沖縄
版画家の名嘉睦稔さんが会場に現れた。子供たちの表情に緊張が
走り、次の瞬間こころからの笑顔に変わった。
「すごい絵じゃないかー!君が描いたのか。この絵は力があるねぇ」
結局、睦稔さんは「すごいねー!」ばかり連発していた。でもそれが
「すごい」のだ。あの太陽のような屈託のないこころからの笑顔に触れ
て、「すごいねー!」を連発してもらった子供たちは最高にハッピーだ
った。
八月十二日、北谷のアカラギャラリーにて、名嘉さんの作品を目の当
たりにしながらギャラリーの中で絵を描くというイベントに、家族総出で
参加した。
「すごいねー!君たちの絵に近づきたいんだよ、おじさんは本気で」
「教わってるのはぼくなんだよなー」
名嘉さんは何かを教えに来たのではなく、「子供に教わる」ことをお知ら
せに来てくれたのだ。
自分の仕事のことを考えた。テニス。ヨガ。・・・確かに教わってばかり
に違いない。
「はい、順番に並んで」
「早く並びなさい!」
「何度言ったら分かるんだ!」
分かってたまるか・・・でいいのだよ。君たちが順番に並びたくなるのは
時間の問題で、今それ以上に大切な何かと対峙しているのは分かる。
こころが踊るその何かの方に、僕の本当の興味は向けられていくのだ。
断食会 ~沖縄へ
まずは情報(読み物)から離れ、大きく深呼吸。ヨガの師匠はいいました。
本当の情報は今、体を包み込む宇宙でありそれを感じる私の身体、つまり
五感に心を添えた感覚すべてが常に受け取っているのです。・・・でも何か
ぱっとしない。よーし、五感&こころが喜ぶ旅に出てみよう!
で、今年の夏は沖縄に行くことにしました。
すみません、ぜんぜん断食なんかではなく、家族みんなで沖縄旅行。峻
じーじにも無理を承知で同行を請い、自分&妻&2男子&1女子を加えて
計6人の23日に及ぶ旅。仕事の私は13日間の途中参加。それでも目一杯
五感を、こころを、ひらいてひらいて、臨みました。
那覇空港に降り立つやいなや、横浜のそれとはまるで違う南国特有の密
度の濃い熱気。角度の違う太陽の光線。もっと湿気が多いイメージを抱いて
いたが、実際はからっと乾いた風が吹き抜けていた。そして・・・圧倒的に違う
のが・・・その速度たち。人の歩く速度。話す速度。飛行機が飛び立ってゆく
速度までが、なぜかゆっくりに感じられる。つまり自分のこころが、そのスピ
ードを緩められたのに違いなかった。雲の流れを眺めながら、ただ歩くことを
楽しむ瞬間。
「わーっ!海だよ」
隣りを歩く、帽子を後ろ向きにかぶった小学生が軽やかに声をあげた。
「おっ、淡いグリーンだ」
自分の子ではないその子の方を向いて笑顔でいった。小学生は恥ずかしそ
うにパパの向こう側にかくれてしまった。まあいい。とにかく最高にハッピー
な時間をみんなで共有していた。誰もがほのかに笑顔だった・・・・
本を読まない!~断食会?
そもそも、「宇宙の根っこにつながる生き方」なる天外先生の本だけを、
じっくり一年くらいかけて読めたらなぁ。なんて儚い夢を抱いた自分がい
けないのです。案の定、二回ほど通読して「ようし、これは将来自分が講
義(どこで?)をする時の教科書にしよう」てな意気込みで精読を始める
やいなや、「うーむ、これも、あれも、そうそうあれあれ!とベッドの周りが
アンゴー(坂口安吾のベッド周りをイメージしてください)状態になり、まっ
たく身動きがとれなくなっていくのでした。玄有さんや松本圭介さんに癒さ
れ、小池龍之介さんや苫米地さんに洗脳され、アルボムッレ=スマナサー
ラさんに叱られて、河合さんと斉藤さん(最早友達感覚!だれ?)に励まし
ていただき・・・・どうにかそのエッセンスは・・・・やっぱり「宇宙の根っこに
つながろう!」ってことだよね。と一人合点するなら、あら不思議、あっとい
うまに一ヶ月が過ぎ、八月になって蝉がギャンギャン鳴いてるではありませ
んか。で、しばらく読むのをやめてみようと。八月は読書の断食じゃ~・・・
その結果やいかに!
