シャバット 永遠に変わらない神の創造された主の日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

毎週第7日目のシャバットを通して、神がこの世界を創造したという

事実を、神が世界へ宣言しているのです。

シャバットは、一時的ではない、文化、人間が作った宗教の慣習でもない、神が造られた「時」のデザインなのです。

 

現代のカトリックやクリスチャンの群れの宗教リーダーに、神が聖別し祝福した「時」を変える権限、権威が与えられているのでしょうか?そのようなことをすることは、神に反する行為なのです。

ダニエル7:25

カトリックは、教皇にそのような権限が与えられていると、ペテロに言ったイエシュアの言葉を取り違えてそう解説していますが、

ペテロはヘブライ人であり、人間の作った西洋宗教の教祖様ではありません。

トラーを100%ガードし、教え、生きた使徒、それがペテロです。

人間が勝手に神の言葉を解釈して、意味を変えて良いなどというのは、聖書とは全く関係のない人間の勝手な主張に過ぎません。

神の言葉を、人間が塗り替えている事、それは聖書〜神の言葉と、

歴史の中で起きた人間のやった罪であることは、明らかな事実です。

聖書の記述でも、それが証明できます。神は、神が人に伝える通り、神の言葉は永遠に固く立ち、神の言葉を、歴史の途中で、神の宣言に反して変えてなどいないからです。そして歴史の中で、人間が勝手に神の領域に踏み込み、神の言葉の意味、定義を変え続けて来たのです。

エデンからシャバットが存在し、天的な休み、安息があることを、

神が人に教えています。

出エジプト後は、シャバットを通して、神の創造のデザインを教えて

いるものなのです。創造の最初にさかのぼり、神の「時」シャバット

の事実を教え、それに連なる神のモアデイム〜記念日の全てを教えているのです。

出エジプトした後、神が教えたことは、人の命を支えるもの、天から

直接与えられた「食べ物」を通して、人の生き方の本質を教えています。エデンの園と同じ。神が与えた食べ物だけを食べて生きる。

この食べ物〜マナを日々その日の分だけ集め、6日目に集めた物が、2日分の量になるとあります。そして、7日目はマナは止まる。

神が必要な全てを供給し与えることを、食べ物〜マナ〜天から直接

降る、人が努力してえるものではない、神の与える糧で人を養うことで、教えています。

働けない日、神が止まると言われた日にも、神が約束した通り、食べ物が与えられたのです。40年の間、一度もそれが滞る事などなかったのです。サンダルも衣服も擦り切れず、病気にもならない、

約束の地を目指し、神の言葉だけを聞いて生きる、新しい人を生きる学習訓練の荒野の40年の旅路。

 

出エジプト16:4 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしは

あなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。

こうして彼らがわたしのトラーに従うかどうかを試みよう。

<今は益々、神の言葉を蔑ろにする教師たちと、クリスチャンが増え続け、神の教えとは違う教えに走って行っている、終わりの時です。一方、神の残りの民は、神の教えに忠実に聞き、命をガードし、

継承し続けているのです。どの時代も、同じです。>

16:5 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。

 

そして、神が伝えるシャバットが、どれ程重要なのか、神が人に伝えているのです。

人間が神の伝える事をどう思うのか?ではなくて、神がどのように

神の時をデザインし、創造しているのか、神が人に説明する通りを

聞いて理解すること!それが人間に与えられた部分、責任なのです。人間の解釈であれこれあれこれ、神の伝えたことを、勝手に定義し

直すから、神が伝えている事の重要さが理解できないまま、今はいつでもシャバット、日曜日が今は安息日などと、人の意見で神の言葉を仕分けて良いなどという、聖書に書いていない、人間が作った教えに神の言葉が塗り替え、すり替えているのです。

人間が作った教えにすり替えているという事にも、聖書を教えている

多くの人が気がついてもいないままなのです。

 

出エジプト31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが

あなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

 31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。

これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

31:15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。

31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

 31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

31:18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。

 

神が創造された「シャバット」がどれ程重要な意味があるのか、

神が人に伝えているのです。これを読んで、怒りの神〜などというのは、神の伝えている、シャバットが命に匹敵するほど、重要である事を、理解しない思考回路だからです。神の言葉を聞き理解する人、

神の教えを無視する人、神の言葉を理解しない人、それは聞き手、

神の言葉を受け取る個人個人の問題であり、選択なのです。

聖書を読めば、神は神の民、そして一緒に出エジプトした異邦人に

対して、預言者を送り、神の契約の生き方に外れて、シャバットを

汚し続ける人々に対して警告しているのです。

どうして、イスラエルとユダが、アッシリアとバビロン捕囚に行かなくてはならなかったのか?

