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Russell Garcia

ラッセル.ガルシア。知ってる人はほぼ皆無でしょう。ジャズの本にさえほとんど出てこないのですから。ですが、個人的にはこの人は20世紀のアメリカ音楽、特にジャズとクラシカルの接点にいた重要人物の一人であると確信に近いものを持っています。1940年代のアメリカ西海岸、LA界隈には、第二次大戦でのナチスのファシズムを嫌って亡命したきたクラシックの作曲家が何人かいました。ダリウス.ミヨー、マリオ.カステルヌウォーヴォ=テデスコ、シェーンベルグ などがその代表です。こうした人達がジャズのハーモニーのアカデミック化に大きな影響を与えたというわけです。ガルシアはテデスコ門下、ミヨー門下にはピート.ルゴロがいました。この世代はホルマンやペイチなどのいわゆる50年代ウエストの巨匠アレンジャーのひと世代上、つまり師匠格の世代になります。ルゴロのことは詳しくないのですが、ガルシアの生徒にはビル.ホルマン、ジミー.ジュフリー、ボブ.グレッティンジャーなどの鬼才が大勢いました(当時のWestlake Collegeはジャズアレンジャーの虎の穴だった)。ガルシアは1950年代にProfessional Composer Arrangerという本を出します。これはジャズのアレンジなどについて書かれた恐らくは最初の本で、すぎやまこういち氏の座右の本でもありました。1970年代に出されたBook2ではセリエルミュージックの技法の基礎にまで触れられています。私自身もセリーの技法の基礎はこの本で学びました。こうしたことから、個人的にはガルシアはジャズとコンテンポラリークラシックの結節点にいた人と思えるのです。彼の一番有名なジャズの仕事はサッチモとエラのPorgy and Bessのオーケストラアレンジだと思われるのですが、1960年以降は映画音楽作曲家としての活動がメインになっていきました。ガンサー.シュラーが1960年代にThird Streamと言ってクラシカルとの融合みたいなことを提示する10年以上前にLAではそういうことが普通にあったのです。ガルシアの生徒だったボブ.グレッティンジャーがケントンとコラボしたCity of Glassはジャズ側からのコンテンポラリークラシカルへの挑戦状みたいな音楽で、同時代のアメリカのクラシックの楽壇にも強力なインパクトを与えたことが想像できます(コープランドやバーバーやバーンスタインを上回るアヴァンギャルドだった)。

 

ジャズの話声の理論は西洋音楽のそれが下敷きになっているのですが、クラシックに人はジャズに、ジャズの人はクラシックにアレルギー感を持つ人が多く(特にリスナーに)、日本の場合にはそれがいわゆるジャズ評論家(評論家というよりは熱狂的なファンの延長でしかない人も多かったように思われる)にも多くあって、こうしたジャズとクラシックの元祖フュージョンみたいな音楽を語れる人が皆無だったがためにこの辺りの音楽が埋もれてしまったというか日本では全く評価されなかった(評価さえされなかった)と思われます。1940−50年代にはこうしたクラシカルの話声の当時の先端の理論を研究する、みたいなところがたくさんあって、その中の一つにシリンガーハウスがありました。ここは今はバークリー音楽院となっています。バークリーメソッドの根幹にあるのはシリンガーシステムで、これが世界を席巻している感じですが、往時を振り返るとシリンガーシステムもジャズの和声のアカデミック化の流れの一つであったわけで、こうしたガルシア達の仕事を検証することも大事ではないかと思えるのです。最後にガルシアの作品を一つ貼っておきます。セリーを取り入れた部分もありますね。ケントンも野望の塊みたいな人でクリエイティブであればスイングしなくてもジャズでなくても構わないという人であったがために日本ではほとんど40年代のものしか紹介されませんが、個人的には1950-1年のInnovative music orchestraの時代はこのNeophonicなども実に魅力的なのです。これはいずれ改めて。

 

 

現代医学はヒトをメカとして見ている?

