映画物語(栄華物語のもじり)

映画物語(栄華物語のもじり)

「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

ひっそりと 記念メダル のページを移転しました。


胸を張ってあくまで映画ブログです。

Amebaでブログを始めよう!

★★★★☆

幸せになるために、書く。という話。

 

めちゃ優れた訳者あとがき

 本著を読んでいてい最も驚いたことは、巻末にある「訳者あとがき」に、スティーヴン・キングが示した教示がほとんど全て、しかもごく簡潔に記してあったことである。これだけ読めば良くね? とすら思った。
 
 要約文としてスーパー優秀である。さすが原文を最も読み込んだ者の一人であるといえる。世界で一番、この本著を読んでいるかもしれない。いや、マジで。
 
 くどいようだがまじで優秀で、これが私が目指す要約文である。私が今から本著の「書評メモ」的なものをこの下にグダグダと書こうとしたら、このあとがきの劣化版みたいになること請け合いであるので、以下そんな文章が恥ずかしげもなく展開されてゆくことをここに記しておきます。先に謹んでお詫び申し上げます。

実はスティーブン・キングの本を一冊も読んだことがない件

 まず訳書が苦手である。
 ビジネス本や学術書を除けば、読んだことがある訳書は『アルジャーノンに花束を』くらいではなかろうか。

 

↓ユースケ・サンタマリアが出てこない方が面白いですな

 

 そんなわけでスティーブン・キングは名前は知れど、作品は一冊も読んだことがない名前だけは知っているあの人状態である。そう、本著が私にとってのスティーブン初体験であった。その初体験は、始めはゆるやかで、しかしだんだんと刺激的でエクスタシー溢れるものとなっていった。エクスタシスィィィ!(特に意味のない文章)
 
 本著の面白さは、意外なほど(本当に意外だった)結構技術的なことをズバッと書いている点である。具体的には「受動態を使うな」「副詞を多用するな」「プロットなんていらね」「状況設定だけ考えればいい」といったようなことがはっきりと書いてあって、自己啓発本のようにメンタル面の話でぼかすようなところは全然ない(メンタル的な話もあるし抽象的な表現もあるが、それらにはその前後で具体的な説明がきちんとなされている)。つまり、私が飲みの席で語る仕事との向き合い方みたいな話は全然ない(典型的な迷惑中年サラリーマン)。
 
 ただこと文章の話なので、ここで「英語と日本語の違い」という言語の壁が立ちはだかる——かと思いきや、訳者の腕がピカイチなのでそんなことは全然ない。スティーブン・キングの意図を読み手にきちんと理解させるに足る日本語が示されていて、なんかすげーである(唐突な小並感)。スティーブン・キング自身も有名作家の名著で実例を挙げながら具体的に文章の良し悪しを示していきそこもすげーなーすげーなーと感心するわけだが、それらをきちんと良い文章は「よい日本語文章」、悪い文章は「悪い日本語文章」として翻訳する訳者のスキルがあり、なんなら「あなたがスティーブン・キングですか?」と思うような見事なものなのである。私がスティーブン・キングを全然知らないだけに。
 
 上記の翻訳が本当にすごいことなんだ——つまり、優れた文章を翻訳すれば誰でも優れた訳文が作れる、というわけではない——ということの顕著な例は、学術書の訳文であると考える。論文というものは基本的に無駄なことを一切書かない思うのだけれど(書いてあったらダメな論文である。それこそ副詞を多用するとか。「見事な茶褐色になる」とか)、論文の翻訳文って無駄な言葉のオンパレードであることがままある。つまり、直訳の読みにくさをそのまま踏襲しているような文章である。たとえば、私の英語力の無さゆえにめちゃくちゃ簡単な例文で恐縮だが、
 
  I have a pen
 
を中学生英語において訳すと
 
 私は一本のペンを持っている
 
となるのはいまどき小学生でもわかるだろう。が、このいわゆる「直訳」は、純粋なる日本語として考えた場合は間違いですらあると個人的には考えている。なぜなら、この訳だと文章の中心は「ペンを持っていること」ではなく、強調の助詞「は」が掛かる「私」になるからである。つまり「私は一本のペンを持っている」の後には、「で、あなたは何を何個持っているの?」といった文章が想定される、「私」と「他者」とを比較するような、主語を中心とした文章構成と解されるわけである。そこには「I have a pen」の英文が意味する真のニュアンス「あっ、ペン持ってるよ〜」的なノリは一切ない。ピコ太郎氏もさぞお嘆きのことだろう。

 

 

 しかし学術書の訳文は、とにかく直訳的な文章になりがちである。個人的にはそれは訳した人が「安パイ」に走りまくった結果というか、「専門的すぎて内容がよくわからないから余計なアレンジを加えないようにしよう」みたいなことに徹した結果、中学生が英語のテストで書くような直訳文の羅列みたいな文章となったのではないかと推測している。そしてそうした文章は、お経を読むよりも苦痛である(お経が実は意外と面白い説)。

 

 話がだいぶずれたが、何が言いたかったかというと「翻訳家の人のスキルが高かったので、スティーブン・キングが直伝してくれていることがきちんと伝わってきた」ということである。

 

 まあ原書を読んだことはないので、もしかしたら翻訳家の個人的な解釈が入りまくって意図されたものと違う文意になっている可能性もありますがね〜

 

 

たくさん食べてたくさん寝る的なこと

 本著の構成は
 
・スティーブン・キングの生い立ち(つまり、「なぜ小説を書き始めたか」から「売れるようになるまで」)
・書くためのスキル(「道具箱」と称されている、今風にいうと”引き出しの多さ”的な話)
・書くことについて(書くことはテレパシーだ! 魔法だ!)
・生きることについて(事故られた! でも生きてた! そしてまた書き始めたんだ!)
・推敲について(公式:第二稿=第一稿ー10%)
 
となっている。
 
 それぞれの項目で、大家ならではの非常に含蓄のある考え方やその具体的な実現手法が語られていて、先にも述べたように意外なほど技術的な面が詳細に述べられている。かつて加藤鷹のテクニック実践書を読んだことがあるのだが、あれに匹敵するくらいの具体的な解説であった。
 
 ただ、本著の主なターゲット層である(と思われる)「作家になりたい」という想いをもつ方々に対してスティーブン・キングが述べている本質的なことは、二つだけである。
 
 作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない。
 
 とのことで、特に作家志望でもない普通の人が思い付く「作家になるためには」とおよそ同じことを述べている。しかしながら、作家志望者の多くは——つまり夢を抱きながらいまだ実現できていない人の多くは——この誰もが考え付く当たり前のことをせずに、なぜか苦しんでいるのである。具体的には、たくさん読みはするが、たくさん書きはしないのである。
 
 この「作家になりたいと言っている奴が実は小説を書かない問題」は、森博嗣の『小説家という職業』という本でもズバッと語られている、作家志望あるあるである(まあ森博嗣は「小説家になりたいなら小説は読むな」と言っているのだが。読んでいる暇があったら、書けと)

 

 

 

 なぜ書かないのかといえば、書く方が労力がいることだからである。始めるハードルは圧倒的に高い。

 そして、読むという行為は受動的な活動であり、書くのは能動的な活動であるといえる。受動態はダメなのである。スティーブン・キングの言う通り。

 

 ”たくさん読み、たくさん書け”

 

 これができる人が作家になれるのだろう。ただ常人では、たくさん読むことはできても、たくさん書くことができないだけである。

「天才とは1%の才能と99%の努力」という言葉は、ものすごく才能がある人が、その溢れ出る才能が1%に薄まるくらいの努力を重ねるという意味である件

 エジソンの言葉である。エジソンは「私が言いたかったのは、この1%の才能があることが重要だということだ」と、自身の発言の中で「99%の努力」という言葉だけが美談として一人歩きしてしまった世の中に対して改めて発言したという逸話がある。
 
 スティーブン・キングは本著の中で、「3流が1流になることや、1流が超1流になることは不可能であるが、2流の者が1流になることは努力次第で可能」という含蓄ある言葉を記している。具体的なボーダーラインが実に生々しく、異様なまでに説得力がある。
 
 そして多くの人間は、なぜか自分のことを「2流くらい」と思っているので(そして多くの場合そこに根拠はない)、この言葉によって「頑張れば自分でも……」と思うのではないだろうか。
 
 ただ、実際に自分にどれくらいの才能があるのかは始めてみなければわからない。だから、とにかくやってみるしかないところがある。本著内のスティーブン・キングの言葉を借りれば「始めたら、それ以上は悪くならない」である(事故の後遺症で苦しみながらも、再び書き始めたときの言葉)。
 
 そして何より重要なのは、たとえ1%の才能がなかったとしても、書くことは誰にでも許されている行為である点である。そして現在では、このような駄文でもインターネットのWEBログという形で、世界中へ発信することが可能な世の中となっているのだ(発信したところで受信する者がいるとは限らないのだが)。
 
——となんかすげー偉そうに語っておりますが、上記は駄文を世界中に晒している言い訳を良いように言っているだけである。世界中の人、ごめんなさい
 

書くことについて

ものを書くのは、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ちあがり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ。おわかりいただけるだろうか。幸せになるためなのだ。
 私が最も心に響いたのはこの本著内最後の言葉である。
 単純に、ブログを書くことは楽しい。そして、自分が辛い状況にあるときには、書くことが救いになることすらある(まったく関係ないことでも)。
 
 なぜブログなんてものを書くのかといえば、結局は自分のためだという終着点となる。読む者の人生を豊かにしているかは甚だ疑問であるが、少なくても書く者の人生を豊かにしてくれている実感は確かにある。「ブログを書く」という項目が自分の人生に加わったおかげで、少なくても私に暇を持て余すような時間は一切なくなった。ブログを書きたいならば、時間を捻出する努力すらしなければならない。時にはそれには、余計な出費すら伴う。
 
 でも、書くことが好きなので、書いている。幸せだ。
↓第9刷まで版を重ねているのにいまだ誤植が残っているのは珍しいと思って思わずパシャリ
↓割と長い読書人生だが、「かてて加えて」という言葉と初めて遭遇した。一言でいえば「さらに」という意味らしい。ただ本著は翻訳書なので、あえての「かてて加えて」という言葉のチョイスから訳者の並々ならぬこだわりを感じ取れる。大学受験の問題集解答で「in addition」に「あまつさえ」という訳があてられていたとき以来の衝撃である。

今まで観た映画

★★★☆☆

死んでも働く話。

 

Excelって楽しいな

 私の中で唐突に、空前のExcelブームがやってまいりまして。
 
 思い当たるきっかけは、情報処理技術者試験の一つである「基本情報技術者試験」の問9「プログラミング分野」で、表計算の勉強をしたことである。
 
 
 あれを勉強した後に実務でExcelを使うと、マジでわかりやすいなと感慨深く思う。Excelって親切設計である。その場で引数に何を入力したらよいか教えてくれるし。
 
 そんなわけでExcelというものに突然目覚めた私は、とりあえず基礎の基礎から勉強し直そうとExcel関連の資格の中では最も有名かつ最も簡単かつ最もお金のかかるMOS(マイクロソフトオフィススペシャリスト)の「スペシャリスト」を受験した。まあ、変にお金を惜しまずFOM出版の緑本を買って、模擬問題をインストールし、解答動画でしっかり復習しつつ模擬試験を3周すれば100%合格すると思われる。
 
↓100%受かります(本はいらないけど)
 
 ちなみに問題集の中身はまったく、全然、これっぽっちも読んでいない。基礎的な内容過ぎることがかなり多くて、読むのが苦痛であった(新しいシートの作成とか)。
 
 ただ一方で、今回の勉強を通して「Excelって意外と奥が深いな」と感じる部分も多々あり、もしかしたらその辺の細かい奥深さはきちんとテキスト読んだほうがより理解が深く、技術の習得に結びついたかもしれない、もう売っちゃったのでわからないけど。「アクセシビリティの設定」云々とか、一生使わないと思うけれど、知らないことを知れるのは楽しいことである。
 
 そんなわけで、金で資格を購入してきた結果がこちら↓
 
 まあ「金で買う」と揶揄されがちな簡単な資格ではあるが(受験料が1万円越えというのもある)、「テーブル機能」など初心者こそ知っていると便利な(割に意外とみんな知らない)機能や、「SUMIF」や「COUNTIF」あたりの「Excelを全然知らない人が相手なら使いこなすと『すげーっ』と言われそうな関数」あたりを学ぶことができるので、資格取得が趣味のひとつである私個人としてはものすごくおすすめな資格の一つである。簡単な割には、学んだ力が仕事に直結する。
 
 Excelって、結構「仕事力」みたいなところに直結するスキルだし。
 
 本著では「Excel職人は周りからいいように使われる」みたいな話を主人公がちょくちょくするのだが、それは実際にある(私は職人レベルではないが)。が、それを「いいように使われる」と取るのか「頼られる」と取るのか、その辺はそれぞれの性格と自分と相手との関係性によって変わってくる。早い話、どちらにせよ職場での自分の評価を上げる一つのスキルであることには変わりはない。しかも、どのような仕事であっても割と必要とされるのがExcelの汎用性の高さであるといえる(主要登場人物には、肉体労働の建築関係が職場だった男が出てきてExcelの知識で大活躍する)。

「VLOOKUPとINDEX/MATCHの神学論争」というものが理解できるか否か

 何をくどくどと自分語りをしてきたのかというと、要するに私のExcelレベルがどんなものかを示したかったのである。「MOSスペシャリストは余裕で合格(1問間違えたけど)できて、職場ではExcelに関してちょっと頼られる」といったポジションである。「ちょっとかじっているだけに、自分が全然できないことも理解しているポジション」とも言い換えられる。その程度である。
 
 そんな私の感想としては、本著は、ポップな絵柄とボインな女の子(表現が古い)で彩られた萌え系な表紙、そして何よりどこかで聞いたことがあるようなタイトルから、「最近ブームの異世界転生モノか〜( ´▽`)ヨユウ」と気軽に手に取ると、ムカつくほど痛い目にあうだろう。
 
 
 作者いわく「『よくわからない』こと自体も楽しんでもらおうという意図で制作した」とのことである。そういう人ももちろんいるかもしれないし、何より「カクヨム」という小説投稿サイトで出版社の目に留まり出版にまでたどり着いた作品であるので、そういった魅力もあるのかもしれない。
 
 が。
 
 やっぱりそりゃ無茶だろうと、個人的には思ったり。らじばんだり。
 
 私個人の話として、特に後半の「Googleスプレッドシート」に特化した内容や、超苦手なデータベースの話にはついていけない部分が多く(データベースの話ならかろうじてわかるが、そんなことをわざわざ表計算でやっているイメージが全然想像できないし、見たことがない)、そのへんは素直に「つまらなかった」という感想である。よくわからないことを楽しむ心の寛容さが私にはなかったといえる。それらの関数表記や解説は読み飛ばすに等しい流し読みとなってしまった(そしてそれは、とてもつまらないことであった)。
 
 で。
 
 本著で扱っているExcel(Googleスプレッドシート)の内容は、はっきりいって結構難しい。どれくらい難しいかというと、上記で話した資格「MOSのスペシャリスト」程度の知識では正直全然太刀打ちできないレベルである。最低でも「VLOOKUP」程度は理解していないとかなり厳しいレベルで、中級者レベルのスキルは必要であると思われる。
 
