「書くことについて」 スティーヴン・キング | 映画物語(栄華物語のもじり)

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満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

★★★★☆

幸せになるために、書く。という話。

 

めちゃ優れた訳者あとがき

 本著を読んでいてい最も驚いたことは、巻末にある「訳者あとがき」に、スティーヴン・キングが示した教示がほとんど全て、しかもごく簡潔に記してあったことである。これだけ読めば良くね? とすら思った。
 
 要約文としてスーパー優秀である。さすが原文を最も読み込んだ者の一人であるといえる。世界で一番、この本著を読んでいるかもしれない。いや、マジで。
 
 くどいようだがまじで優秀で、これが私が目指す要約文である。私が今から本著の「書評メモ」的なものをこの下にグダグダと書こうとしたら、このあとがきの劣化版みたいになること請け合いであるので、以下そんな文章が恥ずかしげもなく展開されてゆくことをここに記しておきます。先に謹んでお詫び申し上げます。

実はスティーブン・キングの本を一冊も読んだことがない件

 まず訳書が苦手である。
 ビジネス本や学術書を除けば、読んだことがある訳書は『アルジャーノンに花束を』くらいではなかろうか。

 

↓ユースケ・サンタマリアが出てこない方が面白いですな

 

 そんなわけでスティーブン・キングは名前は知れど、作品は一冊も読んだことがない名前だけは知っているあの人状態である。そう、本著が私にとってのスティーブン初体験であった。その初体験は、始めはゆるやかで、しかしだんだんと刺激的でエクスタシー溢れるものとなっていった。エクスタシスィィィ!(特に意味のない文章)
 
 本著の面白さは、意外なほど(本当に意外だった)結構技術的なことをズバッと書いている点である。具体的には「受動態を使うな」「副詞を多用するな」「プロットなんていらね」「状況設定だけ考えればいい」といったようなことがはっきりと書いてあって、自己啓発本のようにメンタル面の話でぼかすようなところは全然ない(メンタル的な話もあるし抽象的な表現もあるが、それらにはその前後で具体的な説明がきちんとなされている)。つまり、私が飲みの席で語る仕事との向き合い方みたいな話は全然ない(典型的な迷惑中年サラリーマン)。
 
 ただこと文章の話なので、ここで「英語と日本語の違い」という言語の壁が立ちはだかる——かと思いきや、訳者の腕がピカイチなのでそんなことは全然ない。スティーブン・キングの意図を読み手にきちんと理解させるに足る日本語が示されていて、なんかすげーである(唐突な小並感)。スティーブン・キング自身も有名作家の名著で実例を挙げながら具体的に文章の良し悪しを示していきそこもすげーなーすげーなーと感心するわけだが、それらをきちんと良い文章は「よい日本語文章」、悪い文章は「悪い日本語文章」として翻訳する訳者のスキルがあり、なんなら「あなたがスティーブン・キングですか?」と思うような見事なものなのである。私がスティーブン・キングを全然知らないだけに。
 
 上記の翻訳が本当にすごいことなんだ——つまり、優れた文章を翻訳すれば誰でも優れた訳文が作れる、というわけではない——ということの顕著な例は、学術書の訳文であると考える。論文というものは基本的に無駄なことを一切書かない思うのだけれど(書いてあったらダメな論文である。それこそ副詞を多用するとか。「見事な茶褐色になる」とか)、論文の翻訳文って無駄な言葉のオンパレードであることがままある。つまり、直訳の読みにくさをそのまま踏襲しているような文章である。たとえば、私の英語力の無さゆえにめちゃくちゃ簡単な例文で恐縮だが、
 
  I have a pen
 
を中学生英語において訳すと
 
 私は一本のペンを持っている
 
となるのはいまどき小学生でもわかるだろう。が、このいわゆる「直訳」は、純粋なる日本語として考えた場合は間違いですらあると個人的には考えている。なぜなら、この訳だと文章の中心は「ペンを持っていること」ではなく、強調の助詞「は」が掛かる「私」になるからである。つまり「私は一本のペンを持っている」の後には、「で、あなたは何を何個持っているの?」といった文章が想定される、「私」と「他者」とを比較するような、主語を中心とした文章構成と解されるわけである。そこには「I have a pen」の英文が意味する真のニュアンス「あっ、ペン持ってるよ〜」的なノリは一切ない。ピコ太郎氏もさぞお嘆きのことだろう。

 

 

 しかし学術書の訳文は、とにかく直訳的な文章になりがちである。個人的にはそれは訳した人が「安パイ」に走りまくった結果というか、「専門的すぎて内容がよくわからないから余計なアレンジを加えないようにしよう」みたいなことに徹した結果、中学生が英語のテストで書くような直訳文の羅列みたいな文章となったのではないかと推測している。そしてそうした文章は、お経を読むよりも苦痛である(お経が実は意外と面白い説)。

 

 話がだいぶずれたが、何が言いたかったかというと「翻訳家の人のスキルが高かったので、スティーブン・キングが直伝してくれていることがきちんと伝わってきた」ということである。

 

 まあ原書を読んだことはないので、もしかしたら翻訳家の個人的な解釈が入りまくって意図されたものと違う文意になっている可能性もありますがね〜

 

 