本を読む 7
いまはすでに退官していますが、東京工業大学に森政弘さんという非常に
ユニークな教授がおられました。この先生が、「スズメはなぜ電線の上に止ま
って落ちないか。一週間以内にレポートにまとめて提出せよ」という問題を学生
に出したことがあります。それにたいして、一週間観察したけれどもスズメは一
羽も見つからなかったとか、手のひらの上に立てた棒を倒れないようにするの
と同じような自動制御をスズメはやっているのだとか、あるいは、指のグリップ力
が非常に強いのでスズメは落ちないのだとか、いろいろなレポートが学生から提
出されました。そのなかで森先生が一番感心したのは、スズメは落ちてもまた飛
べると思っているからだ、という答案だったそうです。
安心して電線の上に止まっていられるメンタル。確かに何よりも頼りになる自ら
の飛行能力。ふと、子どもの頃に自転車に乗れるようになった時の、あのバラン
ス感覚を想像してみた。つい先日、次男のアキが補助輪をはずすといって練習
に付き合った。「よし、乗れてるぞ、自分で乗れてるよ。危ないと思ったら足を着
いてしまえ」 これこれ!そう、いざとなったら足を地に付けて立ってしまえば
よいのだから、安心して細いチューブにまたがって、バランスを楽しんでしまえば
よいのだな。
思えば毎日の生きる道。右にふらり、左におっとっと。行こうか行くまいか、思い
悩んだりしているけれど、暖かな春のそよ風のごとき「あの世」に抱かれて歩んで
いると感じられれば、バランスをとったり、とり損なって転んだりしたとして、それら
の機微のすべてを楽しめるのだろう。ひたひたと額に滲む汗のごとく静かな、音の
ない感動を楽しみますかな・・・・!?
本を読む 6
でも、戦後50年経ち、生活が豊かになったからといって、人々は本当に
幸福になったといえるでしょうか。
私たちは、体にありあまる食物を与えて、太るのを心配しています。しかし
その反面、魂が栄養失調になっているとはいえないでしょうか。
吉野弘さんの「burst」という詩のなかに次のような言葉があります。
ー 諸君!
魂のはなしをしましょう
魂のはなしを!
なんという長い間
ぼくらは 魂のはなしをしなかったんだろう ー
ひょっとすると私たちは、魂の存在そのものすら忘れてしまっているのかも
しれません。
それでは、魂の栄養とはいったい何なのでしょうか。私はそれを「心の底か
らの感動」だと思います。現代人がどこかで満たされない気持ちをもっている
のは、味気ない日常のなかで、魂のしびれるような感動からあまりにもかけ離
れた生活を送っているからではないでしょうか。
そ、そうだと思います・・・・。
か、感動・・・・あまりできていませんね。
先日、子供たちと釣りに出かけ、7歳のタスクが20センチのタナゴを釣り上げ、
「やったー、やったー、釣れたぞー、でかいよー、やったー」
と感動の雄たけびをあげていました。・・・・ヨガ・・・・釣り・・・・・まあまあ・・・・・?
子供たちは時折感動しています。自然現象や生き物に触れた時に、無条件の
感激に襲われる時があります。
「でっけー!このアリ、でかっ!」
とかです。じ、自分は辛うじてその子供たちを観察して、感極まって泣いたりして
いるのですが。自発的とはいえません・・・。なんだか寂しいお話。しばらく続いて
僕の意識を占めるキーワード「感動」。感動できる自分は、はたしてその純真さを
保持しているのでしょうか?
静かに見守ってあげるしかありませんね・・・・!
本を読む 5
仏教では、「この世」の苦しみのベスト4を「生・老・病・死」とし、これを「四苦」と
呼んでいます。私からすると、「死」が苦しみであることには「この世」の見方にと
らわれており、若干「異議あり」ですが、常識的には「老・病・死」が苦しみである
ことは理解できるでしょう。しかし、なぜ「生」が苦しみなのでしょうか。
私はこういうふうに解釈しています。「生」については、「生きる」という意味では
なく、「生まれる」という意味で「四苦」のトップにあげているのだ、と。そのとおりだ
としたら、仏教はさすがというべきでしょう。
なぜならば、もしいま述べた私の直感と確信があたっているとしたら、「あの世」
は、みんなが一体になっており、無条件の愛にあふれた、本当にすばらしいところ
のはずです。そんな居心地のいいところからセパレーションが起きて「個」となり、
「この世」に出てくるわけですから、生まれることが苦痛でないはずはありません。
それは、おそらく苦しみのきわみだと思います。
僕は父と母を亡くしているので、二人とも「あの世」に暮らしていることになります。
まずは「あの世」が無条件の愛にあふれたすばらしいところだ、といわれると何とも
いえない安堵の気持ちが生じて、ありがたいなぁと思います。先日などは、両親が
暮らすのどかな田園風景のなかの平屋のログハウスを、数回に分けて夢に見たく
らいなのです。ちょっとメルヘン過ぎはしますが、周りの家々や登場する人々も皆、
心から安心して暮らしている風情なので、まったく違和感がわかなかったのです。
これっていいですよね・・・・・!
