神の言葉が変わった記述は聖書にはない それは歴史の中で人間がしてしまった歴史の史実で証明できる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神が伝える聖書に記された永遠の真実を知りたくありませんか?

それとも偽物でも人間の教えでも、なんでもいいのさと思うのでしょうか?

「あなたがたは真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」

「真理を知らなければ、不真実、不真理はあなたを縛り、不自由にします。」という意味です。

 

多くのクリスチャン、牧師、教師達が聖書を手に取り、そして頭上に

聖書を高く掲げて、「聖書は誤りなき神の言葉。神の言葉は絶対で

あり、信仰は神の言葉、聖書を土台にする。」と言っています。

でも、神の言葉を誤りなき神の言葉、絶対であり永遠普遍という、

神の言葉に対する取り扱いは、実際にはしていない不思議な現象があるのです。今や、キリスト教は異教神の宗教の習わしが混じっている

と気がつき言っている人さえも、神の言葉のある箇所が変わったと

聖書に書いてもないことを、同時に信じているのです。

中途半端なのです。問題の根本まで、全部除去しないままの状態だからです。

神の創造物でも分かる通り、根があれば、そこから絶え間なく植物は出て来るでしょう。

アヴラハムが自分の生まれ育った異教の神々の地、そして家族や親戚一切全部と切り離されて、神の目から見る神の言葉を学び生きる旅路に導かれたのに、1つ種、根を連れてきてしまったでしょう。

ロトです。異教神、偽物の教えの全部から切り離されないとならないのです。根こそぎ、綺麗にして、良い地=神の種=言葉が正しく

植わり、生ける水のほとり=イエシュア=言葉に根付いて、その木は時がめぐると御霊の実がなる。

 

そして今や、聖書を神の言葉であるとも信じていない牧師、教師、

クリスチャンもいるのです。神学校の教師でも、聖書は完全な神の言葉とも信じていない人もいます。聖書ではなく、人間の思想=デイスペンセーション神学のような神学が教えられてしまっているのです。

 

信仰の土台が砂状態〜人間の教えを根拠にしてしまっているのです。

そのズレ、歪みに気が付かないまま、伝統の教えが継承され続けているのです。

この腐敗は、確実に影響を及ぼしているのです。神の言葉をどの一点一画でも、人間が変えて良い、神の言葉が歴史の途中で変わったと

主張する、人間の思想がもたらした結末でもあるのです。

今は、罪が何か?も分からないでしょう。牧師が、どうしてLGBTQが

いけないのかの説明、解説、釈明さえできない状態なのです。

牧師が、LGBTQを支持する、世の末、それは聖書を教えているのではなく、神に敵対する者の声を代弁している危険に、聖書からはっきりと一人一人が賢く気が付かなくはならない、ソドムとゴモラ、ノアの

時代になってしまっているのです。

神の教えのどの箇所も否定する行為は、LGBTQを称賛する行動と

同じことをしていることに、気が付かないとなりません。

 

そして、聖書とは矛盾すること、神の言葉が変化したという聖書とは

関係のない人造思想を土台とした、人造宗教の教えを信仰の土台にしているのに、その事にも、全く気がついていない多くのクリスチャン、牧師、教師がいるのです。

聖書に書いていない事を信じているのだという事に関して、思いつかない、考えてもみない多くの人がいるからです。

一方的な創作情報〜神の言葉が廃れた!という思想を土台とした

4世紀以降出現した人造宗教の聖書解説だけを、今まで大衆は聞かされていましたが、聖書には何が本当に書いてあるのか?ということに、目覚める多くのクリスチャンが今はいるのです。

オセロのコマがひっくり返る現象が起きているのです。真実に戻る!

自分で、聖書を読み直し、正しい情報〜神の言葉は廃れない!

神の言葉は完全無欠、訂正の必要なし!と神が人に伝えている事実だけに立って、聖書を読み直す機会を奪われてはならないのです。

人間が神の言葉を変えたり、勝手に定義し直しても、それは何も意味がありません。不真実であり、嘘です。嘘を信じていたら、神が伝える真実は見えないままになります。そして、危険に晒されていることにも気がつけません。神との距離を作り続けていても気がつけません。