 物語冒頭で「VLOOKUPとINDEX/MATCHの神学論争」というものを主人公が後に仲間となる女性と繰り広げるのだが、これが「?」だと、後の話もけっこうしんどいものがある。つまり、冒頭から「VLOOKUP」の機能や使われ方はもちろん、その「弱点」を理解していることが求められる。そして「VLOOKUP」は、MOSスペシャリストごときでは1ミリも出てこない関数である。
 
 私は両者に「神学論争」と呼ばれるような派閥があるなんてことを知らないようなにわかExcel好きでしかなく、単純に「VLOOKUPでできないことをINDEX/MATCHでカバーする」といった認識しかなかったもんで、「たしかによく考えたらINDEX/MATCHだけでやりたいことは全部できるんだな〜(複雑になるけど)」と開眼∑(゚Д゚)クワッ した次第である。つまり、理解は「ギリギリ」であった。
 
 で、その「書いてあることが理解できた!」というところに、本著の面白みの大きな要素があるように思うわけである。本著の醍醐味は、むしろこういったコアな部分を小説に落とし込んだところにあって、ライトでポップな絵や語り口調の割に、内容はかなり硬派なのである。そこがExcel好きの琴線に触れる部分であり、いわゆる「ウケる」部分なのではなかろうか。いってみれば、初心者を置いてけぼりにするところが魅力なのである。
 
 もちろん、それは同時に、一般ウケをしないこともまた意味している。この置いてけぼり感は、『HUNTER×HUNTER』の王位継承編とはまた違った置いてけぼり感なのである。前者は技術的な知識によって置いてけぼりにされているが、後者は「ストーリーの複雑さ」で置いてけぼりにしているという、同じ「置いてけぼり」でも似て非なる違いがある。
 
 出版元である「技術評論社」というのは、IT系の書籍を数多く出版している出版社である。私も現在進行形でお世話になっているのであった。
 
↓日々勉強中です
 
 「あの技術評論社が小説を⁉︎∑(゚Д゚)」というところがとても良くて、そして「あの技術評論社にふさわしい小説だ!∑(゚Д゚)」というところがとても良かったのである(驚くほど稚拙な表現)。「技術評論社のテキストはわかりやすくて面白いな〜」という面白さなのである。
 

小説と技術書との狭間の中で

 ストーリーとしては「Googleスプレッドシートは、死んだエクセル職人の魂で動いている」というトンデモ話である。ついでにいえば、Googleの他のサービスもその道のプロが死んでその魂で動いているらしい。
 
 大変面白い設定であるし、「自分が♯Refとかエラー起こしたときには、『中の人』達に生死に関わる多大な迷惑をかけているのか⁉︎」と大変申し訳なくなるのだが、この設定の面白さをどうしても生かしきれていない感が否めない。要するに、純粋な小説として読んでしまうと、ちょっと物足りないのである。「Excelあるある」と「ExcelとGoogleスプレッドシートとの違い」を中級者向けにとっつきやすく解説した技術書といったテイで、感覚的には、かつて基本情報技術者試験の勉強で読んだ非技術者向け参考書のテイストとかなり似ている。
 
 
 

 

 まあ価格も「1780円+税」という、値段の割には少ないページ数を考えれば完全なる技術書価格であるので、逆に良いのかもしれない。というか、技術評論社だし
 
 つまり、かなり技術書寄りの本であり、小説的なストーリーにひねられたものがあるわけではないところが残念な点であった。やっていることは、「冒険者ギルトのようなところから依頼されてクエストをこなす(魔物退治をする)」という6000万回くらい見た話である。その魔物退治の中で表計算の関数についての解説があるといった流れで、これって初心者向け技術解説書でよくあるパータンだなと思うわけである。別にそれが悪いということが言いたいのではなく、そういう本だということである。プログラミングの解説書でも似たようなコンセプトのテキストがありそうだな〜というところである。というか、なんなら同じ設定でJAVAの技術小説?なるものも書けると思われる。命令文がモンスターとして現れて、その命令の意味や使い方を解説して、金属バットでボコボコにして、命令名を唱える——みたいな。
 
 たとえばこれが、「びっくりするような関数の組み合わせを駆使して、問題を解決する」みたいな話であれば、また違った面白さがあったように思う(物語の設定的に、そういう話ではないのだが)。あるいは「関数の落とし穴(たとえばVLOOLUPは左側を検索できない、とか)を巧みについたトリックを暴き解決する推理もの」とか(トリックって何? 全然思いつかないけど)。アイザック・アシモフが提唱したかの有名な「ロボット工学三原則」も、実際の彼の小説の中では「完璧だと思われていた三原則のスキを突くトリック」という使われ方が物語の根幹を成しているわけで、関数そのものの機能がもっと物語に深く絡んでほしかったなぁと思う次第である。
 
 要するに最大の不満は、「敵として登場する関数」の機能が、ストーリーとあんまり関係ない点なのである。主人公たちは関数を「処理」するのだが、処理の仕方としては「関数の機能を理解した奴が、触りながら関数名を言えばよい」という条件なので、倒すときはどんな相手(関数)でも同じなのである。「こういった関数だから、倒すにはこういうことが必要」とかそういったことはなく、複雑な処理をする関数やGoogleスプレッドシート独自の関数はなぜか物理的に強いので、あらゆる通常の武器(金属バットとか)でボコボコにしてから上記の処理をするという、概要だけでいえば同じ流れを辿ることになる。物理的な強さの強弱はあるものの、そこに表計算の関数ならではのひねりはあまりないし、新しい関数の登場は、ただ「主人公(ひいては読者)が関数の特性を理解するためだけに解説される」という、本当に技術解説書的な立ち位置となる。まあ技術書であるならそれで全然良いのだけれども。
 
 だから本著は、「SUMIFとSUMFSでは引数の順番が違う」というエピソードが出てきたときに、「SUMIFSしか使ってこなかったから、MOSスペシャリストの試験でSUMIFが出てきたとき合計範囲の引数のセル番地を余裕で間違えた! というかSUMIFなんていらなくね? 条件が一つでもSUMIFSでやりゃあええやんっ!」といった「自分もそれわかる」エピソードに共感したり、「Googleスプレッドシートはウェブブラウザ上のアプリなので、URLを引数に使える」という話に「すげーっ! これからの時代っぽい!」とクラウドアプリの発展性に感心したりするのが主な楽しみどころとなる。その合間に、モンスター退治の話が挿入される。そこはいわば間奏なのである。
 
 だからやはり、楽しむにはある程度のExcelの知識が必要であり、その「ある程度」は意外と高水準なものを求められる。データベースの話なんて、Excelしか使ってないならちょっと厳しいところですらある。
 
 加えて、何気にWebマーケティングの専門用語も結構出てきて、それが私が読む分には「おっ」と思って楽しくなるポイントであったのだが、一般ウケするかは微妙なところである。私は自分でブログを運営していることもあってたまたまウェブビジネス全般に興味があるので意味だけはわかったが、普通の人は「クリエイティブ」を「入稿する」とか言われても全然意味がわからないのではないだろうか。そしてその辺もまたあんまりストーリーに関係しないところがちょっとな〜なのである(まったく関係していないわけではないが、諸問題の解決は結局モンスターをボコして関数名を読み上げるだけなので、結局生かしきれていない印象)。
 
 結論としては、「転生したらスプレッドシートだった」というのは非常に面白いアイデアでエクセル好きにはたまらない設定なのだが、小説として読むにはあと一歩「小説ならではの楽しさ」があったらよかったな、という印象である。現状、「ライトでポップな楽しく読める技術書」といったテイストである(しかし技術書と呼ぶにはちょっと内容が薄い)。
 

表計算好きな人たちのために

 なんか書いている本人も思いもよらずディスり気味であるのでまったく説得力がないかもしれないが、私は本著が結構好きなのである。作者の「Excel愛(表計算LOVE)」を一つの形にして、世に解き放ったことがありありと感じられるからである。好きだから書けた小説であることは間違いない。そこに、自分のExcel愛が共鳴する
 
 ただ、「Excel(表計算)の知識によって問題を解決する」という方向でないと、どうしても物語としての面白さと表計算の面白さが掛け合わされず、ただ「関数の説明をした後にモンスターを金属バットでボコる」という、モンスター退治がおまけの話になってしまって……てこの話はもう良いですね。
 
 うまく言えないのだが、「私はExcelが好きなので、本著が面白かった」というまあ普通の終着点である、はい。
 
 もしも続編が発売されたら購入するくらいに好きである。ただ作者の方の想いとは裏腹に、マーケットは非常にニッチだと思われる……ってこの話はもう良いですね(二回目)。
 

★★★★☆

 結局あなたは5年間もなぜ刑務所にいたの? という話。

 

ハガレン入門

 ハガレンカフェなるものにいきましてね!
 
 
 早い話が記念メダルを購入するために訪れたわけなのだが、私はハガレン素人なので、コラボカフェに何の予備知識もなく訪れるのはあまりにも味気ないと思い、事前に予習することにしたわけである。その予習で鑑賞したのが、本作である。ハガレンは以前から非常に興味があったのだが、アニメシリーズを全て鑑賞するにはあまりにも時間が必要であるため、お手軽に観られる映画作品に手を伸ばしてしまったというわけである。安易な人間ここに極まれり。
 
↓ちなみにハガレンカフェではこんな感じのものをいただきました。すべてが冷めてました。
 
 で。
 何の予備知識もなく鑑賞したので登場人物が誰一人わからないし物語の背景も全然知らなかった。が、これがなかなか面白かったのでびっくりである。映画オリジナルストーリーに振り切って万人受けする内容にしたのは、公開当時に一見さんの客を獲得するためには有効だったのではないかと考える。個人的にはとても面白かった次第である。
 
 しかしながら。
 アマゾンレビューを見ると恐らくハガレンファンの方からの評価がなかなかに散々なものだったので、ハガレンカフェで「いやー映画はほんと面白かったですよね〜」とか知ったかぶったらボコボコにされるんじゃないかと思った。失言とは命取りになるものなのである。
 
 どうやらこの作品は第二期アニメシリーズの挿入話的な位置づけであるらしい。ただシリーズを通して鑑賞した人にとっては時間軸やら設定やらに矛盾を感じるらしく、「認めん!」という気持ちになるみたいである。
 
 またレビューの中で多かった意見に「ジブリっぽい」というのがある。なるほど、言われてみれば確かにジブリっぽいかもしれなくもないような気がする(どっちやねん)。舞台設定が「二つの大国に挟まれた崖の下の集落」とかその集落の様子とかは『もののけ姫』や『ラピュタ』を彷彿とさせなくもないかもしれない(どっちだよ)し、ストーリーとしても、「強大な力を手に入れるために争う」というところもまんま『ナウシカ』的なものを感じなくもないような気がしないでもない(しつこい)。
 
 ただいずれのことも、ジブリ映画にもハガレンにも何ら深い造形を持ち合わせていない私としては「言われてみれば、確かにな〜」程度しか思わなかったので、純粋に楽しめた次第である。楽しめてしまったというか。
 
 そんなわけで、以下はハガレンに対して何の思い入れもない人間がテキトーに書くレビューであることをご承知おきいただきたい。
 

大どんでん返しを狙いすぎちゃう症候群

 ストーリーとしては、国家錬金術師(理由は知らんけど偉いみたいね!)たる主人公とその弟が脱獄犯を追ってテーブルシティという街にいったら、隣国との戦争やら、隣国との間に掘られた深い崖とその底で生活を営む人たちのことやらを知り、アンニュイな気持ちになりながらも脱獄犯やら崖下集落のレジスタンスやら隣国との争いやらに首をツッコミつつ無事解決する話である(ミもフタもないあらすじ)。
 
 くどいようだが私は基本的には本作は面白かった。しかしながら、よくよく考えるとストーリーが強引なところやつじつまが合わないような気がするところなども多々あり、アマゾンレビューの「別の作品用に用意していたストーリープロットをハガレン用に置き換えたみたい」という意見になんとなく同意する感じである。ハガレン全然知らないけど。
 
 キーパーソンとして崖下集落のレジスタンスの一員である少女が登場する。で、脱獄犯は「この少女が捕まったことを知り脱獄をする」という設定で、脱獄犯は実はこの少女の生き別れた兄でした〜という流れとなるのだが、これが覆されるというどんでん返しが起こる。「実は少女の生き別れた兄でした」という点も意外性を狙ったのが見え隠れするのだが、それがさらにどんでん返しとなってまさかの赤の他人だったという流れなのである。
 
 で。
 
 そこまでどんでん返されると、なんか「今までの話はなんだったの?」感が生まれる人生の不思議(人生って不思議ね)。
 
 私の予想としては「この兄が実は今ではすっかり悪の思想に染まっている」というものだったのだが、その斜め上を行かれた。まさか「兄ですらない」というのは、確かに意外性のある展開ではあったのだが(兄であるなら回想シーンでの矛盾があるという伏線はあったが)、私の中では夢オチレベルの「なんじゃそりゃ」であった。そんなん言い出したら「両親も実は生きてた」とか言い出すんじゃないかと思った(ら、それに近いことが起こった)。
 
 しかしそうなってくると、この人結局5年間もどうして刑務所で身を隠してたの? という話になると思うのだが。そもそも身を隠す必要すらないじゃんと思うのだが、その辺は劇中で説明されてましたかね? 私が理解してないだけ?
 
 またラストでデデーンと正体が明かされた「本当の兄」の方は、「半殺しにされたけど父が隠し持っていた賢者の石を食べて命をとりとめた」という話なのだが、偽兄の目的はそれこそこの「賢者の石」であったので、二人の父母を殺害したときにもっとよく探せばこんな大ごとにはならなかったじゃんというツッコミをせざるを得ない。こんな大それたことをしなくても、欲しかったものはすぐそこにあったのである。それこそ5年間を無駄にしたと言わざるを得ない。隠し場所もいかにもな本の中だったので、錬金術の研究を盗み出そうという発想で襲ったのだから、それくらい見つけ出せよと思った私は可愛くない人だね!(おっさんだしね!)
 
という野暮なツッコミね、これ( ・∇・)うざ
 
 ストーリーを捻ろうとして一周回ってよくわからなくなっちゃった感じかしら〜。
 やっぱり意外性のあるストーリーというのは結構世の中に出尽くしてしまった感があるのかもしれない。クリエイターは大変な時代である。
 
 ちなみに原作者は本作のストーリーに一切関わっていないとのことを明記しておく。
 

ツンデレキャラが気になる今日この頃

 いろいろ書いたが、映画としてはなかなか面白かったと素直に思う。世界観も他のファンタジーな物語から一線を画すような精密なものであり、何より主人公とその弟をはじめとした登場キャラクターたちが魅力的であったので、それだけで面白かった。「鋼の!」と主人公を呼んでいたあのツンデレ男性はきっと女性に人気があるだろう。
 錬金術の発想もとても面白く、この力が使えたら何でもアリですな! と思ったところをどう細かい設定で帳尻を合わせているのかに非常に興味をもった。
 
 時間ができれば、ぜひテレビシリーズを第一期、第二期ともに観てみたいものである。「時間ができれば」と言ってその時間をちゃんと作り出した人を見たことがないけど。「行けたら行く」で来る奴なんてほぼいない的な。
 
↓何も知らずに観たのが逆に功を奏した例。そういうことって往々にしてあるよね。

 

今まで観た映画

 

人生が変わった一冊との出会い(重っ!)

