「アカペラで歌いました : ウイラニ : 修正版

「「マカラプア ~ プア カーネーション」日本語歌詞の訂正、そして語られない思い」

            「アカペラで歌いました : マカラプア ~ プアカーネーション

        「「マカラプア 」〜 「プア カーネーション」 メドレー について

                              「ポリネシアの歌

 

【はじめに】

 

「マカラプア ~  プア カーネーション」の 歌う日本語歌詞の案 を出させていただいた時、落ち着かない気持ちがしていたのですが、ようやく、「プア カーネーション」のところで間違いを犯していたことに気が付き、訂正させて頂くことにしました。

 

しかし、この誤りは単なる解釈の間違いではないと思います。大きな声で叫び出したいのに、言えない。だから歌う。今の私達には馴染みの少なく見えることですが、歌舞伎の主題である「義理と人情」の世界を振り返ると分かりやすいかと思います。分かっていても、お上の前では言えない。そんな世界は、数百年前の日本にもありました。しかし、ポリネシアの世界では、それほど昔のことではありません。言えないから歌う。考えれば、和歌にもその様な側面があります。もとより詩とはそのようなものなのです。

 

以下では、「プア カーネーション」の部分の日本語歌詞の訂正をさせていただくと共に、今までに考えさせていただいた中から、同じ様な香りを感じた歌について触れてみたいと思います。

 

 

 

 

【「プア カーネーション」の部分の日本語歌詞の訂正】

 

「プア カーネーション」の部分は以下のように考えました。色の付いた部分が考察の対象です。

 

  7 ʻAuhea wale ana ʻoe            どうぞ お聞き 下さい 貴方
  8 Pua carnation kaʻu aloha        カーネーションは 私の 愛

  9 A ke lawe ʻia ʻala ʻoe            運びさられた 香気な貴方
10 E ka makani pā kolonahe        心地よく 吹く風に 誘 われて

11 Ke aloha kai hiki mai          この愛が、 この私に生まれた
12 Hōʻeha i ka puʻuwai            苦しめるのです 私の心を
13 Noho ʻoe a manaʻo mai        貴方がいらして 心を向けてくださるなら
14 Hoʻi mai kāua e pili          お戻り下さい 私達共にあるため

 

 

 

この 10行目「E ka makani pā kolonahe」で「kolonahe (心地よく)」は情感を表す言葉です。「大きい」や「小さい」も主観的な言葉ではありますが、他の人が見ても賛同できるものです。しかし、情感はその人の心の動きによって決まるもので、他の人が見て判断することはできません。カーネーションの花、つまり貴方、を運び去って行った曖昧な流れ「ka makani (微風)」を「心地よい」と感じたのは、他の誰でもなく、勿論「貴方」ではなく、「私」であるということに思いを新たにしました。ですから、この詩の「私」は深い悔悟の下にあり、そしてそれは、この「kolonahe 」の緊張感に溢れた歌われ方に現れています。とすれば、上記の「心地よく吹く風に誘われて」という歌詞は、他人事のようで、作者の意図を十分に表していない様に思われてきました。色々と考えた結果、この行は以下のようにするのが良いと思います。

 

  7 ʻAuhea wale ana ʻoe             どうぞ お聞き 下さい 貴方
  8 Pua carnation kaʻu aloha         カーネーションは 私の 愛

  9 A ke lawe ʻia ʻala ʻoe             運びさられた 香気な貴方
10 E ka makani pā kolonahe         吹く風穏やかに 心地よく

11 Ke aloha kai hiki mai           この愛が 生まれ来た愛が
12 Hōʻeha i ka puʻuwai             苦しめるのです 私の心を
13 Noho ʻoe a manaʻo mai         貴方がいらして 心をお向けなら
14 Hoʻi mai kāua e pili          お戻り下さい 二人共にあるために


拍との関係は次のようにすればよいでしょう。

 

10       ❍           ❍         ❍               ❍  ❍       ❍    ❍              ❍
         吹く風   穏やかに 心地     よく

 

( 11/4   「吹く風穏やかに 心地よく」としましたが、三行目との関係がはっきりしない気がします。「その風穏やかに 心地よく」としたほうが良いかも知れません。)

 

ところで、この「プア カーネーション」の詩は何をうたっているのでしょうか。既に論じていることですが、改めて書いてみるとこうなるでしょうか。衣装と踊りの印象が強いので、どうしても仰ぎ見る言葉使いになりますが、こうなるでしょうか。