先日父親が老衰で亡くなりました。最後の2ヶ月くらいは例えが適切かどうか分かりませんが、劇症のALSみたいな感覚を覚えるくらい運動機能の低下が凄く、最後は筋肉や脂肪などエネルギーとして使えるものを消費し切って亡くなったという感じでした。

甲状腺機能低下と鉄欠乏症貧血があったので、処方されていたのは鉄剤とホルモン材でした。足りない物を外部から投入して設備を維持しているような感覚を覚えました。衰弱していく感じも段々コンタクトが難しくなってるボイジャー1号のようでもありました。


自分も自分で、区の健康診断で引っかかって人生初の大腸内視鏡検査を受けることになりました(父の逝去と被って半月遅らせての検査となりました)。検査映像をリアルタイムで目の前で見ることができるのですが、1960年代のSF映画にあった「ミクロの決死圏」をリアルで見ているような気さえしました。結局ポリープを5個取りましたが、内視鏡のモニターを見ながらポリープを切除していく映像は、まるで深海探索船がマニピュレーターで外部の資料を採取しているようで、一般的な医療手術のイメージとはかけ離れていました。自分の腸内の映像見ながら「あー大腸って見た目ホルモンだなあ」などと思ったりもしておりました。


父の最後の数ヶ月での医療のあれこれやら自分の体験、医学生の姪の話しなども聞いていると、現代医療って、生命体を扱うというよりは、高分子有機化合物の集積体であるヒトというメカを扱っているかのように思えてきました。昔は「医は仁術」って言ってましたが、多分今は違うのではないかな、という気が強くしました。というかこの数ヶ月の身の回りのあれこれを通じて「ヒトって案外メカっぽいのでは?」と考え始めてしまいました。

日本人の異文化コミュニケーションコンプレックスについて考える。

現代の日本人の多くが異文化コミュニケーションに対して大きなコンプレックスを持っているように思われます。英語を話せるようになりたい、という人は多いし、会話学校もそこそこあるのに案外話せる人が少ないんです。コミュニケーションを躊躇する理由として「間違えると恥ずかしいから」とか「単語知らない」とか「発音悪い」とか色々な言い訳を耳にします。この「間違ったら恥ずかしい」「間違えてはいけない」みたいな発想がどこから来て埋め込まれてしまったのでしょうか。

 

安土桃山時代にポルトガルからキリスト教を布教しにきた宣教師にルイス.フロイスという人がいました。彼は日本文化と西洋文化の違いを書き残していて、それが本になっています。これを読んでいると、フロイスは当時の時代の日本人は大名クラスはもとより、市井の普通の人々ともかなり普通にコミュニケーションが取れていたことがわかります。500年以上前の日本人にとって西洋人はかなりな異形に見えたでしょうが、本を読む限りかなり広範囲にコミュニケーションが取れています。フロイスの時代のキリスト教社会では結婚すると奥さんは旦那の許可なしには外に出られなくなってたみたいで、日本の女子供が自由奔放であることを驚きをもって書いたりしています(箇条書きみたいに書いてて他文化をディスることはしていません)。当時の世相は想像以上にオープンであったことが伺えます。考えてみれば、時代は下がるとはいえ、江戸時代には春画などもあって文化的にはオープンかつのどかであったことが伺えるのです。おそらくはそうしたものが失われて「〜してはいけない」的な強迫観念がいたるところにできたのが明治以降のことなのではないかと漠然と感じられるのです。あくまで推測ですが。

 

不思議なことに日本人は勉強と自己表現については「間違ってはいけない」「間違ったら恥ずかしい」「間違ったら怒られる」などなどネガティブな強迫観念に囚われ過ぎる傾向が強いと思います。全ての習い事はルールやシステムを学び、練習することで上達するのですが、学びでは萎縮しちゃうんです。スポーツやゲームで横から見ててどんなにヘタクソであっても本人たちは意に介さず夢中になってやれるのに、です。そして日本人の多くの人が外国人観光客とかからお世辞にも上手といえない日本語で何か聞かれたら必死になって考えてあげられるのに、その逆が容認できないんです。ここの意識を壊すことができれば「学び」をすごく楽しいものにできるはずなんです。練習しないと上手にならないのに、ジャズのアドリブやら英会話で「間違えたら恥ずかしい」とか言ってたらそれは練習にならないから上手くなるなんてありえないんです。

 

そこに気がついた人は強いんじゃないかな。