人間が作った教えを捨てて神の本物の教えに戻る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人は本末転倒なことをします。最初は、バビロン捕囚から帰った後

神の教えに違反して同じ過ちを繰り返し、約束の地から追放されない為に、神の教えを守るために考えられた教え〜口伝律法が、やがて

人を縛る、本質から外れたルールや掟満載な物になってしまったのです。これが、1世紀当時、ユダヤ人の間にあった、戒めの律法、

口伝律法、先祖の言い伝えと書かれているものなのです。

イエシュアが反対しているのは、神ご自身のトラーではなく、人間の編み出した、本質から逸脱した様々なルールや掟のことなのです。

 

イエシュアは安息日に人々を癒しました。イエシュアは行動を持って

憐れみを持って人々にシャバットの本質の意味を教えたのです。

時の宗教リーダーは、イエシュアを責めて反対しました。

 

ヨハネ5章でも、イエシュアはベテスダの池に居た38年間病んで

いた人を癒した時も、人々はイエシュアを責めたとあります。

これらの人は、口伝律法に固執し、神の教え=トラーを正しく理解していない人々だったのです。これは西洋宗教も同じです。

律法に戻るのか〜などという意味不明なスローガンを唱えて、

それが正義だと思い込んでいる。神の言葉を否定して、それが正義だと思い込んでいるのは、人間が作った口伝律法をクリスチャンも信じているからなのです。

読んで行くと、癒やされた病気は、盲人、足なえ、やせ衰えた者

悪霊につかれた人などです。頭痛とか、腰痛ではない。この病気の

意味は深いと思います。シャバットの目的は、修復、回復なのです。

神の性質を生きることができない、病です。

 

シャバットの休みは、意味があるのです。同じ意味です。

人に対して与えられる安息日の休みは、修復、回復、本来の姿に戻ることなのです。

マナ、預言者の言葉、そしてイエシュアの行動、全てシャバットは

変わらないのです。

肉体的に休むだけではなく、霊的に回復、修復、されること。

止まる〜神に信頼することにチャレンジされているのです。

 

安息日をイエシュアが別の日に変えたと、一体聖書のどこに書かれていますか?そんな記述は、聖書には1つもありません。

イエシュアが別の日を安息日に変えろと言われたことなど、福音書に書いてありますか?

イエシュアの生き方を見ればわかる通り、イエシュアは神の言葉、

トラーを1つも変えていない、シャバットを、イエシュアは汚し、

破ってなどいない、人に神の教えを否定し、神のシャバットを汚す

罪などに誘導してなどいない。

シャバットの日、意味も変更などしていないのです。

聖書を書いてある通りに読めば分かる事です。

シャバットの本来の意味通りにイエシュアは教えて、生きたのです。

 

クリスチャンが完全に誤解して読み込みしている、何度も書いている箇所ですが、これを普通に読んでも分かる通り、イエシュアは神の

教え、シャバットを本来の意味通りに教え、生きるために来られた

ことを話しているのです。

成就とは、終了などという意味は1つもありません。成就とは

固く確立するという意味であり、ラビの慣用句、トラーに記された

意味通りに確立するです。破棄〜トラーの意味通りではない、トラーとはズレた意味で教えたり、生きたりしないということです。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

 

シャバットは本来の命通りの修復、回復を教えているものです。

一体聖書のどこに、週の第一日目に、シャバットにせよと書かれていますか?そんなこと1つも書いてありません。そして、神の言葉が

変わったということも聖書には1つも書かれていません。

福音書以降に記されていること、全てシャバット=第7日目をずっと

ガードしています。

イエシュアの近くでイエシュアの生き方を見て、そしてイエシュアが

解説されたトラーを聞いていた人たちは、永遠に変わらない神の教え、トラー通りに、シャバットを、昇天以降も聖別しガードしていた

証拠が記されているのです。

 

ルカ23:54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。

23:55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。

23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。

 

イエシュアが昇天された後、使徒達、パウロは同じように、神の

トラーを生きて、シャバット、モアデイムを祝っていた事しか

使徒の書簡には記されていません。読んでみれば分かるでしょう。

使徒行伝だけでも、使徒:1:12, 13:14,13:27, 13:42.44,15:22,16:13. 17:22. 18:4でシャバット=第7日目を祝った記録が書いてあります。