 

 「一節目」

 お聞きください。

 

 カーネーションは (今思えば) 私の愛の人なのです。

 そして、穏やかで心地よい(新鮮な) 風が吹いてきた時に、

 お去りになった方なのです。

 

 「二節目」

 この方への愛は (今) 明らかになってきたのです。

 その愛が私の心を苦しめるのです

 

 貴方が (いずれかに) いらっしゃり、私を (まだ) お思い下さるなら、

 (再び) 共に過ごすことはかないませんでしょうか。

 

 

カーネーションの花の、あの方は、心地よく(新鮮) な風が流れてきた時に、去って行かれた方だったのです。それは、「私」には、ごく自然に思えたのです。しかし、あの方への愛が明らかになった今、そのことが「私」を悔悟の思いで苦しめて居るのです。つまり、「悔悟」と「願い、あるいは希望」の詩なのだと思います。そのことは、「pā kolonah」を強調することで明確になるのですから、日本語歌詞も対応しなければならないと思い改めたのでした。

 

( 11/5    原歌詞では「運び去られた」となりますが、運んだのは「makani (微風) 」でしたから、完全な自発ではなかったにせよ、ほぼ、ご自分の意志で去られたのです。この辺の複雑な言い回しは、下記のような見立てから来ているのでしょう。つまり、共和国政府による強い圧力の下、王政側に付く多くのハワイ民衆が傷つくのを恐れて、女王自らがご退位の宣言をなされたという、事情から来ているものと思われます。「マカラプア」はこの様な背景のもとに作られ、歌われていたのでした。)

 

これも繰り返しになろうかと思いますが、この曲の解析を行った項 において、この曲は、リリウオカラニ女王の下でのハワイ王朝をカーネーションの花に託して歌ったものであることを既に論じています。作者の Charles E. King は カメハメハ学校で教鞭をとる知識人でした。彼は、当時の米国の圧倒的な文化の力を理解していたでしょう。その様な知識人は変革に憧れます。古い王政を脱して、民主主義的な政治と文化の下に加わるのが望ましいと思っていたに違いありません。しかし、自らをハワイ人と見定めた時に、ハワイ王朝が自分たちにとって大切なものであったことに思い至ったのでしょう。しかし、米国併合が進行する中では、表立ってそれを言うことはほぼ不可能でした。それで、リリウオカラニ女王の下でのハワイ王朝の復活を思い描いて、この詩を作ったのだと思います。詩の最後の二行は、お願いする形になっていますが、直接にお願いできる状況ではありませんでしたから、ほぼ、祈りの言葉だと考えられます。ですから、これは「悔悟」と「祈り」の詩です。そして、どうも調べてもはっきりとしないのですが、作者の Charles E. King はこの詩作を期に、ハワイの民族文化を意識した曲を書き始めたように思います。そうすると、詩作は彼にとっての祈りの実践だったと言えるかも知れません。

 

King の祈りは聞き届けられたでしょうか。勿論、歴史は、彼の求めたものが実現しなかったことを明らかにしています。では、祈りは無駄であったのでしょうか。それも明らかです。ハワイ民族文化復興の機運が高まるという形で、叶えられたのです。

 

それでは、何故、ハワイ王朝の復活は叶わなかったのでしょうか。ここにも明らかな答えがあります。ハワイが経済的に自立できそうになかったからです。当時のハワイは、砂糖キビの プランテーション栽培に基づく砂糖生産を経済の基礎としていましたが、これは米国内のフロリダ産の砂糖と競合しており、更に国際的にも、その様な砂糖生産のプランテーション農業は成り立たなくなっていたのです。そうすると、ハワイの独立を維持する経済基盤が失われることは明らかでした。米国も、併合することばかりを考えていたわけではありません。国際的な干渉を望まない党派はハワイ併合には後ろ向きでした。ですから、ハワイが経済的に独立できるなら、併合されない道もあったのではないかと思います。King は知識人であり、プランナーではありませんでした。そこに、彼の祈りの限界、つまり、予見できる期間での祈りの実現に対する限界があったのでしょう。

 

 

 

 

 

【語られない思いの歌】

 