 近藤麻理恵は私の人生の恩師である。

 これは誇張ではなく、事実としてそうなのだ。

 本著『人生がときめく片づけの魔法』を読んで、私の部屋は、事実としてとても綺麗になった。自分でもびっくりなのだが、事実なのだから仕方がない(どうでもよい仕方のなさ)。

 

 かつての私は床に物が散乱していてそれらを全て部屋の隅に寄せているような汚部屋に住んでいた。いわゆる「男の一人暮らしなんてそんなものだ」というステレオタイプの部屋だった。ゴミ袋が山積みで部屋が埋もれるなんてことはないものの、とにかく物が多かったし、もちろん整頓もできていないかった。ペットボトルがめっちゃ溜まっているような台所であった。

 

 しかし今では、部屋でビリーズ・ブート・キャンプができるくらいすっきりとした空間となっている(古い)。なんなら部屋の中でリフティングもできる(そして失敗してボールが本棚に飛んでいく)。

 

 ちなみに本著は、8年くらい前に実は一度読んでいる↓

 

 今回読んだのは、上記の「改訂版」ということだそうで。「そうで」なんて言っているのは——100%予想していたことだが——この「改訂版」で何が改訂されたのかはまったくわからなかったからである。絶対わからないだろうと思いながら読んで、やっぱりわからなかった。私の確信は外れない(ダメな方面で)。

 

 しいていえば、書かれた時代が「ガラケー」でありそうな表現がちょっとあるのだが、それを打ち消すかの如く後になって「アップルの箱」なる物が登場したことくらいである。「携帯電話の説明書類はかさ張るので捨てましょう」という話がある一方で、そんなものとはまったく縁のない「iPhoneの箱ときめく〜」的な話が出てくるので、その辺が改訂されているのかもしれない。

 まあ正直、部屋を片付けたい人が読む分には改訂版であろうとなかろうとどっちでも良いのではないかと思われる。出版社が変わっているので、大人の事情的なものを感じる次第でございます。

 

 今回改めて読んでみて、さっそくいろいろと物を捨てたくなった。この衝動は抑え難く、読んでいる途中からソワソワし始めてしまって、半分くらい読んだところでどうにも我慢できずフットサル関係の衣類を結構捨てた。ときめかないものはどんどん捨てた。ついでにこまごましたものもかなり捨てた。その数45リットルのゴミ袋4袋分にもなった。ただ一点注意をするならば、物を捨てると気持ちが爽快になり、やがて「捨て魔」になってしまうことには気をつけた方がよい(もちろん「ステマ」に掛けたギャグだ!)。便秘が解消されるように、ゴミの日にパンパンに詰まった大量のゴミ袋を出したときの爽快感はやみつきになる魔力を秘めている。いずれはそれを自重するマインドも必要になってくる(この辺のことは第2巻に書かれている)。

 

 前回読破した時から身に付いた「ときめかないモノは所有しない」という感覚は今でも結構残っていて、基本的には私の部屋は綺麗である。まず物が増えることを極度に嫌がるようになる。そのため、余計な物をあまり買わなくなる(買うけど)。それと同時に、自分の意思とは関係ないところで物が増えそうな場面に遭遇すると(お土産をもらうとか参加記念品があるとか)、その場でそれを残すかどうか考えるようになる。お土産をあげる方としたらなんて嫌な奴なんだと思うことだろう。でもいらないんだからしょうがない(鬼畜)。

 

 基本的には、自分で選んで気に入って手に入れた物以外は邪魔になってくる

 

 そうした判断の中で暮らしていても、いざ片づけをしようと奮起すると上記のように捨てる物が結構出てくるものである。しかし、それはかつての状態とは比べたら微々たるもので、かつ、片づけをするのも全然億劫ではない。それくらい簡単に終わるし、何よりやっぱり物が減るのは快感なのである。その快感を知っているので、物を捨てることに抵抗がないのである。もらったその日に捨ててしまうお土産とかも正直あって、その辺は人としてどうかと思うのだが。だってときめかないんだもん(ぶりっこ風に)。

理想やゴールがないダイエットは沼である

 そんなわけで、「人生が変わった」というのは決して大袈裟ではない。事実として、まず部屋が綺麗になり、8年くらいそれをキープし続けている。時折クルマのパーツ等で部屋が埋め尽くされる場合もあるが(特殊か?)、決してそのまま放置しようと思うことはなく、すぐに片付けるわけにはいかない事情があろうと「どうにかして元の状態に戻すんだ!」という強い決意が常にある。

 

 そもそも、この「元の状態」というものが自分の中に生まれたこと自体が、人生の転換であったと考える。戻すべき状態があるからこそ、どれだけのモノを片付ければよいのかがわかるのである。

 こんまり先生(の本)に出会うまでは、それがなかった。「せめて床が見えるくらいに片付けたい」と漠然と思っていたくらいで、ではそのためには当然「いらない物を捨てる」という思考が必要なはずなのに、考えることは「どこにしまおうか」ばかりなのである。結果、収納のためのグッズやカラーボックスを買ってきて、またモノが増えるのであった。

 

 戻るべき「元の状態」がないから、片付けというと「収納グッズ」という物を増やして、ためらいなく部屋を膨張させてしまうのである。

 

 で。

 この「元の状態」というのは、「あるべき姿」とも言い換えられる。あるべき姿を作り上げることが「片づけ」なのかな、と個人的には思った次第である。

 

 そしてこれは、マジな話、片づけ以外のところでも思考に影響するようになった。たとえば仕事で利害関係が絡まり合って話し合いが紛糾しゴチャゴチャした感じになってきたときに、「本来の目的(意図)は何だったのか?」という点によく立ち返るようになった。あるいは「問題の源泉は何なのか?」ということを突っ込むようになった(そしてこれは結構嫌われる。なぜなら正論だから。言い方には気をつけなければならない)。

 

 つまり、物事を取り巻いているあらゆる付加的要素を取り除いていき、根本には何があるのかを考えるようになった。それこそ、目の前にある物を一つ一つ手に取って「ときめくか、ときめかないか」を確かめ選り分けていくかのように。このように書くとまるで私がいつも真実に辿り着くコナン君にでもなったかのような話に聞こえるが、もちろん実際はそうではない。そうではないが、少なくてもそうしようという意識が芽生えたということである。

 

 そんな私はもちろんiPhone派である。多機能が売りの高性能アンドロイド機ではなく、同じ値段で明らかに性能が低くやれることも少ないiPhoneに魅力を感じるのは、「余計なことはやらんでええ。このど素人が!」と言わんばかりのアップルのやり方にハマっているからであると思われる(ひどい言い草)。やれることを増やすのではなく、魅力的なモノだけを厳選する姿勢がiPhoneという形になっているのだ。アンドロイドだったらこんな苦労しないのにとよく思うのだが。パソコンからファイルを送ろうとするだけでなんでこんなに苦労しなきゃならんねんクソだなとWindows育ちの私はよく思います。プロキシで例外設定をするのにわざわざpacファイルを作成しなきゃならんなんて、Windowsパソコンに慣れ親しんでいると「うがーっ」と二つ折り携帯にしてやりたくなるほどのめんどくささであることよ。

 

 しかし、ただ機能を足していくだけだと、結局使わない機能が大量に出てくるだけだというのは携帯電話に限ったことではなく誰もが経験していることではないだろうか。それよりも精選された良い機能だけを提供してくれる方がユーザとしては明らかに楽なのである。iPhoneはそうした方向性を目指していて(最近はどうかな〜? と思うが)、片づけによる効能も実はこうしたことに近い。持っている物を把握できていて、しかも全てがお気に入りといういわばiPhone状態なのである(最近のiPhoneはどうかな〜? と思いつつ)。

 

 片づけをすると自然とやせるらしいが(こんまり談)、ダイエットでも結局は「理想の体型を実現する」という最も重要でありながら忘れられがちな点が抜けると、とても辛いものとなる。自分が理想とする体型が過去にあった人と、そういったイメージがもてないまま漠然と「痩せよう」という意識だけで取り組んでいる人とでは、やるべきことが具体的なイメージとして自分の中に湧くか湧かないかの違いが生まれるのではないだろうか。その違いが苦しさの度合いに直結すると思われる。

それでも言うことをきかない反抗期な私

 しかしだからといって、こんまり先生が述べるすべてのことをウェルカムで受け入れられているわけではなかったりする。事実、全てを実践しているわけでもない。
 
 例えば、靴下の収納の仕方の項で「ゴムを裏返してまとめていると、なんだか靴下が『苦しい』と言っているような気がしませんか?」みたいな言葉があるのだが
 
いや、しません
 
 と思う私は余裕でゴムを裏返して二枚をまとめて収納している。そして収納の中でコロコロしていていわゆる「可哀想な状態」となっている。
 これはこんまり流の靴下収納術である「二枚を重ね、丸めて立てる」というワザを実践してみてやっぱりやめた結果でもある。私の扱い方が雑なせいですぐにバラけてしまうのである。扱い方が雑なのがいけないんだともちろんわかっている。が、靴下を大切かつ丁寧に扱うことは私にとってものすごくストレスであることがよくわかったので、やめたのである。洗濯物を畳んでいざ持ち運ぼうとしたときに「簡単にバラけてんじゃねーよ!」とイライライライラしてしまうストレスを抱えるより、心穏やかに日々を過ごす方を選んだ(器が小さいだけ説)。
 
 靴下は一例であるが、基本的に衣服の畳み方は幼い頃からのやり方を変えていない。ただもちろん、「モノは立てて収納する」というこんまり流収納術は論理的な面で共感している。共感しているというか論理的な思考で「まあそりゃそうだろう」と思うので、こんまり先生と出会う前から実践していたことでもある。上に物を重ねると下の物が見えなくなるし取り出すのが億劫になるなんてのは摂理であるといえる。そしてその結果、下の方にあればあるほどその存在を忘れていってしまうのも「まあそりゃそうだろう」と「だって、人間だもの」レベルで思う次第である。
 
 そうしたことを、こんまり先生は最初に「下の服が苦しそうではありませんか?」という切り口から入るので、この点は賛否が分かれそうなところである。私はこんまり先生が好きなのでこんまり先生が言う分には全然OKなのだが、現実世界で特に親しくもない女の子からちょっと困り顔の笑顔で同じことを言われたらうざっ!きもっ! と思うと思う。いや、正直な話。
 
 この辺の話と同じ地平線上で、「家に『ただいま』と挨拶をする」「バッグの中身に『今日も支えてくれてありがとう』と声をかける」等といったアニミズム的な要素はまったく実践していないといってよい。私は「物が苦しそうだから」という理由で重ねないのではなく、立てて収納した方がただ単に見やすいし取り出しやすいからという理由で立てている。私の中の理念としては、トヨタ生産方式の「手間が増えることを嫌う」ということの方がかなり近い。
 
 ただ、物を大切に扱うことはその性能を最大限に引き出すことに繋がるとは考えている。いろいろ話しかけちゃうのはその延長線上にあることなのかな〜と思ったりらじばんだり。極めると話しかけたくなってしまうものなのかもしれない。私もそのうち記念メダルに話しかける日が来るのかもしれない
 
 私は正直、この乙女チックな感性のところで合わない点が多かったのだが、そこはまあ重要じゃないかな〜と割り切っている。それよりも大切なことを教えられたと思うのである。
 

ときめきメモリアル(まとめ)

 多分に我流なところが含まれてはいるもののこんまり流片づけ術を実践して実感したのは、「捨てるのが終わった時点で9割5分は片付けが完了している」ということである。「捨てられたのに収納はできない」なんて人はいないのではなかろうか。
 収納方法なんかに凝らなくても全然収まるくらいの物量になるので、自然と単純でシンプルな収納法に行き着くと思う(収納はシンプルで良いとは本著内でも述べられている)。で、その捨て方における基準——すなわちときめくかどうかという方法を授けてくれたことが本著ひいてはこんまり先生の最も大きな功績であると考える。
 
 本著内でも言及されているが、一般的な整理整頓のハウツーでは「2週間使わなかったら捨てる」とか「1年間着なかった衣類は捨てる」等の「合理的な基準」をもって捨て方を指南する。ただこの決め方であると感情がないがしろにされているところがある。そして人間という生き物は、感情をおろそかにすると結構面倒臭いことになるのではないかと危惧する。
 
 たとえば上記の例でいえば、「1年と3ヶ月後に突然必要になった!」みたいな場面に遭遇すると(実は実際にたまにある)、「あの基準間違ってるじゃん!」と基準そのものにケチをつけたくなる。これはある意味では「人が決めたこと」に従っている部分が大きいからである。
 
 一方で、「ときめくかときめかないか」という超乙女チックで曖昧な基準で判断することは、自分で判断することを余儀なくされる。これは感情の上では非常に大きい。たとえ後悔することがあっても、自分で決めたんだからしょうがないという帰結となる。「何でもかんでも人のせいにする人はそうやったって絶対人のせいにする」と思うかもしれないが、捨てるか捨てないか(ときめくかときめかないか)の判断を繰り返すうちに、自然と自分の判断に責任をもつマインドが育っていく——というのは本著内でこんまり先生が述べていたことなのだが、本当にそうだなと思う次第なのである。人のせいにする人は、自分で判断せず人に決断を委ねるクセが大なり小なり染み付いているところがあるのではなかろうか(「ねえ、どうする?」とか聞く感じのやつ)。
 
 そういう意味でも、こんまり流片づけ術は私の人生を変えた。
 収納方法とかは結構どうでもよくて(ひどい言い草)、こんまり流の捨て技術をとおして私は変わったのである。自分でさっさと決断を下せるようになったと思う。たまにそのスピードが合わなくて人から嫌がられたりすることもあるが。
 
 人生がときめくものになったのかどうかは定かではないのだが、間違いなくいえることは、この「自分の変革」と、何より家でいろいろなことができるようになったということである。散らかっているときは、家で何かをする気になれなかったからね〜。ぼーっとテレビを観ながらいつの間にか寝る、みたいな。
 
 このようなわけで、こんまり先生は私の人生の恩師なのである。なんだか今いろいろと炎上しているようであるが、私はこんまり先生のオンラインショップではなにも購入することはないだろうが、これからもずっと活躍してほしいことは真に思っている。
 
↓出会った頃はお互い独身でしたが、お互い歳をとりました(何目線?)。

 

今まで観た映画

★★★☆☆

 私の「フェミニズム」、という話。

 きちんと言い切っているところ、田嶋陽子LOVE。

 

たけしのTVタックルをいま見返すと

 田嶋陽子を知る人の多くは、「たけしのTVタックル」という番組で知った人が多いのではないだろうか(逆にいうと、現在の20代までの若者は田嶋陽子のことを知らないのでは)。「TVタックル」の印象で田嶋陽子について思い浮かぶのは、「おじさんたちにギャーギャーかみつく」「人の話を聞かない」「しかめっ面」そして奇譚なきことを言わせてもらえば「ブサイク」であるのではなかろうか。
 