本を読む 4
バルドについて・・・・
「私はぜんぜん信じてなかったんですけど、このあいだ息子がゴルフ
の練習にいった時に、見ちゃったらしいんです。・・・幽霊・・・」
「えー、怖いー!」
今日のクラブは朝の雨でコートが使えず、重要事項の報告会。20歳
前後の息子さんに妹がいる、家族構成が共通の女性スタッフ同士の
お二人。ほのぼのとしたご家族の絵が浮かぶお話の中に、ほんのりス
パイスを効かせた幽霊の出現。
「いるんですかね、そうゆうのって。原田コーチは会われたことあります
か?遭遇というか・・・」
「僕は会えてないですねー。でも何となくですけど、そういうのっている
と思ってます。チベット密教ではバルドっていうらしいですよ。僕らが今
いる状態が<この世>だとすると、死んで成仏して<あの世>の仲間
に融合していく。そんな時に<自分>という個だけは残った状態で<あ
の世>の住人になっている人をバルドといっているみたいです」
テンゲさんが「<あの世>をカルマの下着一枚でウロウロしている」と
表現されたバルドについて、まるで僕の話のように語ってしまった。
「でも、ほんとうに<あの世>の仲間と融合できて、尚且つ<個>が残
ってしまうなんて状態があるんでしたら、ちょっと体験してみたいかも」
そうですね。なんだか気味が悪い、と遠ざけられることの多い幽霊さん
ですが、・・・・・・
宇宙は、全体として、一つの生命体です。その基本は、「無条件の愛」
であり、また「仏性」であり、宗教が神や仏と呼ぶ概念と一致します。(「
ここまで来た<あの世>の科学」テンゲさん)
・・・・・・・のでしたら、<あの世>という大いなる愛に抱かれながら、解脱
できずに霊界を彷徨うバルドの身になってさえも、柔らかな琢光に包まれ
た幸福感の中にいられるのかもしれない。
「なんだか幽霊さんに、親しみが湧いてきました。そろそろお会いできるか
もしれませんね」
「そ、そうですね・・・・・」
「むにゃむにゃ・・・・・・・・!」
本を読む 3
また、カルマを着ないと、普通の人間は肉体をまとうことができません。
いわば、カルマは肉体の下に着る下着のようなものでしょう。
このように、私たちは、まずカルマの下着を着、その上に肉体を着て「こ
の世」に出てきます。つまり、二番目に着る着物が肉体なのですが、とも
すると私たちは、この肉体を自分自身だと錯覚しがちです。
食欲とか性欲といった、仏教用語でいう「煩悩」は、主としてこの肉体に
付随した欲望です。ですから、肉体を自分自身だと思い込んで生きてい
る人は、「煩悩」を追求することが人生だと勘違いするわけです。
してたなー、勘違い。テンゲさんは「自分」なるものは「あの世」の中で、
「カルマ」をまとった時点でスタートするものとしています。
ところで、死んだあと、生まれ変わりもせず、解脱もできない状態をチベ
ット密教では「バルド」(中有,中陰)といっています。
「あの世」は、常に私たちの内側にも存在しています。その「あの世」の
上に「カルマ」の下着のみをまとった状態が「バルド」で、さらにその上に
肉体という着物をまとったのが「この世」の私たちなのです。
なるほど、分かりました。「あの世」という恒常的な、愛に満ち溢れた宇宙
空間(集合的無意識、暗在系・・・)、いや時空をも超えた広がりのある場所
に、「カルマ」を背負った瞬間から「個」がスタートして、肉体を授かったとこ
ろからを「この世」と表現する。・・・ことにしましょうか。ってな感じですかね。
何だか少しだけ、「死」を遠ざけずにすみそうな、「あの世」に対する愛着の
いだき方。自分という「個」に対しても、あまり意固地にならずに客観視できそ
うな発想法を、優しく紹介していただけたようで、今の自分にはしっくりきました。
これからは、「この世」だけで右往左往するのではなく、「あの世」の世界にも
仲間を見つけて、みんなで楽しく生きたいものですね・・・・!
