと外を見る。するとそこからは有楽町の映画館越しに日比谷公園のドイツ式庭園や和の心字池が見えたり――。これらの風景を見るとはなく見つめながら出番までのひとときを過ごしたり、公演後風景とともに疲れを洗い落とす――日劇の円窓はまさに都会のオアシスになっていました。
採光と換気からはじまった窓は、ヨーロッパでは中世に板ガラスが開発され普及することによって、「眺望」という機能が生まれました。わが国では、それから300年ほど経て大正時代板ガラスが普及し、洋館でも「眺める」という概念が生まれてきました。もちろん、自然とともに過ごしてきたわが国の和館の場合、「見晴らし窓」とか「借景」という概念はずっと昔からあったんですが……。
窓――直線へ向かった西洋と曲線に憧れた日本
西洋と日本の窓を比べて見ました。すると、カタチのうえから大きな違いがあったことに気づかされました。というのは西洋の窓はアーチ窓、つまり曲線、それに対して日本の窓は直線――であったということです。曲線と格子といったところでしょうか。
もう少し詳しく見ていくと、元々、ギリシャ神殿は木造で建てられていました。ところが、使っていたレバノン杉は、一度伐採するとなかなか生えてこない。まあ、日本の秋田杉だって、近畿のヒノキだって、針葉樹というのは一度切ったら死滅する。そこが広葉樹と違うところ(広葉樹は切っても生命力豊かにまた生えてきます)。ということで(地中海地方は樹木が生長する夏に湿気が少なく雨が少ない。逆に冬は樹木が寒さに耐える時期ですが湿気が強く雨が降る――と、日本と逆ということもあります)、樹木が枯渇し、石造りに変わっていきました。この当時の窓は長方形。この木造から発想された直線の窓はローマ時代も続きましたが、そののちのロマネスク(ローマ風のという意味になります)の時代なると石造り、煉瓦造りからの発想から窓はアーチ形になります。このアーチ窓はコルビュジエやミース、バウハウスなどのモダン建築がはじまるまでつづけられました。以来、西洋建築は、曲線から直線と直角の時代に突入。コルビュジエも「直線と直角がもっとも美しい!」といっていたほどです。
わが国に西洋建築が入ってきたのは、幕末から。明治、大正を経て、昭和の戦前までを近代建築といいますが、明治・大正時代の憧れといえば曲線の窓。直線と直角しか見てこなかった(寺院の火頭窓(お寺では火を嫌うため、華という字を当てることが多いです)というのや茶室での円窓というイレギュラーなものはありましたが)われわれは西洋の曲線に西洋文明の香りをかぎ、限りない憧れをもちました。ところが、この頃には、西洋は曲線の世界から脱却、装飾建築から“裸の建築”(コルビュジエはサロンデボザール(日本の学士院会員に相当)から裸の建築と批判されていました)へ向かって旧来の大家と格闘していました。
窓”は「女性」ということで納得。で、ドアは?
ドアは、イタリア語、フランス語のほか、ドイツ語までも「女性名詞」! 常に誰をもが出入りできる、ごっつそうなドアがなんと女性名詞だなんて! ここで、窓は軟らかいイメージの女性、ごっついドアは男性、という推論はもろくも破綻してしまいました。だいたい、男性名詞とか女性名詞、というのは遠い昔にはそれなりに論拠、意味があったのでしょうが、現代の我々には分からない。だから、意味なくとにかく覚えろ! と指導されたことを今さらながらに思い出しました。
まあ、出入りできる開口部(玄関)と出入りできない開口部(窓)での性差はない、と現状ではいわざるを得ないようです。
この後は、女性の家事労働と“窓”について探ってみたいと思います。

