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柳戸砦は手賀沼の南の方から東に伸びる丘陵地帯の南側にある。手賀城から南西に約1kmほど。往時は手賀沼も南の水田地帯も海(手下浦:香取海の一部)だったらしい。

文献に記録なく歴史は分かっていないとのこと。


北総線小室駅からの徒歩行軍も午後になり、そろそろ短くなり始めた初秋の陽も傾こうかというところで到着し、探索開始💨


現在位置(Googleマップで)

探索の出発点は、六所神社の鳥居の前のここになるだろう。

左側奥に阿弥陀堂、右側の鳥居の奥が六所神社。


遺構らしいものは夫々の裏手あるが、阿弥陀堂の裏のやつは遺構なのか分からんとのこと。

まずは、そちらへ行ってみる。


森の中には踏跡らしいものが伸びていて、それを左へ左へと進んでゆく。

少し先で周りが竹ヤブに変わるあたりに、確かに空堀のような溝が這っていた。しかも北東に分岐もしている…


その向こう側は、なんとなく広大な屋敷などがあった曲輪のように見えなくもない…


が、城郭と言うには纏まりがない感じ。

こちらはこれだけにして、六所神社裏へ。


踏跡などを辿りつつ入ってゆくと、すぐに北へ伸びる土塁が目に入る。


この東側が郭内ということらしい。

たしかに、平坦な森が広がる😮


というわけで、全貌をつかむには輪郭になっているこの土塁を辿ってゆくのが良さそう。

少し進んで東へカーブすると、土塁空堀コンボがキレイに見える場所があった。

というか、こちら側の土塁が低くなって向こう側が高い😮


その、向こう側の土塁。

こんどは竹が濃いぃめ。


このあたりの竹ヤブは荒れ放題ではなく手が入れられている感じ。
集落の裏山でもあり、春の訪問は注意が必要そう。

そして、土塁の向こう側の曲輪。

こちらもキレイに削平されている。


ここは北側の段丘崖まで広がっているようだ。

こちらが主郭のようにも見えてきそうだが、この曲輪は西の境界がハッキリしない。

西の方、かなり奥まで平坦。


そして、最初に入った阿弥陀堂裏の空堀状よりかなり手前で、南北に走る空堀のようなものが現れる。


が、この空堀は北の段丘崖までは伸びているようだが、南側はいつの間にか消えてしまい、南まで伸びていないし主郭外周の空堀にも繋がっていない。

この北側が本当に曲輪なのか否かは、なかなか難しいところかも…

つまりは、西の方の境界がよく分からない…


さて、空堀に戻って東側へ進むか。

進むにつれて次第に断面が大きくなってくる。俯瞰しても立派な薬研のVが見える✨


最後は南にカーブして民家のある側に向かっている。

このまま南側の段丘崖まで出ているのだろう。


南側は民家を建てるために土取りされたとからしいが、見た目では緩斜面で下っていてよく分からなかった。

曲輪はここまでほぼ平坦。


下はすぐ民家で、あまりガサゴソやるのは憚られる…

よって、これで打ち止め。


次は成田線湖北駅に向かって、道すがら手賀城へ💨 

 

★柳戸砦

千葉県柏市柳戸

周辺に車を停める場所が無くバスの便も悪い。徒歩だとJR成田線湖北駅から約1時間。

丘城?

 

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(2025年9月16日 記)

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小森城は白井市の工業団地の北に隣接する丘の中に土塁や空堀などの遺構を残している。往時は手賀沼の前身たる手下浦(香取海の西端側)が大きく広がっていて、その南側の岸辺に立地していたということだが、江戸時代に干拓されて今は水田地帯。

歴史はよく分かっていないらしく、千葉一族との関係が伝えられる程度らしい。地元には敵対する手賀城の女城主に恋して攻められなかった城主の話が伝わるとか。


北総線小室駅から徒歩で富塚城に寄ってから訪問したが、なかなか距離があって昼過ぎになってしまった💦

白井工業団地の北端に城があり、直前まで通じている舗装道路からの登り口もあるので、まずは工業団地に入った。


現在位置(Googleマップで)

