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松平氏のではなく、相模の国は伊勢原の城。


岡崎城は伊勢原の駅から南に2km弱のところ、県道61号の西側に広がる丘陵地帯にある。

今は無量寺周辺に数面の曲輪、それに東の方に野陣台なる曲輪を残すぐらいだが、往時は反対側にも数百メートルの範囲を丸ごと城郭に取り込んだ、かなり広大な城だったらしい。


相模の名族三浦氏の一族であった四郎義実がこの地に最初の城を築いたが、当初は今より1kmほど南南西の岡崎神社の場所にあった。和田合戦などで執権北条氏と対立し敗北すると歴史の表舞台から姿を消した。

戦国時代になって三浦義同が岡崎城を居城としたが、このときは無量寺を中心とする場所に移転し、大幅に拡張もされていたらしい。

小田原から関東に進出してきた北条早雲こと伊勢宗瑞の攻撃目標となって攻め落とされ、再び歴史の表舞台に立つことはなかった。

廃城となった時期も不明という。

中世を通じて相模一帯で勢力をふるった三浦一族の終わりの始まり、そして東国に下ってきた伊勢氏が戦国大名北条氏へと変貌する過程の2歩目か3歩目ぐらいにあたる、歴史的にも重要な位置を占める城だろう。


ワタシの地元に近い城で北条早雲が関東に進出する手がかりにもなったという事で、城ヤを始める前から興味を持っていたのだが訪れる機会なく、この日ようやく伊勢原駅からの徒歩攻略と相成った。

実は無量寺の前まで車で行ったことがあったが、駐車場が無くて断念したという…😅


伊勢原駅の南口から西を通る県道61号に出て、ひたすら南へ歩く。

岡崎の交差点から旧道に入り、城所入口バス停のところから西の丘陵地帯へと登ってゆく。

周りは住宅がびっしり立ち並び、城の面影は全く無い…


→現在位置 

やがて、住宅地の間を通り抜けて丘へ登りきったあたりで右に曲がると、丘のてっぺんの広々とした畑に出る。
正面に相州大山が見えるが、今日は曇り空でほとんど隠れている…💦

ここが野陣台という曲輪で、城兵たちが集まって訓練などしていた場所という。


説明板も立っている。


ここから200メートルほど西に構える無量寺が、ここからも小さく見える。

この様子だけでも城の広大さに驚かされるが、往時はさらに向こう側にも城域が広がっていたというから、拠点としていた三浦氏の勢力のほどが窺える…


無量寺へは、ここから一旦南に下って、無量寺の案内が現れたところで鋭角に右へ曲がる。

ここから120mという。


登っていった先のこんなところ、コンクリなどで固められていなければ本当に城塞の雰囲気✨


クランク状の、いかにも城の虎口前という雰囲気の道を登ってゆくと、正面に無量寺の入口が現れる。

『岡崎城址』が本命らしいな😆


入ってゆくと、正面に本堂。

ちょうど彼岸の中日でもあり、線香の薫りが漂っていた。

墓参の人もちらほら…


本堂の前には説明板が立っていた。

ちょっと草臥れてるな…


無量寺には参詣や墓参向けに駐車場があるようだが、城址への訪問者を迎え入れようという雰囲気ではなかった…

寺の周囲もぐるりと墓地になっていて、とても余所者が踏み込めるような雰囲気ではなかったので、寺の外から北に回り込んで見る事にした。


下りながら北へ回り込んでゆく車道の脇なんか、ホント切岸の雰囲気そのまんまだな…


少し下ると、正面に森に包まれた小さな塚が見えてくる。

ちょうど、北側に「山ノ後」なる曲輪があったらしい場所で、塚は南側を守っていた土塁の一部だったか…?


