神の警告を無視することは危険 イザヤ66章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2ペテロ1:20にある、預言の書を勝手に解釈してはならないとある箇所と、聖書の最初から最後まで警告されている、

神の言葉の一点一画も手を加えたり、差し引いたり、取り消してはならないと言う言葉は、”神のトラー”に人間が手を加えて

変形、勝手な解釈をしてはならない、言われた通りをただ”聞く”

と言う、申命記6:4の神の宣言と同じです。

 

申命記6:4 

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
シャマー イスラエル アドナイ エロヘイニュ アドナイ
エハッド שְׁמַע יִשְׂרָאֵל יְהוָה אֱלֹהֵינוּ יְהוָה אֶחָֽד
この箇所祈りの中で最も大事な事として教えられています。
”聞け”と言う言葉。従えと訳されていますが、神の言葉、教えに
聞くと言う意味です。神が言う事だけを聞く、神の言葉だけに
語らせると言う基本中の基本、それをしないなら、神に何を教えられているのか、理解が出来ないからです。
そして唯一=エハッドとあります。この神の言葉の性質、
神の性質、神の言葉自体が、はっきり人の編み出した神学を否定しています。
神は唯一とありますが、一体、変化無い、永遠。
神の教えや約束、契約に別種は無いと言う意味でもあります。

 

神が人に伝える、教える神の教えを人の側で却下します、否定します、聞きません、それは受け入れませんと言う事が言えないことは当然だと考える、理解しやすい教えなのですが、実際に歴史の中で、人が神の言葉を変え続けてしまって、それが聖書だと

教えられてしまい、勘違いして神の言葉を却下する事を実際に

教えているのです。

 

だから、古い律法は終わりと言う教えを教えられ、その教えは

人間が作った俗説なのに、神の言葉であると本気で信じているでしょう。神の教えを律法と信じているでしょう。福音書〜黙示録はトラー、預言書100%ぴったりマッチする同じ教え、

何もトラーと相反する教えなどどこにも書かれていない事を

知っている、気がついて福音書以降を読んでいるのでしょうか?

 

イエシュアや使徒、パウロが教えていた教え、1世紀のユダヤ人異邦人信者が読んでいた書、生きていた中身は、トラー、

預言書、トラーに書かれた衣食住の生活、レビ記23章の神の

記念日だけを神の記念日として祝い、4世紀に出てきたローマ教の教えや、ローマ教が作った祭りなど誰も知らない、祝っても

いない事に、聖書を読みながら、全く気が付いていないのだと

思います。

 

イザヤ66:4 わたしもまた彼らのために悩みを選び、彼らの

恐れるところのものを彼らに臨ませる。これは、わたしが呼んだときに答える者なく、わたしが語ったときに聞くことをせず、

わたしの目に悪い事を行い、わたしの好まなかった事を選んだからである」。

 

出エジプト20章には、神が語られた10の言葉=聖書の題目が

書かれていて、そのどれも取り除けない、変形出来ないものなのです。体が1つであるのに、ある部分を取り外したり、

切り取ったり分解しても正常に機能できると主張するのと

同じ事です。

 

聖書の教えの中心である大きな10の柱=神の10の言葉=

それがモーセの五書で詳細が書かれていて、聖書全体はその

モーセの五書のコメンタリー、解説なのです。

でも歴史の途中で人=異教神背景のローマが作り変えた教えで、神の言葉を仕分けたり、人造神学を作り、神の言葉、教えに

付け加えたり、差し引いた入り、変え続けて来ました。

 

そして、西洋人が作った聖書に関する聖書とは異なる教え、

神学が現在も継承され、その結果、神の言葉の70%は異邦人には現在無効になっているとか、神の教え、性質は時代ごとに変化したとか、2000年前からは、異邦人がイスラエルに代わり

新しい別の契約を受け取ったと言う聖書では無い教え教えられてしまったので、神が神の言葉は変わったと言ったと聖書に根拠も無い不真実な教え=聖書とは相反する教えを信じているのです。

 

これは神の言葉に対する冒涜的挑戦、反抗に当たる事なのに、

神がそう教えたと聖書に照らし合わせないで信じているので、

神の言葉が破棄された、神の言葉、教えを否定する教えを冒涜だとも考える事出来ない訳です。

 

イザヤ66:3 

牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、

また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血を

ささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを

楽しむ。

 

