― 雨は祭らない ―
引き戸を細かく叩く雨。
今日は、ひな祭り。
ちらし寿司。
酢を立たせない。
色を遊ばせない。
皿の上で、
そっと雨宿りするくらいがちょうどいい。
桶からよそったばかりのちらし寿司。
桜色の器に、
曇り空みたいな錦糸卵。
海老は、端に。
隣には、
白を少し立たせたほうれん草の白和え。
湯気のやわらいだ味噌汁。
黒糖寒天には、
金粉をひとかけ。
色はある。
騒がない。
厨房の光は、深い。
ロクは寿司桶の蓋を外す。
湯気は出ない。
酢飯は、まだ少し温かい。
「雨ですね。」
クゥー。
頷かず、
底から返す。
水気が多い日は、強く混ぜない。
酢は、静かに染みればいい。
「今日は、静かですね。」
「いつもです。」
それだけ。
雨の日の祭りは、
声を出さなくていい。
ひなあられは、袋のまま。
「湿気ますよ。」
「湿っても、甘いです。」
祭りでも、
雨は祭らない。
黒糖寒天は、少し固め。
金粉は、一片。
光は、多くいらない。
「梅、散りますかね。」
「見なくても、咲いてます。」
話は、終わる。
今日の注意書き。
・雨の日のちらし寿司は、少し重たいです
・雛あられは湿気ても怒りません
・酢は騒がせません
・祭りでも、静かに営業しています
引き戸の向こうで、雨がやわらぐ。
ちらし寿司は騒がない。
腹が満ちる音だけが、
雨に混ざって、ゆっくり消える。
― 割ると、春が少しだけほどける ―」
厨房の戸を少しだけ開けると、
外の空気が、ほんのわずかに柔らかくなっていた。
まだ寒さは残っている。
でも、油の音が少しだけ軽く聞こえる日がある。
ロクは、肉厚の厚揚げ豆腐を網の上に置いた。
ずしりと重い。
中は白く、静かで、まだ冷たい。
強く焼きすぎない。
表面が、ゆっくりと呼吸を始めるくらいがちょうどいい。
じ、と小さな音がする。
「だんだん、暖かくなってきましたね。」
クゥーがそう言った。
ロクは答えなかったが、
火をほんの少しだけ弱めた。
梅の花が、どこかで開き始めているらしい。
見に行ったわけではない。
ただ、空気がそう教えてくれる。
肉厚厚揚げ豆腐の表面に、ゆっくりと焦げ色が浮かぶ。
焦げは仕様だ。
香ばしさは、少しだけ勇気を持っている。
「焼きすぎます?」
クゥーが聞いた。
ロクは首を横に振った。
「火加減は、嘘をつきません。」
それだけだった。
皿に移すと、白い断面から
細い湯気が、静かに立ちのぼった。
割ると、静かになる。
刻みネギを山にして、
醤油かポン酢を、ほんの少し。
今日はそこへ、
梅肉だれを、指先ほど。
白の上に、淡い紅。
主役にならない春。
難しいことはしない。
それで、だいたいの夜は救われる。
肉厚の白は静かで、
焦げ目だけが、少しだけ強気だった。
小鉢は、浅漬け。
うすく、うすく。
ほんのり桜色を含んでいる。
味は強くない。
春が近いことを、少しだけ教えるくらいがちょうどいい。
本日のおすすめは、出さない。
今日は、火のそばにいる日だ。
甘味は、黒糖寒天。
厨房の片付けを少しだけ手伝いながら、
クゥーは皿を拭いていた。
「今日、梅、咲いてるんですかね。」
ロクは少しだけ間を置いてから言った。
「見に行かなくてもいいと思います。」
どうでもいい会話だった。
でも、それくらいがちょうどいい。
今日の注意書き。
・焦げは仕様です(香ばしさは正義)
・厚みは裏切りません
・急がないでください、時間は煮込まれています
夕方の光が、引き戸の向こうでゆっくり薄れていく。
肉厚厚揚げ豆腐は騒がない。
夕方の光だけが、ゆっくり引いていった。
次回