神の教えを捨てて、違う生き方をしたからです。

神のシャバットを汚したと神が言った通りのことを、し続けたから

です。その意味を、神の言葉を理解しない人には、まるで通じない

神が伝える永遠の真理、警告なのです。

神が伝える重要な事を、人間が無視すること。それをエデンの園からずっと続けて今に至るのです。その結末は破壊です。

死〜神との隔たりを作ることなのです。

神のデザインされた創造の実態に戻り生きよ!シャバットから

シャバットへ生きる生き方は、神が創造された神の命のサイクルの

リズム、デザイン、人の本質の生き方だからです。

シャバットを破ることに対する緊急性と、そして穏やかで愛に満ちた警告、神の教えに戻る招きをしているのです。

 

イザヤ58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、

58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

 

神が伝えた通りを生きるとは、神に対する敬意、尊敬を払うことです。神を愛するとは、神が伝えた通りを信じて、その通りに生きること、生き様で表すこと、それが神を愛する証拠なのです。

ヘブライの世界は、西洋人のような哲学思想ではありません。

信じていること、行動で示すこと、生きることはメシアとあるのは

それです。そして、神の仰せは、従え〜!という命令ではなく、神は

神の創造されたシャバット、聖なる喜びの時に招いているのです。

 

神のシャバットに対する警告を、エレミヤはもっと厳しい内容で

語っています。

 

エレミヤ17:21 主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。

 17:22 また安息日にあなたがたの家から荷を運び出してはならない。なんのわざをもしてはならない。わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい。

17:23 しかし彼らは従わず耳を傾けず、聞くことも、戒めをうけることをも強情に拒んだ。

 

イエシュアは安息日の主です。そして、イエシュアはシャバットと

全てのモアデイムを祝いました。

イエシュアは、人間の伝統の教えを通して、神の記念日に色々と規則やルールを編み出してそれをやることを、拒絶し、否定しています。

そして、神の意図通りに、神のモアデイムを生きる、過ごすこと、

シャバットの本質を教えていることが、福音書に記されています。

 

マルコ2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。

そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。

2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。

 

<エルサレム周辺の人たちは、安息日に畑から穂を拾うこと〜労働と

いう、人間の作った戒め〜口伝律法を死守していました。

一方、弟子たちやイエシュアが住むガリラヤ湖周辺の人たちは、

畑に入り穂を拾うことは普通のことだったのです。

詰まり、人が編み出した口伝律法、戒律、伝統の教え、人の言い伝えを重んじて、空腹を満たすという普通の行為が、労働であるという

ズレた思想をイエシュアが戒めた箇所です。

シャバットの本質を忘れて、余計な教え、ルールを編み出して、

シャバットの本来の意味が消されていることに対する、警告でもあります。>

 

2:25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。

 2:26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が

安息日のためにあるのではない。

2:28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

 

この箇所は、1サムエル21章に記されている出来事です。

このパンとは、神殿の中で、毎週シャバット事に捧げるパンです。

レビ記24:5-9

そして、このパンは、一週間その12のパンを金で造られた台に置く

パンなのです。そして、前のシャバットから下ろしたパンを、祭司たちが、食べることができるのですが、空腹の人たちに、祭司たちは、その下げた前の週のパンを与えたのです。

この行為は、神の前に何も違反になる行為ではなかったのです。

なぜなら、人の命の方が優先されるからです。

 

ルカ13章でも、悪霊に18年間取り憑かれた人を、イエシュアが

癒された時も、口伝律法〜人間の編み出した伝統の教えに固執する人々が文句を言いましたが、イエシュアはこう言われました。

 

ルカ13:14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされた

ことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。

その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。

 13:15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたは

だれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。

13:16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。

 

イエシュアは神の教えの本質通りに生きることを、人に教えたので

あり、シャバットを破ることなど、人には1度も教えていません。

なぜなら、シャバットの主はイエシュアだからです。神が神の教えに違反することを教えるというならば、それは神が人に罪を犯すように

促して誘惑している行為になります。なぜなら、神が伝える罪の定義は神のトラー=教えに違反する行為!と神が言われているからです。

よくよく考えていくと、クリスチャンの世界で教えられていることは

人間の作った教え、聖書ではない教えに照らし合わせている解説なので、聖書と辻褄が合わないこと、ロジック〜論議に叶わない支離滅裂な解説になっていることが、分からないとなりません。

 

神はシャバットで、厳しく人を縛り付け、捉えて不自由にさせているものではないのです。人間の教えの方がよっぽど不自由です。

真理ではないこと、人の教えは、人を縛り、不自由にするとあるでしょう。

シャバットは、人を祝福し、修復し、癒やされ、喜び=エデン取り

戻す日として、神が最初から創造されたからです。創造の初め、

神の中=エデン=喜びの中に住まうように人は造られた、その性質

通り、残りの6日間を生きることを、この日に皆で再確認し、喜び、

祝福し、祝う日として、創造された、それがシャバットだからです。

 

続く