聖書と人間が編み出した神の言葉ではない宗教の教えを正しく分けて識別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の伝える真実

1)神の言葉は永遠に固く立つ 永遠に変わらない 廃らない。

神の言葉に古い、新しい、2つ別ものは存在していない、一貫して

同じ1つの神の言葉、トラー。時代別、人種別の2つ別の種類の契約は実際存在しない。1つ。

 

イザヤ40:8草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は

とこしえに変ることはない。(クム=固く確立する)」。

 

2)神の言葉に人間がつけたし、さしひき、変えてはならない。

 

申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、

主の命令を守ることのできるためである。

 

<人間が神の言葉に手を加えて変えたから、何が神の教えで、何が

人の作った非聖書的教えの区別が、クリスチャンが聖書を読んでいても、分からない、理解できなくなってしまったのです。>

 

黙示録22:18 この書(神のトラー、教え、言葉)の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

<神は神の言葉を変えるものに厳重警告しているでしょう。

どうして、この警告が通じないのでしょう。神の言葉を人間が変えても良い、神の言葉が廃れたという人間の教えを信じているからです。>

 

3)神の教えは、全ての人へ同じ 人種ごとに別の教えはない。

 

民数記 15:1 主はモーセに言われた、

15:15 会衆たる者は、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一の定めに従わなければならない。これは、あなたがたが代々ながく守るべき定めである。他国の人も、主の前には、

あなたがたと等しくなければならない。

 15:16 すなわち、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一のトラー、同一のおきてに従わなければならない』」。

 

出エジプト12:49 このトラーは国に生れたものにも、あなたがたの

うちに寄留している外国人にも同一である」

 

ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰に

よって、神の子なのである。

3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、

男も女もない。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 

<デイスペンセーション神学=人間の編み出した思想は、ユダヤ人と

異邦人を分断させる教えを解いていますが、完全に聖書とは真逆な

人造思想であることを、神の言葉が証明しています。イスラエルの神の1つの大家族の中に、分裂、分派、隔たりを作るのは、人間の編み出した、デイスペンセーション神学や、置換神学のような、神の教えを塗り替える思想のせいなのです。>

 

4)神の性質、業は永遠の中から同じ。

マラキ3:6 主なるわたしは変ることがない。

それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも

変ることがない。

<神が変身するという思想、デイスペンセーション神学、本当に

空想ファンタジー満載の思想です。結局、パウロのようなヘブライ思索で、ヘブライ語のトラーを熟知するのではなく、人造宗教の教えに根付いて、人造神学だけを学んできた人は、オリジナルの聖書とは

違う思想を編み出すのです。>

 

4)贖い、救いの方法は永遠から1つ 人種別、時代別の救いの方法手段の違いはない。イエシュアを通して以外誰も父の元に戻ることができない。

ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理で

あり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

創世記 3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、

彼らに着せられた。

 

5)永遠の中から、この世の礎が創造される前から、子羊イエシュアの贖いの血の業、救いの業は完了している。

黙示録13:8

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。

永遠の中から、この世の礎が創造される前から、選ばれていた

 

エペソ1:4みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

 

6)どの時代の人も、神と直接出会い、新しい命を与えられた人の

内側には聖霊が与えられ、神の性質を生きることに戻ることができた

 

ヨハネ 8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。

 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

<みことば〜神の教え、トラーのことです。モーセの五書以外の神の教えはこの世に存在しません。>

創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

 

創世記 6:8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。

6:9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で

正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

 ルツ1:16 しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。

 

詩篇34:17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

 34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。

 

人造宗教の思想は聖書とは異なります。これらは全て聖書、神の言葉に根拠のない、人間が編み出した宗教の教えに基づいた思想です。

 

1)神の言葉は、昇天以降変化し、古い教えーモーセの五書は

廃れた。

<キリストと共に古い律法は十字架につけられて、葬られた。

それならば、神の教えは同時に全て消え去ります!>

 

2)神の教えは、古い教え、廃れた教えと、新しい教えがあり、

古い教えは、ユダヤ人だけやれば良い教えだ。

 

