私が、この本で納得したり、反省したり、勉強になったなぁと思うこと、四つ目。
大人のASD当事者に対して、周りが行えるサポートに関して。
相手に判断を任せてはいけない
ASDの特性として
- 自分をモニターするのが苦手
- 客観的に見て自分は今どのような状況にあるのか、自分を捉えることが苦手
- 自分がストレス因を抱えていると認識するのが不得手、かつ、そのストレス因は「これこれ、こういうことだ。」と認識するのも不得手
- もし、ストレス因を認識することができたとしても、それを他者に言葉で表現し相談することはハードルが高い
- さらにその相談により適切なサポートを引き出すためのコミュニケーションをうまく行うことはできない
ということがある。
そして、いつ、何をどう言ったらいいかというタイミングや方向性のようなものを推し量ることも苦手らしい。
だから、「何かあったら言ってね」など相手にこちらの動きを任せてはいけないそうだ。
定期的にこちらから「問題点の洗い出しや整理をし、具体的な解決法を提示する」ためのコミュニケーションを取るようにする。
そういうことが、周りからのサポートとなるそうだ。
「できてないよ」というだけではなく
どうやって改善するかの方法を提示するところまでやる。
そうしないと、「この先は、どうしたら?」って困惑するだけで先に進めないことが多いらしい。
圧倒的大多数の「普通」から見ると、そんなことしてあげなきゃいけないって…
「子供ですか?」
って言いたくなってしまうけどね…(^^;;;
だから「障害」なんだよね。
そうじゃなきゃ、わざわざ「障害」と呼ぶ必要ないもんね…
特性として自分を客観視出来ないってことは、
きっとその他の色んな物事においても視野を広げて俯瞰的に考えられなくて、
ピンポイントでしかとらえられないんだろうなぁ。
その特性が「障害」レベルまでに強いものなら
「これが、問題点。で、これを解決するにはここを見てみる。あるいは、こうしてみる。」
とかって全体の見通しを教えて貰わないと出来ないのはしょうがないのかもしれない。
このサポートを負担に感じるのも、当然の心の動きだそうだ。そこは罪悪感や自責の念を感じる必要はないと。
負担とはなるものの、継続可能なことを、周りで分担して助ける。
というのが大人のASDへの適切なサポートということになる。
そして、そのサポートは誰か一人が担うのではなく、複数人で分担して行うのも大事な点だそうだ。
サポートを誰か一人だけが担えば、その人の重荷が大きくなってしまうし、
その人がいなくなるとサポートが0になってしまう。
そういう状況にならないように、複数人で誰にでもできる形(人事異動などにおいても人の入れ替わりが可能)のサポートを
継続していくのが、生きづらさの軽減になるのだそうだ。
そうだよね、軽減が一時的じゃ、あんまり意味がなくて、
そこにいる限りは継続して、生きづらさ少な目でないと、お互い困るもんね。
この辺りの話を読んで、私は思い出したことがある。
夫と夫婦カウンセリングに行っていた時、
「これができないなら、じゃあ、これはどう?これでも、ダメなら、これは?」
と会話をして欲しかったと、夫が言ったことがあった。
私は、
「こちらの要求を伝えていて、その要求に応じられないのは、お前なんだよ!
応じられないお前が、どこまでなら出来るかを言えよ。
何で、こっちが代替案まで全部考えて提示してやらなきゃいけねぇんだ!
甘えんな!ガキか!!!![]()
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」
ってものすごくムカついたのを思い出したんだ…
あぁ、出来なかったんだ…
あの時の夫は、自分のこともよく分かっていないし、言語化も苦手な中、やっと必死に、自分の要求を言葉にしたところだったんだな…と、この本を読んで思った。
それに、「自分のことを分かってくれる人はほとんどいない」と言う夫に、
「お前は自分のことを自分でも分かってもいないのに、他の人がお前のことを理解出来る訳ないだろ![]()
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当たり前じゃ、アホ!!」
と思い続けてきたけど、、、
自分で自分のことをモニターできない、分かっていないって、それも特性だったのか…と改めて知った。
(うすうす、これって特性なんじゃないかなぁ…とは思ってきてはいたけど)
まあ、私もASDに関する理解が、まだまだ足りていなかったんだな…
あとちょっと、④'に続く…
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