城への登り口は、工業団地内の道が行き止まりになったすぐ北の森。

コンクリにアルミの梯子が設えられた階段を登る。


で、登った左前方にいきなり❗️


もう城かよ❗️🤯


右端が埋められ傍らに廃小屋らしいものが建っているが、その左側には紛れもない空堀土塁コンボ✨

向こう側の端に土橋のようなものが見えるが、向こう側の土塁に虎口が無い…


他にこんな感じのウネも無いようなので、畝堀でもないらしい…


中央には、何となく土塁に切れ目が入ったようなところがある。

しかし、ここは外側に土橋が繋がっておらず、郭内へも道のようなものは降りていない。


土塁はシッカリ残っている。

堀底からも郭内からも天端まで3メートルはある立派なやつ✨


外の空堀を土塁上から東向きに俯瞰してみる。

西ほど断面が大きくなっていて、東側はだんだん窄んでゆく…


さて、郭内はかなり鬱蒼とした森で、全体を見渡すのは難しい。

が、野球の内野よりは広いようだ😮


南側だけでなく、西側もしっかりとした土塁に守られている。


その真ん中あたりに切れ目があった。

すわ虎口か⁉️

と思ったが、外側は城の西側の切岸に出るだけで、外へ動線などが通じているようすも無かった。

この主郭への入口、いったい何処に…?🤔


北側も、低くなりつつも土塁に守られている。

外側は、そのまま北側の今井地区にむけて落ちてゆく切岸。


この土塁に沿って東の方へ行ってみるが、夏場のこういう森の中は色んな生き物がいそうで怖い💦

なんとか50メートルほど進むと、土塁が少し高くなって櫓台みたくなる。


向こう側は一段下がっていて、ここで東西二つの曲輪に分かれるようだ。

この分かれ目が、とにかくハッキリしない…

北端以外はすっかり大人しくなった段だけで区画されているようで、🌿🌿に覆われるとサッパリ見えない…

何とか、🌿🌿の少ないところで捕捉😅

まっすぐ南北に走っているようだ。


外側の曲輪は、🌿🌿がいっそう濃密になって、何が何やらサッパリ😂

削平されているかどうかも、よく見えない…


それでも、東へ東へと進んでゆくと、だいぶ浅くなりながらも土塁空堀コンボが南北に走っているのを見ることが出来た。

内側の土塁


外側の空堀は、堀底に🌿🌿😂


ここから工業団地へ戻らずに畑の脇を縫うように通るトラクター道から退出することもできる。


全体は北の手賀沼方面を向きつつ南と東の丘続きに堀を入れて守っていたようで、だいぶ大人しくなりながらも土木工事の跡はしっかり残っていた。

工業団地を造成したときに、南西側が崩されただけでなく南側の一部に手が入ったようなのが、惜しいところか…

 

★小森城

千葉県白井市平塚

工業団地の外れで休日であれば登城口前に車を停めておけるだろう。

平山城

 

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(2025年9月16日 記)

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富塚城は北総線小室駅から国道16号を柏方面に5kmほど進んだ東側、鮮魚街道との交差点(白井市富塚)の北側にある。丘と谷戸が複雑に入り組む北総台地らしい場所で、現地でも存在が認識されていないようす。

歴史も全く不明らしい。


ちょうど健保組合のウォーキングイベント期間も始まって、歩く理由を何とかして作りたかったところから、車ではなく北総線小室駅から徒歩で手賀沼方面へグランドツアーすることにし、その最初に訪問したのが駅から5kmばかり離れたここだった。

途中で、駅チカの新京葉変電所に入ってゆく500kVの重幹線たちが、国道16号を跨いでゆく…


鮮魚街道まで来たら東に入って、すぐに北へ進めば城は間近。

城の南側から近づいてゆくと、手前から城の南側の外を東に入ってゆく切通し道がある。


ここから城の南側を見られるか、と思って入ってゆくと、向こう側の城との間に立派な堀のような谷が広がっていた😮

今は🌿🌿だけど、ほんと堀みたいな場所…


ここから城へは入れなかったので、道に戻ってさらに進む。

そして、舗装された道が二又になって右側が城のある丘へ登ってゆくところの手前から、細い土の道が右前方へ登っている。これが登城口になる。


登道はしっかり踏まれてはいるが🌿🌿っぽい。


右側には、かなり広い凹地が横たわる。


そして、この凹地の奥から竪堀状が登っている。

細いがキレイに道に沿っているので見つけやすい。ただ、少し🌿🌿め…


写真では分かりにくいが、目の当たりにするとけっこうしっかりとした薬研の断面を見せている。


道が登りきる手前で、竪堀状は右の方へ離れてゆく。

そちらの方に城があるが、道を登りきったあたりで踏跡がそちらへ入っているので、冬季以外はそちらから入ったほうが良いだろう。

 

踏跡に入って、ほんの2〜30メートルも進めば…

 

見えて来る…

 

だいぶ薄いけど、教科書のような空堀を渡る土橋+土塁を切り込んだ虎口が😮


これを見る限り、ここが往時から虎口だったのだろう。

この中が主郭。

それにしても、木って門構えみたいに虎口の両側にうまく生えるもんだなぁ😮


空堀は、天端間の幅が5メートル強か。

四街道の山梨城あたりと比べると、一回りぐらい小ぶりか。

左側は、ヤブが濃いぃめ。


右側はくっきり見えている✨


空堀の奥の土塁は、高さ1メートル足らずになっている…

往時は人の背丈ぐらいはあったのかな?