神は今の時代は人間の意見で、何でもok、神の教えではないことでも

神は純粋な動機、心、気持ちさえあれば良いと言っていると、多くの

クリスチャンは完全に誤解、勘違いしています。

そんなことを言う神は、聖書に書かれている神とは違う神です。

神はそのような混ぜ物の教えを、姦淫の罪と言い、最も忌み嫌うという最大級の嫌悪を表す言葉で、混ぜ物の教えを拒絶しているのです。

神の忍耐は長い鼻〜人が気がつくまで、何千年も待つような忍耐を

持たれているだけなのです。でも、神はここまで!という、タイム

リミットも与えているのです。

人は公平に、正しい情報を与えられる権利があります。この4年間の

間の世界の人々を破壊するような、「あれ」も、結局偽情報〜

これが本物、これが安全、これさえやってれば守られる、大丈夫!という大嘘を信じ込んだ多くの人が被害を受け、健康を、命を今も続々奪われ続けているのです。

正しい情報を探り、知ることは重要です。嘘を信じても意味ありません。神の言葉も同じです。人間が作った、神の言葉を否定する宗教の教えは神の教えではありませんというシンプルな事実があるのです。

 

何度も書いていますが、紀元前167-134年代に起きた、ギリシャ帝国のユダヤ人に対するヘレニズム化強行、これは、神の教え、モーセの五書、トラーを生きることを禁じて、シャバット、祭り、トラーに記されたライフスタイルを禁じ、きよくない動物を食するようにユダヤ人に強要して、その勅令に従わない人を全て処刑したのです。

それに反旗を翻したマカバイが反乱を起こしたのが、マカバイ戦争であり、ハヌカの祭りの由来であり、その預言がそっくりそのまま

ダニエル11章に記されていたのです。

そこに記されている事が、反キリストが行うことなのです。

神のトラーと神の記念日を変えること、神のトラーを生きる人を迫害処刑することです。

同じことが、1世紀以降にも起きました。ローマ帝国による、ユダヤ人へのヘレニズム化、そして同様に神のトラーを生きることを、政府が禁じたのです。

神の言葉が人間によって変えられてしまった理由は、全て表向きは

政治的理由なのです。裏にはサタン〜神に反する者の意図があるのですが。

だから、聖書、神の言葉に神の言葉が変えられた根拠が、聖書には

書かれてなどいないのです。

人間が勝手に神の言葉を変えているだけだからです。

神の言葉が変わったというクリスチャンの宗教の世界で浸透している

教え、思想は全部人間がやった事であり、人間の仕業、神が神の言葉を変えたのではない、神に対する挑戦、違反、反抗、妨害を歴史の中でし続けてしまった結果なのです。

 

エデンの園の騙しと同じ、半分本当らしく、本当は嘘である蛇の囁きと同じ事が、ずっと浸透して行ったのです。

1世紀81-96ADには、ダメシアン皇帝の下、重税、処刑を課せられて、ローマ帝国による勅令は、ギリシャ帝国と同様、処刑、死刑、

重税を持ってユダヤ人と異邦人誰でも、モーセの五書に記された事を実践し、シャバット、祭りを祝う人たちを処刑したのです。

そして、ダメシアン皇帝も暴君として同じように処刑されたのです。

ユダヤ人のローマ帝国に対する反乱の結果が、ローマ帝国による

70年の神殿崩壊に繋がっているのです。

 

迫害の時系列をもう少し詳しく書きます。

以下のような、迫害の歴史があるのです。

A.    アウガスタス皇帝 BC 27年-AD 14年

              — イエシュアはこの時代に生まれます。

       B.  テイベリアス AD 14 年-37年

              — イエシュアの公生涯、死、復活と、昇天があった時期。

       C.    クラウデイス皇帝 AD 41-54年

              1.     ユダヤ人がローマ帝国から追放

              2.     パウロの手紙が書き始められる

       D.    ネロ  AD54ー68年

              — ローマ帝国内のイエシュア信者に対する迫害

       E.    ヴェスパシアン皇帝AD 69-79年

              — エルサレムの神殿崩壊/エルサレム崩壊

       F.    ドミシアン皇帝AD 81-96年

              1.    イエシュア信者に対する迫害

              2.     ヨハネ パトモス島に送られる

       G.    トラジャン皇帝AD 98-117年

              1.     イエシュア信者への迫害

              2.    イグナチウスの殉教

 

