3〜4世紀の時代、このような西洋教父達は、ユダヤ色の強い教え
トラー=モーセの五書から完全決別、離れて、自分たちが編み出し、考えた新しい宗教の教えに、徐々に異邦人は移行して行ったのです。
テルトゥリアヌス は、聖書に真っ向から反するのを躊躇したためか
書いていある意味を、霊的に塗り替える作戦を編み出して、解説を
しています。
これはクリスチャンの教えの中で頻繁にされている方法です。
書かれている事実を、霊的な意味にすり替えてしまう。
例を上げれば、今は曜日はいつでも良い、霊的な安息大事なのだということに言い換えています。
神が教えていることは、神の暦通りに神のシャバットはあるのです。
そして、シャバットで得た安息を、残りの6日間、継続して生きるのです。いつでも、安息日とは、聖書ではなく、人間の教えです。
いつでも、記念日、誕生日、休日ではないでしょう。
聖書に書かれている事実を、抽象的な意味に変え続けたのが、異邦人の教父達なのです。
このような人造思想が浸透したおかげで、神が伝える聖別されたシャバットが、異邦人により遥か彼方の脇へ追いやられて捨て去られ、
その代わりに日曜礼拝が高く掲げられ、実践されるようになって
行ったのです。これは、神の教え、仰せではない!とはっきり
聖書から、気がつかなくてはなりません。
シャバットが日曜日に変わって行ったのは、聖書が伝える事実だからではなく、異邦人達がこの時代のノーム、標準、文化、大衆、同調圧力、ローマ帝国の勅令に仕方なく迎合、同調したことであり、神の
教えを変化させた人々により、聖書とは別ものの教えが編み出し続けられ、それらの教えに人々が流されて行ったというのが、歴史の事実なのです。
中世になると、これは益々強化されて行くのです。この時代は、
西洋人造宗教神学は、政治、法と一体化してしまい、カトリックの
教義に疑問に思い質問することは、イコール法に触れる罪になってしまったのです。
だから、第7日目がシャバットだと聖書に書いてあると主張しようものなら、危険、罪を犯し法的に国から処罰されてしまう有様になったのです。
この中世の時代、聖書とは全く関係のない、カトリック神学教義が次々に作り出され
布告されて行ったのです。
もし、誰かが秘密でシャバットをガードして生きていたら、それは
法に触れる罪となったのです。だから、シャバットを祝う人を、
反抗、違反者とみなして、そして、カトリックは、神の教えではなく益々人造の教えに邁進して行ったのです。
パウロは1世紀既に、偽の教えが蔓延していたことからも、警告しています。当時、神秘主義、グノーシス主義、禁欲主義、そして、
ユダヤ人の中にあった伝統の律法の戒め〜ユダヤ人が編み出した様々な掟、戒律などが蔓延っていました。
そして、パウロが警告した通り、今や神の正常な教えに耐えられず
神の言葉が廃れた!と言う教えを、異邦人が編み出した通り、
その警告が書かれています。
2テモテ4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
作り話〜神の言葉、トラーは廃れた!これこそが、諸悪の根源の
作り話なのです。人間が神の言葉を否定する、人が神になり代わり、
神の座に座り、神の名を乱用、又は聖なる父などと呼ばれ、神の
権限、権威を乗っ取っているからです。
恐ろしいほど罪な行為であるのに、それが正義であり、恵であり、
神が与えた聖霊時代!などと、聖書の言葉を利用して、作り話を
解説しているのです。全部聖書とは真逆な、神の言葉に反する行為
思想です。
コロサイ 2:8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、
世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
パウロが語る、騙し事の哲学とは、このように神の教えに反する思想
の事なのです。キリストに従うとは、イエシュアのトラー=神の教え
父の教え=モーセの五書、婚姻契約に記された人がどう生きるのかを教えている神の教えを、神の教えている通りに生きる事なのに、
クリスチャンの世界では、神の教えを捨てて、聖霊に導かれて生きる恵の時代と意味不明な事を言っています。
聖霊=トラー、神の教え、言葉は一体であり、聖霊は神の言葉に反する事など1つも教えなどしません!