 「フェミニズム」についてあまり深く勉強していない私のようなものにとっては、「フェミニズム」は田嶋陽子が発祥であるといえる。もっといえば「フェミニズム」=「田嶋陽子」ですらある。だから——上記の条件をふまえ——「フェミニズム」と聞くと「モテない女が何でも男の優遇に噛みついて屁理屈こねている。そんなに男女差別に噛みつくならそこら中の店が実施している『女性プラン』という女の優遇にも文句言えよ」というイメージを抱く。
 
 しかしながら、現在の価値観というか、世の中のコンプライアンスの意識の高まりをもって「TVタックル」全盛の動画を見直すと(YouTubeにいっぱいあるけど、違法アップロードっぽいから観たい人は自分で検索して観て)、舛添やらハマコーやらの田嶋陽子に対する発言はマジでセクハラだし、恫喝とも取れるような罵声や物言いでパワハラだし、おじさんたちの方が理屈vs理屈の勝負ではなく「女(そしてブス)は黙ってろ」みたいな意識のもとでめちゃくちゃなことを言っていて、田嶋陽子はそれに怯まず応戦しているという構図であることがわかる。
 おっさんたちが失礼な物言いをしてくるもんで(言い方含め)、応戦する田嶋陽子も強い口調となり、そのときの歪んだ顔をカメラに切り抜かれ、ダイジェストのようにまとめ編集され、あのしかめっ面で吠える田嶋陽子が出来上がっているのである。
 
 そしてまったくの余談であるが、たけしも最後にまるで全知全能の神のように静かに場の議論を総括し分かったようなことを言っているが、結構浅〜いことしか言っていなかったことがよくわかる。
 
 SNSや個人メディアの発達によって近年取り沙汰されるようになった「メディアの悪意」のようなものを非常に感じる次第である。田嶋陽子のしかめっ面は、メディアの切り取りと編集によって作られたイメージである面が少なからずあるのではないかと思う。ついでにいえば、たけしの「良識ある人間感」もね〜(飲酒運転に不倫に出版社襲撃首謀者)。
 

家事は賃金換算したらいくらなのか

 実際の田嶋陽子は、まず、非常に情熱的な恋愛をしていることが本著の中で語られている。「モテない理屈っぽいブス」というイメージとはかけ離れた、非常に人間味溢れる恋愛をしている。恋で悩んだり、何なら好きであるがゆえに男に振り回されたりしている。バツイチ子持ちの外国人男と付き合って。
 
 前述したような「フェミニズム」のイメージでもって田嶋陽子を見ていると、そのギャップに異様にかわいく感じてしまう次第である。田嶋先生も男に振り回されたり恋に悩んだりすることがあるのかと。
 世の中の「フェミニズム」のイメージでは、極論をいえば「男なんかいらない」みたいな女性が声高に「フェミニ、フェミニ( *`ω´)」と唱えるイメージがあるように思うので、そうではないということを暗に言っているのかもしれない。
 
 田嶋陽子が語る「フェミニズム」とは——単純な話でそりゃそうだろうということなのだが——要するに「男女同権」ということである。ただここで「じゃあ、『女性プラン』とか『レディースデイ』にも文句を言えよ! 男差別じゃないか‼︎」という話を持ち出すのとは次元が違う「男女同権」なのである。田嶋陽子は恐らく「男性プラン」があろうと「メンズデイ」があろうと一切文句を言わないだろうし、自分の彼氏がそういった割引サービスを活用してもまったく気にしないと思う。たぶんだけど。
 
 田嶋陽子が本著の中で語るのは、「社会の構造的に女性の労働を搾取する仕組みがある」という話である。その最たるものが「家事労働」である、と。
 
 この点については、単純に考えても「そりゃそうだろうな」とおっさんの私も是非もなく納得するところであるのだが、単純な話ではなくかなり詳しく書かれているので、以下拾い切れていないかもしれない。
 
 まず、世の中には「家事は基本的に女性の仕事」という前提があることの問題を指摘する。この問題は根深く、男が大なり小なりそう考えているというだけでなく、女もその前提を意識・無意識に関わらず受け入れているところに問題があるという。
 
 「お互いが良けりゃそれでいいじゃん」という話になってしまいそうなのだが、問題は結婚した(あるいは一緒に暮らす)個人的な男女間だけの問題に留まらず、そうした概念が社会における男女の格差にも影響を与えているという点がいかん! と田島先生は怒っているのである。
 
 つまり「私は家事が好きだから全然いい。働きたくないし」という女性がいたとして、そう言ってるんだからそれでいいじゃん——というミニマムな話なのではなく、「『家事労働』は女の仕事」という社会通念があるせいで、会社の労働現場にしても、その他のあらゆる社会上の場面においても「男が主役で女はサポート」みたいな構造を自然と作り上げてしまっている、ということを言っているのである。
 
 で、そうなってしまう最大の問題点が「家事労働」が無賃労働だから、だというのである。無賃労働——つまり、価値が低いという潜在意識を植え付ける。「お金には換えられない尊い行為」という考え方は、いわゆる「やりがいの搾取」であるということをいっている(たぶん)。それこそが「愛という名の支配」なのだ! と。
 
 「大切な人(夫だけに限らず、子供も含めて)のために尽くしたい」という気持ちを利用して、あるいは従事者自身が自分を納得させて、女を「家事労働」というタダ働きにせっせと勤しませる構造がある。そして、そうした構造が巡り巡って結局は社会全体にはびこり、女性の社会における地位を低くしている。つまり、「お茶汲みとかコピー等の雑用は女の仕事」というのが当たり前にまかり通っているのは、結局は「家事労働は女のタダ働きが当然」というところが出発点なっているという問題提起である。
 
 これはむしろ専業主婦等のまさに「家事労働を無償でおこなってきた人たち」からこそ反発を受けそうな理屈である。なぜなら、自分が従事していきたことを否定する理屈でもあるからだ。
 家族のために尽くし、家事に従事することを誇りに思っている人ほど受け入れられないだろう。「あなたみたいな人がいるから、女の社会的地位が低いままなんだよ」と田島先生にしかめっ面で怒られているようなものである。
 
 でもね。
 
 
 やっぱりそうなのかな、と男の私も思ってしまう話であったりする。
 
 
 たとえば、私はもう30半ばを過ぎたおっさんで社会人経験も余裕で10年を超えるわけだが、他社を訪問した際に男性からお茶を出されたことは一度として、ない。この「お茶を出すのは女性の仕事」という日常で気に留めないような概念の源流を探っていくと、「家事は女の仕事で無賃労働」という社会通念に行き当たるような気がするのである。
 例えば、「お茶汲み、一回500円」となったら、男もこぞってやりたがるかもしれないとも思うし、「お茶汲みだって立派な仕事」として認識されるかもしれない。職場における無賃労働の家事的雑用も、家庭と同じように、自然と女性の方に流れてゆくのは根底には女性の無賃労働(家事)を土台とした社会の構造があるのではないだろうか。そしてそれを女性側も受け入れてしまっているかぎり、女性が土台を支え(サポート)、男が活躍する(主役)という社会構造は変わらないわけである。
 
 女性が主役が活躍する舞台に躍り出るには、スーパーな力が必要となる。事実、現在の社会はそうなっているじゃないか、と述べる田島先生なのである。その「スーパーな力」とは具体的には「家事労働」+「男と同等の仕事力」というわけで、男と同じ舞台に立つだけでも、男より余計な力が必要となるということを問題視している。

くどい

 本著の欠点は、「同じことを延々と繰り返し述べている」という点に尽きる。途中までは非常に面白いのだが、だんだん読むのがしんどく重くなっていく。食傷気味となる。
 
 本著の構成は、この「女は男と同じ舞台に上がるだけで相当な努力と男以上の労力が必要な上、当然上がってからが本当の戦いとなるという点で、不利であるし搾取されている。」ということを述べるためのエピソードや例え話が何度も繰り返されるものとなっている。怒りにふるえて文句を言う人は同じことを何度も述べる傾向にあるものだが、まさにそれに通ずるくどさを感じざるを得ない。田島先生は怒っているのである。きっと。

我が身を省みて

 現代では、例えば子育てに関していえば、すべてを奥さんに丸投げしようなどと思っている男の方が少数派であると考える。多くの男性諸君は自分も子育てに参加したいと思っているだろうし、奥さんのことを出来る限りサポートしたいと考えているだろう(実際にできているかは別として)。
 
 家事全般についても、少なくない男性諸君が、自分にできることがあればなるべくサポートしようと考えているだろう(できているかは別として)。そして日常の家事において夫側に決められた家事が割り振られていてそれをきちんと遂行していれば、妻からは「うちの旦那さんはちゃんと家事をやってくれる優しい人なんです」とのろけてもらえることだろう。
 
 上記の点は少なくても昭和における日本と比べれば(男も家事をすべきであるという価値観においては)格段に進歩した点であろうし、喜ばしいことであるといえる。
 
 しかしながら、いずれの場合も結局は男はお手伝いで、女が家事の主役という構図であり、田嶋陽子はこの構図が根付いている点を問題視しているわけである(私もくどい?)。男女平等だというのなら別にこの構図が逆だって良いわけだし、もっと厳格に分担できるものでもあるのではなかろうか、と。この構図があるから社会においても女性の役割が〜……というのは前項までで述べてきたことなので省略。
 
 個人的には、会社内の仕事に置き換えて考えてみると、厳格に半々に役割を分担することは意見衝突が頻発することが予想されるので(どちらかに偏りがいった瞬間すぐ衝突する)、不公平感が一切ないように家事の役割分担をすることは不可能ではないかと考えている。
 しかしながら、じゃあ主導するのが男であってもよいじゃないかという意見には、反論する術をもたない。
 
 田嶋陽子の価値観でいえば、「男が家事を主導する家庭と女が家事を主導する家庭が平均すれば半々になる」という世の中になれば、恐らく文句はないのではないだろうか。そういう世の中になれば、お茶出しをする人も男であったり女であったり、性別が固定されることもなくなるんじゃないのという話なのである。たぶん。
 
 こうした「役割分担」の話をすると、恐らく「男は外で稼いできて、女は家のことをやる。それが役割分担だ」と述べる人が出てくるだろうことは容易に想像できる。特に奥さんが専業主婦であるなら、きっと大なり小なりこのような考えをもっている男性諸君は少なくないと予想する。
 
 しかしね。
 
 食わせてもらうことだけを条件に無賃労働に従事させられるなら、それは奴隷と一緒なんですよという田嶋陽子の言葉に、私はハッと目が覚まされた想いなのである。ああ、確かにそうだな、と。食うものだけを保証されてタダ働きさせられる存在といえば、奴隷だな、と。
 
 ただ一点、個人的に決定的に難しいなと考えることは、子供を産むことは女性にしかできないという点である。「だから子育ての中心を担うのは女であるのが当然」なんてことは思わないのだが、女性の心理としては「産んだ自分が中心となって子育てをしたい」と思うじゃないかな〜と考える。そういう意味では、「産む以外のことは男も全部できるじゃん」という正論は、正論ではあるが、実際の問題とは微妙にズレがあるような気がするのである。極端な話、じゃあ夫が産む以外のことを全部主導しようとしたら、女性は嫌な気持ちにならないのだろうか。それこそ家事と違って「オムツ交換はあなたで、ミルク(母乳)をあげるのは私ね」なんて厳格な線引きはきっと不可能で、主導する者が手が回らないとき(あるいは、こと)にそれを補う形でサポートするという流れにどうしたってなるのではないだろうか。
 
 田嶋陽子の話を飛躍させれば、他ならぬ女性自身が当然のように子育ての中心を担うのは自分だという意識をもっていることが現代社会のよくないところであるといえるのかもしれないが、そうした理屈を超えて、やはり「妊娠」「出産」というのは神秘的なもので、母となる女性もやはり神秘的な存在なのではないだろうか。というか単純に、私は男というか汚らしいおっさんであるのだが、もし自分が我が子を出産したならば、やはり自分が主導して子育てをしたいなぁと考えるような気がするのである。産んでもねーし産めるわけもねー奴が想像だけで言っているのだが。
 だって、自分が産んだんだもの。自分の体の中から、10カ月間の苦労と慈しみと、そして出産の苦しみの果てに。
 
 では、私のこうした考えがもしもそんなに的外れなものではないとしたら、男はやっぱり「じゃあ家事は全部僕がやるね!」的な勢いでやることこそが、本当は「共に子育てをする」ということなのではないかと思うのである。個人的には。
 逆にいえば、オムツ交換やミルクをあげることだけを手伝っていても、共に子育てをしているというレベルには全然達していないような気がするのである。
 
 そういうことよりも、奥さんのご飯を毎食作ってあげられたら、かなり子育てに貢献していることになるのではなかろうか。奥さんの負担を減らす→結果的に子供のためになる、というかなり間接的なことのように見えるが、子育ての中心にいる人のサポートをすることこそが共に歩む子育てであるような気がするのである。もっといえば、奥さんのご飯を作ってあげられる男は、恐らくオムツ交換もミルクを飲ませることも自然と余裕でやると思う
 
 で、それが私にできるかというとですね、ぶっちゃけ自信なしなわけですよ。はい。いや、今の私の意識では無理でしょうな。ことあるごとに「自炊なんて全然安くねーじゃん。まともに肉と野菜買ったら弁当買うより高くつくじゃん」とうそぶいて、信念として自炊をしない人間であるし。
 
 だから結局、今のままでは私も「愛という名の支配」のもと、パートナーを家事労働という無賃労働に従事させて、時折ちょっとだけ手伝っては「俺ってやってる感」を味わう小さい人間に成り下がってしまうことだろう。願わくば、そうではない人間になりたいものでもある。しかし炊事だけは費用対効果が低いという点で、どうしてもやりたくないのよね〜(終わってる感溢れる文章)。
 
 不公平感を「愛」という美しいものでうやむやにしている世の中がさらに変わっていくことを願わずにはいられない田嶋陽子LOVE。
 
↓女が船底でオールを漕いで、男はその推進力で動く船の甲板で活躍しているのが現代の社会の構図だ! と何回も述べる田嶋陽子怒りの著書。男の仕事上の頑張りは、女の無賃労働(家事)の上にあぐらをかいて成り立っているものでしょということの比喩である。確かに、女性でバリバリ活躍している方は、あんなに職場で躍動しているのに、帰ったら家族の分までバリバリ家事をこなしているのよね……

今まで観た映画

★★★★☆

 でも政権交代してもなぁ……、という話。

 未来を知る者のモヤモヤあり。

 

スピーチが世の中を動かすって怖くない?