キリスト教という人造宗教がなぜ4世紀以降出現したのかという

歴史の史実を辿る事は、イエシュア信者にとり必修科目学習です。

キリスト教というよりは、ローマ教、ユニバーサル=カトリック教が

その始まりです。

神の言葉が変わったという根拠は、聖書にはゼロ、聖書には逆が

書いてあるからです。神の言葉は変化しない、永遠に廃らない、

固く確立されると神が言われた事が、永遠の真実だからです。

人間が、勝手に神の言葉に手を加え続けてきた、その歴史の事実を

知る必要があるのです。

そして、1つ初代西洋教父と呼ばれる人の中でも、タナックの教えに

忠実に継承して生きていた人もいることを1つ書きたいと思います。

 

クレメスという人物です。

1. クレメンス1: コリント人への手紙

a. クレメンスはおそらく異邦人でローマ人だっと思われます。

彼はパウロと共にフィリピにいたと考えられています。 (57年頃)。

b. この書簡は、使徒の著作以外では、おそらく最古のキリスト教文書: 西暦96年頃のものとされています。

c.この書簡の 主なメッセージは、争いを終わらせ、謙虚さを実践し、調和を取り戻すことでした。

d. 著者はタナック=モーセ、預言書、諸書について非常に流動的な知識を持っており、キリスト教コミュニティをイスラエルの歴史の直接の継続と見なしていたようです。

e. 著者はユダヤ人の考え方、表現、やり方に非常に精通しています。

f. これは明らかにイエシュアの信者によって書かれた文書ですが、

文章はディアスポラ・ユダヤ教の特徴でもあることが見られるものです。著者自身がユダヤ人でなかったとしても、少なくともローマのシナゴーグのイスラエルの神を畏れる者であったに違いないです。

 

初代異邦人の中に、パウロから学んだタナックを継承していた人もいたということです。

一方、今の教えに通じる、聖書を正しく理解していない教師もいました。

 

4. バルナバの手紙 130-132年頃

a. 著者は自分の名前を記していません。おそらくアレクサンドリアから書かれたと思われるが、確実ではないです。

この人物、書簡は、使徒行伝の出てくるバルナバではありません。

b. トーラーは今でも永遠で有効だが、文字通り物理的にではなく、

精神的な意味で有効であると、神の言葉に対する、自己定義、自己解釈を施してしまっています。

c. ユダヤ人は契約を理解していないが、キリスト教徒は理解していると主張しました。

d. キリスト教徒は神の民であり、ユダヤ人はそうではなかったと

記しています。

e. これが、神の言葉に反することを主張する、異邦人キリスト教徒の傲慢さの極端な例の1つであり、人間が神の言葉、意味を曲げることをし始めた良い例の1つです。

 

神殿崩壊後、ユダヤ人は国から追放され、世界の四隅に散って行く事が、又始まったのです。

黙示録が記されたのは、神殿崩壊その時期です。

ヨハネが警告している通り、トラー=神の純粋なオリジナルの教えから異邦人達は、その後離れて行ったのです。それが、歴史の事実、

カトリックやクリスチャンの中にある、モーセの五書=トラー=婚姻契約を否定し、人間が作った宗教の教えや伝統を維持し、継承していることでも、はっきり証明されているものだからです。

神の教えではなく、人が作った宗教の教えに移行してしまった。

黙示録2:4

一方、ローマ帝国支配下に無い国々に住んでいた人たちは、1世紀の使徒達同様、異邦人も、同じようにトラーを生きて、シャバットや

祭りを祝い続けていたのです。5世紀頃までは、それが顕著でした。

記事にも、話題にもされない、世界に散った残りの民〜異邦人の群れの中にも、1世紀のオリジナル、イエシュアや使徒達が教えて生きて

いた、トラーを生きて、シャバット、新月、祭りを祝っていた人たちもいるのです。

だから、16世紀、ルターが行った宗教改革時に、完全にもとの

オリジナルの神の言葉、トラーに戻ろう!と提案した人たち〜残りの民が異邦人の中にもいたのです。それらの少数派の意見、運動は却下されてしまったのです。そして、ルターも、カルバンも結局、宗教改革と言いながら、神の言葉の最初、オリジナル、大元にまでに戻ることはなかったので、今も、変えられた神の言葉=宗教の教えをカトリックもプロテスタントも、同じ思想を信仰の土台としているのです。

詰めが甘い、脇が甘いということなのです。大元の問題を除去していないまま、腐敗の根を残したまま、放置しているからです。

完全ではない、不完全な部分改革〜神の教えを塗り替えた根本の問題

聖書の土台=トラー=婚姻契約に、最初までさかのぼり、戻らないまま、結局人間の思想の種を残したままになっているのです。

中途半端な対策、改革だったのです。

 

続く