映画物語(栄華物語のもじり)

映画物語(栄華物語のもじり)

「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

ひっそりと 記念メダル のページを移転しました。


胸を張ってあくまで映画ブログです。


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 記念メダルに関する記事は、すべて下記サイトにお引越ししました。このブログは本来の「映画ブログ」としての姿を取り戻し、また頑張って運営して参ります。そう、あくまで映画ブログなのです。じゃんじゃんばりばり更新します(嘘っぽい擬音)

 

 

https://kinenmedal.jp

 


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★★★★★

 わたくし、確かにキャラメルフラペチーノしか頼んだことがありません、という話。しかも「Tall」とかじゃなくて、「M」って頼んじゃうよね。

 

 「ユーチューバー」という言葉がすっかり定着した昨今。言葉の定着に相反して、「何をもってユーチューバーと呼ぶのか(あるいは呼べるのか)」ということが問題となっている(問題と呼ぶほど問題ではないが。隣の家の人の晩御飯が何かという程度の問題)。
 YouTubeの収益だけで生活をしていたらユーチューバーなのか、生活ができないまでも「副業」と呼べる程度には収益があがり動画編集機材もだんだん良くなっていくのが目に見えてわかり、チャンネル登録者数5万人以上(「銀の再生ボタン」がグーグルから貰える)くらいの人をそう呼ぶのか、あるいはYouTubeに動画投稿をしてさえいればユーチューバーなのか――
 最近よく話題に上るのが、小学生の「将来なりたいものランキング」でユーチューバーがランクインしたということである。で、それを嘆く世間の風潮があり、「子供が世の中をなめている。それもこれもユーチューバーなんていう胡散臭いものが生まれたからだ」と日本の将来を悲観する声がある。一方でネット界隈では「普通の職業よりよっぽど難しいんだ!」と、これは嘆く世間に対する反論なのか、はたまた気安くユーチューバーになりたいなどとうそぶく小学生に対する非難なのか、とにかく「ユーチューバーなめるな」の風が強い。確かに、日本のユーチューバーのトップに君臨し続ける「ヒカキン」は毎日動画を投稿しいて、ヒカキン自身がトップユーチューバーのそうした傾向を危険視して「毎日投稿をやめよう!」と呼びかける動画をアップしたことで話題になったことがある(「小説が書けない」という小説を書いた太宰治のようだ)。毎日投稿するということは、いわば一週間休みなく働いている――無休で働いているということに他ならない。そんな生活をずっと続けているヒカキンは、自身がインフルエンザに罹ったときも、「インフルエンザにかかりました」という動画をアップしたことでこれも話題となった。そこまで休めないものなのかユーチューバーは、という驚きが世間をざわつかせた。

 毎日、休みなく働いているというだけで、一労働者としてとてもすごいことである(それが良いことだとは思わないが)。つまり、ヒカキンは人より働き、人より努力をしていて、身を削るような毎日を送っているおかげで、現在の成功を維持しているのである。そんなすごい人に「憧れを抱くなんてけしからん」という話は、本来はちゃんちゃらおかしい話である。「ユーチューバーは楽して儲けている」という誤解をしているだけという話なのだ。
 また、最近ではだいぶ認識されるようになったが、「動画編集」というのは大変時間の掛かる作業である。10分程度の動画を5、6時間かけて編集するなんていうことはザラで、動画のネタとなるものを撮影する時間も含めれば、十分立派な労働時間となる。「ちょっと動画撮影してアップする」なんてことではこづかいも稼げない。「子供が世の中をなめている」という非難は、この辺のことを理解せず「お手軽」だと思っている人によるものか、真に理解しているからこそ「なめるな」と言っているのか、いまいち判然としない。
 真に理解されていたとしても「ユーチューバー」が不遇であるのは、例えば「野球をやっているから将来はプロ野球選手になりたい」と言っても全く非難されないのに、「動画が好きだからユーチューバーになりたい」はほぼ確実に非難されるということである。私の価値観でいえばプロ野球選手になりたいというのもなれる可能性を考えれば十分とんでもない発言であると思うのだが、その夢は、少なくても小さいうちはとりあえず応援されがちである。が、ユーチューバーへの夢は小さい時から全力で否定される。なめるなと言われ、そうした夢を持たせる世の風潮すら嘆かれてしまう。
 しかし、最初に述べたように、プロ野球選手と違って、「ユーチューバー」の定義は曖昧である。プロ野球選手はセパ12球団のうちのどれかに所属できなければ全くプロ野球選手とは名乗れないが(独立リーグ所属で胸を張ってプロを名乗っている人は見たことがない)、ユーチューバーになりたい! は「週一回投稿でチャンネル登録者数5万人※本業あり」みたいな感じでも、ユーチューバーとみなされる。この例では余裕でユーチューバーだろう。

 だから、小学生がもし「ユーチューバーになりたい」と言っていたら、それを聞いた大人は落ち着いてまずは「それはどの程度の割合で動画が生活に影響のあるユーチューバーの話ですか?」と訊いてみなければならない。もしかしたら「プロ野球選手になりたい」と比べて100倍くらいなりやすい&安定的なユーチューバーのことかもしれない。月2、3回投稿のチャンネル登録者数目指せ1万人、みたいな。←目標としてえらく現実的な数字。

 それぐらいなら認めてあげても良いじゃない。エロ系でなければ。トヨタ自動車本社への入社を目指すより500倍くらいハードルは低い(当社比)。

 で。
 「ユーチューバー」と似た職業(続柄?)に、「ブロガー」がある。「ブロガー」も、ブログの収益で生活している者を指すのか、ブログで収入を得てさえすれば良いのか、はたまたただブログを書いてさえいればよいのか――何をもって「ブロガー」と呼ぶのか。「ブロガー」という言葉がすっかり定着した今でも、非常に曖昧である。「名乗るのは自由」ならば、なんならブログを一切書いたことがなくても「ブロガー」と名乗ってもよいかもしれない(そうなのか?)。

 ブロガーもちょこちょこっと記事を書いて広告を貼り付ければアフィリエイトの収益がガンガン上がる、ということはほとんどなく、ほとんどの場合、夜間のパチンコ屋の清掃を2時間する方がよほど収入は高いし時間もかからないだろう。私は一つの記事を書くのに2、3時間はかかる上に、後述するが収入などゼロに近い。「思っているよりも手間ひまかかって割に合わない人の方が圧倒的に多い」という点では、ユーチューバーとブロガーは似ているといえる(ネットという点も)。自分の私生活の一部を切り売りするのは安易に金を稼ぐ手段に見えるのかもしれないが、普通の収入を得るよりよほど難しいといえる。

 ただ、ユーチューバーと違って、「将来はブロガーになりたい」という言葉は、あまり聞いたことがない(もちろんどこかにはいるかもしれないが)。「ブログのアフィリエイト収益で何もしなくてもウッハウハ」みたいな広告・宣伝が世に溢れかえっているのに、その「おいしい話」に飛びつく小学生というのは聞いたことも見たこともない。ブロガーはあこがれの職業ではないのである。

 この違いは何なのか。

 「映像」か否かである。「映像」というコンテンツがもつ魅力は、いつの時代も圧倒的なのではなかろうか。

 小学生の「ユーチューバーになりたい」は、「世に出たい」「有名になりたい」という願望の現れでしかないのである。大人がやいのやいの収益の面を議論したり諭したりするのはまったくの蛇足で、「女優になりたい」みたいな昔から存在する願望の延長上のものなのではないだろうか。そういう意味では、いくら稼げるかより、知名度をあげられるかどうかという話の方がまだ小学生の胸には響くことだろう。AKBグループのみなさんだってその大半は涙の出るような薄給で(あるいは無給で)頑張っているのに、それでもなりたいという人が後を絶たないのだから。

 かたやブロガーは、稼いでいても小学生があこがれを抱くような形では世に出ない。非常に地味~な存在である。

 で、何が言いたかったかというと、私はブログを書いてはいるがブロガーなのか? というどうでもいい話ね、これ。前振りが長すぎて書いている私が本題に入れないかと危惧したぐらいである。

 とりあえず、このブログを書いていて収入はまったくといって良いほどない。かれこれ6年以上書いているが、今までにブログを書くことによって得た収入はせいぜいAmazonポイント300円分くらいである(実話)。というか、アフィリエイト目的であるならば、アメブロは全く選択肢に入らないだろう。SEOにも超弱いし。芸能人・有名人でもない限り、アフィリエイターは自分でレンタルサーバを借りてWordPressで書くべきである。

 ではなぜ巷でいろいろと文句の多いアメブロなんかで執筆するかといえば、ただ一つだからである。アメブロのエディターは本当に使いやすい。私の感覚としては「windowsよりもMacの方が好き」「AndroidよりもiPhoneが好き」という人はアメブロがぴったりであると思う。一言でいえば、「できることは少ないけど簡単」である。AMPが崩壊しがちだけど

 で、全く収入に結びつかないブログサービスで全然読まれないブログをなぜ書き続けているかというと、文章を書くのが好きだからという他ない(これを「人生でやることがない」ともいう)。好きなことを好きなように好きで書いているだけなので、この記事のようにいつまでたっても本の内容にたどり着かない文章を垂れ流すハメになるのである。つまりそれは、「期待に添えない文章」だということである。仮に、本著のタイトルでグーグル先生で検索をしてすこぶる運悪くこのブログに行き着いた方がいるとしたら、本当に不幸なことだろう。ここまで読んでも、いまだ本著の内容に関係ないのだから。そして、恐らく笑いもないことだろう。これは本当に不幸なことである。ネット記事において、「タメになる」か「笑える」か、そのどちらもない記事を読むというのは写経に等しい苦行であるといえる。

 その点、本著の作者が書くブログ記事を元に編集した本著は、笑いの塊であるといえる。ブログを書き続けて7年目「そうか、ブログというのはこのように書くものなのか!?」と開眼にも似た気持ちであった。

 作者の肩書きは「料理コラムニスト」というものだそうなのだが、料理の話でなくてもとにかく面白い。文章が面白い。「面白いことを書くのではなく、面白く書く」を実践している。

 面白くなくても一応毎日のように文章を書いている身なので僭越ながら述べさせていただきたいのだが、「笑いのある文章」というのは意識しなければ書けないものである。気の向くままにさらさら書いているだけでは、もしかしたら「興味深い文章」は書けるかもしれないが、笑いのある文章はなかなか書けないものである。「笑い」という要素はそれだけ余計な労力を必要とするものであり、平たく言えば、疲れているとなかなか書けない。「笑い」は、面白い人がただ書けば自然と生まれるというものではなく、笑わせたいという気持ちから生まれるものなのである。たぶん。よく知らんけど(唐突な無責任さ)。

 作者はとても熱心に文章と向き合っているといえる。本業ではないのに。料理も文章もうまいのは、どちらも手間ひま掛けているからだろう(うまいことを言ったつもり)。何が言いたいかというと、作者の肩書きは「料理コラムニスト」ではあるが、多くの人を惹きつけるブログを書くという点で「ブロガー」であると考えているということである。