郭内はこんな感じで、蝉しぐれ中ではとても突っ込めない😂


幸い、右側の土塁周りがヤブ少なめなので、そちらから奥へ入ってみる。

虎口から右へ伸びる堀は、主郭の北側で先ほど登城道の脇を走っていた堀から分岐してきているようだ。


北の隅っこから南へ伸びて、西側を守る土塁。


外側には平場っぽいところが広がっているが、南へ下ると5メートルぐらい一気に下がる。

ここの切岸が、なかなかに立派✨


ここには、筑波山の男体山、女体山をご神体にした神社が祀られているが、もうボロボロ…😭


このあたりで主郭から外側に落ちる切岸も、また見事✨


東側は台地続きになっているが、いちおう空堀で区切りは入れてあったようす。

丘城を区切るにしては、ずいぶん頼りない感じもするが…


内側には、しっかり土塁も盛られている。


それにしても、佐倉の大篠塚城などと比べると丘続き側の守りはいかにも細い。印旛日本医大ちかくの鎌苅館に少し似ているかな?

歴史などは全く分からないとのことだが、より古い時代の城なのか、それとも他の違いがあるのか…

 

★富塚城

千葉県白井市富塚

近くに車を停める場所無くバスの便も悪い。徒歩だと高柳、西白井、小室駅等からいずれも約1時間。

丘城?

 

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(2025年9月12日 記)

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新井城は三浦半島の真ん中あたりから西、小網代湾と油壺湾の間に突き出た半島の先端のほうを占めていた城で、源平合戦のころからの名族、三浦氏が終焉を迎えた城として知られる。三浦氏時代には町中の三崎城と一体だったとも。

城域の広い範囲が東大付属の臨海実験所となっていて入ることが出来ない。また少し前まで京急油壺マリンパークがあり、訪問日現在で水族館などの建物解体工事中。

築城時期ははっきりしないらしい。一族内での争いから明応三年(1494年)に三浦義同の城となった。永正九年(1512年)に小田原の伊勢盛時が伊勢原の岡崎城を攻め落として三浦領に侵入し城を包囲した。義同らは引橋を落として籠城しつつ水軍を動かして八丈島を制圧するなど3年間にわたって抵抗を続けたが、扇谷上杉氏などの援軍は全て斥けられて孤立無援となり永正十三年(1516年)に城は落ちた。討たれた三浦一族郎党の地で海が油の壺のように黒く染まったことから「油壺」の地名が生まれたのだとか。


この日は健保組合のウォーキングイベント期間最初の休日ということでハードな城攻めはやめにして、ぶらぶら散歩のつもりで京急線三崎口駅から徒歩で訪問した😅

 

現在位置(Googleマップで)

城の玄関口になるのは、三浦市内・城ヶ島方面への県道26号が国道134号から分かれて間もなくのところにある、引橋。


県道は築堤で一気に飛び越えているが、そこには尾根が少し落ち込んだ堀切のような凹がある。

ただ人工的に掘ったものには見えない…

 

傍らには説明板もある。


この引橋から半島の先の方に構える新井城、三崎城を中心にこの辺り一帯を要塞化して守っていたか、三浦一族😨

 

引橋からすぐで城の方へ向かう道に入ると、遺構のない住宅地が続く。

三浦半島を東西に横断するような尾根上を進むのだが、両側に住宅が並んでいて周囲を見渡せるような場所は少ない。

ここは引橋から600メートルばかり入ったところで、尾根はじりじり高度を下げている。


道は1kmちょい先で広いバス通りに出、さらに城に向かって西へ。

ちょっとだけ、北側の小網代湾が見下ろせる場所があった。


現在位置(Googleマップで)