聖書に登場する人々、聖書記者は、誰一人、異邦人が作った西洋宗教が編み出した、神の言葉、トラーを否定する思想など持ち合わせてなどいません。

クリスチャンが読み違えている箇所は何度書いていますが、使徒20章など、レビ記23章に記されている、神の祭りを祝うという意味は

レビ記23章に記された、神のモアデイム〜アポイントメントの日

全てを祝っているという意味であり、その中心は、第7日目のシャバットを祝う事なのです。

このような事は、神の記念日を捨てて、神のモアデイム=神が呼び

出している本当の聖なる集会の日を、知らない人、理解していない人、トラーを1世紀の人たちのように知って、神の教えを実際に生きていない人には、全く意味が通じないままになるのです。

 

私は以前、いくら聖書を読んでも、そんな事が書いてある事にも、

全く気が付かないし、それらが何であるのかも、全然気に留めてませんでした。

使徒20章は、パウロ達が、過越の祭りの7日間、種無しパン、

初穂の日の全てを、ピリピで祝った後のことが書かれています。

つまり、過越の祭りを祝うという意味は、シャバットを第7日目に

祝っている証拠なのです。

そしてこの日が、週のいつのことか分かりません。なぜなら、週の初めとは「日」という言葉、日は、原典の文、ギリシャ語にはないからです。

過越の祭りから始まる穂を数える7週〜次の祭り、シャヴオートまでの7週の最初の週という意味かもしれないのです。

でも、もし仮にこれが日曜日とするならば、聖書の暦では土曜の日没であり、土曜の日没に集まるのは今でもイスラエルの慣わしなのです。

多分、パウロが、次の場所に出発する送迎会であったのでしょう。

そして、異教の国では土曜日も働いている人もいるから、シャバットが閉じる土曜の日没から夜中まで、送迎の会の晩餐と交わりをしたのでしょう。

ここ20:7で、パンをさいて〜とあるのを、聖餐式と思い込んでいますが、それは空想の読み込みなのです。聖書には聖餐式はありません。

どういう意味かというと、クリスチャンの世界で変えられてしまった

イエシュアがされた儀式は、過越の祭りの晩餐でやる「種無しパン」の儀式であり、普段の日に種ありパンでやる儀式に変えたのは、

カトリックだからです。だから、自分たちの宗教の伝統文化、儀式

記念日を空想しているから、パウロたちがやっていたことの意味、

事実が見えないのです。

儀式には意味があるでしょう。日本でも、お屠蘇はお正月に飲むものであり、おせち料理もお正月にだけ食べるでしょう?

それと同じことなのです。普通の日に、お屠蘇やおせち料理や

お正月の儀式などしない、それと同じことなのです。

 

除酵祭が終わったとは、過越の祭りとそれに続く種無しパンを食べる7日間が終わり、その時は既に種ありパンを食べているのです。

パウロたちがやっているのは普通の晩餐でやる、パンをさくという

行為なのです。

これは、シャバットや、そしてシャバットを閉じる時、そして、普段に集まる時の晩餐でもすることなのです。

聖餐式は、カトリックが過越の晩餐でやる儀式を、自分達の宗教流に

別の儀式に変えて、過越の祭りを祝わず普段の日=日曜日にやることに、変えてしまったからオリジナルの意味が出て来ないのです。

種無しパン〜イエシュアの贖いの血の代価で、新しくされた人、

罪が削ぎ落とされたことを表しているものだからです。種ありパンでは罪=ハメッツが入っていて、マッツア=種無しパン=新しくされた人の意味ではなくなってしまいます。

 

意味と言えば、イスラエルでどうして本来の言葉の意味に直して、言葉や名前を言うかというと、言語にはメッセージがあるからです。

名前もそうです。イエシュアという名前は、エホシュアの短いものであり、救いという意味だから、イスラエルでは、イエシュアと言う

ようにしていると、イスラエルの友人たちが言っていました。

名前そのものが、その名前の実態〜救いという意味を語るからです。

本来の意味通りが現れるようにしないとならないからです。

 

1コリント16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、

いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。

 

この箇所も、パウロ達が日曜礼拝をしているなどという根拠にされていますが、それも聖餐式同様、西洋宗教の礼拝式を空想しているから

読み違えているのです。

トラーを知る人は、シャバットは日曜日には行いません。

日曜日は普段の日、活動費、労働日です。

そしてシャバットには集金、仕事、ビジネス、修理やその他、

普段する作業をしないのです。

パウロは、シャバットにお金を取り分けてなどという、神の教えに

違反する行為を人に教えたりしません。

そして、これはクリスチャンは、日曜礼拝の席上献金を空想しているから、パウロの語る意味を別物に変形させてしまっているのです。

 

これは、日曜日にそれぞれの家で、エルサレムの人々への支援金を

個人個人が取り分けておいてと、お願いしているだけです。

1世紀当時聖書には、神の教えを塗り替えた西洋宗教、日曜礼拝も、日曜日の席上献金も、礼拝式も、聖餐式もクリスマスも、イースターも書いてありません!