 つまり、「何を以てユーチューバーと呼ぶのか(何を以てブロガーと呼ぶのか)問題」の私なりの結論としては、面白いかどうかであると考える。その動画が面白くなければユーチューバーではないし、そのブログが面白くなければブロガーではないのである。収入云々というよりも、表現したものが人から認められるものであるか否かにその肩書きを名乗る資格が左右されるのではなかろうか。そのように考えると、私はブロガーではないということになる。別に自分を卑下しているわけではなくて、日々のアクセス解析結果からそう判断するのである。そして何より私はブロガーと名乗りたいと常々思っているので、そこに謙遜はない。1ミリもない。SEOの勉強も多少なりともしてアクセス数アップを日々目指している野心家でもある。しかしながら、アクセス数アップは全くといって良いほどしない。だってSEO対策ってめんどいんだもん。「人から求められていることを記事にしましょう」とかって全然書いてて楽しくないじゃん、とアフィリエイターとは根本的にブログを書く動機が違い、SEO対策はちょっと断念している。

 「役立つ情報」ではなく「文章の面白さ」で読者を惹きつける作者には本当に尊敬を惜しまない(もちろん役立つ料理の情報も載っているけど)。目の付け所も面白いし、言葉のチョイス、ツッコミ、そして決して攻撃的にならないような配慮が、文章としてとてもレベルの高いものにしている。だから読んでいてい笑いが起こるのである。

 これが「読み手を意識した文章」というものだろう。

 本当に面白い。「ブログで無料で読めるのに、わざわざお金を出して本で読む必要があるのか?」という問いに、「ある」と即答できるほど面白い。一冊の本として、とても面白い。

 夏休みの読書感想文なども、こういう本で書かせれば良いのにね〜読書感想文の定番「自分の体験と重ね合わせて」という要求にものせやすいだろうし。しかし、学校の先生ーー特に国語の先生に、こうした本をチョイスするセンスというかユーモアがある人が少ないのが現実であるので、難しい。そもそも国語の先生で読書感想文の賞を獲ったことがあるという人に出会ったことがない。もちろん中にはいるんでしょうがね〜。「賞を獲らせたことがある」という自慢をする人は腐るほど会ったことがあるが、それはあなたがすごいんじゃなくて賞を獲ったその生徒がすごいんじゃないの? と毎回思う。別にあなたが担当しなくたって賞を獲れたんじゃないの、と。

 そういった方々が指導と称することをして、あまつさえ審査までするのだから(支部予選は特に基準なくテキトーに集められた学校の先生たちで行う)、なかなか歪んだ賞レースであるといえる。国語の先生が目くじら立てて指摘するのはいつだって原稿用紙の使い方(カギカッコの位置だとか)や細かい言葉の使い方などで、ユーモアとか笑いとか、人を惹きつける魅力ある文章にするのに必要なことは何も教えてくれないものである(大抵「読み手を意識して!」というアンニュイな指導で終わる。わからないからだろうけど)。その辺のことについてはまたいずれ書くかもしれないし、書かないかもしれない。

 だらだら書くブログなので最後まで脱線しまくったが、要するに笑いたきゃ読め! というブログ本でおすすめということである。ちゃんちゃん。

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★★★★☆

 睡眠学習していて怒られないなんていいなー、という話。

 

 授業中に寝てしまうのは、はっきり言って不可抗力である。

 寝不足だから、というのは否定しない。夜更かし等して生活リズムが整っていないからそんなことになるんだ、そして、授業中に寝るからまた夜起きているという悪循環になるんだ、という意見も全ては肯定しないが割と理にかなっている主張ではあると思う(授業中に寝るせいで夜に眠くならないから夜更かしするんだ、という理屈は鼻で笑ってしまうが。授業中に寝れば良いと思うから夜更かしをためらわないことはあるだろうが)。これは、授業を「する側」が唱える理屈である。すなわち、悪いのは授業を「受ける側」であるという理屈である。

 また、授業が退屈だから、というのもよく聞く話である。楽しいことをしているときは眠くならない、だから授業が面白ければ寝ないんだ、という主張である。これは授業を「受ける側」の理屈である。大抵、授業中に寝ていることを咎められた際に、厳しく注意してきた者の尊厳を傷つける意図も含めて対抗手段として用いられる主張である。つまり「眠くなるような授業をしている方が悪い」、と。確かに、格安の夜行バスで寝心地悪く寝たか寝てないかわからないような状態でディズニーランドに行っても途中で寝てしまうなんてことはないが(私はリトルマーメイドのショーで寝たけど)、割と睡眠万全の状態で臨んでも、例えば「古典」の授業では深い闇へと堕ちてしまうのは森羅万象必至の事象である。弁当を食べた直後の5時間目の「古典」なんて寝ない方がおかしいとすら言える。だって授業してる方すら眠いもん。

 最近、某大学の公開講座を受講した。資格を取るためなのだが、本来は大学で半期かかる内容を二日間にギュッと凝縮して行うため、朝から夕方までずーーーっと講義を受け続けるという日程であった(いわゆる集中講義というやつ)。わざわざ資格を取りたくて受講を申し込んだくらいなのだから、内容にはもちろん興味があるし、何より最後には筆記試験があるので学生時代には考えられないほど集中して講義を受けていたのだが、寝た。余裕で寝たね。ちなみに前日は7時間睡眠というこれ以上ないほど理想的な睡眠時間であった。

 つまり、「生活リズムが整ってないからダメなんだ!」という「する側」の理屈も、「退屈な授業をするのが悪いんだ!」という「受ける側」の理屈も、両者とも間違ってはいないが、物事の核心には全く迫ってないといえる。両者とも副次的要素で影響はあるものの、では「ばっちり睡眠とって、めっちゃ興味深い内容であれば寝ないのか?」というと、答えはノーである。だって寝たもん。私。

 この問題の核心は人の話をずっと聞いていると眠くなるということである。座っていたら尚更で、さらに個人ではなく場の全体に話しているような状況なら寝るなというのは優しめの地獄であるといえる。「寝たら地球が滅びる」と神様に言われていても、絶対寝る奴がいるだろう。人間の遥か高みに存在する圧倒的な何かが、抗うことのできない圧倒的な力で我々をねじ伏せてくるのである(机の上に。頭だけ)。

 ただ、本著内でキーポイントとなっている「睡眠学習」なるものが本当に可能であるならば、本来平行線をたどるしかない「する側」「受ける側」両者の戦いも、終止符が打たれるはずである。

「おっ、寝たな! いよいよ学習効果が高まるぞ!」ということになれば、誰も傷つかなくて済むのである。居眠り歓迎! みたいな。むしろ「何で寝ないんだ! 私の授業の前にまさか昼寝でもしてきたんじゃないだろうな! なめてるのか!?」「すみません、どうしても寝れないんです……先生の話が面白すぎて」「その面白すぎる話をどうせ明日には忘れるんだろう。寝ないせいで。このバカが!」と怒られる日が来るかもしれない。

 ということで、本著の話である。海堂尊の「桜宮サーガ」の一作品であり、新しい物語軸として進んでいく。海堂尊の作品群はどれも世界観を同一にしており、登場人物のクロスオーバー出演がなされるのだが、本著のキーパーソンである「佐々木アツシ」に他作品間で年齢に矛盾が生じたため、本著を執筆することになったらしい。年齢の矛盾を解決する手段として用いられたのが「コールドスリープ」というSF的手法である。つまり、人体を冷凍保存することによって「時を止めて」矛盾の解決を図ったのである。

 ただ、そこはやはり現役の医師だなぁと感じるのは、SF作品に出てくる単純な冷凍保存ではなくて、「そんなに細かく解説されると、なんか本当に実現できそうな気がしてくる~」というような詳しい設定がある。しかも、「寝ている間も体は成長する。しかし、コールドスリープ中は人権が停止されるため、法律的には年齢も『凍眠』時から停止する」というちょっと複雑な設定で、五年間歳を取らなかったという帳尻の合わせ方なのである。なんか頭良い~みたいなね。煙に巻かれている感もあるが。

 ストーリーとしては、主人公はこの「佐々木アツシ」の凍眠を管理するために雇われた女性である。五年間と定められた凍眠から目覚めようとしている佐々木アツシ(モルフェウス)が目覚めとともに社会から孤立してしまうことに気づき、蘇生された後の彼を守るために一人奮闘する話である。

 いろいろな作品からクロスオーバー出演をするキャラが多数登場する。「桜宮サーガ」の本筋となる「バチスタシリーズ」から田口医師が出てきたり(病院長になったんじゃないの?)、佐々木アツシはそもそも「バチスタシリーズ」2作目の『ナイチンゲールの沈黙』の患者だったり、『マドンナ・ヴェルデ』で実の母親をクソみたいな扱いをしていた産婦人科女医、の旦那がキーマンとなって中心として話が進んだりと、海堂尊作品のどれにも言えることだが、他の作品を読んでから読んだ方が面白くなる作品である。

 特にキーマンで「ゲーム理論」とやらの第一人者である曾根崎伸一郎という男は『マドンナ・ヴェルデ』では全く人の心が理解できないめんどくさい野郎でしかもチョイ役というポジションであったが、本著では「凍眠八則」なる船中八策のパクリな理論を提唱し、それを元に「コールドスリープ法」が定められた、という設定である。劇中でも主人公の女性と再三やりとりをして、女性の歩む道を導いていく。とりあえずゲーム理論というのがよくわからんが。ゲームと聞けばすぐにテレビゲームを思い浮かべる世代である、これでも。

 この「凍眠八則」というのが完璧すぎて誰も論破できなかった、だからこれがスタンダードになったーーという経緯が劇中で描かれているのだが、そんなに論破できない話かね~なんて思ったり。まあ実際にこのことで海堂尊にディベートを挑んだらきっと簡単に論破されてしまうのだろうが、論破できるかできないかってのは、実社会では実はそれほど重要ではないのではないかと考えている。というか、なまじ相手の言っていることを理解できる人――つまり「論破された、きー」となっている人は問題でなくて、言っていることが全然理解できなくて「とにかくヤなの!」と開き直る人がもっともどうにもしようがないのである。

 つまり、「わからない」と平気で言える人を説得するほどどうしようもないことはないのである。「わからない」と平気で言える人は、わからないことを悪いとも思っていないし、わかろうと考える努力すらもうしないと宣言しているのと同じである。そして、わからないからといって、自分の考えを曲げる気は微塵もない。わからないことを恥じてもいないし、悪いとも思わないし、わかろうとする努力をする気もないし、相手に非があると信じて疑わないし、自分の考えを改める気はあらゆる理屈を超越して一切ない。

 本当に困り果て、途方に暮れるときは、このような人を相手にしたときである。もとより相手の言葉に耳を貸す気がない者が出現したとき、話し合いは息詰まる。そして、世の中から発せられる論議の結末は、概ねこのようなになる傾向が強い。あの困ったちゃんをどうしたもんかね、と。

 とにかく、反対――みたいな主張の前に、全ての正当性は砂上の楼閣となる。会議等でよく思うのは「どうすれば良いかはわからないけど、これじゃ良くないと思う」というようなことを訳知り顔で発言するベテランがいると、どうすればよいかわからないのによく反対だけできるな~と、妙に感心してしまう。会議ではこういう人が実は最強なのである。

 この観点で考えると、例えば「凍眠八則」で、物語後半に問題として取り上げられる「コールドスリープ中は人権を停止する」という条文は、絶対に人権団体などから反対され、また、反対派の主張を見事論破して正当性を訴えたとしても、「でもダメなんだ! このままじゃダメになる!」というよくある「とにかくこのままでは〇〇がダメになる」という理屈を超越した攻撃でいつまでも批判が止まないと思われる。