本を読む 2
前に述べた「ホログラフィー宇宙モデル」、ユング心理学、東洋哲
学などから、宇宙の構造について共通のある一つの結論が導き出
されます。
それは、ふだん私たちが生きている、目に見える「この世」のほか
にもう一つ目に見えない「あの世」があり、この両方が、表裏一体と
なってできているということです。
高名な物理学者のボームは、「あの世」には「この世」のすべての
物質、精神、時間、空間などが全体としてたたみ込まれていて分離
分離不可能だ、と述べています。
ここでは「あの世」と「この世」の関係を、電磁界とテレビ画像のしく
みにたとえて説明しておきたいと思います。これなら、何となく「あの
世」の感じがつかめるかもしれません。
「この世」はテレビ画像のようなもの
私たちが毎日見ているテレビ画像は、いうまでもなく放送局から電
波として送られてきてます。放送局のアンテナから電波が放射される
と、広大な空間に「電磁界」ができます。それを家庭のアンテナで受信
し、信号処理するとテレビの画像が出てくるわけです。
かりにいま、私たちが見ているテレビの画像を「この世」、電磁界を
「あの世」としてみてください。平面と立体空間との差はありますが、そ
の違いは無視することにしましょう。そうすると、いくつかのことがわか
ってきます。
まず一つは、目に見えない「あの世」の存在です。電磁界は目に見
えないけれども確実に存在しています。「あの世」も同様のものと考え
られます。
第二に。「あの世」と「この世」が一対一に対応していることです。電
磁界が存在しなければ、テレビに画像は映りません。電磁界とテレビ
画像は一対一に対応しているわけです。
三番目に、「この世」のなかのあらゆる物体、人物やビルや乗り物や
自然が、「あの世」にすべてたたみ込まれているということです。画面の
なかの人物や物体は、電磁界の特定の場所に存在しているわけでは
ありません。成層圏を含めたあらゆる空間に広がる電磁界全体のなか
に、渾然としてたたみ込まれていて分離できません。
したがって、私たちが「この世」に生まれてくるというのは、テレビのス
イッチを入れた状態にたとえられるでしょう。画像に人物が映し出される
ように、私たちは「この世」に生まれ、生き生きと動きはじめます。
また、死ぬということはテレビのスイッチを切った状態にたとえられる
でしょう。スイッチを切っても電磁界はなくなりません。画像のすべての
要素は電磁界のなかにたたみ込まれたかたちで存在しつづけます。も
う一人の根源的な自分は、生死と無関係に存在しつづけるわけです。
「あの世」は常にあり続ける。それだけでもほんの少しだけ安心できる
ようなこの話。僕の父と母も、「あの世」の住人として僕らと共存している
のかな・・・・・!
本を読む
「宇宙の根っこにつながる生き方」 テンゲシロウ サンマーク出版
この本は古本屋さんで100円コーナーに平積みされていたのですが、
明らかに他の本とは異質の存在感があり、僕を凝視しているように感じ
てすぐに手に取りました。
これから暫くは、こちらの内容を、じっくり紐解いていくことにいたしまし
ょう。何とも言えない穏やかな風と共に、一言一言がこころに響きました。
~はじめに~
本書のテーマは、「幸福とは何か」そして「どうしたら幸福になれるか」
ということです。・・・・・
私たちが幸福になれる道は本当は一つしかありません。それは、「宇
宙の愛」を感じるということです。それ以外の幸福はありません。
世間一般には、お金や名誉、友人、恋人に恵まれることが幸福だと思
っている人が多いでしょう。もちろん、「宇宙の愛」を感じている人が、それ
らのものに恵まれることはあります。しかし、そのことが幸福の要因では
ありません。何ももっていなくても、生きている一瞬一瞬が光り輝き、常に
至福感に満たされている人もたくさんいるのです。
何をするにも、大切なのは大地とつながっている実感をもつこと。ここ数
年、ヨガとテニスの実践によって得られたこの感覚と、テンゲさんのおっし
ゃっていることが、スムーズにつながったように感じたのでした。
「宇宙の根っこ」とは、私がいままでの著作で述べてきた「あの世」、ある
いは「本当の自分自身」といい換えてもよいでしょう。
私はこのことを、高名な物理学者であるデヴィッド・ボームが提唱した「ホ
ログラフィー宇宙モデル」と、深層心理学のユングが提唱した「集合的無意
識」の二つの説からヒントを得て発見したのです。それらのまったく異なる
学問領域からの説が、実は共通のことをいっている。 そして、これこそが、
「あの世」の実態だ!と思ったのが、その出発点でした。
僕にとって「あの世」とは、注(僕の父)と千鶴子(母)・・注は僕が4歳、千
鶴子は38の時他界・・が住む場所であり、のちに本文でテンゲさんが述べ
ているように、「あの世」と「この世」は表裏一体であるという感覚がありまし
た。このようなスピリチュアルな内容の本では、きっと、同じことがニュアン
スや神様の名前を変えて語られていたりするのでしょう。その中で時々、ス
ーッと心に染み込んでいく言葉や表現に出会えるようです。何とも楽しい時
間です・・・・・!っとこれでは何だか分かりませんね。テンゲさんはとてもわ
かりやすく表現しているので、おいおい紹介していきます・・・・・

