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三崎城は今の三浦市役所のあるあたり一帯が城域になっていて、往時を物語るように地形が入り組んでいる。

古くは北隣りの新井城とともに三浦一族の重要な拠点で、永正十五年(1518年)に伊勢盛時―――北条早雲―――に新井城もろとも攻め込まれて落城し、三浦一族終焉の地となった。その後は三浦水軍を引き継いだ盛時以降の後北条氏が水軍の拠点として利用し、小田原合戦とともに廃城となった。

 

遺構が眠っているという旧三崎中学校一帯を安田造船所グループの三浦地所が買い取り複合施設を整備するというニュースが駆けめぐり今後どうなるか分からんと思って、桜満開のこの日に京急電車に揺られて三崎口駅から徒歩で訪問した。

最寄りの市役所までバスの本数はある。休日がこの日だけだったので身体を動かしたかったのだ😅

 

現在位置(Googleマップで)

Googleマップにある搦手は、ここ。

市役所の手前から左に入る枝道に入ると、道なりで行ける。

完全に住宅街の中だが、法面の脇を斜めに登って右に急角度で折れる様子が、いかにも城。

 

登ったすぐ上の駐車場奥のこの小山の脇から戦歿者慰霊碑の方へ行くが、これがどうやら土塁らしい…

 

この標柱が示す、戦歿者慰霊碑を見に入ってみた。

小さな駐車場の中を突っ切って入ってゆく。

 

裏に低い土塁のようなものがあったり、奥で下から登ってくる道の入ってくるところが虎口のようになっていたが、城の遺構かどうかは…🤔

後で調べたところでは、これが堀切の跡らしい。その右側が物見台とか…

 

戻ってなおも西に進むと、城址碑と説明板が立っていた。

 

隣には、縄張図が掲示されている。

これが無いと、どこがどこだか…😅

 

ここは本丸虎口の前で、説明板の裏側に馬出があったらしい。

東に伸びる空堀が、今の道。

旧三崎中学校のある左側の低い斜面なんか、面影がある…

 

説明板の前、道の向こう側が本丸。

開発を待つ場所らしく、きれいに更地になっている。

周りに遺構らしいものは見えなかった。

西の端にほんのわずかだけ土塁が残っている?

 

今は市の第二分館になっている、旧三崎中学校。

この下に馬出が埋まり、外には曲輪が広がっていた?

 

旧校舎もだいぶ年季が入った姿になってる…

この旧中学校の門の前から西に向かって、急坂が降りている。

ここが大手とのこと。

 

この周りは見るからにコンクリートジャングルだが、左側に入ってゆくと本丸西側の切岸らしい土壁が残っている。

民家の軒先を細い道で通り抜けてゆくので踏み込むのを躊躇しそうなところだが怯まずに進むと、その先に西から登ってくる竪堀のようなものが…

 

下から見ると…

 

この北側に続いている緑の斜面も、本丸西側に空堀を挟んで描かれている帯曲輪の西側切岸の名残に違いない、と思ったんだが…🤔

 

他にも遺構が残っているのかも知れないが断片を探し回る時間はなかったので、ここからバス通りへ引き揚げることにした。

竪堀っぽいところの外を南北に走るここなんか、ゼッタイ空堀の名残だろうな…🥺

 
そのまま通りを北に歩いてバス通りに出たが、最後に旧中学校の周りだけ見ていこうと、東岡城辺稲荷社のところから登ってみる。

現在位置(Googleマップで)

これが東岡城辺稲荷社。

旧三崎中学校そばの斜面に張り付くように構えている。

 

サクラサク、の風景だが、今はここに生徒たちの喧騒は無い。

静かに花を咲かせているだけだった…


ここから最初の搦手までそんなに距離はないが、東側の斜面が曲輪外周の切岸っぽく残っている以外は、見ものが無かった…


時間がなかったので、今日はここまで🤚

三崎小学校の方へは行かず…

 

三崎城のこと、そしてここの再開発計画などについて少し調べたところでは、再開発事業者となった三浦地所としても経済性のみを追求するような開発はしないとのこと。また再開発されるのは本丸と旧三崎中学校、そして現三浦市役所の場所とのことで、周囲に残る遺構は範囲外らしい。


ひとまず全滅は免れそう😊


ただ縄張図を見た限りでは旧三崎中学校の校庭には馬出なども埋まっているようすで、発掘調査となると何が出土するか想像もつかないような気もする。

 

ここは成り行きを見守っていたいところだ。

 

★三崎城

神奈川県三浦市城山町

周囲は住宅密集地。バスの便が良いので公共交通機関利用が無難。

丘城

 

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(2024年4月12日 記)