 理屈で物事を通せると考える人は、理屈で物事が通じる人たちがいる世界で働いている人であると思う。つまり、エリート階級ともいうべき世界である。医者の世界というのは、恐らくそれに当てはまるだろう(あとは官僚の世界とかね)。理屈に合っているか、や、あるいは理屈に合わせる、といった考えは、理屈や理論を尊重する価値観があるからこそ成り立つ話である。世の中では、とても頭が良い、俗にエリートと呼ばれる官僚の皆さんがいろいろなことを国のために考えて仕事をしていて(国のためであって国民のためではないかもしれないが)、国が現状で置かれている状況を考えると必要だと思う施策を実行しようとするとき、そこには確かな筋道と理屈が存在するのだが、それらをあんまり理解しようとしないしいろいろと勉強不足ゆえにそもそも理解できない私のような小市民はとりあえず「でも納得できませんね。私たちの税金なのに」と言いがちである。このときの「でも」は、よく分かっていないことを棚に上げる「でも」である。じゃあ代わりにどうすればよいかなんてさっぱり考えていない「でも」なのである。そもそも当の官僚たちだって税金払っているし、賭けてもよいが「私たちの税金」という言葉を何かと使う人よりも絶対に多く税金を払っているはずである、お給料の良い高級官僚の方々は(まあそのお給料も「私たちの税金」で支払われているんですがね~)。

 この物語の中で出てくる「『凍眠八則』の理論は完璧で、誰も異議を差し込めなかった。だから事実上それが世の中に受け入れられた」というのは、あり得ないと思うのである。言い返せないから何も言わないというのは理想論で、実際は、きちんとした反論ができなくてもとにかく嫌なら声を上げる人というのがいるし、むしろ世の中全体の動きとしてはそちらの勢力の方に左右されがちである。

 世の中は、理屈よりも感情で動く。世論とは、それである。

 「世論に訴えかける」とは、理屈と正当性を並べることではなくて、感情的に納得してもらう働きかけである。

 どんなに言葉を尽くして説得を試みても、「だってわからないもん!」という最強の剣による一刀両断を受けたときに途方に暮れる絶望感は半端ではない。わからないことをそんなに威張られても……と思えど、それを言ったところで解決しないし。

 つまり――わからないことを恥じないことが実は最強なのである。もちろん、「ある意味では」だが。

 この論に立つと、「凍眠八則」の完全性を理解できない人が、きっと反対の声を上げ続けるだろうということが予想される。そういった人がいないというのが、海堂尊作品のフィクションである。

 海堂尊の小説の登場人物は、平凡な主婦であろうととにかくよく頭が回る、というのが、海堂作品の魅力でもあり弱点でもあると考える。どんな人物でも、とにかく「ようそこまでいろいろ考えが至るな」というほど相手の言っていることをよく理解して自分の取るべき行動を考える。「短絡的な人間」というのが皆無なのである。これはもちろん、作者が頭が良いからだろう。

 しかし、多くの人間で動かす物事をせき止めるのは、いつだって「わからないことを恥じていない人間」である。そこに説得の余地はなく、かといって周囲が大人であればあるほど声の大きさを無視できない配慮が生まれる。官僚や政治家が世論を無視できないのは、世の中を動かすのが理路整然とした正当性ではなく、「声の大きさ」であることを実体験として肌で感じているからではなかろうか。高齢化社会に向けてもっと福祉に力を入れろとしながらも、でも税金は上げるなというのは、よく考えれば無茶な話なのだが、「バカじゃないの」と言わずに頑張って税金を引き上げようとする国。福祉先進国の好待遇な福祉制度をうらやましいとしながらも、福祉先進国のバカ高い消費税は決して受け入れようとしない国民。

 こういうことを書くとまるで官僚バンザイな海堂尊と真逆の考え方をもつ人間と思われるかもしれないが(海堂尊は作品内で何かと官僚を卑下する。身内にエリート官僚がいたら持っている本を引き裂くレベルで)、給与明細を見るたびに市民税バカたけーしと文句を言っている私である。何に使われているかもよく知らないくせに。いや、何に使われているかをよく知らないからこそ、か?

 理屈を超えた感情で動く人間の方が実は影響力がデカイし無視できないという事実が全くない世界は、海堂尊の描く世界の特徴である。非常に高等なフィクションワールドであるといえる。その世界に生きる人すべてが全然無茶苦茶でないなんて、実は現実味に欠けるのではなかろうか。

 何が言いたかったかというと、「コールドスリープ」というものが百歩譲って仮に実現したとしたら、たぶん主人公が務める施設の前に、人権団体やら宗教団体やらが連日押し寄せてきたのではないかなー、という全く不要な危惧をした、という話である。「とにかく反対! とにかくダメ!」っていう人、絶対いると思うだけどな~。「輸血なんて絶対ダメ」と言ってわが子の命よりも大事な「何か」の前で死なせてしまう親がいるくらいなんだから。

 いやー、しかし、また話がズレましたな~。睡眠学習で何か国語も話せるようになるなんてスピードラーニングを超えたなー、という話を書くはずだったのに。

 

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★★★★☆

 国家元首の暗殺やら略奪やらが割と容易に達成される世界の話。そりゃ、世界を手に入れたくなるわ。世界を手に入れて何がしたいのかが議論されることはほとんどないが。

 

 『ミッション:インポッシブル』シリーズは割と鑑賞しているはずなのだが、どれが鑑賞済みかが思い出せず「最新作なら観ていないはずだ」と安パイを選び鑑賞した。鑑賞中、明らかにシリーズのどれかに出演したであろう方々がトム・クルーズの友人、仲間として特別な説明もなく登場し、先を急ぐようなささっと活躍した。しかしながら、私は誰一人わからず「お前誰やねん。なんでいきなり出てきてピンポイントでトムが困っていることを助けるねん。『遊戯王』で遊戯がピンチのときに必ずドローする起死回生の新登場のカードか?(ネタが分からない人は「ドラえもんのひっみつ道具か? でOK)。

 ということで、結論としてはどの作品も記憶にないのでどの作品を観ても新鮮な気持ちで鑑賞できた可能性大。なんなら本作も観たことがあるかもしれない。人の記憶とは、何故こんなにも儚きものかな。

 人の記憶の儚さを嘆く一方で、驚くほど忘れない記憶というのを、脳ではなく体が覚えていることもある不思議。体が覚えているというのは、目とか鼻とかそういったものを――いわば五感を超越して、そばにくれば思い出す、というのはもちろんのこと、思い出す前から体が勝手にそこに向かっている、とも言えるような記憶である。

 何が言いたいかというと、「大好きだったあの人」を、偶然にも見かけたのである。そのとき流れ出した脳内BGMはもちろん山崎まさよしの「one more time,one more chance」である。

 

 

 私の体が「いつでも~さ~がしているよ~どっかに~き~み~の姿を」であったからこそ気が付いたとしか思えない。脳ではなく、私の全てが司る記憶である(まじキモイ文章)。まがりなりにも映画ブログを運営する人間が『ミッション:インポッシブル』に関しては何一つ思い出せないのに、大好きだった人のことは瞬間的に体が思い出すのである(寒気がするほどキモイ文章)。

 どこで見かけたかというと、私の最寄り駅の某スーパーである。

 このスーパーは、「車に乗って気合い入れて買い物に来るようなスーパー」ではなく、一言でいうなら「歩いて来られるし空いてるから来るスーパー」である。そもそもわざわざ車で来るなら近くに大型イオンがあるし。

 ということは――

 その人は、このスーパーの近くに住んでいるということになる。私と同じく。ということは最寄り駅も一緒だし、というか生活圏が一緒だということになる。最近幸せになったことがLINEのID写真で知れたのだが(まさに時代である)、それに伴って転居してきたのだろうかと推測。切なさ120%(なんじゃそりゃ)。

 それ以来、私は挙動不審者として生きている。このスーパーで毎日夜ご飯&翌日の朝ごはんのお弁当を買うので、行かない日はほぼない。陳列棚の陰から人が出てくるたびに「びくぅぅっ」と震える毎日である。決して会いたくないわけではない――むしろ本能はもう一度一目見ることを渇望していると言ってもよい。会うのは怖いけど会いたい、なんて乙女なことを思う30代半ばのおっさんのキモい思い重い。

 山崎まさよしの『one more time,one more chance』をマジで地で行くなぁと感じるのは、いつでもどこかに君の姿を探していると言って、それに続く探す場所が「向かいのホーム、路地裏の窓、そんなとこにいるはずもないのに」と続くことに対し、路地裏の窓はマジでおらんだろと思っていたのだが。そう、「いや、路地裏の窓は見ないだろ。犯罪じゃん。田代まさしか」と常々思っていた。それを山崎まさよし好きの女子が飲み会にいるたびにからむネタにすらしていた(最低)。が、今やヘタすれば見てまう。路地裏の窓見てまうと思う今日この頃。生活圏内が同じだということは、その辺の家に住んでいるかもしれないのである。マジでいるかもしれないという可能性の前に、人間の忍耐は無力である。いや、そうは言っても路地裏の窓は見ないのだが(そもそも近所に路地裏なんてない)、いままで目にも入らなかった2LDKくらいのアパートがやたらと目に入ってくるようになったのは事実である。いや、覗かないけどさ、まじで(逆に怪しくなるしつこい否定)。

 「いつでも~さ~がしているよ、どっかに~き~み~の姿を、路地裏の窓、向かいのホーム、そんなとこにいるかもしれんし」。

 すみません、特に向かいのホームは毎朝マジで見てしまいます。

 つまり、山崎まさよしの「one more time,one more chance」は、「かつて大好きだった人が自分の生活圏にいるかもしれないというときの歌」ということになる。路地裏の窓を見て君がいるかもしれないと思うなんて、この条件がなかったらむしろ相当やっべえぞ。通りに面してない人んちの窓を見るたびに「いるかなーいるかなー」と思うわけなんだから。

 あっ、この記事、『ミッション:インポッシブル』五作目の話ね。

 つまりは、私にとって『ミッション:インポッシブル』は、儚い恋よりも儚い記憶である、ということである(なんのこっちゃ)。

 そんなわけで、シリーズのファンにとっては「あのキャラが!」という喜びに満ちた演出も、私にとってはただの不親切な登場の仕方でしかなく、大変困った。あなた誰ですか〜説明して〜と。

 ストーリーとしては、「シンジケート」という闇組織が世界をまたにかけて暗躍する中、トム・クルーズが所属するIMF(「国際通貨基金」だと中盤までずっと思ってた)を解体してCIAに組み込もうというところからはじまり(だから国際機関を自国の一組織にしようなんてアメリカってほんと横暴だなと思ってた)、トム・クルーズは「シンジケート」にハメられてピンチになりつつ、解体されたIMFの元メンバーの助力を得ながら闇の組織に迫っていくというよくある話。スパイ映画って大抵敵対する闇の組織があって、大抵元諜報員だよね。元身内以外に敵はいないというレベル。

