人間が神の教えを変えた歴史の史実を直視する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の教えは、クリスチャンが主張している人間の教えのように、

変化、進化などしません。聖書にはっきりそれが書かれています。

トラー=モーセの五書=婚姻契約に記された人の生き方が、オリジナル、神の本来の教え、仰せ、イエシュアが教えた教え、生き方だからです。

欠目ない、偏見のない目で、聖書に書かれていることを読めば、

聖書には神の言葉が変化したこと、神の記念日、シャバット、新月

祭りが変わった記録は1つも記されていないことを発見できます。

 

1世紀当時、イエシュアが来られた時代、イエシュアがタナックに

記されている約束のメシアだと気がついて信じた人達を、クリスチアヌス、クリスチャン、その道〜ハ デレフというあだ名が付けられていました。

そして、当時はユダヤ人はパリサイ派が主流で大衆だったので、

パリサイ派のユダヤ人の群れの中に、イエシュアをメシアと信じる人々がいたのです。使徒15章の記述でも分かる通り、パリサイ派の長老たちであるイエシュア信者達のことが記されています。

そして全ての人が、パリサイ派のシナゴグや、エルサレムの神殿で

毎週シャバットにトラーを聞いて、教えられていたことが書かれています。聖書には、日曜礼拝も、クリスマスも、イースターも、聖餐式なる過越の祭りの晩餐の中でやる儀式が変えられたものも、聖書には記されていません。

ここではっきりと、理解しなくてはならないことがあります。

2000年前に、イエシュアが地上に来られたから、初めて贖い、

救い、許し、恵、神=聖霊が人の内側に住むことが初めて可能になりそれらが開始されたのではありません。

子羊イエシュアの贖いの業は、エデンの園から同じ!別の福音、別の救い、贖いの方法はないからです。どの時代も同じ。どの時代の人、どの人種でも同じなのです。神は神の選び出した子らのところに

直接来て、救い出してくださるからです。

子羊イエシュアの業を受け取り知っていた人、知らない人がいるだけです。

文字で記された神の言葉、トラーが与えられる前は、エデンの園から

神が同じ教えを、神が直接口頭で人々に教え、伝えていたのです。

だから、カインとアベルはエデンの園を出て、何の解説もないまま、神にコルバンを捧げているでしょう。神が教えたからです。

しかもアベルは、子羊の初子を捧げた〜神が伝えた通りの正しい

コルバンを捧げていること、これは、レビ記の神殿の中の一連の儀式コルバンの種類、意味を知らない人が読んでも、何が書かれているのか、その意味が見えないものなのです。

だから、聖書は最初の部分、トラーを正しく知らなければ、聖書を

空想で読み込みしてしまうことが起きるのです。

これから、4月12日日没に、過越の祭りが来ます。

イエシュアが遺言されたように、過越の祭りでセダー(順序)の

晩餐を皆でするたびに、イエシュアのされたことを思い出してと

言われたのです。その遺言、クリスチャンは忘れているでしょう?

いや忘れているのではなくて、自分には関係ないと、イエシュアを

信じながら、全くイエシュアの言葉、教えている意味が通じないままでいるのです。関係ない教え〜古い教えと信じているからです。

イエシュアが教え、祝われた、イエシュアの業、福音を網羅する神が

創造された記念日、祭りさえ、何なのか、いつなのかも、理解していないのです。

今も同じです。イエシュアを知っている人、知らない人。

神の言葉が永遠普遍と神が言う通りを知っている人、知らないクリスチャン。色々それぞれ違いがあるのですが、神の伝える真実は最初から同じ!変わらないのです。

メシア、イエシュアはタナック、トラー、預言書、諸書に完全版として記されているのです。

そこに記されている意味を、知っていた人〜残りの民が、信仰により永遠の中に用意されている同じ、贖い、救い、イエシュアを知って聖霊を内側に受けていたのです。

そして、約束のメシアをユダヤ人はずっと待っていたのです。

今でも、ユダヤ人はメシアが来るのを待っているのです。

それが、2000年前に来られたイエシュアであることが、おおいを

かけられた状態の人には、はっきり見えていないだけなのです。

 

聖書の最初から存在する残りの民は、クリスチアヌス、クリスチャン(英語)という作られたあだ名で呼ばれていないだけです。

聖書では、メシアを内側に受けている人を、「残りの民」と呼び、

本物の残り民〜本物のイスラエルは、神の婚姻契約を愛して、忠実に

生きる人のことなのです。信じただけで、後は神の教えなんか関係ないという生き方をする人のことを、「無法を働くもの!」と警告しているのです。

聖書に記されている意味をまず正しく知らないとならないのです。

罪の定義は、神のトラーに対する違反と神は教えています。

でもクリスチャンの世界の教えは、神のトラーを捨てる、破棄せよ

無効である、罪を犯してもOk、自由に人間が神の言葉を仕分けて良いなどという、神の対して真っ向から敵対する罪の思想を純粋に信じて、知らない間に神の教えに敵対、無視、破棄するよう教えられてきてしまったのです。