考えれば、ロジック、論理にかなわない、意味不明な事をクリスチャンの世界では唱え続けて、教えられているのです。
マタイ15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう
適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから
遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
パウロ、使徒達が生きていた1世紀以降、使徒達が書いた書簡が
閉じられた後出現してきたのが、上記したような西洋人達であり、
彼らが編み出した思想で、4世紀のローマ帝国の新興宗教が作られるまで、異邦人が、徐々に神の教えを塗り替えた教えを編み出し続けて
行ったのです。
聖書にない教えが、ローマ教〜ユニバーサル教、カトリック、キリスト教にあるのは、それらが人間が編み出した教えの解説だから、
聖書には記されていないのです。
パウロ達は、そのような異邦人が作った宗教など知りません。
いつか、パウロへの手紙というのを書いてみたいと思います。
使徒達がいなくなった後、異邦人クリスチャンたちは、異教の神々の
宗教の実践、儀式やシンボルと交わり取り入れて行きました。
これは、1世紀当時にも既に、異教神信仰から、イエシュアを信じた
異邦人たちが、異教神の神殿でやっていた様々な罪でも分かるでしょう。異教神の神殿の祭壇に豚を捧げ、その血を飲み、動物を苦しめて殺す儀式をし、神殿娼婦と交わる不品行をしていたのです。
使徒15章。神の教えが何かよく知らない、異邦人たちが、神の教えを
ユダヤ人たちに正しく学ばないまま、別物の教えに流れて行ったのは
そんなにも理解しがたい、難しい事ではないのです。
元々、神の教えを知らない、神の教えを生きようと言う動機がない。
そしてローマ帝国からの圧力、迫害、重税、勅令、法的処罰が伴うならば、神の教えを生きるのはやめよう!と、信仰の浅い異邦人は、去って行くのは当たり前、弱い人の当然の行為だからです。
使徒達が去った100年後、トウトリアンが書き記しているように、
異邦人信者は、死者のために祈る事をしていたとあります。
これ、カトリックがやっている教えですが、異教徒の習わしです。
使徒達が去ったあと、神の教えとは違う、異教神の思想、儀式、習わし、教え、シンボル、記念日が異邦人の中に取り入れられ続けて行ったのです。
1テモテ2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
レビ記9:31 あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。
わたしはあなたがたの神、主である。
18:11 呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。
西洋教父たちの間では、自分たちの中にいる教父たちだけではなく、
異教の神々の僧侶や、未婚のままで亡くなった人たちを聖人として崇拝する
ようになります。
カトリックの寺院の中に、聖人と認定される人の偶像を作り、
その偶像に向かって、アドバイスや指針を祈り伺う事を始めました。
これら、聖人への祈りとなり、カトリック教の正式な教義になったのです。
神だけを頼り、神に聞かないとならないのに、偶像、死者、別物に
お伺いを立てているのです。
詩篇 50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。
西洋教父、トーマス アキナスなどは、このような実践を賞賛しています。この人たち、聖書、神の教えを正しく知らない異邦人である事は、明らかです。
AD185-254年に、オルゲネスはカイザリアで、天体学、神学、
ギリシャ哲学などを教えました。
新プラトン主義の思想を支持する人で、神の教えと、人間の哲学を
混ぜた融合した教えを、教えていました。
聖書に記された事とは、異なる哲学思想を異邦人に教えていたのです。後に異端視されました。
プロティノス AD252年、輪廻転生などの思想、新プラトン主義を
教えました。
このように、聖書と聖書に反する哲学を持ち込む人々〜異邦人たちが
3世紀に時代に、異邦人を聖書とは異なる思想に、導いて行ったのです。
そのような聖書とは関係ない思想に汚染された、オーガスチンも
その影響を受けました。
ニカイア会議で、カトリックとして正式に時のローマ帝国の新興宗教として定められ、聖書にある神の教え、そして、シャバット、
モアデイムを別ものに変えてしまったのです。
イースター、イシュタルは、異教の女神の名です。それら、異教神の背景があるものを、カトリック的な意味に塗り替えて創作したのが
今でも継承、実践されている日曜礼拝、クリスマス、イースターなのです。
問題は2つあります。1つは、神の永遠の仰せである、神の教えと神の記念日を捨てた事!そして、別もの〜人間が作ったものを、あたかも神の仰せであるがごとくにすり替えた事です。
もう一つは、人造宗教の記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースターの裏にあるものは、既存の異教神の記念日、習わし、シンボル、
偶像だからです。それらを、カトリック的に作り変えたのです。
だから、そのような人造宗教、人間が作った記念日だから、聖書には、そのような記念日は記されていないのです。
神の仰せではない、人間の勅令だからです。
AD326年に、コンスタンチヌス皇帝の母ヘレナがイスラエルに行き、十字架などのオブジェを持ち込み、そのような「物」を拝むような
事が、取り入れらたのです。カトリックには様々なアイコンがあります。物は崇拝の対象ではないのです。
AD336年に、初めて12月25日クリスマスと言う祭を行ったのです。それらの祭は、ローマ帝国のサタナリア祭、ケルト人のユールの祭と重ねて祝ったのです。
聖書には、イエシュアの誕生を祝えと言う神の仰せはないのです。
そして、12月25日は、イエシュアが誕生した日と聖書には書いていません。それらは、異教神の祭りが土台であり、その祭りに合わせて冬の冬至の時期に行ったのです。
太陽神信仰は、冬至を境に日照時間が延びるので、その日を祝ったのです。
AD337年に死者の骨、灰が崇拝されるようになります。
これらは、異教神の儀式、崇拝方法なのです。
それを、ローマ帝国カトリックが取り入れました。
それは、異教神の迷信を、カトリックが導入したのです。
AD350年には、司教に対して、他の信者が伏して、神を拝むがごとくの行為をするようになります。
AD363年、ラオデキヤ会議で、第7日目のシャバットが廃止宣言されます。これは人間の宣言であり、神の前に大罪宣言をしたのです。
4世紀終わりになる頃には、1世紀、聖書に記されたイエシュア、パウロや使徒たちが生きていた、トラーを生きる事が、ほとんど消えてしまいました。
AD374年には、ローマの慣わしに同調せよという勅令が作られましたが、その中でも神が確保している残りの民は、どの時代にも存在していたのです。
黙示録12:17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、
すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。そして、海の砂の上に立った。
マタイ 24:35 天地は滅びるであろう。
しかしわたしの言葉は滅びることがない。
黙示録14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
ダニエル7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。
聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
神の教えと、神のモアデイムが変えられて行った理由は、神の仰せではなく、ローマ帝国の政治的政策、便宜、都合であり、ヘブライ的、ユダヤ的なものを全て排除しようとする皇帝、西洋教父達のやった事であり、神の仰せなどではありません。
神はご自身で、人に罪を犯すような事は、教えないからです。
神の教えと、神の記念日を捨てる事、変える事は、死に匹敵する罪と神が教えていながら、どうして、今は人間が勝手に神の言葉を変えたり、記念日を変えて良いと言う、精神錯乱のような発言を神が
言うと思っているのですか?
これは、聖霊によるものではなく、人間が自分たちの習わしに、人々を同調させたものなのです。
続く