 物語終盤で、「シンジケート」はイギリスのスパイ組織MI6が発端となったものだと判明する。そして、MI6長官がなかなか小物感溢れるイヤな奴として登場するのを見て、「さすがアメリカだな〜。他国のスパイ組織の長官をこれほどコケ下ろすとはね〜。アメリカ万歳だな!」と思いながら観ていたのだが、よく考えたらCIA長官はそれをさらに上回る超小物演出であった。それも最初から最後まで。これぞ公平を重んずるアメリカ。アメリカは平等は軽んずるが、公平は尊重する実力社会である(超適当な発言)。

 劇中で最も印象に残った場面は、噛んでいたガムをガラスに貼り付けて退席し、戻って来たらそれを剥がして再び食べるというシーンである。えっ、これアメリカのスタンダードなの? すげー汚いんだけど(何のひねりもない感想)。自由の国、アメリカ。

 ポスターにもなっている「トム・クルーズが飛行機にしがみついているシーン」は、実際の映像らしい。つまりCGなしである。40半ばを過ぎても空飛ぶ飛行機にしがみつけるトム・クルーズは神なのではないだろうか。30半ばの私でも到底できない。というか、そのようなチャンスも巡ってこない。飛行機にも沖縄行きの国内線に一度乗ったことがあるだけである(往復なので正確には2度だが。しかも修学旅行)。飛行機にほとんど乗ったこともないのに、いわんやしがみつくをや。

 敵の組織の名前が「シンジケート」というのも、地球に来たナメック星人が「ピッコロ大魔王」と名乗るくらい潔い。

 

↓自らを「魔王」と名乗るほど悪いことをしている自覚のある方。しかも「大」までつけちゃって「俺すげー」に一切の恥じらいのない清々しさも併せもつ。

 

 「シンジケート」とは、一言でいえば巨大犯罪組織のことである。いわゆる「闇カルテル」(闇じゃないカルテルがあるのかという問題)の発展したものなので、自分で「悪の組織」と名乗って活動しているわけである。もっともこの名称はそもそもはMI6長官が付けたのだが、裏組織とはいえ国が発足させる組織にそんなネーミングをするのもどうかと思うし、裏切った段階で普通改名するだろと思うところを律儀にも使い続けたわけなのだから、それなりの愛着があったのだろう。「暴走族」的なノリだろうか?(私はネット世界の慣習に倣って「珍走団」と読んでいるが)。

 今でこそYouTubeを中心にパソコンのゲームが人気であるが、「パソコンやるのはオタク」というレッテルを若干貼られていた90年代からパソコンに親しんできた私の脳裏に今でも深く刻まれているPCゲームに、『シンジケート』というものがある。むしろこのゲームで『シンジケート』という言葉を知った。

 

↓青っぱなが垂れているようにしか見えないパッケージ

 

 簡単に言えば、世界各国を舞台に工作員(アンドロイド)がミッションをクリアしていき世界の覇権を握ろうという、いわば本作の「シンジケート」が本当にやりたかったことを代わりに体現しているゲームであるといえる。こちらの方が先だが。

 ミッションの多くは「暗殺」なのだが、単純にターゲットを殺すだけではなく、暗殺の仕方やその後の逃走の仕方なども含めて一つのミッションなので、選択する武器や実行場所などをよく考えなければならないなかなか硬派なゲームであった。また、アメリカ発のゲームなのだが、最終ステージの舞台が日本だというのも、何か含むものを感じるのであった。最終面(日本)のターゲットの暗殺は、小部屋にいるところをバズーカ砲で木っ端微塵にするという暗殺なのか?というトム・クルーズもびっくりのド派手な花火で幕を閉じた(私のプレイの問題だが)。

 

↓今見るとしょぼい映像だが、93年の作品だと考えとドキワクだったのよ(ドキワク?)

 

 何が言いたいかというと、「立場を変えれば物語も180度変わる」ということである。

 副題の「ローグ・ネーション」というのは直訳すれば「ならずもの国家」となり、これはアメリカが北朝鮮などに対して用いた呼称である。つまり劇中の「シンジケート」をならずものと呼んでいるわけであるが、なぜ彼らがならずものとなったのかには、国の責任がある。組織の発足自体が国(イギリス)の陰謀であり、劇中では首相が発足に反対していたという説明があるものの、「自国民の諜報員に犠牲を出さないように、各国で使い捨てられた諜報部員を集めて代わりに使う」という発想から始まった組織なので、ハナから言うこと聞かなそうな要素プンプンである。そして、こちら側を主人公にすれば、自分たちを「盾」として利用しようとする国家に反旗を翻すという「生きるためのストーリー」が展開されることとなる。PCゲームの『シンジケート』と同様(むしろ大義的には優っている?)、自分たちの組織を盤石にし、生き抜くためのストーリーがそこにあるのである。

 そのような立場から見ると、トム・クルーズはラスボスとなり、そして最大の障害となる。最高に嫌な奴になるだろう。

 次回作はぜひこの視点から物語を構成してはどうか。トム・クルーズラスボス視点で。どうせまた別の悪の組織が暗躍すると思うから。

 

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★★★★☆

 結局燃えちゃったよ~ん、という話。

 

 本著には全く関係なのだが、どうしても書きたいので書く、そんなわがままな前書き。

 最近、すべてのブログ記事をいわゆる「ノマドワーカー」的な形で書いている。簡単にいえば、カフェ等の飲食店にノートパソコンを持ち込み、フリーWiFiを使用して記事をアップしているのである。平日の仕事帰りにほとんど毎日これを行っているおかげでかつてないほどの記事アップスピードとなり、ブログ構成に記念メダルの記事を加え始めて足かけ3年、ようやく完成に近づいている(過去記事としてアップしているのでメイン画面に出てくることはない)。

 私はどうやら家で書くのと出先で書くのとでは集中力が全く違うタイプのようで、試験週間になるとこぞってファミレスで勉強をしている高校生たちと同じ世界に住んでいるらしい。昔は「わざわざこんなところで勉強しているのは遊んでいるようなものなんじゃないのか」と小馬鹿にすらしていた私であるが、めでたく小馬鹿にされる側に仲間入りである。実際、資格試験の勉強も今やカフェで行うようになったというどの口がそんなことを言っていたのか問題。自分の言っていたことが分かりやすいほど我が身にブーメランとなって返ってくる現在の状況は、本当にダメな大人の典型といえよう。お天道様に顔向けできない。人として恥ずかしい。そして今までごめんなさい。

 カフェって、とっても集中できるのである。おかげで今や、私のお腹はコーヒーと紅茶でカポカポの毎日である。日々カフェで仕事を済ます本格的なノマドワーカーのみなさんは、恐らくカフェインの取りすぎに違いない。

 私の場合、カフェといっても近所のイオン内にある「カフェ・ド・クリエ」と「コメダ珈琲」と、「コメダ珈琲」からのWiFiが漏れ出ている隣の定食屋のいずれかで夕飯を摂りながら書いている。重要なのはWiFiの有無であり、はっきり言ってどこでもよいと言っても過言ではない。WiFiさえ受信できれば、別に店内のベンチでもよい。実際。

 要するに、家でなければどこでもよいということになる。考えてみれば不思議な現象である。私の体が一体何を求めているのか自分でもよくわからない。「カフェ・ド・クリエ」の飯をうまいと思ったことは一度もないのにほぼ毎日通っているのだから、店員さんにそのように誤解されていることは必至である。店員さんの態度は心地よい。

 ということで、外出してブログ記事を書くため、「執筆用マシンの携帯性」が最重要となる。仕事帰りに立ち寄るため、仕事では一切使わないのに仕事に持っていくことになる。ただでさえそんな矛盾を抱えているので、そのうえ重いパソコンを抱えて持ち運ぶのはかなり精神的に厳しい。「MacBook air」でもその程度のことのためだけに仕事道具と一緒に持ち運ぶのはかなり厳しい。

 そんなわけで、試行錯誤を重ねたブログ執筆マシンたち↓。

 

パソコンの小ささよりも部屋の汚さが目に余る図

 

 

 「携帯性に優れたブログ執筆マシン」でまず思い浮かべたのが、「iPad+キーボード」という形である(写真左上)。この形態で、しかも「アメーバブログ執筆専用アプリ『アメエディター』」を用いて10記事以上は書いたが、だんだんと「iPadめんどくせー」と思うようになった。パソコンだと当たり前にできることができなかったり代替手段が手間だったりで、「無理して頑張って書いてる」感が強く、タブレット端末という機器の限界を感じた。というか、「タブレット端末」と「パソコン」はやはり住み分けがあり、どちらにも長所短所があるなぁという感想である。一番めんどくさく感じたのは「複数のウィンドウを同時に表示できない(スプリットビューじゃ足りない)」という点で、工夫と手間でもちろん何とかなるものの、無理している感が拭えずストレスがMAXになった。というか「iPadにキーボードを付けたら、ただの不便なパソコンじゃね?」というミもフタもない結論にふと達してしまった(個人的な意見)。「iPadにキーボードを付けてノートパソコンに代わる仕事道具にしよう」というブログ記事をよく見かけるが(というかiPadでブログを書こうと思い立ったときによく読んだ)、実際にそのような使い方をしたらどこかで苦労するのではないかと考えている。好きだからそうする、という考えなら全く異論はないが。

 そこから小型パソコン一択となり、紆余曲折を経て現在では「GPD Pocket」という中華製のウルトラモバイルパソコンに行き着いた。これが超小さくて、小さい割にはスペックがそこそこあって、それでいてキーボードが小さい割には実用の範囲内で快適に打てるという超優れものなのである。どれくらい小さいかというと……

 

写真右上のペヤング超大盛の謎

 

 「MacBook Air」の13インチと比べるとこれほどの差がある。当然軽く、わずか500グラムという500mlペットボトル一本分の重さである。そして、iPad Proよりも全然安い。「スマートキーボード」の購入まで含めたら半額で買える。

 中華製独特のパクリ臭が功を奏して外見もとてもかっこいい。オリジナリティなど一切醸し出す気もない割り切ったデザインが、元となったもののデザインの良さの恩恵を当然ながら受けていて、最高にかっこよい。ということで、パクリをさらに盛大なものにしてみた図↓。

 

中央のリンゴマークは当然後付けさ!