 本著の内容は「スピーチ」である。
 主人公(♀)が、幼なじみの結婚式で「伝説のスピーチライター(♀)」と出会い、弟子入りし、スピーチへの造詣を深めていくにつれ民衆心理を学んでいく話である。ストーリーの感想については後ほど言及するが、本著は大きく前半と後半にくっきり明確に分かれる構成となっており、「前半はすげー面白かったけれど、後半はなぁ……」と後半に進むにつれてフクザツな心境になった読者が多いのではないかと予想する。特に現在読むとねぇ……。
 
 私はキャラクター的に、割とスピーチやらプレゼンやら司会やらを依頼される傾向が多い人間であると思われる。文章を書くときでもプレゼンをするときでもスピーチをするときでも、私が心掛けるのは必ずウケを狙うということなのだが、文章を書くことでもプレゼンをすることでもスピーチをすることでも、「笑いは必要ない」と言われがちである。モノの本に書いてあるのだからそれはきっとそうなのだが、それだとやってて面白くないじゃんと思うのである。
 
 ウケを狙うことこそ我が人生であるとさえ言える。
 
 私はいついかなるときでもウケを狙っている。だから、文章を書くにしてもプレゼンをするにしてもスピーチをするにしても、私に撮ってそれらは全てウケるために用意された舞台でしかないのである。
 
 何が言いたいかというと、そんな私からすると、本著の中で書かれている「スピーチのコツ」みたいなポイントには、私と相容れないところもまたあったなぁということである。特に本著1ページ目にある「スピーチの極意 十箇条」は、なるほどなるほどと深く肯く一方、まじめやなぁ(´・Д・)」と思うところもありまして。マジで感動させることを狙ってるんだなぁとちょっと私とはちょっとソリが合わない美人な異性と接したときのような心持ちになりましたとさ(伝わらないたとえ)。
 
 本著の中で再三語られるのが、「スピーチで、世の中を変える」的な話である。これだけ聞くと誇大妄想的なフィクションに感じるだろうが、劇中では様々な「なるほど」があり、そういうこともあるかもしれない——いや、そういうものかもしれない環境大臣とか、と思ってくる。
 
 劇中ではもちろんそれを肯定的に受け止めているからこそ主人公の成長や悲喜交交な対決があるわけだが、要するに言いようで物事は動くってことじゃね? という話なわけで。それってめっちゃ怖いな、と素直に思った次第である。環境大臣の発言がいつでもセンセーショナルな報道をされ、世の中が少なからずそれに影響を受けている現状を目の当たりにしている現在、こえーなーと。
 
 だって、スピーチライターが善人とは限らんじゃん
 
 いや、政治の世界の話に限っていえば、そりゃ、スピーチライターの思惑なんかでは動かせない部分があるとは思うけれども(凄腕ならば自分の悪意を組み込めそうとも思う)。
 この物語は要するに、「話のうまい奴は他人を自在に動かせる」という話でもあるわけである。某メンタリスト的な
 
 私はいま、ネット上の情報商材関係の詐欺的行為に関心があり、その「界隈」のことをなんとなく調べる日々であるのだが、誰とは言わないが自称カリスマ○○みたいな奴がYouTube上でオーディエンスを引きつける講演の様子を撮影した動画やプレゼンよろしくな巧みな話術で視聴者の気持ちを煽る動画でnote等での情報商材を購入するよう誘導するようなやり口を見ていると、「巧みなスピーチは毒にもなり得るものだ」ということを感じざるを得ない。
 
 本著は「スピーチの力で世界を変える」ということを肯定的に捉え、熱い物語なのだが、実際には変えた結果世の中が良くなるとは限らないということは現実世界の実際の政権交代によってある意味示されているわけで。
 
 本著が刊行された当時すぐに読んでいたらまた違った印象だったのだろうが、2020年現在で読むと、世の中を動かそうとする主人公たちのひたむきさが「なんだかなぁ……」と素直に見られなくなってしまっている。非常に残念なことである。

政治の話になるまでは面白かったなぁ

 もうすでにある程度ネタバレしているが、本著の前半は主人公が師匠との出会いにより鍛え抜いたスピーチ力をきっかけとして、自分の勤めるお菓子メーカーのプロジェクトに大抜擢されるという話である。で、てっきりそのプロジェクトに右往左往しながら更なる成長を遂げていく話になるのかと思いきや、後半に突入するといきなり政治の世界に足をつっこむ話にメタモルフォーゼする。いや、まじなんじゃそりゃなのである。
 
 もちろん、作者の原田マハが描きたかったのは、この後半の物語であろう。劇中及び執筆当時の時はちょうどオバマ政権誕生のときと重なる。そして日本は五十五年体制が終わり、民主党政権が誕生した頃である。これらの新しい時代の訪れを、本著は「スピーチ」という観点から描いた作品なのである(劇中では民主党ではなく「民衆党」であるが)。
 
 ただ、私が読みたかったのはそっちではないのであった。
 
 私は、一企業の中の平凡な一社員でしかない主人公が、他の人間とは違うアプローチ、違う力で困難に挑戦し成長していく物語の方が読みたかったなぁというのが素直な感想である。そして本当に、中盤まではその盛り上がりがあったのである。それが突然、あれよあれよという間に話が政治の方向に転がっていってしまい、「あれぇ?」となるのである。なんか話が違くね? こんなはずでは……、と。
 
 フィクションに政治的思想が絡むと、興醒めする。言論統制時代の近代作家の作品とか(個人的な話です)。
 
 ただ、作者の筆力が非常に高いので、それでも面白く読めてしまう魅力が本著にはある。だから本著がおすすめかそうでないかと問われれば、一読の価値ありという回答になろう。
 
 ただ……ただ、この筆力をもって、「平凡なOLがスピーチの力で会社の中で新たな道を切り拓いていく」という、そういう個人スケールの話を描いて欲しかったなぁと何度も何度も書いてしまうほどに思うのであった。ああ、残念。。。。

広告代理店戦争

 本著には、「電通」と「博報堂」という日本の二大広告代理店をモデルとした会社が、結構そのまんまな名前で出てくる。広告代理店が日本の選挙の参謀を務めているという点で、このことは結構重要であったりする。「自民党」と「民主党」をモデルにした政党も結構そのまんまな名前であることもあり、この辺、リアリティがかなりある。自民党と民主党の戦いは、電通と博報堂の戦いでもあるのである。
 
 そういう観点で読むと、世界がまた広がるかもしれない。特に選挙に無関心な人は、そういった目線で選挙を見られるようになると、各候補のメディアでの表現のされ方も含めて、いろいろと面白く見られるようになるのではなかろうか。
 この街頭演説の背後にはどんな人がいるのだろうか——とか、メディアに切り取られて何回も繰り返し流れるこの部分のパワーワードは何なのか——とか。
 
 「世界が広がる」という本の力、読書の魅力という要素がふんだんに込められているのが、原田マハの職業小説の最大の魅力であると個人的には考えている。
 お堅い政治の話をフィクションの力で柔らかく、優しく理解させてくれるのはとても良いね!
 ただ、そんなに善人じゃないだろ政治家とはかなり思うのだが。「民衆党」の党首が、ファンタジー小説に出てくる善意の塊のようなアホみたいな王様を彷彿とさせるほどの善人で、ちょっとそこはなんだかなーである。
 
 そして、テレビ業界では「電通の批判をしたら二度とテレビに映ることはない」という黒い噂があるので、作者の原田マハがテレビに登場することは二度とないかもしれないという超余計なお世話なことを心配したりしなかったりらじばんだり。電通の敗北をそれとなく描く物語でもあるので〜。

本著の魅力は

 この本の最大の素晴らしい点は、「名スピーチを描くことから逃げなかったこと」である。
 
 人の心を動かすスピーチ、「言葉で世界を変える」というスピーチがテーマの物語であるなかで、そんな大それたことをぶち上げたら普通「そんなスピーチ、書けなくね?」みたいにごまかしそうなところであるのだが(スピーチをした部分は場面転換でごっそり省略する、とか)、本著ではスピーチの内容をきちんと書いている。「言葉で世界を変える」ということに挑戦するスピーチを。
 
 読んでみると、正直にいえばこれはそんなに良いスピーチなのか? と思わなくもないものもあるのだが、そう感じるものでも、力のある人が然るべき場所で読み上げれば、もしかしたら感動するのかもしれない。
 
 名スピーチライターという肩書をもつ自らが生んだ登場人物が作り上げる「名スピーチ」を、逃げることなく描ききったその姿勢には脱帽である。
 
 政権交代のほとぼりが冷めた今なら本著はドラマ化されそうな話だな〜と感じた。が、前述のように電通の敗北を暗に描いているので、まあテレビでのドラマ化は無理かもしれませんな〜
 
↓なんやかんやと書きましたが、とてもおすすめです。

今まで観た映画

★★★★★

 反省させると犯罪者になります、という話。まんまやんけ。

加害者視点に立つ

 本著に興味をもったきっかけは、2019年に話題沸騰となった「教員いじめ」問題である。羽交い絞めにして笑いながら激辛カレーを食べさせていたアレである。
 
 神戸市立東須磨小学校の教師いじめ問題で話題となったことの一つに、加害者達による謝罪コメントの出来の悪さがある(リンク先参照)。特に首謀者とされる40代女性教員のコメントはここまでくると逆にギャグなのではないかというツッコミを禁じ得ないくらいヤヴァイものである(もっとも、反省文ではなく、教育委員会が事情聴取の中で聞いた言葉を拾って発表したものだとという話もある。事情聴取でこんなこと言っていることも問題だが)。
 
 また職業が「教員」という立場であるだけに、この謝罪コメントというか反省文の出来の悪さが一際目を引いた感がある。つまり、普段「反省文を書かせる立場」であるくせに、あまりにも「悪いお手本」として立派な反省文となっているため、ギャグと化しているのである。書かせる立場の奴がいざ自分で書いたらこれかよw みたいな。
 
 加害者4人の反省コメントは当然のことながら世間から猛バッシングを受けた。何なら、こんんなコメントを保護者会で平気で代読した教育委員会の悪意すら感じられるくらいである。4人に制裁を加える意味合いでわざわざ読み上げたとしか思えないような火にガソリン的なものであった。逆に、こんなに批判を浴びるとは思っていなかったとしたら、教育委員会にも問題があることになる。そんなバカなね〜ねえ?
 
 しかしながら、視点を変えて見ると、加害教員達は、自分たちの反省コメントが、本当に、心の底から、なぜ非難されているのかわからない、こんなにも批判されるとは思いもしなかったと思っているかもしれないということが見えてくる。
 
 それが、本著の中の最重要キーワード「加害者視点に立つ」ということである。
 
 加害教員たちの視点に立ってみると、彼らは今、人生最大のピンチに立っているといえる。つまり、今後も教員として生きていけるかどうかの瀬戸際に立っており、彼らは当然、今後も教員を続けいていく気マンマンなのである。教員という職を失うことだけは何としてでも避けたいと思っていることだろう。学校の先生が今更サラリーマンになって人にペコペコできるとも思えんし
 
 だからこそ、許しを乞うべき相手を簡単に間違えているのである。
 
 加害者の立場で身の保全を考えるなら、許しを乞う相手は、被害教員ではなく、自分の職場復帰が許されるかどうかのカギとなる相手だということになる。つまり、保護者と、職場の同僚たち(ついでにいえば児童も)の理解が必要だということになる。さらにいえば、謝罪コメントからは、被害教員のことをいまだ軽く見ていることがよくわかる。謝罪の相手は被害教員というよりも、被害教員の家族に当てている気色がかなり強い。被害教員からの直接の反撃ではなく、その家族からの意趣返し(つまり職場に復帰できない)を警戒している様子がありありと伺える。恐らく被害教員の家族からの訴えの方が加害者に届いているからであろう。
 
 結論めいたことを言ってしまえば、加害教員たちは反省などしていないのである。それはテレビでもネットでも散々言い尽くされていることなので改めてここで糾弾するようなことはしないが、ここで問題としたいのは、人間心理として実はそれは当然のことなのではないかという点である。
 
 そしてそれこそが本著の最大の要旨であるといえる。

反省は、いつできるのか?

 被害者のことまで考えられるのは、ずっと先のことなのです。
 
 と、筆者は述べる。
 少年院経験者に「迷惑をかけた人リスト」を作成させると、上位に挙げられるのは「両親」や「友人」であった——つまり、「被害者」よりも上位に自分にとっての親しい人が挙げられているという研究結果を紹介している。
 
 このことはすなわち、加害者はまず自分のことを考えてしまうということを意味している。そして(たとえそれが許されないことだとしても)それが人間心理としては当然の流れであると筆者は指摘するのである。
 
 たとえ悪いことをしたという自覚があったとしても、このことによっては自分のこれからの人生が左右されるわけなのだから、自分の刑が少しでも軽くなることや、どのようなことを話せば印象が良くなるかといったことを常に考え、自分の人生を中心にした視点に立ってしまう。
 
 だから反省コメントは、被害教員に向けてというよりも、周囲の理解を得るための自己弁護というテイが強くなってしまっている。許して欲しい相手は被害教員ではなく、自分の周囲の人間と自分を糾弾する世間なのである。
 
 特に中心人物であったとされる女性教員のコメントは、ハタから見れば「たとえ思っていたとしても言うだけ損」だと簡単にわかるような言葉を挟まずにはいられなかったことがうかがえる。自分の視点にしか立てないからこそ、「自分の気持ちもわかってほしい」という想いが噴出した形となっている。
 
 ただ前述のように、加害者が自分を中心とした視点に立ってしまうのは、ある意味当然なのである。逆に言えば、自分が人生最大のピンチに立っているにも関わらず「被害者の気持ちになる」ことは、容易なことではないのである。筆者は「被害者の心情を考えさせることは逆効果」であるとさえ言う。
 
 なぜならば、加害者は被害者に対して不満をもっている場合がある、という厳然たる事実があるからである。さすがに自分が悪いことをしたという自覚をもっている者はそれを口にすることはないが(首謀者の女性教員は口にしているようなものだが)、たとえばもしも「反省文」を本当に素直な気持ちで、誰にも見せず絶対にバッシングしないという庇護のもとで書かせたならば、「あなたがこうでさえなければ、自分もこんなことはしなかった」「あなたにも悪いところがあった。なのに、なぜ自分だけこのような目に遭わなければいけないのか」という文言が出てくるだろうことは容易に想像できる。加害者が現状に苦しんでいるならば尚更である。いま受けている自分の苦しみを当然の報いとして全面的に受け入れられる者ならば、そもそも問題となるようなことなどしていないだろうという話である。
 
 そうした状況であるにも関わらず「被害者の気持ちを考えさせる」ことは、加害者の視点に立ってみれば、相当過酷なことであるといえる。(手前勝手な理屈であるが)自分を苦しめている元凶の気持ちに寄り添うなどということは、不可能に近い。
 
 恐らく、加害教員たちの頭の中を最大に占めているものは、「早くほとぼりが冷めないだろうか」ということである。世間からのバッシングや、ある意味では社会的制裁のように受けるマスコミ等からの執拗な取材で、彼らを追い詰めれば追い詰めるほど、実は反省からは遠のいていく。自分の辛い毎日にだけ目がゆき、被害教員の苦しみを考える余地はますますなくなる(元から考える気もないと思うが)。頭の中は「どうして自分がこんな目に……」でいっぱいであろうことは容易に想像できる。
 
 そしてまたいわゆる「世間」も、そもそも彼らの反省など求めていないのではないかと考える。世間が求めていることは、それこそ社会的制裁のみであって、彼らの反省や改心など1ミリも求めていないだろう。つまり、彼らが苦しむ状況こそが、「世間」を満足させる唯一のものだとさえいえるかもしれない。
 