詩とは元来が祈りでありました。それは今でも正しいと思います。胸にたぎる思いを公に言えない時、何かに仮託して歌を書くのではないでしょうか。公然と言えないとき程、その思いと仮託される何かとは違って見えるのが良いはずです。分かりやすい例としては、和歌でしょうか。千年以上前の厳密な貴族社会であった過去、母系社会でありましたから、ある男がある女に思いを告げるには、恋しいと綴った手紙を女の居る家に送って気を引くところから始まります。身分上の不都合がなければ、何の問題もありません。問題は、女の身分が遥かに高かった場合や、女に既に夫がいた場合です。その様な場合には、時候の挨拶や、遊参遊行のご報告の体をとって思いを伝えることになりましょう。他のものが見ても、一寸不思議ではあっても普通の歌ですが、当の女が見れば、「ははあ」となるでしょう。「Do the Hula」ではありませんが、その後はロマンスです。

 

ポリネシアの歌には、このようなものが結構あるのではないかと思います。

 

この素人カメラマンにとって最も印象的だったのは「リマタラ (Rimatara)」です。これはタヒチ (正確には仏領ポリネシア) の歌です。この歌を同じくタヒチの「アウエ テ ネへネへ」と比較した項「リマタラとアウエ テ ネへネへ(タヒチ)、そして次」を書いたことがあります。短いので、詳しくは読んでいただきたいのですが、大きくなっていくことを誇る「アウエ テ ネへネへ」は (多分) タヒチ本島の歌であるのに対して、「リマタラ」はタヒチに編入された最後の島の歌です。正式名が示すように、タヒチはフランス領なのですが、リマタラから見れば、タヒチ本島を中心とするソサイエティ諸島の勢力に併合されたことになります。それもあって、リマタラ島ではタヒチ本島が良く思われていません。タヒチの中では、人々はタヒチ本島の最大都市で生活に便利な パペーテに移住する傾向があります。日本であれば、人々が東京に集中していくことは、全国一様です。ところが、リマタラ島だけは別で、リマタラから島外に出た人はパペーテには行かず、再び リマタラへ戻る割合が多いと報告されています。[1]   そして、「リマタラ」は何を歌っているのか良く分からない、謎の多い歌だったのです。一連の考察の結果として分かってきたことは、歌詞の不明な部分は タヒチに対して批判的であるか、過去の自国の王室を称揚した箇所だったのです。リマタラは「rimatara」ですが、これは「rima  tara (自由な指)」とも書けます。それで、この歌の中では「リマタラ島は自由な指」と、あたかも自主独立を歌っているのですが、外部に対しては「親指の意味である」と説明されることが多いようです。

 

「リマタラ」の判り難さ政治的なものだったのですが、「ファカテレテレ(Fakatere tere)」の不思議さは別のものです。

 

この歌は、タヒチ、あるいはフランスの大歌手 ガビロウ (Gabriel Lewis Laughlin) の持ち歌で、同名のアルバムの第一曲目です。これは従来、女の子が空を飛び回る ファンタジックな歌とされてきました。英語の歌詞でもその様に書かれているものがあるところを見ると、曲の出版側の説明がそのようなものだったと思われます。歌が書かれている言語は トゥアモトゥ諸島で話されているタヒチ語方言の パウモトゥ語 (方言群) で、声道閉鎖音 (glottal stop) がありません。現代のタヒチで話される言語は フランス語と正調 タヒチ語が殆どで、トゥアモトゥ諸島でさえ、方言を話せる人は少なくなっています。ですから、音楽関係者の集まる タヒチ本島では歌の歌詞を理解できる人が少ないのだと思います。その結果、出版側の説明が歌の内容であるとされてきました。ところが、パウモトゥ語に従って解析してみると、同様に童話的な内容ではあるのですが、空を飛び回るような話ではなく、しっかりと地に足の付いた、夫婦の馴れ初めを歌い、子どもたちへの思いを綴る歌だったのです。というのも、彼には、10年ほど妻  Moeata Sassonの ポリネシアン舞踊団の専属歌手を勤めた過去があり、夫婦の馴れ初めは歌手としてのキャリアの中でとても大事なことだったからです。しかも、このアルバムは、一時声が出なくなってフランス本土で治療に努めた後の、復帰後第一作目のものでした。当然、ここには、過去と未来への ガビロウの思いが歌われているはずなのです。では、何故、出版社側は女の子が空を飛び回るというファンタジックな説明をしたのでしょうか。それは、復帰後第一作目のアルバムの評価に対する不安があったからだと思います。ガビロウの決意が込められた歌であるとすると、アルバムの評価がそれほど良くなかった場合の ガビロウに対する評価にも影響すると考えられたからでしょう。後ほど ガビロウ自身が、歌の内容を表しているような PV [2] を出していますから、間違いないと思います。声道閉鎖音のない パウモトゥ語の音はとても柔らかく伸びやかですから、ガビロウはその効果を狙った面もあるとは思いますが、表立っては決意を表明しにくい状況であったという面もあるようです。