 

 彼らがやれなかったことを、私が代わりにやってあげた――ただそれだけである。リンゴのマークをワンポイントにあしらってみた、ちょっとしたおしゃれである。さらには↓

 

 

 デスクトップ背景もリンゴのマークにピッタリなおしゃれなものに変更。アイコンの配置を右よりにすればより完璧かしらね~。

 ニューマシンの入手により、ますますブログ執筆がはかどる今日この頃。私の中でこれを超える執筆マシンはちょっと見当たらない。私がずっと考えていたことは「ポメラDM200にChromeOSが入って4万くらいで発売されないかなぁ」ということだったのだが、その上をいくマシンが4000年の歴史をもつ大陸からあらゆるパクリ要素を惜しげもなく引っ提げてやってきたのである。

 

↓「Linux」はインストールできるらしいんだけどね~

 

 7月中旬からは比重が資格試験の勉強にシフトしてしまうので、それまでに記念メダルのページを一度完成させたいと思う今日この頃である。

 最強のマシンと巡り合えて超幸せだ~、という話でした~。

 ようやく本に関する話。

 『チーム・バチスタ』シリーズの一旦の完結編のような形の本著である。シリーズの今までの集大成らしく、いままで登場したいろいろな要素、いろいろな登場人物が一堂に集結し、終息に向けて一本化されていく。すべてのゴールは「Ai」という死因究明システムの普及へと向かう。

 前作『アリアドネの弾丸』を読んだときにも思ったが、この田口・白鳥コンビの「東城大学シリーズ」のみならず、海堂尊の「桜宮」を舞台にした物語を読み進めるには、『螺鈿迷宮』という一冊がかなり重要であると感じる。シリーズを通して描かれる因縁の根源がこの物語に集約されているためである。

 

 

 私は随分前にこの本を読んだためどんな内容だったかほとんど忘れただから、登場人物たちが何をセンチメンタルになっているのかがいまいち把握しきれず、取り残されてしまった。なんでそんなに怒ってるのさあんた、と終始目が点である。

 そんなに重要だと思わずむしろ退屈に感じていたのだが後になって実は超重要になる――というパターンは、ハリポタシリーズの第二作『ハリー・ポッターと秘密の部屋』と同じである。

 

 

この作品は単品で観ると死ぬほど退屈なのだが、物語終盤になると超重要なエピソードであったことが判明する。ラスボスを倒すのに必要となるので、面白さを見出せなくても観なくてはならないエピソードなのである。

 『螺鈿迷宮』はまさにそれにあたる。もっともハリポタ2作目よりははるかに面白いので、その点は安心である。ただ、フィクションラインが完全に崩壊するので、この物語の因縁を軸とする「東城大シリーズ」は以後現実味がなくなる(まあ2作目からそんなものはとっくにないが)。

 物語は前作『アリアドネの弾丸』で紆余曲折を経て開設された「Aiセンター」が舞台となる。本格稼働に向けてセンター長として走り始めた主人公が、会議を開いたり学生に馬鹿にされたり戦車に乗ったり火事に遭ったりしていろいろな苦労をするのだが、なんだかんだ頭が良い対応をして「あっ、やっぱり医者だな」と感心してしまう話である(卑屈な文章)。

 物語冒頭で病院長から『螺鈿迷宮』で全滅したと思われていた桜宮一族の生き残りは誰かを調べて欲しいという依頼を受け、過去に桜宮一族の双子の片割れと浅からぬ因縁があったことを匂わせながらその依頼を引き受ける主人公。この「生き残り」が実は他の海堂作品シリーズでも暗躍していて、その辺も『螺鈿迷宮』を読んでいないとさっぱりわからない。感覚的には「マーヴェル・シネマティック・ユニバース」を先取りしたような、大規模なクロスオーバー作品の先駆けといえる。どのシリーズも全て追わないとどの作品にもどこかしら不明な個所が出てくる。海よりも深く雪の結晶よりも溶けやすい複雑な女心の心よりも把握が難しい。

 完結編(かどうかは正確にはわからないが)にふさわしく、集大成的にいろいろな登場人物がいろいろな作品からやってくる。なかでももはや完全に忘れていたが、『螺鈿迷宮』で登場した桜宮病院にいた末期がん患者の存在は、医療問題を扱う本シリーズに相応しいテーマの登場人物である。桜宮病院自体、「終末医療」を担う場所で作中表現を用いれば「医療の闇の部分」を扱う場所として描かれていた。この登場人物は桜宮病院崩壊後、主人公のいる東城大学病院に転院してきたという設定で、末期がん患者であるため何の治療を施していないにも関わらず、もう2年も存命している――という設定である。

 その存在が、医療従事者に問うという。自分たちのやっている治療は、本当はあまり効果のないものなのかもしれない、と。

 20年以上前、『患者よ、がんと闘うな』という本が一世を風靡したことがある。メディアにも取り上げられ、かなり話題となった。現役の医師が書いた本であることが強いインパクトとなり、「あなたならどうする?」的な話題をテレビが振りまいた。内容を語弊があると理解しつつも超簡潔に述べると「がん治療をしない方が長く生きられる」という主張である。

 

 

 その是非はここでは問わないし、自分の考えも述べない。ただ少し角度を変えた話をしたいと思う。

 私の兄は実は医者で、しかも外科である。つまり「がん治療」の専門家である。そして、私の父も母も、がんに冒された。そのため、一方では「がん患者の家族」として、もう一方では「身近にがん治療の専門家がいる者」として、がんという病気と向き合うこととなった。

 そこで感じたことは、医者と患者との認識の大きな隔たりと、その溝の埋めがたさである。

 治療に向き合う際、患者としては「治る」ことを目標として治療に取り組もうとする。だから、質問としては「先生、どうしたら治りますか?」と尋ねる。

 その問いに対して医者は、「手術をした場合、5年生存率は〇〇パーセント、10年生存率は〇〇パーセントというところです」という答えを返す。がんに関しては。

 正直、噛み合ってないと感じたのである。患者は「治るのか治らないのか」を、あるいは「治る可能性は少しでもあるのか」を訊いているのに、医者は「あと何年生きられるか」を答えているのである(ように感じた)。「何年生きられるか」という答えは無論、医者にとっては治療の可能性を示していることは理解できるのだが、患者(とがんに対して無知なその家族)にとっては「治すのは無理」と言われているように感じるのではないだろうか。少なくても、私はそう感じた。そしてそれは、あるいは事実なのかもしれない。がんを手術で取り除いても、再発の恐怖は永遠に消えることはない。がん治療は「治癒」ではなく「延命措置」でしかないのか、と言葉に言い表せられないくらいの絶望感に見舞われた。担当医と兄との会話は「少しでも長く生きられる方法を専門家同士で模索している」という印象で、私と、そして恐らくは両親との気持ちとの間に微妙な、それでいて決して目を背けられないくらい深い溝があるように感じた。

 もう亡くなってしまった父と、そして現在進行形でがん治療中である母は、兄から「治るかもしれない。だからがんばって治そう」という言葉を聞きたかったのではないかと思う。しかしその言葉は、医者としての立場、がんの専門医としての厳格な立場が、安易に口にすることを許さなかったのかもしれない。頭の良い兄はきっと両親の気持ちを感じ取っていたと思うのだが、それでもそれを言えないのが、がんの専門医としての立場であり、そして見解なのかな、とそんなことを思った。

 たとえ「10年」という期間でも、区切られてしまえばそれは死刑宣告を下されたような気持ちなってしまうのが、我々無知な一般市民の素直な感情なのではないだろうか。治療をするとしても、死刑宣告に似た気持ちになるのである。

 だから『患者よ、がんと闘うな』を受け入れるのは、それ以上に難しい決断になるのではないかと考えるのである。闘うことに治ることの可能性を見出す――それすら捨てる決断が必要となる。たとえ仮にその可能性がハナからないのだとしても(もちろんそんなことは私にはわからないが)、その決断は決して容易ではない。

 もちろん、人間がいつか死ぬことは既に決まっている。生まれたその瞬間から、「死ぬために生まれてきた」という矛盾を抱えて存在することが強いられる。今現在、この瞬間に生きる99%以上の人間が、100年以内に死ぬことが確定しているだろう。

 そう考えれば「あと〇〇年生きるために頑張ろう」という話は、合理的な提案であるともいえるし、がん患者でなくても命の区切りがついているという事実は変わらないのだから、何ら問題のない表現であるともいえる。それでも――「あと5年」「あと10年」は、そうした理屈を飛び越えて、とても絶望的な言葉に感じるのである。10年後の自分なんぞ全く想像できないのに、10年以内に死ぬ確立が何%、死なない確率が何%という話に恐怖する。

 そこに、患者と医者との間にある埋めがたい隔たりを感じるのである。ただ、この隔たりを安易に「嘘」で埋めることが正しいことだとも思わない。だから「埋めがたい」のである。

 作中に登場したこの「未治療で2年以上生存する全身転移の末期がん患者」という存在は、作者の海堂尊としては、医療従事者の立場から、がん治療へのアンチテーゼを投げかけているのだと捉えられる。一方で、素人としては、自分の人生が「他の選択肢を選んだ自分の人生」と決して比較できない限り、「その方が長生きできるから治療しない」という選択肢を選び取るのは容易ではない、ということを言いたかったのが、ここまで長々とした私の話の主旨である。

 「治療して治したい」という患者としての思い、「治療すればあと何年生きられる」という医師としての判断――同一のもののようで微妙にすれ違う両者のズレを、この物語では枝葉末節に過ぎないこのエピソードからなんとなく考えてしまった。

 本著のメインテーマは新しい死因究明制度の確立であり、それは作者のライフワークのようなので、そこにこそ本来は矜持を感じるべきなのであろうが、残念ながら「死因」というものに一般ピーポーは馴染みがない。作者が散々にコケおろす法医学者や司法解剖制度も、実生活では馴染みがなさ過ぎていまいちピンとこないというのが正直なところだったりする。以前読んだ『法医学教室の午後』という本は、割と好きだったりするし。

 

 

 この辺は相変わらず扇動的である。まあ「作者の医学的主張」が魅力のエンターテイメント作品であるともいえるので、それがなくなればつまらない小説になってしまうのかもしれない。

 何はともあれ、盛大なクライマックスに相応しいド派手なストーリーで、わくわく読めるという点では良質の一冊である。身内に法医学者がいる人ははらわたが煮えくり返るようなストーリーであると思うが。

 

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★★★★☆

 有川浩は女子高生と自衛官をくっつけたがる、という話。

 

 有川浩の初期作品に「自衛隊三部作」とカテゴライズされる作品群があり、本著はその第一作にあたる。と同時に、有川浩のデビュー作でもある。有川浩はいわゆる「ラノベ」と呼ばれる小説の登竜門「電撃小説大賞」を本作で受賞し、デビューした。

 本著の「解説」を書いた当時の担当編集者の言を読むと、「初めて読んだときから一般紙で発表したいと思っていた」的なことが「誉め言葉」として書かれており、ラノベを愛読して読書生活を育んてきた自分としては心底ガッカリした。

 ライトノベルというジャンルは、かくも地位が低いものなのである。出版業界の最前線で生きる編集担当者が、「大人に向けたパッケージで小説を作ってみたい!」と当時の自身の野望を明るく、何ら悪びれず述べているところに、逆説的にその地位の低さが垣間見える。ラノベ担当者は、自分が置かれている現状に対して、いつかこれを糧に大きく羽ばたきたいと願う踏み台のような場所――それがラノベであるらしい。

 うがった見方ととられそうだが、「解説」を読んだ正直な感想である。『ワンピース』を小説で書けばラノベなんだけどなぁ~。地位が全然違うな~。

 ということで本著の話。

 本著の概要は以前から見知っていた。「塩害」と呼ばれる災害が発生し、世界が崩壊した――みたいな情報だけを知っていたので、てっきりゴリゴリのファンタジー小説かと思っていたのだが、前述のように「自衛隊三部作」の一つなので、自衛隊が登場する。ゆえに、舞台は日本であり、剣も魔法も登場しない。その辺がかろうじて「一般小説」として再出版できた由縁であると思われる。ファンタジー要素は「塩害」という架空の災害と、10歳差の自衛官と女子高生がアツアツのラブラブになる点である。

