【はじめに】

ポリネシアン グランド ステージ の 2024年 3月から始まった シリーズ 「翔~To 
the new world~」の第十曲目に「ヴィニ ヴィニ(Vini vini)」があります。その
来歴を調べると、この曲は タムレ の流行の中で世界的に広まりました。厳密には、
「ヴィニ ヴィニ」は タムレ ではないという指摘もありますが、この曲のより良い
理解のためには「タムレ」が何であったのかを知っておくと良いと思います。


【「タムレ」という言葉】

「タムレ』と言う言葉はそれほど古いもの物ではありません。今、手元に二冊のタヒ
チ語辞書、Wahlroos の辞書[1]と Dabies の辞書[2](の複写版)、とがあります。
初版の出版は前書が 2002年、後書が 1851年です。

「tamure」を引いてみます。すると、Dabies の辞書にはこの言葉はありませんが、
Wahlroos の辞書には「tamure」は'ori tahiti(オリ タヒチ)と同等で、

 tāmūrē (or;) 'ori tahiti
 (日本語訳)タヒチ人にも外国人にも同様に人気のあるタヒチアンダンス:それは
 即興で演奏する男性と女性のデュオの形式をとる。音楽が継続的に加速するテンポ
 を維持する中、彼らはその瞬間のインスピレーションに従って踊る。

次に、「upaupa」を引いてみますと、Dabies の辞書には

 upaupa
 (日本語訳)遊び、気晴らし、音楽、ダンス。 あらゆるゲームや娯楽。 ウパウパ 
 フラ、ウパウパ マウ、ウパウパ マハマハなど、ウパウパの名がついた表現は数多
 くある。

他方で、Wahlroos の辞書には

 'upa'upa
 (日本語訳)今日「ウパウパ」という言葉は主に音楽を指すが、以前は即興で動き
 の速いダンスを指した。そこでは、観客の手拍子のもとで、男と女が官能的な物真
 似をした。

この様に、タヒチの庶民の娯楽としての踊りは ウパウパ でしたが、キリスト教化さ
れて以来、それは好色的であるとの理由から イギリスのロンドン伝道協会( LMS )
によって非合法化されてしまったのです。そのため、「タムレ」という言葉が使われ
始めたようです。

補足:それでは「タムレ(tamure)」の語源は何でしょうか。Dabies の辞書を見ると
「 mure 」には「止める」という意味があります。そうすると、「tamure」=「ta」
+「mure」なのでしょうか。つまり、「止められてしまったもの」なのでしょうか。
屁理屈のようですが、実は タヒチ という言葉が「tahiti」=「ta」+「hiti」なの
です。「Hiti」とは「端」という意味で、タヒチ島は実際に「Hiti」と呼ばれたこと
もあるのです。[5] (4/15 「mure」は正確には「止まる」もしくは「終わり」です
から、補足C をご覧下さい。)

補足B:上では「tamure」=「ta」+「mure」と分解しましたが、これは結論を決めて
いるからだ、と言えば言えないこともありません。しかし、ヴィニヴィニ の合いの手
に

    (tamure tamure e te mure mure raa)

という文句があります。「mure」+「mure」=「muremure」で、「muremure」は停止
するという動詞で、名詞化接尾語「-raa」がついて、「muremureraa」で「停止」と
言う意味の名詞となります。そうすると、合いの手は「タムレ タムレ そして 停止」
となります。もっとも、上の合いの手を

    (tamure tamure e te mure mure ra)
と書いてある例も有るのですが、これだと文法的な解釈は難しいです。ですから、
タムレ の語源は「tamure」=「ta」+「mure」で良いと思います。
補足C:上で「tamure」=「ta」+「mure」であると主張したのですが、文法的には
どうなのでしょうか。「mure」には自動詞「終わる」或いは名詞「終わり」の意味が
あります。使役動詞を作る接頭語「tā」が付いたと考えると、「tā-mure」で「止め
させる」になります。これが名詞化したのでしょうか。この様に考えると、上の合い
の手は「止めだ 止めだ はい 終了」ということになるのでしょうか。(4/17 修正)
補足D:上記で書いてきたことから、次のように考えます。キリスト教の教職者の指示
で upaupa が止めさせられる時、教職者が地域を見回り、upupa が行われていたら、
地域の首長に向かって「 Tāmure 'oe i te reira(あれを止めさせなさい)」とでも
言っていたのでしょう。それを子どもたちが聞いていて、「 tamure 」という言葉か
ら踊りを連想するようになり、それが後代に伝わったのだろうと想像します。(4/17)