塚の前は狭い竪堀のようになっていたが、ゴミやコンクリ片などが捨てられて汚らしいので、スルー…

奥には畑が広がっているが、少しだけ奥に行けそうだったので、入ってみる…


少し奥の右側に見えてきた畑、切岸のような段の上に載ってるな…


って、その手前…


めっちゃ立派な堀跡🤯


底が畑になっていたが、幅10メートル無いぐらいの少し低くなった帯状が、東に向かって少しうねりながら伸びている。

シロウト目にはどう見ても堀を埋めた跡だが、実際はどうなんだろう…🤔


ここから車道を少し進むと、岡崎義実の墓への入口が現れる。

道は西の方へ伸びているが、主郭の西側に並ぶ3面の曲輪の方へ回り込めるか…?


そう思って入ってみる。
道と畑に落ちる斜面が、きれいな弧を描いている。
右下の畑も、往時は空堀ではなかったか、との事…

100メートルほど先で、道と城の間に帯状の畑が入るようになる。
不覚にも写真を撮っていなかったが、そこも空堀の跡ではないかとの事。
この城は予習を十分にした上で、帯状に見えるものが畑であろうと道であろうと城の遺構かも知れない、という目で見ていないと、見逃すな…💦
なかなかに難易度の高い城かもしれない…

その南の末端で、城の盛り上がりの西端までたどり着いたようなので、森の中に隠れた小さな谷のようなところに入り込んでみた…

って…

コレ、どこの山城やね〜ん🤯

と、叫びたくなるほどの巨大な堀切が、森の中に埋もれていた。
外からは森に覆われて見えないが、堀底には灌木がパラパラ生えているだけで、全体を見渡せる。
案内などは全く無いが、主郭部の西側を断ち切っている堀切に間違いないだろう。

さて、この堀切を通り抜けると主郭の西側に南北に3面連なる曲輪の西側に出られるが、周囲はかなりきついヤブだし、すぐ西側は畜産農家らしい。
明示はされていないが私有地だろうし、ここから城内に入るのは慎むべきだろう。
少し戻ったところから、無量寺と西の曲輪群を仕切る空堀に登る道があるので、そちらに入ってゆく。
寺側はコンクリブロックの壁だし、上の墓地から丸見えなので写真撮れず…💦


寺の横を通り過ぎると、空堀のようなところへ降りてゆく…


これまた、デカい🤯


こりゃビックリだわ…


神奈川県内に残る空堀では有数のデカさではないか🤯

幅15メートル、深さ5メートルは下らないだろう。

こんなデカい断面の空堀が、南北に走る尾根を完全にぶった切って、曲輪間を仕切っている。

北条早雲に攻められる直前の岡崎城は東西・南北とも1kmを超える広がりを持っていたらしいが、その規模にふさわしいスケールだ。


堀の向こう側には手つかずの森…
もちろん、きちんと削平されたソフトボール場ぐらいの曲輪。


その向こう側に、もう一本空堀が走っている。
この尾根は2本の空堀によって3つの曲輪に仕切られているということだが…

これもデカっ🤯

いやいや、こんな立派な空堀が2本、それに西の端には堀切まで残っていたとは😮

こんな大規模な土木工事を施した立派な城に相模の名族三浦氏が籠もっても、北条早雲こと伊勢宗瑞の攻撃に耐えられなかったのね…🥺

戦国時代の中期にあたる永正年間でも、すでに大名同士の戦闘はそれだけ大規模だったのか…


いやはや、思いも寄らなかった巨大な土木遺構が残っていて、すっかり面食らってしまった。

現地の案内もネットやパンフレット等は岡崎城として無量寺を案内していて、モノ好きでもなければこの巨大な土木遺構に出会うことは出来ない。

この遺構が残っている一帯は恐らく私有地で、あまり踏み込まれたくない場所なのだろう。


とは言っても、間違いなく神奈川県では有数の規模、歴史的にも重要なポイントだろう城だけに、何とか多くの人の目に触れられるようになって欲しい、と切に思った。

 

★岡崎城

神奈川県伊勢原市岡崎

城址として整備されておらず、境内に駐車場はあるが参詣や墓参のためのものだろう。

平山城

 

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(2023年5月12日 記)