 いや、教師と生徒が不祥事を起こすなど日常茶飯事であることを考えれば、後者はそこまでファンタジーとは言えないのかもしれない。女が年上、男が子供というパターンであればファンタジーであるのかもしれないが(ないことはないけど)。年の差をいともたやすく飛び越えるとき、男は下方向に飛び越え、女は上方向に飛び越えるのが得意である。男の場合、相手が「まだ子供」とかそういう倫理観は性欲の前にいともたやすく屈し、女は「自分が介護することになるかもしれない」という人生の後半の苦労を買って出るような危険性を大人の男が提供する寛容さ(の擬態)と何より資金力が描く夢物語の中に埋没させる。高校生が一度経済力のある大人と交際をして車の送迎をされたり県外への旅行を経験してしまったりしたら、、二度と同級生の男の子と自転車で並んで汗だくになって近所のイオンに買い物デートに行って割り勘でサーティーワンアイスクリームを食べるなんてことはできなくなるだろう。

 それでも、そうして形作られた二人の人生が、とても幸せなものになることも珍しくないのだから、まったく人生に正解はないといえる。若さがもつ瑞々しさに対する性欲が先行した愛であろうと、それがいつしか真実の愛として根本から他者を愛するものとなってゆき、その愛を受け取った者は、たとえ大変な介護であろうと、そこに不幸は見出さず、先に逝かれるそのときまで、相手が自分にとっての最良の相手であったと確信しつづける――そんなこともあるのかもしれない。もちろんよく知らんけども。

 そんなわけで、とにかくラノベらしい物語ではあるといえる、やはり。男女の瑞々しい恋愛がキャピキャピとと描かれているところが実にラノベである。出会ったのが少女が18歳のときであるのに20歳になってもまだ一度も肉体関係がないというところもファンタジーであるといえばファンタジーであり、実にラノベらしい。ラノベの異名、「ファンタジー小説」である。まあ物語のラストで道の駅関係を結ぶのだが。昨今の道の駅ブームの先駆けと言える(違う)。

 ストーリーとしては、突如宇宙から飛来した「塩の結晶」が東京に落下し、それと時を同じくして「人間が塩になる」という奇妙な現象が発生し始める。これを「塩害」と呼ぶようになり、塩害によって日本の人口が激減することとなった。東京から塩害が発生したことにより時の政府は壊滅し、政治機能が停止。他の政治家も概ね塩害の餌食となり、国家機能が麻痺したという世界観から物語が始まる。

 第1話では、電車が止まった世界で「重い荷物」を背負って徒歩でひたすら海を目指す男を中心に、後に主人公となる二人が脇役的なポジションで登場し、この世界に起こっている「塩害」の概要を抽象的に描いている。男が背負う重いリュックの中に塩害被害の全容を知る答えがあるという仕掛けである。

 第2話から改めて主人公二人のストーリーが始まる。この話の最後に陸上自衛隊が登場し、主人公の男が「元自衛官」であるという過去を匂わせる。そこから先は有川浩の自衛隊愛が溢れんばかりに広がっていき、無事「自衛隊小説」となる。前半の話は何だったの? 遠い思い出? というくらい、自衛隊施設に主人公二人が行ってからの描写はいきいきしている。で、最終的には自衛隊が世界を救う。これぞ自衛隊愛の結晶であるといえる。自衛隊愛の結晶が、塩の結晶を打ち負かすのである(特にうまくない言い回し)。

 世界を救うつもりなど毛頭ない。好きな女を守るためについでに世界を救うんだ――という話の展開が実にラノベらしい。これがハリウッド映画だと微妙に展開が違って、こうした想いから特攻攻撃に向かった男――との結婚を反対していた女の父親が、代わりに花となって散るのが王道である。二人の愛を生かしつつ、さらには自己犠牲の悲恋を美しく、そしてかっこよく描くのが老若男女に向けたエンターテイメントである。ラノベはもっと世代が限定的なせいか、あくまで「二人の世界」で完結させる傾向が強い。家族の愛を描くよりも、男女の愛で完結させるのが、ハリウッドが描くファンタジーとの違いであるといえる。

 有川浩は自衛隊と警察が好きなようで、その愛は細部に行き渡っている。素晴らしい。好きなことを生き生きと描く様子は、その内容が全然わからなくても面白ものである。

 政府が事実上瓦解し政治機能が失われた中で、果たして軍隊が正常に機能するのだろうかという問題は、現実世界でも繋がる点である(ここで「自衛隊は軍隊ではない」という議論はとりあえず置いておく)。現実世界でも、政治機能崩壊後にも軍隊が一定の規律のもと存続し、単独で治安維持に努める例は結構ある。加えて政治機能を代行する「暫定政権」的役割を担うこともある(それが良いかどうかは別として)。日本の自衛隊が、仮に政府崩壊後に無政府状態となったとき、果たしてどのような振る舞いをするのかというのは非常に興味深い点である。本著のように、基本的には平和維持のために存続し続けてくれることを願うばかりだが、不安定な情勢の中で圧倒的な「力」を保有するとき、その立ち振る舞いが謙虚であり続けられるかどうかは、各個人のパーソナリティを超えた問題である。「力」があってそれを制御する存在もないのにそれを振るわない、というのはありえるのだろうか。どうなるんでしょうな。

 本著が「面白かった」か「面白くなかったか」という二択であれば、間違いなく面白かった。有川浩が好きならば問題なく楽しめると思われる。私は有川浩は人間としてはそんなに好きではないが、作品は好きである。いや、あらすじを読むと垣間見える人間性がいまいち鼻持ちならないというかなんというか、と言っている私は恐らく多くの人間から嫌われていて、これを読んだ人からも嫌われることだろう。なんて悲しいことだろう。でも書くけど。

 私が個人的に本著を気に入った点は、裏テーマとして「死ぬときに一人は嫌だ」という点が描かれているところである。直截的な表現でそう述べられているわけではないが、一人で死なずに済んだ場面も、一人で死ぬことが運命づけられた場面も描かれている。

 人がなぜ「結婚」というものをしたいと思うのかということの一つに、「死ぬとき一人問題」(勝手に命名)があると考えている。もちろん結婚したところでどちらかが先に逝くわけだから、物理的には残された方は一人で死ぬことになるのだが(子供の有無はとりあえず置いておいて)、もちろん問題はそういうことではなく。

 自分の人生が一人であったのか否か――という自身の心の問題なわけである。「一人で死ぬのは嫌!」と泣き叫ぶ女性自衛官がいる一方で、脱走した囚人が塩害で死ぬ際、幻想ではあるものの、疑似的な「一人ではない死」を迎え、自分の死を受け入れる様子が描かれる。この問題が「気の持ちよう」として描かれている点はとても興味深い(ミもフタもない言い方だが)。

 満足する死とは一体なんなのか。

 私はこの問題を人間の根幹を成すものであると考えている。散々遊びまくっていた男(つまりそれだけ資金力がある男)が40くらいで突然結婚するのは、この問題に対する恐怖心が突如として生まれるからだと思っている。平たくいえば老後問題である。老後の孤独を何よりも恐れる時期が来るのである。

 人間は誰もがいずれ死ぬことをわかっている。それなのに、そのことを本気で信じている者はいない――というのは『モリ―先生との火曜日』という本の一節である。この言葉は真実であるが、当然個人差がある。「本気で信じる」一つのきっかけが、男の場合、「40過ぎても独身」という事象なのかもしれない。

 なんだかとりとめのないことばかり書いてしまったが、要は「女子高生のために自衛官が世界を救う」話である。うーん、萌え~である。

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★★★☆☆

 代理母に賛成の話。うーん、難しい……

 

 『ジーン・ワルツ』と対をなす物語である。物語は『ジーン・ワルツ』と並行して進んでいるので、先に『ジーン・ワルツ』を読んでおくことは必須である。『ジーン・ワルツ』では患者の一人としてしか描かれていなかった高齢出産の双子の母親が、実は主人公の女性医師の母親で、お腹の双子は主人公の卵子を用いて体外受精によって母親に宿した、主人公の子供なのであったーーということが描かれる。

 

 

 代理母出産の問題はかなり繊細な問題なのでその是非を迂闊には語れないが、作者は明らかに賛成の立場である。また、現役の医師であること、そしてこれほどの名声を得た大家であることを考えれば、その言葉の影響力は大きい。本著を読んだ私のような世間知らずは恐らく、深く考えることもなく代理母出産に賛成するようになるだろうし、産婦人科学会をバカばっかりの集まりだと認識することになるだろう。それくらい扇動的な内容である。もちろん作者は、それを訴えたいがために本著を著したのだろうから、それについて論議をすることはナンセンスである。小説というものの歴史的背景を考えれば、作者の思想を体現する手段として用いられてきたのだから、それを非難する必要はない。まあ私はそういうの嫌いだけど(という非難)。もっとうまく、それとなく書けば良いのに。

 「ヴェルデ」というのは「みどり」という意味らしい。本作の主人公は女性医師の母親、「みどり」である。みどりはある日突然、娘である女性医師に呼び出され、自分の子供の代理母となってほしいと頼まれる。突然の申し出に混乱するみどりだが、娘はみどりの戸惑いには一向に構わず、どんどん話を進めていく。処女懐胎の生母マリアになぞらえ、セックスをせずに妊娠をする代理母みどりを表して『マドンナ・ヴェルデ』というわけである。

 みどりの娘である女性医師の話の進め方が人の気持ちを一切考えられない人間のように描かれていて、読者はまずここで腹が立つであろう。女性医師を「医者としては優秀だが、人間としては欠陥がある」という描き方は最後まで一貫しているので、恐らく狙って書いているはずである。とにかくこの娘は、母親の都合とか気持ちとか立場とか、そういうものを一切配慮できない。母みどりのことを明らかに人間として軽んじていて、かつ、軽んじているという事実も自覚できないという、自閉的な傾向がかなり強い様子で描かれている。わざとだろうけど。ラストなど、みどりの「生まれてくる双子の幸せを考えて!」という立場に対して、「産婦人科の窮状を社会に問題提起する。そのために自分が母親である代理母出産の子供がどうしても必要」という、我が子を社会に問題提起するための宣伝道具のように捉えているかのように描き、かつ、そのことでなぜ文句を言われなければならないのかわからないといった姿をみどりと対比させる。宣伝道具ではないと否定しながらも、生まれてくる子供たちにも「わかってもらうしかない。なぜなら、この仕組みがなければあなたたちは生まれてこなかったのだから」と、弱みに付け込んでぐうの音も出ないように追い詰める学校のセンセーのような物言いでやり込めようとする。

 この場面の描写は実に巧みで、産婦人科が現実世界で直面している問題をはっきりわかりやすく提起しながらも、作者のヘタをすれば偏った意見だと捉えかねないものを極端に描くことで作中人物に敢えて批判をさせ、それを緩衝材として利用している。女性医師が語る内容は恐らく作者の本心で、それを証拠に、それを裁く立場として設定された登場人物に「あなたの意見は正しくて、医師としては賛成です。でもーー」と言わせて、述べている内容自体は否定せずに、それでもあなたには欠けているものがあると諭すことで、読者が離れていくギリギリの一線でうまく防いでいる。怒られる前に怒られそうなことを先に述べておいて気勢を削ぐのは、会議の常套手段である。

 女性医師に欠けているものは、母であるみどりがお腹に宿す子に対して抱いている感情、つまり、母親としての感情である。そのことにようやく気づいた、というテイで物語は進んでいき、最終的には決着する。作者が考える問題提起ができて、作者が考える大切なことも示せて、うまく話をまとめている。そのあざとさがなんかだったんだよね〜。海堂尊は頭が良いのだろうが、頭が良い人にうまく丸め込まれている感がなんだかカンに触るのである。人のことを上から見下ろして小説を書いてんじゃねーよ、と(超被害妄想)。