この中で、人を殺す者、犬をくびり殺す者と書かれていますが、

これは人としてやってはいけない当然の事であると誰もが理解

認識すると思います。でもそれと同列に書かれている道徳、

モラル、倫理的には全く関係無い、問題無いと考える事が

書かれています。

豚の血をささげる者。一体それの何が悪いわけ?毎日食べてるしと考えると思います。これは、別のトピックなので、又別項目に書かなければいけない内容ですが、神の目から見て、何が汚れか、何が悪であるのか神だけに語らせて、神に教えて頂いたら

神が語る、教えている意味が分かります。人が受け入れがたい事でも神がそう言われたらそうである、それ以外に無いからです。

 

受け入れ難いと言う理由は、自分の慣れ親しんだ生活習慣、

文化であり、自分に染み付いている、生活の一部だからと言う事が原因です。自分に馴染みない、生活の中でやらない事を

禁じられたとしたら、当然です!そうでしょうと考えると思い

ます。て自分の側で受け入れられるか、感覚にマッチするか、

納得出来るかが基準になっていて、自分の都合により神の言葉を

判断、仕分けているのです。神の言葉が中心ではなく、自分の

価値観が判断の中心。異教神の世界に生きていた異邦人と言う

大きなハードルがあるのです。

 

神の宮になぜ汚れた動物の代名詞、代表である豚などのレビ記

11章に書いてある汚れた動物が捧げられない、持ち込めない

のか聖書に基づき考えた事がありますか?

神の宮、天の祭司である=イスラエルの神の家族に加えられた者がなぜ、汚れた動物を取り入れてはならないと教えられている

のか?と学んだ事聞いた事がありますか?天の祭司の意味、神の聖別の意味に直結しているのです。

 

マカバイ戦争や、バルコクバの乱の原因になった事、そして将来これから起こると預言されている、荒らす忌むべきものが

”神殿”でする冒涜、神の宮を汚れたもので汚す、冒涜する事件が再び起きる事が預言されています。

 

それらの事件の背景である”神殿を汚す”=何が神に対する冒涜、汚れなのか?荒らす忌むべきものは何をするものなのか?

創造の初めから未来、永遠に汚れは汚れとして、神の家には

持ち込めないものがあるのです。

 

神の宮を汚す事の意味が何なのか?なぜ汚れた動物で宮を汚す事がそれほどまでに神に対するおぞましい、忌み嫌うと言う最大級の強調である語彙で語られているのか?クリスチャンの世界では

一切教えられていないのです。トラーは終わり!と本気で信じて誤解しているから、神の言葉、教えの意味を教える人でさえ、

学ばないままだからと言うのが理由です。だから、聖書=トラーに書かれた神の教えを、教えられた事が無い、書かれている神の言葉の真意を素通りして、神の教えをじっくり学ぶ、考える機会も全く無いと思います。

 

生まれと育ちが汚れ=異教の神々の地の生活習慣、衣食住や生活習慣が当然のものとして普通に先祖代々染まって染み付いている

どっぷり浸かっている、神の教える汚れも生活、自分の一部に

なっていて何が神の前に汚れなのか、気が付けないだけなのです。ヘブル2章にある様に。使徒15章の汚れを継続して

持ち込み続けていた異邦人の様に。

 

ダビデのバテシバに対して行った罪、姦淫の罪、夫ユリヤの命を戦場で奪った罪。でも歴代誌以降、そのダビデの罪は語られていません。その事以上に増して、もっと重い罪を、ダビデが行った事が書かれています。

 

神の指定した方法ではなく、自分の考えた策略に頼った事。

神の教えを否定する事。この方がよっぽど重い罪である事。

そして盗みより重い罪として書かれている、異教徒異邦人的な

感覚的では全くピンとこないものがあります。

モーセが神の言われた通りを、イスラエルと異邦人の前で行わ

なかった事で、40年荒野でイスラエルを導いてきたのに、自分自身は約束の地を目の前に入ることが出来なかった事も書かれています。

岩に命じよ、言葉を語れと神にモーセは言われたのに、

神に言われた通りにせず、代わりに岩を二回叩いた事件です。

民数記20:8−13

神の言う通りを曲げて、言われた事と違う事を人の前で行うことがどれほど重い罪なのかが記されています。

 

20:12 そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なる

ことを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。

20:13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで

主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。

 

リーダーが神の言われる事と違う事を教える、違う行う事を行う罪の重さ、人に対してイスラエルの神を歪めて伝える事の重い罪が教えられているのです。

 

 

 

続く