 

そして、本格的な調査に入れないものの、疑わしいのが「タンガタフルフル(Tangata Huruhuru)」なのです。

 

この歌は Eddie Lund がタヒチ本島で採録した、未だに正体の知れない謎の歌です。歌い出しを書きます。

 

  Tangata Huruhuru

     traditional song

     arranged by Eddie Lund (1957)


 tangata huru huru
 ka mate ka ora
 taka hia tenga renga   (二回繰り返し)
 umi tenga renga     (二回繰り返し)
 hui huia hui huia       (★後述)
 kikiss kero      (三回繰り返し)

 

感じは パウモトゥ語ですが、違います。Lund は トゥアモトゥ諸島にある プカルア島の鳥の不思議な歌「テ マヌ プカルア (Te Manu Pukarua)」を紹介した人でもありますから、「タンガタフルフル」が不思議な歌であっても不思議ではありません。なにしろ、タヒチ語にはない「 s 」音と「 k 」音があり、やはり正調 タヒチ語にはなく パウモトゥ語で見られる「ŋ」音があります。この音は「ng」もしくは単に「 g 」と書かれる音です。日本語で言えば、「グ」の様な音になります。ですから、マオリ語という説が出たり、サモア語かと思わせたり、パウモトゥ語で考えさせてみたりと、正体のわからない歌です。しかし、全くのデタラメかと言えば、採録した人物はしっかりとした人ですし、歌自身も意味の有る言語としての流れを持っているように見えます。仮説ですが、これはタヒチ語で、歌った人がわざとわからないような歌い方をしたものだと思います。Lund はタヒチ語の素養を持っていましたから、分からなければ何度でも歌ってもらったはずで、歌うたびに違うのであれば採用しなかったはずです。しかも、「traditional song (伝統的な歌) 」とあります。ですから、歌った人にははっきりと歌としての意味があったのでしょう。最近、タヒチの歌として「タムレ(tamure)」の語源について調べたことがあるのですが、その中で出てきた タヒチ語の合いの手

 

   「tamure tamure e te mure mure ra」

 

が、「タンガタフルフル」では

 

   「タムレ タムレ エッサ ムレムレ ラー」

 

と歌われているのです。タヒチ語には無いはずの「 s 」音がここに立派に登場しています。多分、「 t 」音をルーズに発声すれば「 s 」音になるのですが、子音に重きを置かないタヒチ人はそのことに無頓着なのです。( Davies の辞書[3] の文法の部にそうあったと記憶します。)  また、ハワイの歌「ハワイアン ウォー チャント(Hawaiian War Chant)」では ハワイ語にないはずの「 t 」音だらけですから、逆にすれば、「 k 」音がいっぱい出ていてもおかしくはないのです。タヒチ語の声道閉鎖音を崩せば「 ŋ 」音は出てきますから、「タンガタフルフル」はタヒチ語の歌として解釈できると思います。では、なぜ、Lundには意味がわからないように歌ったのでしょうか。それは、タヒチ自治政府に対する批判が込められた歌であるからだろうと推定されます。歌った人は、それなりに身分のはっきりした人に違いありません。あるいは、自治政府に関係した人かも知れません。それなら、政府批判はまずいです。

 

最後に、空想的な話として「ウイラニ (U`ilani)」をあげておきたいと思います。

 

以下の通りの歌です。

 

  Uʻilani
       by Lena Machado

 

 Uʻilani kuʻu lei               ウイラニ  わが レイ
 Kuʻu milimili ē               わが いと 愛(いと)しき子
 He pōkē pua mae ʻole ʻoe          褪せることない花束    あなた
 No nā kūpuna             祖父母への ために

 Kou uʻi ua ʻike ʻia             その たおやかさ  知られ
 Kō aloha ua hiʻipoi ʻia          あなたの 心 守られん

 Ke ʻala onaona kō kino           その 香り 芳しき  からだ あなた
 Kaʻu e liʻa mau ai             われ つねに求めん

 Uʻilani e ō mai ʻoe           ウイラニ  とわに居られん
 O ʻoe nō koʻu puni              あなたこそ  わが愛

 Uʻilani my own              ウイラニ わが子
 You were sent from heaven above   あなたは天の贈り物
 In my bosom I’ll caress you      私の胸にあやす   あなた
 With a lullaby             子守唄で