3)人間が、自分の意見で神の言葉を仕分けて良い、恵みの時代に

なった。キリストだけ分かれば、後は自由に生きてよい。

神の古い教えは生きなくて良い。

今は日曜日が安息日、主の日、クリスマス イースターが神の命じた

記念日だ。

聖書のどこに、イエシュアが神の教え、記念日を変える宣言が記されていますか?書いてなどいないでしょう!理由は、それらは

人間が作った宗教が考えて作った記念日だからです。人間が勝手に

言って、作って、やっているだけで、神の教えとは何も関係がありません。しかも、それらの記念日全ての裏には、全部異教の神々の祭りシンボル、意味、偶像が存在していて、それを、パクってカトリック的に作り変えた人造記念日だから、聖書にはそのような記念日は記されていないのです。イースターなど異教の女神の名そのものでしょう。なんでそんな名が、イスラエルの神の記念日につけられているのですか?それは異教徒背景の教父達が、何も考えてないまま、

神の記念日を勝手に作り変えることをしたからです。神を差し置いて

別物を取り込む。動機は純粋でも、神が禁じている、高きところの

礼拝、異教の神々のものと交わり、純粋なものを汚しているのです。

 

4)神は時代ごとに神の性質を変化させる変身する神である。

怒りの神と、恵みの神、怒りの時代と、恵の時代。

怒りの時代は律法時代、恵の時代は聖霊時代。

 

5)贖い、救い、赦しは、イエシュアが来られる前までは無かった。

聖霊は人の内側に住まわなかった。極々少数のエルサレム周辺に住む人達だけが、生贄を神殿で捧げる時にだけ、罪の赦しが一時的に与えられていた。動物の血で許された。

 

聖書には、動物の血は罪の赦しができないと書いてあります。

神殿での一連のコルバンの儀式は、罪の仮の赦しのためではないからです。イエシュアの業を、実際に動物を屠ること、コルバンの意味を通して、教えているものなのです。

イエシュアが来られる以前から、子羊の血の贖いは、永遠、天の中で

既に完了、完結しているのです。イエシュアが地上に最初に来られた

ことで、神の預言、神の伝えることが真実であることを、証明されたのです。生贄ささげなくても、アダムとハヴァのように、神の前に

罪を告白して、人は瞬時に許されるのです。

神に出会う前から、永遠の中から既にイエシュアの贖いの代価が

支払い済みであった!とあるのです。知らない間に、過去の人も今も、未来の人も、同じ子羊の贖いの血の代価が用意され、受け取られて、新しい人を生きるスタートをすることを、神の時が待っているだけです。

6)イエシュアが昇天される迄、人の内側に聖霊が住まわなかった。

 

これは、トラー、預言書、諸書を学ばない、何が書かれているか

分からない人が考えることなのです。聖書の中に全部はっきり書かれているでしょう。

登場人物の人となり、人生の出来事、神との関わりでも、分かるでしょう。ヨセフの内側に聖霊が住んでいないとでも言うのですか?

ダビデは、罪許されて、すすがれて、新しくされ、罪の重圧を

イエシュアが背負ったことを、実体験を通して理解しているのです。それが詩篇に記されているのに、どうして見えないのでしょうか?

誰も、聖霊が内側に住まわなければ、イエシュア=イスラエルの神は

分かりません。ペテロ達も、イエシュアが救い主と告白できたのは、聖霊が内側に住っているからです。

バプテスマのヨハネ〜大祭司であるヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言えたのは、イエシュアがタナックに記された

約束の救い主であると、内側に住まう聖霊により認識していたからです。そして、大祭司が、過越の祭りで屠られる子羊が、相応しいか

どうか、認定できるのです。ヨハネの宣言は、大祭司として、当然

適切な宣言でした。真実を、大祭司として宣言したからです。

 

イエシュア、父、聖霊と分断させるから見えないのです。

神はどの名で呼んでも、エハッド、1体、1つの神なのです。

イエシュアは地上にこられる前から、永遠の中に一体の神として

存在していて、2000年以前にも、人々の前に直接現れていることが

書かれているでしょう。

クリスチャンの世界では、神を分断させて語っています。

それはヘブライ思索で書かれたヘブライ語で書いてある神の性質を

教えられていないから、理解できない、しかも人間の知識を超えているから、見えないのです。

アダム、ハヴァ、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、

モーセ、ヨシュア、ケラブ、ダビデ、ソロモン、ヘゼキヤ、ヨシア

預言者達、皆内側に聖霊を受けて、イエシュアを知っていたのです。

 

神の言葉が変化したという思想は、2世紀以降、異邦人教父達が、

ローマ帝国の政治的圧力〜モーセの五書を生きることを禁じられた

勅令、弾圧にもより、それらに抵抗できない人、元々異教神信仰が

背景の異邦人が、勝手に神の言葉を、曲げる思想を言い出し始めた

それが、神の言葉が変わったという思想が流出した始まりなのです。

 

 

続く