第2ペテロ1:20
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、
まず第一に知るべきである。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
この箇所に、預言と言う事、そして預言を勝手に解釈しない事
そして、預言は神から出たもの、霊感によって神が語られたものとあります。
預言と言うと思い浮かべる事は、将来起こる出来事に関して
語られているものであると思いますね。
ノストラダムスとかハルリンゼイなどの書物を読めば、預言
イコール将来の出来事を予め人々に伝えるものと考えます。
確かに、アポクリファ=この世界の最後に付いて語られている
部分もあります。マタイ13章のイエシュアのたとえ話もこの
世の終わりに関して話されています。でもそれは神の言葉の全体では、預言書内容のほんの一部でしかありません。
では聖書の預言は何を中心は語られているのでしょうか?
預言=神から言葉を預かり伝える事です。
預言書、預言者の目的は、”神のトラー”=インストラクション=教え=婚姻契約から外れて生きている人達への警告、悔い改めに
導く事です。
悔い改め=神の教え、インストラクション、婚姻契約のに記されている生き方に戻れ!と言う警告が預言者、預言書の目的なのです。全てはトラー=婚姻契約に付いて、まつわる内容が書かれているのです。預言書に手を付けない=神の言葉に手を加えないと
言う事です。
聖書は全て”トラー”が中心です。トラー=神の言葉=教え、
インストラクションに関して書かれています。
だから、預言の言葉と言うならば、神から託された、預けられた
言葉=神のトラーなのです。預言の賜物を求めなさいとは、
未来の出来事を予測できる能力とか、他者に占い師の様に何かを
言い伝える能力を求める事ではなく、神のトラーの解き明かし、
神のトラーを神の意図通りに教えられる知恵を求めよと言う
事なのです。
預言の賜物を求めるとは、未来預言や又は他者に対しああしろ
こうしろと言う人生選択を宣言する事が出来る能力と考えているかもしれませんが、聖書に書かれているのは、そんな意味では無いのです。
もちろん、神の言葉に根付いた知恵に満ちた人は、他者に的確な
アドバイスや助言を与える事が出来るのですが、本人が考え
決める事に対しての適切なアドバイスを与える代わりに、
人が決める事に神でもしない事、個人が自分で神の前に考え、
決断しする事に介入し代わりに結論を告げたり、神からの預言を預かったのだと言い、誰かの人生選択をする事を代行する事では無いのです。これは本当に危険な行為です。人が神になっている。
聖書の預言を勝手に解釈してはならないと書いてあります。
神の言葉=トラー=聖書は霊感によって人を通して書かれたと
書いてあります。神=言葉=霊=イエシュア。全部同じです。
だから、神の言葉=トラーは終わりなどと言う教えは、この警告に照らし合わせて見てみも、人間の勝手な解釈でしょう。
神の言葉=トラー=婚姻契約から外れた生き方をしている人達、
その代表がイスラエルで表されていますが、全人類に同じ言葉、
教え、警告、忠告が語られている事実にまず戻らない限り、
神の言葉は人ごと、他人事の様に思えて、ただ聞き流してしまう事になります。その証拠に、モーセの五書は現代は異邦人には
無用と言う教えのお陰で、きちんと聖書に書いてある中身を書いてある通りに教えられることは殆ど無いと思います。
モーセの五書、預言書、諸書読む事をする人も少ない。
だから何が書いてあるのか知らないと言う人は世界に無数にいるのです。
そして、勝手な解釈=古い聖書箇所=70%はイスラエルだけへの教えと言う神学の教え、異邦人にはトラーは今は関係無いと
言う教えは、聖書とは異なる教えです。
その様な不真実な教えは、神の言葉を知る事を妨害する隔たりの壁を作ってしまい、神が教える事に耳を傾けるチャンスを奪い、神と自分の間にも隔たりを生みます。無用、終わりなら読む、
学ぶ、教える、知る必要なんて無いと考えるからです。
自分に都合の良い事、分かりやすいこと、受け入れやすい言葉
だけを適当に読み、自分の自由自在に選択する事を教え、
自分の側で選り分けて偏り聞く事を教えているのです。
都合悪い事に関しては、”今は恵の時代でなんでも許されているから古い教えは今は関係無い。”と言うのを聞いたことがあります。神の言葉のどの部分も、一点一画も落ちない!とイエシュアが言われた言葉を真っ向から遮り、否定している教えなのです。
神の警告が耳に届かなくなり、神の言葉に根付いて考えることが
出来なくなっているのです。
神により預言者に託された言葉が聖書になっています。