 

 

この歌の歌詞には疑問点は全くありません。読んで歌って、そのままの曲です。しかし、作者の Lena Machado は歌詞に『カオナ (kaona)』、つまり、隠された意味を込めることでも知られているのです。しかも、この素人カメラマンは、当初は、男性から女性への愛のメッセージだと勘違いしていたのです。最後の節にはっきりと「子守唄で胸の上であやすこの子」と書いてありますから、ウイラニという幼児へ捧げられた歌なのです。でも、彼は最初は最後の節を重要視しなかったのです。英語で書かれているし、ハワイ語の部分が内容的に圧倒的な格調を持っているからです。最後の節の内容はありきたりに思えませんか。しかも英語です。何で?  

 

この歌は赤ちゃんを得た若夫婦に送られたものに違いありません。では、どなたが送られたのでしょうか?  歌だから関係ない? 言えることは、送られたものとすれば、作者が送ったのではないということです。プレゼントとして送ったのなら、そこだけにして、公表することはありません。相手側に失礼です。送られた側も勝手に公表はしないでしょう。この様なプレゼントを下された相手の意向を大事にするからです。公表されているとすれば、「注文した人」が公表の許可を出したのだと思います。こう思うのです。この若夫婦の奥さんをじっと思ってきた男性がいたとしましょう。その愛は、その奥さんが子供を得ても変わらないのです。男とは、なんだかんだと言っても、その様なものです。その男性は、その子供の誕生を祝い、そして自分の思いは変わらないことを伝えるために、詩を贈り物にしたのです。多分、とても高価な贈り物になったことでしょう。そして、疑いを招かぬよう、公表させたのでしょう。でも、その奥さんは、もし英語が不得意だったとすれば、はっきりと分かったはずです。旦那さんは、男性が女性を諦めざるを得なかったとすれば一廉の人物でしょう、両方が等しく分かりましょうから、却って、英語の部分が強調されているように思ったでしょう。日本でも、英語を使うとセンスが高そうに思えます。つまり、旦那さんは何も気づかなかったでしょう。そんな物語です。でも、若夫婦、特に、女性の方へ心を配った、とても素敵なお話しではないでしょうか。何事もなく、皆さんは等しく年老いていくことでしょう。男性の祈りは、きっと、聞き届けられるでしょう。でも、どの様な形でしょう。それは、かみ様がお決めになることです。

 

( 11/5   試みに、英語の部分を外してみました。「kō kino」を単に貴方ではなく、「(貴方の)体」としたので、中々に強いイメージが生まれます。最後の二行が祈りです。詩は祈りで終わるのですから、この形が本来のものだったと思います。皆様はどう思われますか。

 

 Uʻilani kuʻu lei               ウイラニ  わが レイ
 Kuʻu milimili ē               わが いと 愛(いと)しき子
 He pōkē pua mae ʻole ʻoe          褪せることない花束    あなた
 No nā kūpuna             祖父母への ために

 Kou uʻi ua ʻike ʻia             その たおやかさ  知られ
 Kō aloha ua hiʻipoi ʻia          あなたの 心 守られん

 Ke ʻala onaona kō kino           その 香り 芳しき  からだ あなた
 Kaʻu e liʻa mau ai             われ つねに求めん

 Uʻilani e ō mai ʻoe           ウイラニ  とわに居られん
 O ʻoe nō koʻu puni              あなたこそ  わが愛

 

)

 

 

 

 

【おわりに】

 

「マカラプア ~  プア カーネーション」の日本語歌詞に気になる誤りを見つけたので、訂正させていただきました。完全な間違いとも言えないと頑張ることもできますが、作者の意図を汲みきれなかったのですから、誤りという他はありません。でも、ハンド モーションとの整合性は、却って、良くなったように思います。そして、この歌と同様に、言いたくても全ては言えない、気になる歌について書かせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

[1] Jean-Michel Charpentier and Alexandre François,  Linguistic Atlas of
  French Polynesia. Walter de Gruyter GmbH and Université de la Polynésie 
  française, 2015.

[2] "Fakateretere" - Gabilou, "SAMIRICO67 MOANA NUI" channel,

 

[3] H. J. Davies, A Tahitian and English Dictionary: With Introductory Remarks on 

  the Polynesian Language, and a Short Grammar of the Tahitian Dialect, 

  London Missionary Society's Press, 1851.  (Classic Reprint).