 許してもらうために謝るのか。
 自分が悪いから謝るのか。
 
 この二つにはグランドキャニオンよりも深く、遠い溝がある。しかしながら、今回の東須磨小のことに限らず、多くの者は、まず前者のために謝罪してしまうところがある。
 
 本来許すか許さないかは、相手の問題であって、謝罪する側が関与することはできないものである。だから当然、そこには「許さない」という選択肢があって然るべきであるのに、私たちは往々にして「謝っているのに、許してもらえない」という事態には非常に強い不満を抱いてしまう。自分が悪いと自分で言っているにも関わらず、である。
 
 そうした不満の根底にある不満——被害者に対する不満を吐き出させることから、真の「反省」は始まると筆者は述べる。加害者に被害者のことを考えさせるには、まず加害者自身の気持ちを受け止めてあげなければないないというのである。そしてそこには必ず、加害者の生育歴が関係してくる——平たくいえば「親との問題」が必ず浮かび上がってくる、というのが筆者の考えである。一見遠回りのようだが、まず加害者が心に中に抱える問題を支援者が受け止めた後に、ようやく被害者のことを考えられるようになるというのが、筆者の結論である。
 
 つまり、真の「反省」とは、最後にやってくるものなのである。自分のことの後に、ようやく相手のことがあるのである。「自分の心の痛みに気づくことから真の反省が始まる」と筆者は述べる。
 
 それを形ばかりの「反省文」で早急に「反省」を求めるからこそ、加害者は結局被害者のことを何も考えられずに終わってしまう——何も「反省」できずに終わり、また同じことを繰り返してしまう、と筆者は警鐘を鳴らしているのが本著の主旨である。
 
 ただし、最大の問題は別にあると私は考える。

自分が被害者になったら、加害者の支援ができないのは当然のことである

  すでに述べたが、最大の問題、というか争点は、恐らく「世間」は別に加害教員たちの反省など求めていないという点であろう。求めているのは「制裁」であって、溜飲が下がる結果のみを欲しているといえる。何を隠そう、私もそうである。そうでなければ、何より被害教員の男性が浮かばれないのではないかとさえ思う。少なくても、被害教員よりも幸せな人生を今後送ることは絶対に許せないと心情的に思っている。
 
 しかしながら、現実問題として、筆者のように「加害者を支援する立場」の人も存在する。そしてそういった人たちは、決して犯罪を是としているのではなく、むしろ犯罪を減らしたいと思うからこそ加害者を支援しているでのある。つまり、「再犯」をさせないように
 
 私も上記の偽らざる想いがある一方で、もしも加害教員たちが社会復帰したとしても、少なくても今回のことで良い方向に人格が変わることはないのではないかと思っている。つまり、似たようなことをまたやるだろうな、と。形を変え、相手を変え、より問題とされないような工夫を施すだろうが、また似たようなことをやるだろうというのは、誰もが容易に想像できることである。
 
 「なぜ彼らはこのようなことをしてしまったのか」という問題の背景を、加害教員たちの心に寄り添い、問題行動に至るまでの道程を一緒に考えてくる支援者がいない限り、彼らは自分の力でその要因に行き当たることはないので、また同じことを繰り返すだろう。彼らが同じことを繰り返すということは、被害者がまた生まれるということである。今回の「反省」を生かし、より巧妙化された暴力のもとで。
 
 筆者は、昨今の厳罰化の傾向にはっきりと「反対です」と述べている。しかし同時に、こうも続けいている。
 
しかし仮に私が被害者の立場になったり、私にとって大切な人が殺されたら、恐らく私は加害者を殺したいと思うでしょう。(中略)ずるいと思われるかもしれませんが、支援者の立場と被害者の立場をいっしょに論じることは不可能です。分かりやすく言えば、私は自分にとって大切な人を殺害した犯罪者の支援をすることは絶対にできないからです。
 
 支援者の立場と、被害者の立場は個々に議論するしかないという。つまり、加害者のことと被害者のことは分けて考えるしかないということである。 犯罪を減らす——つまり再犯をさせないために加害者の支援をすることと、被害者を救済することとは、同時には成り立たないのである。加害者のことは切り離して考えなければならない——ただ、そのハードルはかなり高いように思う。たとえそれが絶対に必要だとしても、どうしても私の上記のような心情になる者が大半なのではないだろうか。
 
 これは社会的な矛盾でもある。犯罪は減らしたいが、加害者の支援の理解はなかなか容認されるものではない。しかし犯罪者には犯罪に至るだけの社会的背景もまたあり、それを解決せずして犯罪の抑止は不可能なのである。
 
 ただし、こうした社会的矛盾も、学校教育の段階であるならば、まだ同時に成り立つ素地があるはずである。被害者の支援はもちろん、加害者の支援もまた、学校という場では受け入れられやすいものであろう。この段階で筆者が述べる「真の反省」を促すプログラムがあるならば、結果的に犯罪は減少するかもしれないのである。
 
 まあ、その学校という場で、今回の「犯罪」は起こったんだから、世話ないですな。
 お先真っ暗ですな。
 
↓非常にキャッチーなタイトルであるが、タイトルに偽りなしの名著である。

今まで観た映画

★★★☆☆

 みんな短絡的すぎる話。

 もうちょっと考えて仕事はしよう。

 

情緒不安定な人が職場にいると周りの人間は大変だ、という話(※ネタバレあり)

 戦争なのだからそういうものなのかもしれないが、主人公のレイも、敵だったり味方だったりで何かと情緒不安定なカイロ・レンも、自分勝手の度が過ぎるのである。基本、自分のやりたいことしか頭になく、自分が良いと思ったことは何をしても良いと思っている傾向がある。「こいつと一緒にいるとマジで大変だな」と恋人のご機嫌一つに振り回される尽くし系女子のごとく、周りの人間はヘトヘトであることよ。
 
↓この人の勝手な行動に後からみんながついてゆき、そしてそのせいで多くの人が死にます。
ほう・れん・そうがまったくない人が職場にいると周りは尻拭いに大変よね。そして肝心の本人は「大仕事やったった」みたいな雰囲気を醸し出しがちだし……
↓お前は結局なんやねんというそしりを免れない点は、尊敬するダース・ベイダーにそっくりであった。
 
 とりあえずですね、上記の二人が散々勝手な行動をするというか、二人だけの世界でやたらと画面どアップで「ハアハア(・Д・)」と言っているもんで、周りの人間は大変ですよ。いちいち追っかけて「おーーっい」てやらなきゃならんもんで。しかもこの二人、やたらと危ない場所で逢瀬を繰り返すものだから、追いかける人たちも必然的に散々危ない目に遭うのである。
 
私だったら「いい加減にしろ!( *`ω´)」と激おこプンプンですよ。
 
 仲間はみんな、宇宙のように心が広く、海よりも度量は深い。
 
 また、本作で裏で糸を引く大ボスが、結局はシリーズ共通のラスボス「パルパティーン」だったことが明かされる。「死んだけど、フォースのダークサイドの力で復活しました!」というあらゆる理屈と整合性を超越した中学生が描くファンタジー小説のような展開で見事復活を果たしたパルパティーンさんは、一度死んでしまった影響からかこれまた情緒がいまいち安定しておらず、カイロ・レンにレイを殺すよう指示していたかと思えば、いざレイが自分の前まで辿り着いてみれば「実はお前を殺す気はなかったんだ! お前が私を殺すことで、私の力が受け継がれる!」と殺せ殺せコールをレイにし始め、そんなんいややとレイが抵抗しているところになんやかんやと乱闘していたカイロ・レンが助けに来たら「やっぱりお前ら死ね」みたいに再び殺しにかかる——というお前は一体どうしたいんだの極みの姿を鑑賞者につきつけ、観ている方はもうパニックですよ。結局どうしたかったんですかね? 宇宙の支配者にならんとしている人がこれほどまでに情緒不安定だと、統治されている銀河系の人たちもきっと混乱の極みでしょうな〜。朝令暮改を地でいく方である。大体、「支配したあかつきには、一体どうしたいのか」という展望が全然見えてこないのが問題である。政治的野望が一切見えてこない分、「支配をするまでが実は一番楽しかった」みたいにならないか心配である(不要な心配)。
 
↓情緒不安定なのは血筋なのかしら〜というネタバレ!
 

私とスター・ウォーズと器の大きさと

 そんなわけで『スター・ウォーズ』シリーズ新たなる三部作の完結編である。
 
 まず、私は『スター・ウォーズ』シリーズは映画作品に関しては一応ひととおり鑑賞しているのだが、通じていえることは相性が悪いということである。平たくいえば、基本的にはつまらないと思っているので、コアなスター・ウォーズファンともまた相性が悪いこと請け合いである。前の職場でめっちゃ仕事ができて大人なスター・ウォーズファンの上司(上司だけど同い年)に、ストーリー上のご都合主義の部分やよくわからない展開をこれでもかと力説してスター・ウォーズがいかに肌に合わないかを訴えたことがあるのだが、大人な彼は苦笑しながら「そうですね」と語り、人間としての器の違いを見せつけられたものである(彼が人より大きく、私が人より小さく)。
 
 私がスター・ウォーズシリーズで一番面白かったと思うのは『ローグ・ワン』である。むしろそれ以外はあまり面白くないというか、物語として純粋にあんまり面白くないと思ってしまっている。大作シリーズとしてなら「マーヴェル・シネマティック・ユニバース」の一連作品の方が圧倒的に出来がよいと思っているので、お正月休みに大作映画をじっくり観たい! という友人・知人には軒並みマーヴェル作品をおすすめしている次第である。はい。
 
 私が『スター・ウォーズ』シリーズを鑑賞していて一番感じるのは、「こういうシーンが撮りたい!」というのが先にあって、そのシーンを撮るためにストーリーを後付けしているかのような感覚である。そのせいなのかなんなのか、登場人物たちの行動にとにかく無意味なことが多すぎるのである。
 
 CMや予告編で使われるようなものすごい見せ場のシーンがあるのだが、そのシーンの前後の話は結構かったるく、終わってみれば「このシーン、別になくてもよかったんじゃない?」と思うようなことが多々ある。本作でいえば、たとえば
 
 
↑のシーンは、カイロ・レンが乗ってきた小型宇宙船を後方宙返りムーンサルト的なことをしながらぶった斬るシーンなのだが、ぶった斬られたあとももちろんレンは無事なので、普通に避けるだけでよかったんじゃね? とか、そもそもなぜレンは宇宙船でレイを轢き殺そうとしたの? とか、スター・ウォーズシリーズの真髄が全然わかっていない私には「?」ばかりなのである。というか、レイがかっこよく宇宙船をぶった斬るシーンが撮りたいというのが先にあって、それに合わせた展開を無理やり挿入しているように見えるわけである。
 ちなみに上記写真のようなキメ顔をレイが決めている裏では、チューバッカが敵に連行されております。連行せずにその場でさっさと殺せばよいところを。
 そのことにはまったく頓着せず自分の世界に入り込んで宙返りをかますレイと(気づいてないといえば聞こえはよいが)、そのことをまったく責めないレイの仲間たち。仲間たちは主人公には寛容なのである。
 
 その他では
 
 
↑海に墜落したデス・スターの残骸の上で戦うシーンなのだが、主人公レイが大時化が収まるわずか数時間が待てずに周りの言うことを無視して勝手に一人でこの場へ向かったがために、このような劇的なシーンとなっている。見栄えはするが、わざわざ危険度が増すような戦闘になっており、そのせいで危険を顧みずに駆けつけた仲間も結局手を出せないのである。それはすなわち、危険を冒し損であるといえる。君は一体何をしに来たのだろう?
 
↓本作随一の無駄ボーン場面
 
 巷では「エピソード8の愚作ぶりを見事に尻拭いした」とか、「やっぱり8が余計だった! 最初からこの監督が3作すべてを監督してれば駆け足展開でこんなご都合主義にならなかった! それが惜しい!」みたいな声があるようだが、私個人の感想としては、7も8も本作も、特に変わらぬスター・ウォーズクオリティだと思うけどなぁというのが正直なところである。もちろんそんなに良くない意味で。ずーっとこんなもんじゃなかった? と思うのは私だけであろうか。私からしたら、むしろエピソード6のあの超有名なラストシーンこそ「なんじゃそりゃ」なんですがね。ダースベイダーの優柔不断ぶりと結局パルパティーン殺るんかいという展開に。
 
 というわけで、『スター・ウォーズ』ファンで全然ない者の所感でございました。
 しかしこれは所詮、「ダイヤルアップ接続を知らない現代の若者にWiFiの素晴らしさを語っても刺さらない」のと同じで、古くからのファンが長い年月をかけて本シリーズを愛しみ続けているのとは立場そのものが違うのである。そういう意味では本作は、「シリーズを愛してきた人たちに愛される作品である」という意味では、狙い通りの成功を収めたのかもしれない。というアンニュイな着地で幕。

シリーズ感想を簡単に一覧

↓「前日譚は、本筋を観てから観るべきであった……」という揺るがない事実を痛感したエピソード1。シリーズまったく未見であった私はうっかり時系列順に鑑賞してしまったのだが、本筋あっての前日譚なのである。「あのキャラクターにこんな過去が!」という感動とは無縁のため、本筋に登場するキャラのエピソード的挿話がただの無駄に見えてしまって単なる冗長な話に思えてしまいました(私の感想

↓ジェダイの騎士達のあまりの弱さに愕然としたエピソード2。少年アナキンが青年アナキンにジャンプアップするのだが、その間にあったことをあの冒頭の字幕だけでちょっ速で説明されるもんで、油断していた私はまったく追いきれずわけワカメであった(私の感想

 

↓国(というか星)を代表する統治者たちが敵も味方もあまりにも浅はかすぎて、まだ日本の政治家の方がよい外交をするだろうと思わずにはいられないエピソード3。暗黒面の力を手に入れて強くなったはずのアナキン青年も結局お師匠様に両足を切断されてマグマで燃え上がるという憂き目に遭い、ちっとも強くなった印象がもたれないのはベジータに通ずる残念ぶりである(私の感想

 

↓かの有名なレイア姫があまりにも可愛くなさすぎてびっくりしたシリーズ初作品のエピソード4。また、映画界に悪役としてトップレベルに君臨するダース・ベイダーの何をやってもまったくうまくいかない無能ぶりに本心から驚いた次第である(私の感想

 

↓開始1分のおなじみ冒頭字幕にて、「前作でがんばったけど、やっぱりピンチになりました」ということを駆け足で説明されハンパない徒労感から始まるエピソード5。タイミングとしては最悪の場面でダース・ベイダーが「お前は私の息子だ。だから仲間になれYO!」と告げてくるので、もう少し人の心のありようを考えた方がよいのではないかと思いましたまる(私の感想

 

↓ひのきの棒で最新兵器&最新鋭の装備を纏った兵士達を次々とやっつける驚愕のエピソード6。どう見ても至って普通のロープ張って敵ロボットの動きを止めるなんて、現代の軽自動車の方がまだ馬力あるやんと思わずにはいられなかった。帝国軍が負けたのはこうした装備の貧弱さにあるのではなかろうか。そして何がしたかったのか最後までよくわらかないダース・ベイダーのその「あっちにふらふらこっちにふらふら何をしたいのかよくわからない感」は見事、カイロ・レンへと受け継がれるのであった(私の感想