聖書の事実だけに戻り、正しく聖書を読み、自分の中にある既存の

カトリックやキリスト教の教えや礼拝式や、その他を全部削除して

1世紀当時のヘブライの世界の人たちが生きていた通りに、正しく

読み直してください。

ローマ14章も、神のモアデイムが変わった話など、パウロは1つも

していません。これは何度も書いていますが、この箇所では、神の

教えではないこと、野菜しか食べない人〜偶像に捧げた肉を食べるのを恐れていた信仰の浅い人、又はどの日に断食すれば良いのか、

そんなことで討論してた人たちに対して、パウロの意見を述べているのです。神のモアデイム以外の、神の教えではないことは、個人の

意見でどうにでもやればいいから、そんなことで言い争うなかれという、アドバイスの箇所なのです。

それなのに、この箇所を取り上げて、今は人間の意見で記念日は

いつでも良いのですなどという、教えにすり替えられているのです。

聖書を正しく理解しない人に聖書とは違うことを教えられたら、

偽情報は、それを教える教師から一般信徒へ伝えられて、このように18世紀以上も、聖書ではない教え、解説に皆が聞き入り、それが

聖書、パウロが言っている、神の言葉が変更になったのだ〜などという、とんでもない読み違えをしているのです。

聖書とズレた解説が後を絶たない理由は、人間の作った思想の宗教

神の言葉を終了させ、聖書に書いてある意味を正しく学ばないまま

西洋人に作った神学で聖書を曲げて読み解く解説だけを、聞いているから、聖書の記述が真実通りに読み取れない状態になっているのです。

パウロが、神のモアデイムや教えを破り、違反するように教えたと言うならば、それは、パウロが人に罪を犯すことを教えているということになってしまうことに、解説者自身が気がついていないのです。

 

人間が神の権限、権威を盗んでいる!ということ、人間が神の言葉を塗り替えている罪に気がついていないのです。

パウロは、トラーを否定する教えは1つもしていません。

以前書いたように、当時もパウロはトラーに違反した教えを教えていると疑われていたと書いてあるのが、使徒21章です。

それは、口伝律法に対して、パウロはそれは神の教えではない!と

イエシュアと同じように言っていたから、口伝律法と神の教えを区別していない人たちの間で、トラーを否定していると巷で噂になったのです。

そこで、パウロはパウロはモーセの五書に違反した教えや、違反したことをしていない証明を、神殿でしたことが書いてあるのです。

クリスチャンはこのような記述の意味をはっきりとらえて、パウロ

自身が、100%モーセの五書に忠実に生きて教えている証拠であることを、正しく読み取らなくてはなりません。

もし、パウロがこのような宣言、ナジル人の請願を神殿で公に果たして、パウロの潔白を証明しているのに、裏ではモーセの五書を否定した違う教えをしていたら、パウロは、1)頭がおかしい人、

2)精神錯乱 3)偽教師 4)偽使徒 5)詐欺師 ペテン師

ということになること、分からないのでしょうか?

 

パウロはトラー学者なのです。世界最高峰の今で言えばハーバード大学にいるような教授クラスのトラー学者と言えば分かるでしょうか。

神の教えの裏表に精通している。トラーを丸ごと暗記し、預言書

諸書もどんどん引用できる。普通の人ではないのです。

しかも、イエシュアから任命された使徒〜神のトラーを正しく人に伝え、教え、生きて教える人なのです。

その人が、神のトラ〜を否定する教えをする?使徒が神の教えを

否定する?クリスチャンの世界で語られている神の言葉が破棄されたという思想は、神の教えではない!人間の発想であることを知らないとなりません。

聖書は誤りなき神の言葉と多くの人がいますが、そう言いながら

古い箇所は終わり、今は豚を食べることも、レビ記15章の教えも終わり、などと言っている人がいましたが、一体いつ神が神の言葉を終わらせたと言いましたか?そんなこと言ってなどいません。

聖書のどこに、そんなことが書いてありますか?書いてない。

その教えの根拠、証拠などない。聖書には、逆が書いてあります。

神の言葉は永遠に変わらない、廃らない固く立つと。