【ポリネシアの踊り】

それでは、現在の タヒチ の踊りはどのようにして始まったのでしょうか。つまり、
上にあげた2つの辞書が成立した時期の間ではどうなっていたのでしょうか。

まず、 ヘイヴァ(Heiva)についての説明[3]を参考にして歴史を見てみましょう。
ヘイヴァの祭典は7月14日の「フランス革命記念日」を起源としています。タヒチの
最後の国王 ポマレ 5世が退位し、王国が フランス領となったのは 1880年です。こ
の時に タヒチ国王の直接に統治する領域が フランス領となったのです。 トゥアモ
トゥ諸島が フランス領となるのはもう少し後のことであるし、最後に リマタラ島が
フランス領となるのは 1901年のことですが、話の進行上、以降は現在の フランス領
 ポリネシア に相当する領域を単に ポリネシア と呼んでおきます。フランス による
支配の下、ポリネシア の当局はこの革命記念日に祭典を行うことを命じられました。
しかし、ポリネシア人の参加は禁じられていたので、当局は住民のための特別なデモ
ンストレーションと歌のコンテストを行うことにしました。ただし、 ダンスは含まれ
ていません。この祭りでダンスが公に演じられるようになったのは、ポリネシア の自
治統治政府が樹立された 1984年 9月以降になります。

キリスト教が定着して以来、官能的で挑発的なこの踊りを宣教師達が一世紀近くもの
間禁じていたため、ポリネシアの伝統的な踊りは人々から忘れ去られていました。
ポリネシア の踊りは 1950年代に入ってから復活しますが、当時は、踊り子達は頭の
てっぺんからつま先まで衣装に覆われていました。それから、踊りのルーツや文化的
アイデンティティの模索が始まり、少しずつ本来のポリネシア の踊りへと姿を戻して
いきました。踊りの中の動きには、ポリネシア の イメージとして特に有名なものが
2つあります。一つは男子の パオティ(pā'oti)。膝を曲げて踵を合わせ、膝をすば
やく継続的に開閉させるステップを踏みます。もう一つが女性の タムレ(tāmūrē)。
両足を地に付けたまま膝を相互に曲げることで、腰を動かす踊りをします。 


【踊りとしての タムレ】

踊りの動作として タムレ という言葉が出ましたが、一般には、タムレ とは世界的に 
1960 年代に広く普及した ポリネシア の踊りを指します。具体的には、タヒチ(フラ
ンス領ポリネシア) と クック諸島の踊りです。 通常は、男子と女子のグループとし


 【クック諸島のタムレ(This file is licensed under the Creative Commons
 Attribution 2.0 Generic license.)】

て、全員が モレ( more )を着飾って踊りました。モレ は ハイビスカスの木である


       【プラウ ー ハイビスカスの木】

 プラウ(pūrau)の樹皮の繊維で作られた腰蓑です。男子は パオティ で、 女子は 
タムレ で踊ります。その中で、ドラム のみで踊るものを タヒチ では オテア
(Ōte'a)、クック諸島では ウラパウ(urapau)と呼びます。

オテア では腰をぐるぐると回す ファアラプ(fa'arapu、振り混ぜるの意味)に、
ウラパウ では腰を左右に動かすとされています。しかし、タムレ としてはこの違い
はそれほど重要ではありません。手の動きも二次的です。 女子はほとんど移動せず、
男子が パートナーの周りを動き回り、女子の前に出たり、後ろに隠れたりします。 
音楽のテンポは、 継続的に増加します。 1963年の映画「チコと鮫」により日本にも
紹介され,流行しました。

現在では、タムレ の意味は オリ タヒチ の中に含まれていますが、クック諸島では 
タムレ に対応するものが、今でも、ウパウパ と呼ばれています。[4]


【おわりに】

「タムレ」という言葉から調べてみたことを書きました。あるいは、ここに書いた事
は ポリネシア の踊りを考える上で当然の常識で、一つの稿を上げるまでもないのか
もしれません。しかし、私の本当に書きたかったことは、この言葉の意味ではありま
せん。ハワイでは フラ が禁止されてから復活するまでにハワイ の人たち、そして 
ハワイ王朝の歴代の王の方々の努力があったことはよく知られています。対して、
タヒチ、つまり フランス領ポリネシア でも同じ様な苦しみの期間はあったであろう
ことは感じながらも、実際に言及することは余りありません。しかし、ハワイには
伝統文化を継承すべき正統性のある王朝が復興運動の魁となることができましたが、
タヒチでは王朝が滅んでからの復興だったわけです。そこには並ならぬ努力があった
ことが考えられます。ハワイでは踊りの衣装は西欧化されたものが基本です。対し、
タヒチでは伝統的な衣装に復帰しています。その違いも目を引きます。この違いを考
える上で、ヘイヴァ の歴史的な重要性をもっと認識しなければならないのかもしれ
ません。


[1] Sven Wahlroos, Ph.D., English-Tahitian Tahitian-English Dictionary. 2002.
[2] H. J. Dabies, A Tahitian and English Dictionary: With Introductory 
  Remarks on the Polynesian Language, and a Short Grammar of the Tahitian 
  Dialect. 1851.
[3] https://www.ishienterprize.co.jp/tahiti/index2.html
[4] 近森正、「サンゴ礁の人々と音楽 ー講演要旨ー」、日本セヴラック協会・会報
  「セヴラック通信」2014.
  (http://www.jeck.jp/kaigai-report/kaiho24-2.pdf)
  (https://severac-japon.org/wp-content/uploads/2018/09/セヴラック通信
  第17号.pdf)
[5] Henry Teuira, Tahiti aux temps anciens (古代のタヒチ). Publications de 
  la SdO, Paris, 2004.