日本人の異文化コミュニケーションコンプレックスについて考える。 | music-geek

日本人の異文化コミュニケーションコンプレックスについて考える。

現代の日本人の多くが異文化コミュニケーションに対して大きなコンプレックスを持っているように思われます。英語を話せるようになりたい、という人は多いし、会話学校もそこそこあるのに案外話せる人が少ないんです。コミュニケーションを躊躇する理由として「間違えると恥ずかしいから」とか「単語知らない」とか「発音悪い」とか色々な言い訳を耳にします。この「間違ったら恥ずかしい」「間違えてはいけない」みたいな発想がどこから来て埋め込まれてしまったのでしょうか。

 

安土桃山時代にポルトガルからキリスト教を布教しにきた宣教師にルイス.フロイスという人がいました。彼は日本文化と西洋文化の違いを書き残していて、それが本になっています。これを読んでいると、フロイスは当時の時代の日本人は大名クラスはもとより、市井の普通の人々ともかなり普通にコミュニケーションが取れていたことがわかります。500年以上前の日本人にとって西洋人はかなりな異形に見えたでしょうが、本を読む限りかなり広範囲にコミュニケーションが取れています。フロイスの時代のキリスト教社会では結婚すると奥さんは旦那の許可なしには外に出られなくなってたみたいで、日本の女子供が自由奔放であることを驚きをもって書いたりしています(箇条書きみたいに書いてて他文化をディスることはしていません)。当時の世相は想像以上にオープンであったことが伺えます。考えてみれば、時代は下がるとはいえ、江戸時代には春画などもあって文化的にはオープンかつのどかであったことが伺えるのです。おそらくはそうしたものが失われて「〜してはいけない」的な強迫観念がいたるところにできたのが明治以降のことなのではないかと漠然と感じられるのです。あくまで推測ですが。

 

不思議なことに日本人は勉強と自己表現については「間違ってはいけない」「間違ったら恥ずかしい」「間違ったら怒られる」などなどネガティブな強迫観念に囚われ過ぎる傾向が強いと思います。全ての習い事はルールやシステムを学び、練習することで上達するのですが、学びでは萎縮しちゃうんです。スポーツやゲームで横から見ててどんなにヘタクソであっても本人たちは意に介さず夢中になってやれるのに、です。そして日本人の多くの人が外国人観光客とかからお世辞にも上手といえない日本語で何か聞かれたら必死になって考えてあげられるのに、その逆が容認できないんです。ここの意識を壊すことができれば「学び」をすごく楽しいものにできるはずなんです。練習しないと上手にならないのに、ジャズのアドリブやら英会話で「間違えたら恥ずかしい」とか言ってたらそれは練習にならないから上手くなるなんてありえないんです。

 

そこに気がついた人は強いんじゃないかな。