たくさん食べてたくさん寝る的なこと

 本著の構成は
 
・スティーブン・キングの生い立ち(つまり、「なぜ小説を書き始めたか」から「売れるようになるまで」)
・書くためのスキル(「道具箱」と称されている、今風にいうと”引き出しの多さ”的な話)
・書くことについて(書くことはテレパシーだ! 魔法だ!)
・生きることについて(事故られた! でも生きてた! そしてまた書き始めたんだ!)
・推敲について(公式:第二稿=第一稿ー10%)
 
となっている。
 
 それぞれの項目で、大家ならではの非常に含蓄のある考え方やその具体的な実現手法が語られていて、先にも述べたように意外なほど技術的な面が詳細に述べられている。かつて加藤鷹のテクニック実践書を読んだことがあるのだが、あれに匹敵するくらいの具体的な解説であった。
 
 ただ、本著の主なターゲット層である(と思われる)「作家になりたい」という想いをもつ方々に対してスティーブン・キングが述べている本質的なことは、二つだけである。
 
 作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない。
 
 とのことで、特に作家志望でもない普通の人が思い付く「作家になるためには」とおよそ同じことを述べている。しかしながら、作家志望者の多くは——つまり夢を抱きながらいまだ実現できていない人の多くは——この誰もが考え付く当たり前のことをせずに、なぜか苦しんでいるのである。具体的には、たくさん読みはするが、たくさん書きはしないのである。
 
 この「作家になりたいと言っている奴が実は小説を書かない問題」は、森博嗣の『小説家という職業』という本でもズバッと語られている、作家志望あるあるである(まあ森博嗣は「小説家になりたいなら小説は読むな」と言っているのだが。読んでいる暇があったら、書けと)

 

 

 

 なぜ書かないのかといえば、書く方が労力がいることだからである。始めるハードルは圧倒的に高い。

 そして、読むという行為は受動的な活動であり、書くのは能動的な活動であるといえる。受動態はダメなのである。スティーブン・キングの言う通り。

 

 ”たくさん読み、たくさん書け”

 

 これができる人が作家になれるのだろう。ただ常人では、たくさん読むことはできても、たくさん書くことができないだけである。

「天才とは1%の才能と99%の努力」という言葉は、ものすごく才能がある人が、その溢れ出る才能が1%に薄まるくらいの努力を重ねるという意味である件

 エジソンの言葉である。エジソンは「私が言いたかったのは、この1%の才能があることが重要だということだ」と、自身の発言の中で「99%の努力」という言葉だけが美談として一人歩きしてしまった世の中に対して改めて発言したという逸話がある。
 
 スティーブン・キングは本著の中で、「3流が1流になることや、1流が超1流になることは不可能であるが、2流の者が1流になることは努力次第で可能」という含蓄ある言葉を記している。具体的なボーダーラインが実に生々しく、異様なまでに説得力がある。
 
 そして多くの人間は、なぜか自分のことを「2流くらい」と思っているので(そして多くの場合そこに根拠はない)、この言葉によって「頑張れば自分でも……」と思うのではないだろうか。
 
 ただ、実際に自分にどれくらいの才能があるのかは始めてみなければわからない。だから、とにかくやってみるしかないところがある。本著内のスティーブン・キングの言葉を借りれば「始めたら、それ以上は悪くならない」である(事故の後遺症で苦しみながらも、再び書き始めたときの言葉)。
 
 そして何より重要なのは、たとえ1%の才能がなかったとしても、書くことは誰にでも許されている行為である点である。そして現在では、このような駄文でもインターネットのWEBログという形で、世界中へ発信することが可能な世の中となっているのだ(発信したところで受信する者がいるとは限らないのだが)。
 
——となんかすげー偉そうに語っておりますが、上記は駄文を世界中に晒している言い訳を良いように言っているだけである。世界中の人、ごめんなさい
 

書くことについて

ものを書くのは、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ちあがり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ。おわかりいただけるだろうか。幸せになるためなのだ。
 私が最も心に響いたのはこの本著内最後の言葉である。
 単純に、ブログを書くことは楽しい。そして、自分が辛い状況にあるときには、書くことが救いになることすらある(まったく関係ないことでも)。
 
 なぜブログなんてものを書くのかといえば、結局は自分のためだという終着点となる。読む者の人生を豊かにしているかは甚だ疑問であるが、少なくても書く者の人生を豊かにしてくれている実感は確かにある。「ブログを書く」という項目が自分の人生に加わったおかげで、少なくても私に暇を持て余すような時間は一切なくなった。ブログを書きたいならば、時間を捻出する努力すらしなければならない。時にはそれには、余計な出費すら伴う。
 
 でも、書くことが好きなので、書いている。幸せだ。
↓第9刷まで版を重ねているのにいまだ誤植が残っているのは珍しいと思って思わずパシャリ
↓割と長い読書人生だが、「かてて加えて」という言葉と初めて遭遇した。一言でいえば「さらに」という意味らしい。ただ本著は翻訳書なので、あえての「かてて加えて」という言葉のチョイスから訳者の並々ならぬこだわりを感じ取れる。大学受験の問題集解答で「in addition」に「あまつさえ」という訳があてられていたとき以来の衝撃である。

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