 

↓シリーズで初めて「可愛い女の子が出てきた!」と感動したエピソード7。敵が残虐非道の限りを尽くす冒頭に感動し、「ようやく立派な悪役が出てきた!」と感動したものの、ここがピークであったことは知る由もなかった(私の感想

 

↓巷で悪名高いエピソード8。確かにびっくりするほど話の展開が散らかっていて、登場人物は敵も味方も揃いも揃ってバカばかりである。上に立つ人間が無能だと死人が大量に生まれるということを壮大なスケールで描いている(私の感想

 

↓あのダース・ベイダーが初めて「つ、強いっ!」とその存在感を発揮した記念碑的作品であるスピン・オフ。私が最も面白いと思ったスター・ウォーズ作品である。その面白さは個人的には本編とは比べものにならないくらいである。エピソード4(第1作目)のそもそものストーリーは、「反乱軍が帝国軍から最終兵器の設計図を盗み出した!」というところから始まるのだが、そもそも敵に国家レベルの機密情報を盗み出されるってどうよ? アメリカが北朝鮮に核情報を盗まれるようなもんだよ? と思っていた私に、答えを示してくれた作品である。これだけ苦労したんなら、まあ許すΣ(-᷅_-᷄๑) と。

今まで観た映画

★★★★☆

カウンセリングとは聴くことだ! でも聴くことは辛いんだ! という話。

 

人間とは何か言いたくなるものである

 私の職場の隣の席に座っていた女性(若くて可愛いくて頭が良くて私よりマラソンが遥かに速い)が産休に入られたので、その補充として契約社員の女の子がやってきた(若くて可愛くて頭がよくて私より遥かに大人)。その女性の前職がなんと図書館司書ということで、「辞めるべきじゃなかった。あなたはこんなところに来るべきじゃなかった!」と初日から熱弁してしまった次第である。「うぉぉぉぉぉ! 言ってくれたら代わってあげたのに〜」と隣の席で本気で嘆くおっさんに心底不安になったと思うのだが、その不安を今もって微塵も感じさせない大変大人な女性である(もちろん年下です)。
 
 さて、そんな読書量が莫大であろう元図書館司書から薦められた一冊が本著である。私は現在「人と面談をする」という仕事を業務の一部として担っているのだが、なんだか相手と化かし合いをしているような気分になってくるということをポロッとこぼしたら、本著を紹介された。いわく「『話を聴く』ということの職業人としての矜恃が学べる」ということであった。
 
 私が他人と面談をしていてつくづく思うのは、相手は「この場を乗り切ろう」という意識をもって臨んできているということである。つまり、「聞き手(私)が満足しそうな言葉を選んで言っている」ということが、実によくある。「嘘つきは泥棒の始まりだぞ〜」と喉元まで出かかってももちろんそれは声には出さないのだが、まさに心を開いていないとはこのことである。まあ私も心開いていないから当然といえば当然なんだけど。
 
 しかし、なぜ面談をするのかといえば「問題があったから」なわけで。問題の解決のためには互いに解決の方向に努力しなければならず、化かし合いでは何も前進しないのである。
 
 といった事情から「聴く」ということにフォーカスされた知識が欲しいみたいな話をしていたら、本著を紹介されたわけである。その女性いわく「『聴く』職業人としての本」ということなので、その場で——なんならまだ話が終わっていないうちからスマホを操作してAmazonで注文した。人の信頼を得る簡単な方法ひとつは、アドバイスされたことを即実行することである(打算的)。
 
 読んでみると、とにかく「聴く」ということがどういうことなのかが繰り返し語られている。講演会か研究会の記録のような体裁となっているので、カウンセリングを学びに来た質問者に対して、筆者はとにかく「聴くことは苦しい」「とことん聴いていると、語っている方も、聴いている方もどこまでも落ちていく。それでもカウンセラーはクライアントについていくのです」みたいなことを述べ続ける。
 
 その中で最も「ああ、そうだな」と思った点は、「聴く者が何かを言うのは、この苦しみから逃れるためだ」ということである。
 
 話を聴いているだけって、超苦しい
 
 私は女性からよく「話を聞いてくれているだけでいい。何かアドバイスして欲しいわけじゃない」と散々怒られてきたのだが、ではとにかく黙って頷いていよう、相槌を打っているだけにしようと決意して話を聞いていても、固い決意はあっさりとアイスクリームのように溶け切って、自分の考えを切々と語ってしまう。どうしても我慢できない。我慢できないもんだから切々と自分の考えや自分が思う解決策を述べると、「そういうことを言って欲しかったわけじゃない」と怒られる。怒られると、「じゃああなたも私の話をきちんと全部聴くだけにして聴いてね」というと大抵嫌われる
 
 そう、話を聴くことは、辛いことなのである。私があらゆる女性に嫌われてしまうのと同じくらい自明のことなのである。
 
 だから、この苦しみから逃れるため——つまり、話に決着を付けて終わらせるために、相手が話す内容に対して何かを言ってしまうというのである。
 
 話を聴くことに徹し、どこまでも相手についていくのがカウンセラーであると著者は言う。
 相手が「死にたい」といえば、「そうですか、死にたいんですか」と話を聴く。その先に巻き込まれる恐怖から私なんかは「そんなこと言ったらだめだよ。良いこともあるじゃん」と言ってしまい、相手だって内心ではそれを言われるために敢えて「死にたい」と言っていることの方が多い。
 
 しかしカウンセラーは「死にたいんですか。死にたいんですね」と相手の話をただ聴くだけだという。そうすると相手も「あれ?」となる。あれ?となると、その先を語ることはクライアントにとってもとても苦しいものとなる。しかしその先にあるものが、患者を自ら立ち上がらせる力となることがあるという。
 
 純粋に「聴く」という行為は、専門家の技術を要することなのである。これからは「話を聞いて欲しいだけ」「話を聞いてくれるだけでいい」ということを言ってくる人に対しては、いきなりこの話をしようと思う。間違いなく嫌われることだろう。
 
 そもそも、話を聞いて欲しい人は、相手の話を聴く気はない。これは男でも女でもである。それなのに、「聞いてくれるだけでいい」とさも自分が譲歩しているかのようなことをいって、相手に聴くことを強いる。
 
 しかし、何度でも言うが、聴くことは苦しみを伴う専門技術なのである。

相談とカウンセリングの違い

 結局この「聴く」という技術の有無が、相談とカウンセリングを分け隔てるものだという。「聴く」ことによって自ら立ち上がる力を湧き上がらせるのがカウンセリングである、と。
 
 一方で、では「相談」とはなんなのかと定義しようとすると、これまた難しい。本著内では詳しく言及されているわけではないが、一口に「相談」といっても「本当に答えが欲しい」場合と「相談することによって相手をこちらの意図通りに動かそうとする」打算的な場合と、「ただ話を聞いて欲しいだけ」というそれこそカウンセリング的な意図をもっている場合等々、いろいろなケースが考えられる。
 
 ただ筆者が繰り返し述べるのは、「『相談』で解決するならば、それで良い。それができなかったときのためにカウンセリングがある」ということである。
 
 相手が「相談」を求めていて、こちらが何かを言ってそれで相手の道が開けるならそれで良い——と筆者は言う。どちらが優れたことかではなく、相談してもだめ、教え諭してもだめということで、じゃあカウンセリングしましょうということになる。カウンセリングとは、いろいろある解決策の一つであって、絶対的なものではないという。
 
 しかしどのような「相談」の場合であっても、「相談しやすい人」というのはいつだって黙って話を聴いてくれる人であったりする。だからやはり、「相談」のその先にカウンセリングというものがあるんじゃないかなーと思ったりらじばんだり。

相談に乗るという危険

 著者の言葉の中で最も印象深かったのは「正しいと思うことをするのは危険でもある」というような言葉である。人は、正しかったり助けになると思ったりしたことならば何をしても良いと思いがちであるという警鐘を鳴らす。この話は「カウンセラーは必要ならばクライアントの周囲にいる人間に会いに行くべきなのか?」という参加者からの問いの中で語られたことなのだが、著者は「そもそも本当に必要なことなのかどうかは、わからない」と答える。この「わからない」も著者が章を変えても何度も口にしていたことである。
 
 仮に相談されても「自分には何が正しいのかわからない」と正直に述べる。「必要かもしれないと思っても、本当に必要なのかどうかは結局誰にもわからない。やってみなければわからないし、やったとしてもさらに事態を複雑にさせてしまうことは十分ありえる」と繰り返し繰り返し述べている。恐らく生涯で放った愛の言葉よりも多く述べているに違いない。
 
 言われた通りにしたのにうまくいかなかった——というのは、自分から相談したかどうかに関わらず圧倒的なまでの不満を抱くことである。それが人情というものである。
 ひと肌脱ぐことで解決できるならそれでも良い。だが、カウンセラーの仕事はそれではないのである。だから何かを教示するべきではない。
 
 その徹底ぶりが、著者の話に強大な説得力をもたせている。カウンセラーができることは「聴く」ことだけであり、その「聴く」が難しいのである。なぜなら「人間というのはいかに説教したり、慰めたり、忠告したりするのが好きかということ」だからである。

精神分析はうつ病に有効なのか?

 話は変わるが、大学時代に心理学の講義を受講したとき、普段はカウンセラーをしていてバイトとしてうちの大学に講義をしにきていた精神分析を専門としている先生が、「うつ病は大得意」と述べていた。で、私は「医学書には精神分析はうつ病には有効ではないと書いてあるんですけど〜」と聴くからに態度の悪いダメ学生代表的な感じで質問をしたら、「それなら、その医学書が間違っている」「納得いかないんだったら、連絡くれればその証拠をみせる。私のところに話に来てもいい」と言われたので、当時の私は本当に世間知らずな大学生を象徴するようなヤな奴だったので、番号案内でその先生の個人事務所の番号を調べ、実際にアポをとるための電話をした。私が同じことされたら二度と口を聞きたくないと思うようなネチネチしたしつこさであるが、実際その先生もそんな時間はないとあっさりと言ってきた。まあそりゃそうだろうと今では思うのだが、当時の私は変質的なまでに矛盾や間違いを指摘することが性癖レベルで好きだったので、「あんたが良いと言ったんじゃないか」と憤慨し、以後講義で気まずくなったことは言うまでもない。はっきり言って私が絶対に悪いと思うのだが、自戒の念を込めてここに記す次第である。少なくてもネチネチと相手の揚げ足をとるような行為はやめたいものである。いや、マジで。
 
 で。
 
 「私が悪い」と言いながらもここで言いたいことは、本著の著者も「うつ病にカウンセリングは有効ではない」というスタンスである——ということが言いたい。具体的には、統合失調症等の精神病が疑われる場合は、速やかに精神科医に任せるべきであるとはっきりと述べている。カウンセラーはそうした事態に巻き込まれる危機感をもってクライアントを見定めなければならないとのことである。
 
 ただ、本著はかなり時代が古いものなので、現在でもそういう考えなのかはわからないんだけどね〜。
 
 カウンセラーというと、今でも真っ先に思い浮かぶのは、あのときのやり取りのことである。あの時の粘着性は現在の自分から見るとマジで結構異常で、「ムキになった」といえばかわいい言い方であるが、自分の中にある危ない因子に触れたかのようで、なにより自分にこういうところがあるということを私自身が恐れている。
 
 昔から、「学校の先生」というものがどうにも嫌いだったことがたぶん関係しているんだけどね〜という精神分析的考察

カウンセリングとは

 著者が何度でも何回でも愛しい人に囁く愛の言葉のように繰り返していたのは、
 
・相手の話にどこまでもついていって、とにかく聴く。
 
・何が正しいのか、どうすることが正解なのかは本当のところは誰にもわからない。だからカウンセラーが正しくあろうとするのなら、結局は聴くことしかできない。
 
 というようなことであると思われる。聴いて、聴いて、聴いていった先にクライアントが自ら立ち上がるための力があり、それをクライアント自身が見つけださなければならない。その手伝いをするのがカウンセラーだということになる。
 
 以上の話を読んで、カウンセリングとはこういうものか! 「聴く」とはとても技術のいることなのだな! と感心しまくりの私であるが、同時に「面談をカウンセリング的にやるのは無理だな」という結論にも達している。もちろん、私の「聴く」技術力の問題はある。
 が、それ以上に「そこまでしてやる義理はない」とも思うのである。いや、自分の愛する人に対してならあるいはそれほどまでの覚悟をもって話を聴くこともあるかもしれないが、そこまで自分の労力と時間を他業務の合間を縫って行うことはかなり難しいということ、そして何より——
 
 カウンセラーのもとには自らが望んでクライアントが来るが、問題を起こした当事者との面談は、自分の中にある問題をどうにかしようと思っているわけではない者が大半であるという現実的な面もある。
 つまり、そもそも前提となる条件が異なるのである。だから、まあ難しいんじゃないかなと率直に思った。
 
 ——というような感想を隣の席の女性に述べたところ、「そうですか。難しいですか」というカウンセリング的な受け入れられ方をしたもんで、このように考えがまとまった次第である。はい。
 
↓たとえ良書であっても役に立つとはかぎらないのだ!

今まで観た映画

★★★☆☆

 国民を危険な目に遭わせるのが趣味な王族一家の話。かつての日本なら土井たか子が黙っていなかったね!