自分の頭で、神の言葉に照らし合わせて考えたら、その思想、行為がどれ程神の前に今も重い罪なのか、聖書に書かれているのです。

蛇は巧みであることを、覚えておいた方が良いです。イエシュアを

信じる人に、アダムとハヴァにしたように、嘘を刷り込み、神に敵対する教えを教え続けて、神の言葉から意識をそらせ、離れさせることをずっと歴史の中でし続けてきたのです。

宗教改革をしたルターでさえ、最後晩年は、反モーセの五書=神の

教えに真っ向から敵対する思想を持ち、そしておぞましいほどひどい

反ユダヤ思想を持ってしまったのです。

ルターが記した書の中にある、ユダヤ人迫害の詳細、それは恐ろしく残忍なハマスがやったことに匹敵するようなことを記しました。

それらルターの発想を、ヒットラーが全部実際に実行して、やったのです。それがホロコーストなのです。

神の教えに敵対するとは、宗教界のヒーローを悪魔の手先にさせるほど恐ろしい行為なのです。

ある聖書箇所を、クリスチャンが神のトラーが破棄されたという教えだと誤解して信じ、神の教えやシャバットや祭りを神が終了させたので廃れた、日曜礼拝、クリスマス、イースターに、昇天以降は

変わった〜と、聖書には書いてはないけれど、書いてあるように空想しているのです。人間が、人間が考えて決めた好きな日に、好きな

ように、人間が作った人造宗教の記念日を祝うことを、昇天以降は

神が奨励、認証しているなどという、空想を語っているだけです。

神は、最初からずっと言っています。神が伝えた通りをして!と。

人間の教え、宗教の伝統、習わし、儀式、記念日を重視、固執し

神の教えの方退けている、その意味、罪に気がついた方が良いです。

それらは何度も書きましたが、マルコ7:15、使徒10:10-28, 20:6-7、1コリント16:2、コロサイ2:16-17、ローマ14:1-6などを、

神のシャバットや食規定が変わった根拠が記されているなどとしています。それらの箇所を、クリスチャンは完全に書いてある内容を逸脱した、間違った読み込みをしているだけです。

パウロの手紙は預言者が書いたものではなく、ある特定の群れに対して書いた「使徒の手紙」なのです。

その群れの中で起きている問題、トラーに対するズレた解釈をしていることを、パウロがトラーから正しく教え、愉し、群れの中の分裂を

和解方法を提案しているだけです。

パウロは、預言者が書いた、モーセ、預言書、諸書を否定し、塗り

替える教えなどしません!

今のような西洋宗教、カトリック、キリスト教のような教えの実践に

異邦人達が移行したのは、いきなりある日突然起きたのではなく、

歴史の中で、政治的圧力の下、徐々に徐々に起きた経緯、経過でありいきなり全部がオリジナルの教えから、人造の教えに変化して行ったのではなかったのです。

ローマ帝国による政治的圧力と、そして、パウロのようにトラーを

熟知していない、神の教えをよく知らない異邦人西洋教父達により、彼らの考えにより神の言葉を変えて良いという、同調圧力思想が、

何世紀かに渡り浸透し続けて行き、その後、恒久的に今に至るまで、神の教えではない、人間の教えが定着したしまったのです。

それが4世紀のローマ帝国皇帝による勅令です。

これは、最初は宗教的な意味合いなど何もない、ローマ帝国皇帝の

政治的な勅令でした。

コンスタンチヌス皇帝は、西暦321年の3月7日

「すべての裁判官と町の人々、そしてすべての商売の職業は、由緒

ある太陽の日に休息する」と宣言する勅令を出したのです。

これは、宗教的意味合いなどない、ローマ帝国の政治的記念日だったのです。ローマ皇帝は、ペーガン、異教神信仰〜太陽神信仰者であり純粋にイエシュアを信じていた信者ではなかった証拠がたくさんあります。

コンスチヌス皇帝の目的は、大衆から幅広く安定した支持を得るため大衆が馴染んでいる土着宗教〜太陽神信仰に基づき、人々が受け入れやすい事を通して、ローマ帝国を拡大、統一、安定させようという、全て政治的目的のための利用なのです。