アヴラハムも、モーセも預言者であり、預言とは神の言葉=
トラーです。神から預かった言葉=預言だからです。
創世記から黙示録まで全部、同じ神のトラー=教え、
インストラクションなのです。
ヨハネ、1世紀の時代の使徒達で聖書に登場するのと同じ
預言者はそれ以降居ないと書いてある通りです。ヨハネの居る
1世紀の時代まで。それ以降は聖書が閉じられたからです。
必要な事は全て聖書に書かれているのです。それを今個人個人が
自分で読む事が出来る時代なのです。
イザヤ、エレミヤ、ダニエル、どの預言書も同じテーマです。
そして、終末論を語るとするならばそれは、トラーを語って
いるはずなのです。トラーを否定した終末論は真実ではあり得ないからです。エデンから飛び出した人類が、エデンに戻る最後の時代に起きる事、そして神に呼び出され、神の声=言葉=トラーに立ち返る人達が集められる事が書かれているからです。
イザヤ書は詩の形態で書かれているので、翻訳だと見えない言葉の意味、書かれ方の意味、ニュアンスがありますが、
一体ヘブライ語では何が書いてあるのでしょうか?
イザヤ66
2 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。
これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、
わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
世界に存在する全ては、神の言葉によって、神が創造した物。
全て神に属する物です。でも、その中で、神の教えに聞かない
別の教え、神々に属する人々がいます。
歴史の最初、エデンの園で起きた出来事がその後もずっと継続
しています。”神の言葉”=トラー=インストラクション、教えから外れて、それぞれの目に叶う考えに散って行った事です。
2節で、神が顧みる人はどんな状態の人であるかが書かれて
います。”へりくだって心悔いとあります。何を意味しているのか?神のトラー=教え、インストラクションから外れて、ズレて生きてしまった事に気が付き自ら顧みる状態、意識にある。
その人は、神の言葉=教え=トラーにおののくものと書いてあるのです。
3 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、
また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血を
ささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを
楽しむ。
詩的表現なので、意味不明に聞こえますが、こう書いてあります。
牛を屠る者、子羊を犠牲とする者、乳香を捧げる者。これは神の宮での”コバーン”を捧げる事です。
これは、マタイ5:23の教えにぴったり繋がる事でもあります。
5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が
自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
神の神殿で神の前に”牛”を捧げながら、人殺しする人。
神の神殿で、子羊を捧げるのに、犬を縊り殺す残虐な者。
神の宮で供え物を捧げるのに、豚の血を一方で捧げる者。
異教の神々の神殿、異教神の教えと交わっている者。
これは使徒15章のイエシュア信者になったばかりの
異邦人と同じ状態です。イエシュアを信じながら、異教徒の慣し
習慣を引きずったまま、異教の神々の神殿にも入り、異教徒の
教えや汚れた生活習慣を取り込み続けている事にも繋がるものです。肉の割礼がありながら、無割礼のものと同じく生きていると言う警告にも繋がります。詰まり、形だけやっていても、実際の生き方は、神の意図、目から全くずれた状態でいる危険状態で
ある事です。
神の宮に取り込めない、持ち運べない、人の内側に取り入れては
いけないものが聖書ではクリアーに教えられているのです。
聖別=神の目的通り取り分けられている、境界線が敷かれている
事を、神の宮に持ち運べるタホー=フィットした動物=清い
動物でも表されているのです。命の木と知識の木で教えられている事と全く同じです。神の指定したものだけから100%生きる。神から、これはあなたの性質とは異なりますと言われた物=タメー=神の指定する、人に教えている汚れを取り入れてはならない!と言う警告でもあるのです。汚れ、きよいの内容を神の
言葉から学ばず、知らない場合は、知らない間に汚れも一緒くたに取り入れてしまうのです。それが異教神の国々に住む異邦人の問題なのです。
続く