国を混乱に陥れる統治者

 「未知の旅へ〜〜」と、またしても二人が旅立つわけなんですけどね。全国民が被災者となる災害の直後に国をあけがちですよね、この姉妹は。
 

↓てっきり「の旅へ〜」だと思っていて、どういう語順やねんと悪態をついておりました。すんません。まあイントネーションが悪いからなんだけど。「みち⤴︎(道)」か「みち⤵︎(未知)」か。

 

 私は前作の感想で「ハンス王子は実はよい統治者であった」論を展開するほど、この姉妹の統治者としての姿勢を疑問視している。国民はいつだってこの二人のせいで生活を脅かされ命の危険すら被っているのに、当の本人たちは気持ちよく歌いながらさっさと旅に出て行きがちなのである。

 

 前回は「ずーっと真冬」という危機的状況に国を陥れた雪の女王であるが(その間ハンス王子が国民に毛布を配るなどの善後策を施していた)、今回は国民を山の高台に避難させたまま二人で旅に出るもんだから、その政治的手腕にいよいよ疑問符が付かざるを得ない。旅から帰ってきたとき全国民がまだ山の上にいて、マジでびっくりした次第である。いや、そんな状態のままほっぽり出していったことが。

 

 よくこれで国民から革命が起きないものである。世襲の国だからそういう概念自体がないのかもしれない。

 

 しかも、護衛も連れない王族たちの旅の果てに、フタを開けてみれば、アナとエルサのじいちゃんが諸悪の根源という圧倒的なまでに絶望的な真相があったにも関わらず、めっちゃ前向きに——もとい、全然気にせず問題に取り組んでいく姿勢には、「たとえ血縁者でも、ヒトはヒト、自分は自分」というポジティブシンキングの権化のような姿が描かれている。そういう意味ではポジティブな作品であるといえる。

 

 アナとエルサのじいちゃんのせいで30年以上も霧の中に閉じ込められていた人たちがいるのだが、他人の30年なんてあまり気にならないのか、エルサは「私があなたたちと国との架け橋よ〜」と愉快に歌って終わっていた。30年以上といったら日本における無期懲役刑の仮釈放が認められるまでの平均的な期間と同じである。

 

 これくらい「広い心」と「前向きな心」とをもって日本と近隣諸外国も外交問題に取り組めれば、戦後から現在にいたるまでの様々な諸問題もきっとすぐに解決することだろう。もちろん無理だと思うけど。

 

 なぜ大人になるとこんなにも素直に映画を観られなくなるのかな〜と悲しみに暮れながら鑑賞したすっかり荒んだ大人となったアタシ。

 ちなみに劇場にいた子供達はオラフの一挙手一投足にもちろん大興奮の様子でございました。それが人間としてあるべき姿だと思いました。はい。

 

 記憶のみであらすじを辿ると、エルサが「何か声がする」といって旅に出るという100万回は観たことがあるパターンで旅に出て、オラフがボケて、じいちゃんのせいで対立した部族と会って、オラフがボケて、エルサが徒歩で荒波の海を渡ろうとして、オラフがボケて、じいちゃんが作ったダムが全ての元凶であることが発覚して、オラフが溶けて、ダムを壊して、すべての問題を超越した愛の力で全てが解決するというストーリーである(オラフ復活含む)。

 

 総評としては、ストーリーはイマイチですが、オラフの愉快さがとても心に染みるハートウォーミングな作品です。

オラフの声問題

 で、そのオラフさんだが、周知のとおり我らがピエール瀧は雪だるまの声を降板してしまった。まったくもって当然の処置であるが、そこで問題となるのが「新オラフの声を受け入れられるかな?」という不安である。
 
まったく無問題
 
でありました。
 ここまで問題ないと、逆に寂しさすら漂ってくる。つまり、ピエール瀧でなくても良かったんじゃないかという問題——ひいては、「あなたがやっている仕事は、きっとあなたでなくても良い」という誰もに当てはまる問題へと繋がってくる。
 
 ナンバーワンにならなくてもよい、元々特別なオンリーワン——そう歌った方達がナンバーワンの座から転落したら、5人中3人ほどはオンリーワンの存在を発揮する機会を失ってしまったように、オンリーワンであることはとても難しいことである。たとえ自分はオンリーワンであると思ってやっていても、転勤や配置換えがあっても何事もなかったかのように回り始める仕事の仕組みに、「ナンバーワンになることの方が実は簡単なんじゃないか……?」とすら思えてくる。
 
 組織の中でナンバーワンは必然的に誰かがなるわけであるが、オンリーワンがいなくても組織は成り立つ。むしろオンリーワンの存在が組織にいて、もしその人に頼りきっていることがあるのなら、それは危険信号であるとすらいえる。その人がいなくなったら回らなくなる仕事があるのなら、それは組織の脆弱性に直結するからだ。やはりシステムはもっと冗長化しなければいけない。
 
 ということで、ピエール瀧の不在は大勢にまったく影響がなかったという話でした。むしろどんな声だったかもはや思い出せない。寂しい。
 

実は続編があるディズニー作品

 私は正直『アナと雪の女王』自体あまり面白くなかったので、本作もイマイチであった。続編はなお面白くなかったという印象である。1作目を超えられないのは大ヒット作の続編のあるいみでは宿命的なことであるのかもしれない。
 で、続編の話。
 有名どころのディズニー作品であっても、実は人知れず続編が制作されていることがある。人知れずというのは、要するに劇場公開されていない「ビデオスルー」というやつだからである。
 
 劇場公開されていないといっても、そのクオリティは本編(1作目)とほどんど変わらないところが、アニメ作品の良さであり、難しさでもある。続編のクオリティに満足する一方で、劇場でアニメ作品を観る意義というものがなんとなくモヤモヤするのである。この感じ、伝わりますかね?
 
 しかし何はともあれあの有名作品にも実は続編があるんだよ〜ということお伝え&オススメしたい。
 

シンデレラ

シンデレラⅡの感想

シンデレラⅢの感想

 

 いきなり最もオススメの続編を紹介してしまう。

 私はディズニープリンセスで間違いなくこのシンデレラが一番好きである。その想いを抱くに至ったのは、何を隠そうこの続編を観たからに他ならない。

 

 「Ⅱ」は、サザエさんのように三本立て構成で、特に1話目はシンデレラの強靭な精神力と肝の据わり方が描かれていてる。王子様との結婚後、新参者(シンデレラ)が己の権力を利用して次々と城のしきたりを自分の都合よく改変していく様は、内閣が叫ぶ大改革よりもよほど大きな変革の渦を生んでいた。最後に自身の教育係に放つ名言「あなたとは仲良くやっていけそうね」は新しく赴任してきた上司の辣腕パワハラに怯える社員たちには胸にグサッとくる一撃となりそうである。

 また3話目では、義理姉アナスタシアとパン屋の主人との恋が描かれ、その恋を成就させようとここでもシンデレラが縦横無尽に活躍する。この恋は「Ⅲ」で無かったことのようになっているが、「Ⅲ」ではアナスタシアはかなりトーンダウンしていて、「Ⅱ」を受けての制作陣の「どうしよう」感が伝わってくるようである。

 

 「Ⅲ」では、継母の極悪非道っぷりが一線を超えてもう笑えてくる。シンデレラに魔法をかけた妖精から魔法の杖を奪うと、継母無双が始まるのである。ここまで清々しい悪役ぶりも、昨今ではすっかり珍しいのではないだろうか。こんなやつと再婚したシンデレラの亡き父親が諸悪の根源であるとしか思えなくなってくる次第である。

 

↓3作セットなんてのもあるのね〜

 

アラジン

ジャファーの逆襲の感想

盗賊王の伝説の感想

 

 私はアラジンという男をクズだと思っているのだが、この続編はそうした私の想いに同意してくれる作品である。1作目をきちんと鑑賞していただければわかることだが、アラジンは本当にどうしようもない奴で、お姫様のジャスミンはダメ男に熱を入れてしまう典型的なダメ女である。一度の優しさで「彼は本当はいい人なの〜」というタイプだね!

 

 「Ⅱ」は悪役ジャファーの復讐譚である。ランプの精となってランプに封印されてしまったジャファーが復讐しにきて、ランプから解放されたジーニーでは対抗できずどうしよ〜となる。しかしそんなことはどうでもよく、大切なのはアラジンが王宮でめちゃ嫌われているという点である。素晴らしい。衛兵から「このどぶねずみが!」などと叫ばれる。素晴らしい。

 

 「Ⅲ」はアラジンの父親にまつわる話である。まあつまりは盗賊王で、アラジンとジャスミンの結婚式を台無しにした張本人なわけなのだが、そんな事実が判明しても一国の王女はアラジンと結婚する。盗賊の息子で、本人の経歴もロクでもない人間と。これくらい国家に寛容さがあれば、相手が留学したまま延期だか中止だかよくわからないままになっている某国のプリンセスの婚約騒動もあっさり片付くことであろう。小さき島国の国民はここまで寛容ではないようである。

 

↓こちらも3巻セットがあったのね〜

 

ライオン・キング

ライオン・キング2の感想

ライオン・キング3の感想

 

 あの『ライオン・キング」にも続編があったのだ!

 しかも、『2』の出来はかなり良く、ぶっちゃけ『アナ雪2』なんかを劇場公開にするなら(トゲのある言い方)、十分劇場公開しても良かったのではないかと思うくらいの完成度である。

 

 『2』は前作の主人公「シンバ」の娘(なんとラストシーンで生まれたライオンはメスだったのだ!)が主人公となり、前作の悪役「スカー」とロミオとジュリエット的な絆を育みながら大冒険をする話である。こんな簡単なあらすじでもなかなか良さげじゃね?

 

 一方『3』は結構余計な話を作っちゃったな〜という印象の内容で、あのイノシシとミーアキャットがどのようにして『1』のストーリーに関わることになったかを描く「『1』の舞台裏」的な作品となっている。それが余計なのである。

 

 たとえば、シンバの父親がスカーに殺されるシーンは結構シリアスな場面であるべきだと思うのだが、実はあの2匹もその場にいてドタバタしてました〜テへ、みたいなことが描かれるのである。

 

 というわけで、『2』が好きで『3』が嫌い、という個人的な感想。

 

↓やっぱりあった3巻セット。

リトルマーメイド

リトル・マーメイドⅡの感想

リトル・マーメイドⅢの感想

 

 「Ⅱ」はアリエルと王子様の間に生まれた子供の話である。上記『ライオン・キング』と同じ構成である。というか、ストーリーラインもほとんど同じであるといっても過言ではない。

 ディズニー作品に出てくる「親」という存在は、やたらと子供に説明を端折るというダメな子育ての典型をするのだが、あれほど父親の姿勢に反発していたアリエルも、自分の子供には父親とまったく同じ姿勢で上から押し付けるような物言いをするので、子供はかつての自分のように反発し、どっかいっちゃうのである。「親の背中を見て子は育つ」の負の方面のスパイラルを描く作品であるともいえる。

 

 「Ⅲ」は一作目の前日譚で、海の中の物語である。独裁者(アリエルの父)に音楽を禁止された世界で、夜な夜な開かれる音楽パーティーに「あんだーざ・し〜」で有名なあのセバスチャンが参加していたことが発覚したため大騒動へと発展する。

 まあいつの時代も「禁止された物で反社会的勢力は潤う」という構図は同じなのである。禁酒法時代には酒が売れ、現在では大麻や覚せい剤が暴力団の資金源になっているのと同じように。

 

↓もちろんあった3巻セット

 

ターザン

ターザン2の感想

ターザン&ジェーンの感想

 

 私はターザンが嫌いである。なぜなら、自分の責任に無自覚だからである。『2』は『1』の前日譚であるのだが、『1』で描かれたターザンの無責任っぷりは幼少期から形成されていたということが丁寧に描かれる。こいつ、マジでクソだと思うのである。こういう奴が職場にいると非常に迷惑なのだが、こういう奴に限って周りの迷惑を考えずに自分いい仕事してる〜感を出すので、迷惑を被った点を大人の気遣いを含ませながらゆる〜く指摘すると、キョトン顔をされていっそう腹立つパータンなのである。

 

 『&ジェーン』の方が正当な続編というか後日談で、ターザンが住む島が近代化していて、ジェーンのかつての友達が平気でたくさん遊びに来たり観光ガイドがあったりする。『1』のラストでジェーンは迷った末にジャングルに残ってターザンと共に暮らすことを選んだのだが、これなら嫌になったらいつでも帰れる勢いであるので、そんなに悩まなくても良かったねという後日談でもある。

 

↓ついに3巻セットがない作品が……。「1」&「2」のセット。

 

わんわん物語

わんわん物語Ⅱの感想

 

 『Ⅱ』は『Ⅰ』の完全なる続編で、王道パターンである「前作の主人公カップルの子供」が主人公である。『Ⅰ』の主人公は野良犬だったが、無事室内犬と愛を育んだのでその子供は見かけは主人公にそっくりでも室内犬として育った。そのため「外の世界が知りたい!」と言いだし、例によってディズニー作品伝統のダメ親となった前作主人公が頭ごなしにダメダメ言うもんだから外の世界に飛び出した——という話である。『1』での悪役は子供を預かるには人間性に問題があった飼い主の伯母であったのだが、『2』で主人公が飛び出すきっかけとなったことを起こしたのは飼い主の息子であり、2作続けて観ると「この家系にはロクでもない奴らしかしない」と思う次第である。

 

↓2巻セットありました。『わんわん物語』という邦名がどうかと思う原題がわかるパッケージ。

 

アトランティス

アトランティス 帝国最後の謎の感想

 

 『アトランティス』といえば『ふしぎの海のナディア』のパクリで有名な作品である(ガイナックス社長の逮捕!)。1作目は『失われた帝国』というサブタイトルが付いており、ラストシーンで主人公はその失われた帝国であるアトランティスに残る選択をする。作品としては全然面白くないのだが、それでも続編が作られるあたりにディズニーの言葉にならない意地を感じる。

 で、続編である『帝国最後の謎』はアトランティスに残った主人公の後日談となるわけだが、主人公たちが雑なんだか出てくる敵がバカなんだかわからないが、とにかく大味な展開でドッタンバッタンする話である。まああまり面白くはない。

美女と野獣

美女と野獣 ベルの素敵なプレゼントの感想

 

 今までの作品群は「続編」か「前日譚」かのパターンであったのだが、名作『美女と野獣』の場合は少し毛色が異なる。

 

 『ベルの素敵なプレゼント』は、あの有名な二人のダンスシーンに至るまでを挿話として描いている。が、いろいろとつじつまが合わないところもあるのでパラレルワールド的な描かれ方をしているといえる。「細かいことはいーんだよ、うっせーな!」というディズニーの心意気を感じる作品である。

 本筋の作品では「オオカミに襲われたベルを野獣が助ける」という過程を経て二人の心が溶け合ってゆく(淫靡な表現)わけだが、この作品は「その後もいろいろピンチがあって二人は溶け合ったのです(淫靡な表現)ということを描く。オオカミに襲われたこととかもはや石につまずいた程度のことだったと思えるようなことが二人を襲うのである。

 

 『ベルのファンタジーワールド』は実は未見であるので何も述べることはできないが、4話構成のショートストーリーであるらしい。

ピーター・パン

ーター・パン2の感想 ネバーランドの秘密の感想

 

 フック船長はワニが苦手なのだが、その理由をみなさんはご存知だろうか?

「ワニに腕を食われたから」

 は間違いである。答えは

ピーター・パンに腕を切り落とされてワニに食われたから」

 である。ドラえもんが居眠りしてて耳を齧られたせいでネズミが苦手となったこととは明確に異なる線引きがここにはある。私だったらワニよりもピーター・パンが苦手になると思うのだが、そこはたくましく挑んでいくのがフック船長なのである。

 

 このように『ピーター・パン』という作品は、世間が抱くイメージと反して、決して生易しい物語ではない。

 

 『2』の冒頭にもそれは如実に表れている。主人公はディズニー続編シリーズの定番である前作の主人公ウェンディの娘であるのだが、まずこの娘の父(ウェンディの夫)が戦争に徴兵される。そう、時代は第二次世界大戦真っ只中なのである。主人公一家が住むロンドンは大空襲に遭い、ウェンディは娘(主人公)と息子(弟)を連れ、防空壕へ避難する。そこで不安がる息子に、ウェンディはかつて自分が冒険したネバーランドの話を聞かせ、落ち着かせようとする。しかし、娘である主人公は「夢見てんじゃないわよ! これは戦争なのよ!」と当然の怒りを露わにする。物語の展開上、主人公の言っていることが間違っているわけなのだが、普通だったらどちらに理があるかは明らかであることよ。。。

 そんな中、ふて寝をしてしまった主人公の元に、戦闘機の合間をかいくぐってック船長がやってくきて——というのがストーリーである。

 この他、ピーター・パンの性格が悪すぎて、ピーター・パン症候群ではダメだな、ということが暗にわかる話となっております。

 

 以上、『実はあのディズニーの名作には続編があった!』まとめでした〜