 また、この母娘の対立に対する最終的な決着の仕方もなんだか腑に落ちない。二人の間に立った20歳のオレンジ色の髪をしたできちゃったシングルマザーに「お母さんがふたり、子どもがふたり、そしたらふたりのお母さんがひとりずつ子どもを生んだ。これでめでたしめでたし」と、双子をふたりの母親で一人ずつ分けろという裁定を下し、ものすごく唐突に、二人はこれに賛同する。

 えっ? なんでこんな案に、そんなあっさり納得なの二人とも。と、超びっくりである。

 作者も自分で描いたこの事態に良い解決策が思い浮かばなかったとしか思えない。なぜなら結局は、二人の子供を、拾ってきた数匹の子猫をご近所さんに分けるかのように描いているのだから。そんなクソみたいな提案を、あそこまで「母の立場」と「医者の立場」で対立していた二人が一瞬で納得する妙案として描くのは、あまりにも唐突すぎるというものである。大風呂敷を広げたものの、畳み方をきちんと考えていなかったのか、はたまた、こんなテキトーな畳み方しか最初から考えていなかったのか。

 この点が非常に不愉快であり、かつ、ところどころ女性医師の言動や物の考え方(それは多分に筆者の主張でもあると考えられる)に「なんだかなぁ……」となったので、★3つという着地である。いつもながら小説としては面白かったのだけれども〜。そこは筆者の筆力であるといえる。登場人物にいちいち変な異名を付けるのはやめてほしいが。『キャプテン翼』の登場人物が自分のシュートにいちいち変な名前を付けるのに似た小っ恥ずかしさがある。

 

↓高校を卒業した人がこんなことを叫びながらシュートを打つのは実は結構恥ずかしい。ネーミングセンスも含めて。いや、好きだけど。なんなら私も30過ぎて「雷獣シュートだぁ」と言いながらポンカスシュート蹴ったけど。先週。(『キャプテン翼 ワールドユース編』より)

 

 代理出産、代理母問題に関しては、私見を述べるのは控える。ただ作中でも述べられているように、「安全な出産などあり得ない」という点は、仮に代理母出産が法整備されたとしても、永遠に残る課題であろう。もし代理出産で代理母が亡くなるということが起きたら、現在の日本では逆風が吹くことは間違いないであろう。代理母となる人の「権利」を、誰が、どのように補償するのかが問題となる。

 子供ーーという存在に関しては、吉野弘の詩『I was borm』が、私の想いの全てを綴っているといっても過言ではない。あるいは、この詩を読んで、私の中に「子供」という概念がはっきりと形作られたのかもしれない。

 

↓気になる方は読んでみて〜。まあネットで検索すれば余裕で出てきますがね〜

 

 「I was borm」という英文は、実は受け身の構文である。ゆえに直訳は「私は生まれた」ではない。「私は生まれさせられた」である。

 そこに、子供の意志は一切介在しない。極論を言えば、父と母のわがままでこの世に産み落とされるのである。時には、直接的に産み落とした母親すら望んでいないのに。

 ただ一方で、母親にとってみれば、出産は自分の命を懸けた「わがまま」なのである。自分に宿った子に会うために、母親は命を懸けてその「出会い」に臨む。

 そしてここに、「代理母出産」という現代的な問題が加わる。

 私が高校生のとき、いろいろなことに苦しんでいた7つ上の姉が、家でことあるごとに当たり散らしていた時期がある。今まで蓄積されてきた不満が20代の半ばを過ぎて一気に爆発し、その恨みは遥か小学生時代の事柄にまで及び、それでも気は収まらず、ある日姉は、母に向かって叫んだ。

 

 「勝手に産んだくせに!」ーーと。

 

 自分の思い通りにいかなかった過去の恨みは、最終的には、母親最大の「わがまま」にまで及んだ。母の命を懸けた「わがまま」は、最終的には姉にとって、その「わがまま」のせいで自分は今苦しんでいるーーという結論になってしまった。

 母が泣いているところを見たのは、後にも先にもその日の夜だけである。暗い母の部屋のベッドの中から、静かな嗚咽が聞こえてきた。

 出産というものが、自分の子供に対して、最大の負い目ともなり得るということを、その日私は理解した。

 ただ、それでも命を懸けて、「母」は自分の子供と会える日を待ち望む。形は違えど、「父」だって同じ気持ちである。

 「生まれさせられた」子に、「生まれてきて良かった」と思ってもらえることを願いながら。

 

 

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★★★★☆

  どこに「NEVER GO BACK」なのか謎な話。むしろいろいろなところに戻って来まくりである。

 

  トム・クルーズ主演『アウトロー』の続編である。そもそも『アウトロー』も『ジャック・リーチャーシリーズ』という原作小説のある1話を基にした作品であり(第9話)、本作もそれに基づいた続編である。トム・クルーズ主演の新たなシリーズにしたいような雰囲気をビンビンに感じるのだが、いかんせん肝心のトム・クルーズが御年50歳をとうに過ぎているということもあり、ハードボイルドがちょっと辛くなりつつある。もちろん脱げばムキムキなのだが。

 前作『アウトロー』はかなり地味~な仕上がりとなっていたので本作もあまり期待していなかった――というかよく続編を作れたなとすら思った出来だったのだが、鑑賞してみると本作はなかなか面白かった。よくあるハリウッド映画というテイである。褒めている。

 ただ、だいぶハードボイルド感は消失して、トム・クルーズだなぁやっぱトム・クルーズだなぁうんトム・クルーズだ、という思わず優しい顔をしてしまう安定のトム・クルーズであった。伝わる?

 女性と見ればとりあえずなんとなく口説き、男にはウィットに富んだ厳しいツッコミ。これが安定のトム・クルーズ。

 ストーリーとしては、バーの前でケンカをしたトム・クルーズが保安官に逮捕されるのだが、その逮捕した保安官に「90秒で2つのことが起こる」と安心・安定の言葉をかけたトム・クルーズの言う通り、①電話が鳴って②保安官が陸軍憲兵隊に逮捕される、というところから始まる。掴みはオッケー。安定のハリウッド風味である。

 で、そのとき電話をしてきたのが陸軍憲兵隊ターナー少佐で、女性なのである。安定のナンパ師トム・クルーズは、電話で何とはなしに口説きつつこのターナー少佐に会いに行くと、なんとターナー少佐は少し前に逮捕されたということで、陰謀が動き出すといった感じである。で、なんやかんやあって、このターナー少佐と、トム・クルーズの「娘」であるという少女とを連れ立って逃避行をしつつ軍内部に蠢く陰謀の真相を探るという、これぞザ・ハリウッド! という展開が、ダイナミックな映像で繰り広げられる。3人による疑似家族的なやりとりもまた、ザ・ハリウッド。ハリウッドザコシショウ。

 

↓別にこの人は好きではないです。

 

 明らかに、前作と比べて派手な作品となった。いやー、素晴らしい。謎の追及も、「武器の密売」「麻薬」という軍か警察の陰謀といえばそれというような非常にわかりやすいものとなっており、まさにハリウッド。トム・クルーズがハリウッドの王道を駆け抜けるザ・ハリウッド映画となっているのである。前作と違い、ヒロインが戦闘で役に立つというのも何気に高得点ポイントである。軍人だけあって、敵の男に幾度か吹っ飛ばされながらも殺人スキルでkillするのである。素晴らしい。

 全然褒めてないように思えるかもしれないが、ものすごく褒めている。コンビニで買ってきたスナック菓子とジュースを食しながら鑑賞するのにぴったりの良品なのである。映画というものにそれ以上のもの(人生の意味とか何が正しくて何が間違っているかを考えさせるとか)を求める人にはもちろん全く、全然、これっぽっちも向かないが、ベッドに寝っ転がってかっぱえびせんを食べながらAmazonプライムビデオで暇つぶしに鑑賞するのがたまには楽しいねという程度に映画が好きな人間にとっては、非常にちょうどよい作品なのである。寝っ転がってかっぱえびせんを食べながら気持ちが暗くなったり人生の意味を考えさせられたりするのは非常に辛い。その後の休日の活動に暗い影を落とすこと間違いなしである。大切なのは、この「安定感」なのである。敵のアジトに乗り込んで空輸されてきた武器を収めた荷箱が画面に映った瞬間、「荷箱を開けさせる」→「問題なく予定の武器が入っている」→「そんなバカなとなる」→「一転してヒロインピンチになる」→「トム・クルーズがそっと動いて、真の陰謀をその場で暴く」という道筋が瞬時に脳裏に描かれ、あとはその通りに画面上の物語が進行するのをただ優しく見守るだけ――という安定感。とても平和な、日曜日の午後。

 「娘」も結局は――というのは、伏せることすら無用なほどのわかりきったオチである。が、そうなると「じゃあなぜ軍に養育費を請求してきたのか? トム・クルーズは一度寝た女の顔は忘れないんじゃないの? 一度も関係がなかったのなら、そもそもこの前提が揺らぐじゃん」というのは野暮なツッコミではあるが、実は――の部分のオチの作り方があまりにも超雑な印象で、それだけが少し残念ではある。私が作ったゴーヤのみのゴーヤチャンプルーより雑である。(人はそれを「ゴーヤの輪切りを炒めたもの」とただそこにある事実だけで呼んだ)。

 しかし、そんなことも些細なことである。

 日曜の午後、「明日は仕事だ~あーあ」となんとなく守りに入ってしまうそんな昼下がりの時間帯に、それでもせっかくの休みなのだから普段はできない何かをやろう――そんなことを思ったとき、こんな映画を気楽に観るのは、なかなか素敵な時間の過ごし方なのではないだろうか。適度にドキドキ、適度にワクワク、それでいて体はしっかりと休息をとる。

 無為にだらだらスマホを見て「あー時間を無駄にしたー」と嘆いてしまうそんなあなたにぴったりちょうどいい作品である。

 

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★★★☆☆

 今まで車の運転免許を取得したこともない経歴不詳の流れ者が、街中で余裕でカーチェイスをするという話。無免許運転、ダメ絶対。

 

 地味~な作品である。他の方のレビューを読むと「80年代のハードボイルド作品」という表現がなされていたのだが、まさにそんな感じ。アクションシーンで派手な爆発やカメラワークがあるわけでもなく、陰謀もまあよくある「利権問題」パターンで、最終決戦の場所はもちろん採石現場である。古いアクション映画と戦隊ヒーローものの決戦場所は採掘場と相場が決まっている。

 トム・クルーズ主演の『アウトロー』なんていういかにもなタイトルの作品なので、ド派手なアクションを期待して観てしまったのだが、チンピラとの肉弾戦のシーンはびっくりするほど地味であった。また『アウトロー」なんていういかにもなタイトルの作品なので、正体不明の超人的かつ冷徹な男が「悪・即・斬」的な新選組ばりの圧倒的な強さで天誅を食らわしていくものだとばかり思っていたのだが、びっくりするほどピンチになるし、ようけ殴られる。もちろん所々すごさを醸し出すのだが、あまり圧倒的感はなく、無様な戦い方を余儀なくされる方が多い。また、『アウトロー』なんていいかにもなタイトルの作品なので、てっきり「俺に法律なんて無意味だ」といわんばかりの豪快な非合法手段に出るのかと想像していたら、これが映画作品ということを加味すれば特に目に余るような強引な捜査手法はなく、目に余ったといえば運転免許を所持したことがないのに豪快に車を乗り回していたことくらいである。

 経歴を詳しくは調べられないように免許を取らなかったり社会保障を受けなかったりと策を弄しているのだが、「謎の男」と呼ぶにはちょっと不足していて、陸軍の憲兵隊に所属していたことはあっさりと割れるし、立派な身バレとなっている。

 要するにイマイチな主人公なのである。いまいちパッとしない。強すぎず、謎過ぎず、頭脳明晰過ぎない、非常に現実的な主人公であるといえる。もちろん私よりはイケてるが。だって、トム・クルーズだし。トム・クルーズだよ?