そして、かつて油壺マリンパークのあったところが近づくところで、左側に国土地理院の検潮所の看板が見えてくる。

もしかして、ここが内引橋…


どうやら、そうらしい。

検潮所まで行く気はさらさら無いので少しだけ入ってみると、深さ3〜4メートルの空堀状になっていた。

ただ向こう側はコンクリで護岸されている。


ここから少し先に、東大臨海実験所の敷地の南側を通って海岸に降りられる道がある。

ここからは遺構が見えるので、入ってみる。


この道は遺構ではないようだが、道端の土の法面がいかにも土塁…😮


しばらく進むと、説明板が見えてくる。

ここから奥に入ってゆく横堀は、柵されているが城の姿を今に伝える貴重な土木の跡✨

奥の方で左右に走る横堀に突き当たっているらしいようすも見えるが、もちろん関係者以外立入禁止。


説明板。


このあたりから先の道、もともとの急斜面の中腹にコンクリ板を渡しただけのようなつくり😮

おかげで、油壺湾までず〜っと落ちる斜面が壊れずに残っているか✨


道の上にも、切岸らしい段。


道はそのまま尾根状になって突端まで行けるようだが、海が見えるあたりで城域は終わりのようす。

いまは相模湾に向けてボコッと盛り上がった緑の斜面を見せるばかり…


折角なので海岸へ降りて、北側へ回り込んでみるか。もちろんこちら側もトラロープなどで規制されている。

海岸沿いは水平に層の走る露岩😮


北のほうへ進むと、いかにも城塁という傾斜と高さの場所も😮

この辺まで来れば人もいなくなる。ゴミは落ちているが…


この上はかつてマリンパークだったあたり。


北端の海岸沿いは崖で通り抜け出来ないが、少し上にごく狭い抜け道が通っている。

この経路は一部波打ち際を通り抜けるようなところもあり、海中は凸凹の岩場なので、潮位が高いときは通れなくなることがあるだろう。

こんなところも通る😨


そして、無事通過できれば横堀海岸から駐車場に戻ることができる。

横堀海岸には内引橋を渡した堀切の反対側が降りてきていたはずだが、残念ながら道や民家の庭などに埋もれたようだ。


あ…

途中にある三浦道寸の墓に寄れなかった💦

 

城をひと通り見て回ったあとは城ヶ島の猫さん達に会いに行こうと思って、三浦の市役所の方に向かってトボトボ歩いて退城した。

三浦氏時代には三崎城まで一体の城だったらしいとのことだが、それらしい痕跡とかはちょっと分からなかった😅


それにしても、途中で見かけた油壺湾の有様…

 

水軍の生まれ変わりじゃねぇだろうな❗️😨


★新井城

神奈川県三浦市小網代

内引橋の手前に市営油壺駐車場あり(1日1000円)。

丘城

 

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(2025年9月11日 記)

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この日成功裡に登城した中野城だったが、麓の熊野神社が城主秋山光朝の居館だったとの記述を説明板で目にし、時間があったので訪問することにした。

館跡は中野城のある城山の東南東3kmほどの麓にあって、いまは広域農道がすぐ西を通っている。 


北側少しのところに小さな駐車場があったので、そこに車を置いて出発。

山上は気温30℃ほどで涼しかったが、麓はガチ猛暑日…🥵


現在位置(Googleマップで)

近づいてゆくと、集落の中に盛り上がる社叢林…


社叢林だけでなく地面自体も盛り上がっていて、ミニ平山城のようになっていたようだ。

北東の隅っこまで行ってから、コンクリと石段の道で登ってゆく。

境内は周囲より高く、参道の脇にも斜面が立ち上がっている。


そして、熊野神社の最高所が境内。

けっこう広さがあり、東西に長いようだが中之橋で東郭と西郭に分かれていた名残のようだ。


南から登ってくる表参道の脇に史跡の標柱が立っている。


反対側には、光朝公供養の経筒に関する説明板。

建久八年(1197年)、十三回忌に弟の光経が営んだ大法要の際に経文を納めた経筒を埋設し、それが後年発掘されたとのこと。


さて、この館の中央には南北に堀が入っていて中之橋で渡り、東西両側が曲輪になってそれぞれの南側に門があったようだ。

西側がいまの熊野神社の境内で、曲輪の門がそのまま表参道になったようす。

中央の堀は残っていないようだったが、先ほど登ってきた参道の脇南側に、何やら登ってくる竪堀みたいなやつが…😮


この下に何があるかと東から回り込んでみると、秋山天神という扁額のついた鳥居が一段上に立っていた。


先ほどの竪堀状は、ここから入っていた。


これが東郭の虎口とすると、東郭は隅っこをだいぶ削り取られているような感じ…

もちろん素人考え😅

 

なおこの秋山天神、最初に見たときはちっこい石龕にしか見えなかった…


が、ここでお会いした地元の方のお話によると、中野城もしくは雨鳴城に敗れた秋山光朝が実子をひそかに舂米(つきよね、今の富士川町)の城大工に託し、その子が成長して父の御霊を祀ったのが、この秋山天神とのこと。
凄い歴史の一コマを、この小さな石龕は密やかに語っていたか😨

さて、遺構らしいものは他に無いようなので、南から西へ回って引き揚げるか。
帰りがけに、熊野神社の表参道に構える鳥居⛩️
もとは館の西門だったか。

そして、西のほうが丘続きっぽくなっているが、そちらから眺めてもしっかり盛り上がっている✨
もともとは堀が入っていたようだけど、見つけられなかった…

だいたい、こんなところか。

これでも盛り上がった丘の上に構えていた面影が残っているようなので、1城カウントね😎

西にそびえる山にを構え、最期はそこに斃れたという武人の足跡を、思わぬ形で偲ぶことが出来た。

 

★秋山光朝館

山梨県南アルプス市秋山角屋敷

200メートル北のこの場所(→Googleマップ)に駐車場あり。

平山城

 

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(2025年9月10日 記)