自分の偶像を作り、皇帝の住まいの裏には異教神、太陽神のバシリカやシンボル、偶像満載の建物、施設が作られていたのです。

こうして、日曜日、イコール休日という当時は宗教色の意味合いがない休日を制定し、元々太陽神信仰の日、皇帝の日を休日としたのです。

そして、その後AD364年に開かれたラオデキヤ会議で、司教達が、神の言葉を塗り替え、反ユダヤ思想で、トラーに記されたユダヤ的なことをやることを一切禁じる、シャバットに労働せよ!という

カトリックの勅令を、人々に強制的に強要したからです。

そして、彼ら異邦人司教たちが、勝手に編み出した神学思想が、権威

であると、一般の人に押し付けてきたのです。

クリスチャンはユダヤ化されてはならない。シャバットに怠けて

はならない。その日には、労働しなくてはならない。

クリスチャンは、主の日尊重し、その日(日曜日)には労働してはならない。」

これは、神の教えではなく、人間の勅令、命令です。では神は何と

言っているか、照らし合わせて見れば良いのです。日曜日を主の日と言っているのは、人間であり、神ではありません。

神はいつでもどの日でも、シャバットにして良いなどと言いません。

神の創造されたシャバットを汚せ!破れ!と言っているのも、人間なのです。それは神に真っ向から敵対する恐ろしい発想、発言、行為なのです。

これは、神の前に「罪を犯せ!」と人を誤りに導いている宣言であることを、聖書から気が付かないとならないのです。

 

出エジプト 20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、

家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを

造って、七日目に休まれたからである。

それで主は安息日を祝福して聖とされた。

<神がされた創造の業、神の創造された時、モアデイムを人間が変更などできないのです。神の創造を塗り替える教えを編み出しても、それは神の前に何の意味もない、虚構であり、空想に過ぎません。>

 

出エジプト31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが

あなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

 31:14 それゆえ、なたがたは安息日を守らなければならない。

これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

神の仰せに真っ向から叛逆する、反メシア、反モーセの五書思想は

このような人々=異教徒上がりの、ローマ帝国に屈する人々により

作られ続けて行ったのです。

 

31:14を読む場合、シャバットを汚しても、殺されないとから、関係ないと考えるでしょう。もう少し、神の言うことを正しく理解しようとしないとなりません。神は人を縛り付けて、処刑するためにシャバットを与えたではありません。なぜこのような警告を神がされるのか?それはシャバットが命に匹敵するほど重要であることを、人に教えているからなのです。人がその意味を理解しない、これが問題なのです。それが何?くらいにしか考えないでしょう。神がどうして

そう言われるのか、神の教えを実践して生きてこなかった人には

理解できない、天の領域の教えだからです。福音、神の教えは、滅びに至る人には愚かに聞こえるとある通り、救いを得た人には、力、

神と直結する源、力なのです。

これが神のデザインした「時」人間の生きるサイクル、リズム、

神とピッタリ1つになる、本来の生き方を教えています。神と直結

することに、正しく起動修正、整える、神の子らを皆招いて相見える時を神が創造されたのです。これは、感じないけれど、それを生きる人には、この時に神が確実に特別な出会いをすると約束されたことを、実体験します。神は普通の人が理解しないことを、神の子らに伝えて、神の教えを知ろうとする人に、神は人の理解できない真理を

教え続けているのです。

神の創造されたアポイントメントの日は、それほど重要なことであること、人間の本質を伝えているのです。

そして、よく考えてください。古代もレビ族の祭司たちは当番制で

止まる日=神のモアデイム=シャバット、新月、祭りの時にも神殿の任務を担っていました。今の時代でも、二十四時間交代勤務の職場が、イスラエルにもあるのです。

病院、施設、ホテル、発電所etc etc etc。

誰かが、どこかで重要な任務を24時間体制で担っているのです。

だから、その中でシャバットの意味を知り、シャバットの時間を取り分けて過ごすことはできるのです。特に異教神の国々に住む人は、

労働があるかもしれない。そのような例外を話しているのではないのです。

シャバットはギフト〜神からの贈り物であり、神との会見の時、

創造の本質に戻る、エデンに戻ることを皆でする機会が与えられて

いるのです。

さて、ラオデキヤ会議、時の宗教リーダー、司教たちのこのような

神の教えに反抗する声明を宣言したら、一般信徒はそれに従わないとならないのです。特に、4世紀の時代など、印刷技術などありませんから、手元に聖書を個人個人が持っていない。今のような時代で、

手元に聖書があるにもかかわらず、聖書に書いてある記述を読み違えているのですから、その間違いが正しく、修正されていないのです。

このように、人間が神の権限、権威の領域に、神の言葉、警告に反して侵入し、神の言葉を塗り替えることを、異邦人はずっとやってきたことを、はっきりと聖書から知らないとならないのです。

 

 

続く