 ストーリーとしては、平穏な昼下がりの公園でスナイパーによって5人が射殺されるという事件が発生し、容疑者として捕まった元陸軍スナイパーの男は取り調べで黙秘を貫き、代わりに「ジャック・リーチャーを呼べ」というメモを取調官に見せる――というところから始まる。ジャック・リーチャーがもちろんトム・クルーズで、呼ぶ前にもう来ちゃうという茶目っ気たっぷりのお人である。謎の男っぽい宣伝の仕方であるが陸軍の憲兵隊員(軍隊の警察)であったことは早々にわかり、やることも、というか生き方もまんま憲兵隊員のままで、ああ確かに古いハードボイルド作品っぽいという感じである。組織のしがらみは俺には合わないから、自分の流儀で正義を貫く的な。

 もちろん元陸軍スナイパーが犯人ではないので、真犯人はだれか、5人も無差別に射殺した目的は何だったのかを暴くミステリー仕立てとなっている。事件の真相を追うパートナーとして元陸軍スナイパーに付いた弁護士がヒロイン役として同行するのだが、このヒロインがあんまり可愛くないので、ラブロマンス臭は最初から最後までゼロに等しい(途中ヒロインがちょっと勘違いするシーンがあるが。トム・クルーズが勘違いさせるような態度をしたせいもあるが)。

 

↓ヒロイン役の弁護士。いまいち可愛くないのが、トムが変な気を起こさず逆に良い。『ゴーン・ガール』の人ですな。

 

 事件の真相としてはなんやらの「利権」が絡む話で、まあよくあるパターンである。私が女性に振られる理由が「冴えないから」というくらいありきたりなものである。「陰謀」≒「利権」だね。「私」=「冴えない」だね。年齢を正直に答えると、「もっと上かと思いました」と平気で言われます。

 敵の闇の組織もいまいちパッとせず、黒幕のおじいちゃんは結構あっさり死ぬ。シベリアだかどこかで「ものすごい覚悟で生き延びた」的な話を自分でするのだが、なんだかその甲斐もなくあっさりとやられる。結構おバカなやりとりでトムに「あっ、やば」と思わせちゃったもんであっさりと殺されるのである。小物感がハンパなかった。

 総評としては、容疑者の男が一切しゃべらず「ジャック・リーチャーを呼べ」というメモだけ見せてきたときまでは非常にキャッチ―で最初の掴みは良かったのだが、その後がイマイチであった。それもこれも、主人公トム・クルーズの「謎感」が薄かったせいだろう。トム・クルーズが演じる謎の男なら『コラテラル』の方が断然よかった。主人公じゃないけど。

 

 

 そんな雑感。

 ちなみに超絶なまでに余談であるが、本作は初めて「アマゾン・プライムビデオ」で鑑賞した。私は数年前からAmazonプライム会員であったにも関わらず、このサービスを使ったことがなかった。私のように映画を観るたびに映画ブログを書かねばならない人間にとっては、これは恐ろしいサービスである。「無料なので気軽に観始める」→「ブログを書かなければならない」→「書かなければならない作品が溜まっていく」→「課題に追い詰められた学生時代を思い出す」→「常に得体のしれない焦燥感に追われることになる」という悪循環である。初めて利用したという興奮もあり、調子に乗って3本連続で鑑賞してしまったので、「忘れないうちに早く書かねば」という焦燥感に追われる今現在である。仕事とかマジどうでも良いし。

 準新作級かつ話題となった作品が、家に居ながらにして無料で観られるのである。映画が好きであったなら、休日ともなればいつまででも観ていることであろう。そうではないので、そうはしないが。

 ツタヤもゲオも、マジで経営危機だ、これは。実際、ツタヤに行くことはもう2度とないだろうとすら思っている。私にとって、とても大切な、とても特別なあのツタヤにも……(無駄に意味深)。

 

 

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★★★★☆

  私が求めていたメカゴジラはこれじゃない感、という話。

 

 超おもしろいっす!

 いやもう、 ゴジラじゃなくても良いんだけどさ! なんなら同じことをガンダムでやっても良いんだけどさ!

 そういう細かいところはどうでもよいのである。なぜなら私はゴジラファンでもガンダムファンでもないからである。

 コアなファンはきっと、「こんなのゴジラじゃない」とお怒りのことだろう。しかし、そうした方々も、本作が「ゴジラ」であることを一旦忘れて、純粋に一つの映画作品として観ていただければと願うばかりである。私は生まれも育ちも神奈川県なので、味噌汁は白味噌か合わせ味噌かが断然好ましい。しかしながら、東海地方でランチを頼むと、大抵セットで出てくる味噌汁は赤味噌の味噌汁(通称:赤だし)なので、味噌汁が大好きな私は心底ガッカリするのである。そんなときはこう思うことにしている。「これは味噌汁ではなく、『赤だし』という名の全く別のスープである」と。そうすると、あら不思議。「こんなの味噌汁じゃない!」という不満がなくなり、「赤だし」という名のスープをありのままの味で楽しめるようになるのである。ありのままの味がそもそも好きじゃないんだけど。そこから先は個人の嗜好の問題である。

 このように、一つ考え方を変えれば、世界はガラリとその姿を変える。だからコアなゴジラファンの方々には、ぜひものの見方を少し変えていただきたい。これはガンダムの亜種であると(ガンダムファンから反感を買いそうな呼びかけ)。

 実際、物語の終盤ではモビルスーツ的な乗り物に乗ってゴジラとの戦闘を繰り広げる。ロボットが空飛んで。ガンダムやん!(ガンダムに関する知識の浅さ)。

 ストーリーとしては、前作『怪獣惑星』のそのまんま続きなので、前作未見の人には全く向かない作品となっている。前作の話を簡潔に述べると、「ゴジラをやっつけたと思ったらミニゴジラだったもんで本家ゴジラが怒ってみんな吹っ飛び、ゴジラが支配する世界で生き延びていた人類に主人公が助けられる」である。で、その続きから始まるので、「助けてくれた種族はシャーマン的な感じなもんで、テレパシー的なやつで言語問題は解決! さらには部族が使っていた弓矢はメカゴジラの素材『ナノメタル』が使われているっぽいぞってなことで生き残った部隊員とメカゴジラを探しに行けば、メカゴジラは『メカゴジラ・シティ』を作り上げていたのだった――」という流れである。

 つまり、メカゴジラは出てこないのである。「メカゴジラ」は「メカゴジラ・シティ」にジョブチェンジを遂げていたのである。ここで出てくるのがサブタイトルである「機動増殖都市」なわけである。滅亡した地球なのに「都市」とはこれ如何に――とサブタイトルに「?」だった者たちの謎の答えは、「メカゴジラの頭脳は生き残ってて、2万年かけて自分の原材料で勝手に要塞都市を作り上げてました」というオチであった。「ナノメタル」というメカゴジラの原材料はもはや何でもアリで、生き物を取り込んだりゼロから機関砲を作り上げたりと、もはや何が何だかである。「ナノ」って名前が付くと、途端に生き物っぽくなるのはSF作品の定番である。「ナノマシン」とか。「ナノ」って本来はただの単位なのに。

 私が見たかったのは「ゴジラvsメカゴジラ」だったんだけどなー、と何となく腑に落ちない展開に、主人公一行も納得いかずかつてメカゴジラを造った種族に食って掛かるのであった。「こんなもの、ゴジラと一緒じゃないか」と。これもまあよくある話である。「こんなもの〇〇と一緒じゃないか」という台詞はよく言われる説。

 しかしそんなことより問題なのは、戦闘民族っぽい主人公一味の一人がものすごく真面目な顔で「言わば、メカゴジラシティだ!」とのたまうシーンは「真面目にアホなことをしているのが逆に面白い」というジャンルに属する笑いであると思われる。とにかくこの「メカ」の部分の語感が悪い。「メカ」って言葉、実は基本的にはギャグ作品か児童向け作品にしか出てこない単語である。大の大人がものすごくシリアスな場面で「メカ」と述べると、「ぷっ」となるのである。しかもそれに続く言葉が「ゴジラ」とあって、「えっ、ギャグじゃないの?」と見る者を困惑させる。「メカ」がつくネーミングは、基本的にダサさをウリにした場面でしか現れない。同じ用法が適用される言葉に「ウルトラ」がある。「ウルトラ」の後に「スーパー」なんぞが付こうものならもう目も当てられない。「ウルトラスーパー〇〇」は子供が思いつく必殺技のネーミングとして多用される枕詞である。「ウルトラマン」も「スーパーマン」も、他作品のシリアス場面では、決して真面目な言葉として使うことのできない単語なのである。

 3部作の第2作であるので、始まった瞬間から本作で決行する作戦が失敗するのは決定済みである。そのため、どのようにして「うまくいかなくなるのか」というのが見どころの一つになるわけで、ゴジラにとどめを刺す用の兵器が半分しか作れないとか、エラーが起こるとか、民族間に亀裂が走るとか、「だよね」の連続で実に安心して観ていられる構成となっている。私はこのように安心・安全に観ていられる映画が大好きである。そういう意味では実にハリウッド大作的な作品構成となっており、映画に特別な「何か」を求めない私のような「映画は普通くらいに好き」程度の者にはピッタリな作品であるいえる。

 最後に全くの余談であるが、私は本作を大手シネコンで鑑賞したのが、入場開始と同時に早々に座席について待っていたら、「席違わないですか?」と声を掛けられた。そしてお互いのチケットを確認してみたら、全く同じ上映時間の全く同じ座席であった(もちろん作品は本作)。そんなことってあるの? と思うのだが、少なくても私は当日券を当日買ったので、間違えようがない。機械側のトラブルでないとしたら、可能性はかぎりなく低いと思うが、私に声を掛けてきた男性は予約購入で、実は日付が違ったのかなぁ……と思ったのだが、真相は文字通り映画館の闇の中である。結局その男性は「いいですよ」と隣の空いている席に座って鑑賞してくれたのだが、なんとも不思議な出来事であった。これが10代、20代の男女の間で取り交わされた出来事であるならば、そこから始まる特別なストーリー的な青春真っ盛りな展開となるのだろうが――現実は、30半ばの冴えないおっさんが座っているところに、それよりも年上のおじさんが声を掛けてきて、二人で暗闇で顔を寄せ合って会話をする、という光景である。

 「始まりは、映画の発券機が作り出した運命のイタズラでした」――ってのはないのかね、この世には。これきっかけで隣動詞の席で映画鑑賞して、そのあと勇気を出してお茶に誘ってみたいなやつは。もちろんヒロインは不治の病であるのが鉄板である(もしくはタイムリープしてきて実は予定調和だった的な)。

 

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