そして言った、

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、

主が取られたのだ。

主のみ名はほむべきかな」。

ヨブ記/ 01章 21節

訳名:「口語訳」聖書種類:「旧約聖書」書名:「ヨブ記」

 

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2023年4月 記

つい先日、義理の姉からのライン電話が鳴った。

一瞬ドキッ。

心臓に、目には見えない何か冷たくて細いものが一瞬だけスッと突き刺さるような感触を受けたような気がした 。これはきっとトラウマの1つなのだろう。

義理の姉は「今日はおばあちゃんの四十九日だよー」と静かに優しく教えてくれた。

 

 そっか、もう四十九日なのか、一ヶ月までは数えていたけれど、クリスチャンである私は仏式の供養の日にちは数えていなかったな。

 

 母が突然、本当に突然に一人でひっそりとこの世を去ったのを発見されたのは、今年2023年ひな祭りの翌日のことだった。

義理の姉からのライン電話を受け取ったのは4日土曜の夜、オーストラリアの自宅でこれからいつものように一緒に聖書を読もうとして、夫と二人隣り合ってソファーにかけていた時のことだった。いつもは一緒にいる16歳の三男はこの日は兄二人と共にクリスチャンリーダー育成のための2泊3日の合宿に参加していたため不在だった。

 

 3月4日、

ほとんど受け取ることのなかった義理の姉からのライン電話の音と振動とサインを、手の中にあった電話で直接に感じ見たのが夜の7時半ころ。

普段はほとんど電話での連絡はしなかった義理の姉と私だったから、その振動と義理の姉からの電話に気づいた私はすぐに悪い予感がした「母に、何かあったのだ」と。

 

 姉は(これからは義理の姉のことは姉とだけ書く。実の姉妹のいない私は普段はお姉さんと読んでいるから)仕事から返ってきてベットの中で冷たくなっている母を発見し、動転している中にも、兄と警察そして私にすぐさま連絡をしてくれたのだった。

 

 あまりに突然で、あまりに遠く離れていて、交わす言葉も見つからずに、母にとって一人娘である私に電話をしてくれたことに「ありがとう」と一言、そして日本とオーストラリアという距離を隔てた中で、今すぐには何もできない自分のことを顧みて、「よろしくお願いします」と一言言ったくらいだった様な記憶しか無い。

 

「とうとう、本当に、この日がきてしまった」と思いながら、その後数時間、半ば放心状態の中で涙を流しながら複雑に絡まった自分の気持ちを夫につぶやいていた。夫は私のつぶやきを私の隣で、共に静かな涙を流しながら聞いていてくれた。

 

Cororin

 

 

 

私達家族が毎日曜日、車で片道1時間半以上かけて通う教会で用いられる賛美歌の一つを紹介します。

 

「 The Power of the Cross」直訳すると「十字架の力」ということになりますね。

 

「イエス・キリストは十字架の上で死んだ」この事実を言葉の通りに知っている人は少なくはないでしょう。

けれど、

このイエスの十字架が持つその真意について知っている人は

多くはないはず。

 

この The Power Of The Cross はイエスの十字架のその真意について歌ってます。

 

まずは聞いてみてください。

 

 

リンクの下にイエス・キリストの十字架の意味について説明もさせて頂いていますので、興味のある方は是非、読んでみてください。

 

 

 

イエス・キリストの十字架とは

自ら進んで十字架にかかられたイエスキリスト

多くの人は「イエス・キリストは十字架に架けられた」とフツーに思っているはずです。「架けられた」とは受動態ですね。誰かによって十字架に架かって死ぬように仕向けられたという、受動態。

 

けれど事実は全く違うのです。(これは聖書について学ぶと分かります)

 

イエス・キリストは、自ら十字架にかかられたのです。

十字架上での死を自ら選ばれたのです。

そして、もっと言えば、イエス・キリストは聖書のとしての全知全能の力をもお持ちであったので、十字架上での死を逃れようと思えば、それさえも100%の確率でできたことなのです。

 

け、れ、ど

イエス・キリストはこの死を逃れることは選ばずに、

この死を選ばれたのです。

 

は??? と思われますよね?

何のために!?と思いませんか?

 

十字架刑とは

当時、十字架刑は見せしめの極刑でした。

人々の目前で、極悪人の受刑として、

釘で打ち付けられた手足でのみ自分の体重を支える苦痛と屈辱を、

私達は想像さえできません。

その上、

十字架上のこの体制では普通に息をすることさえもできないといいます。

つまり、死んでいく苦しさは窒息死に値するということです。

 

十字架上の死がこのような残酷な死であるにも関わらず、

そして、

この死を100%自分の力で免れることができたにもかかわらず

この死を自ら受け入れられたのが、神イエス・キリストです

 

その理由を、あなたは想像できますか?

 

イエス・キリストが十字架刑を避けなかった理由

それは、

であり

また全く罪を犯したことのない完全な人でもあったイエス・キリストが

十字架上での死、全ての人間=罪人の罪の贖いの死を遂げることによって、

あなたと、私と、そして全人類を救う事ができるという

父なる神の御心があったからです。

 

十字架上での神イエス・キリストの死は、

イエス自身のためになる部分は何一つなく、

その全てが、あなたと、私とそして全人類を救うためという贖いの目的のため

だけ ONLYでした。

 

イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかられたのです。

あなたがそのことを信じるなら、

あなたは死の恐怖から開放されることになります。

罪から開放され、罪の報酬である死の恐怖からの開放により

自由が与えられます。

 

信じられない?

 

当然です。

信じられないのが人間にとっては自然です。

だから

あなたは他の人と何も違っていません。

 

でも、唯一私と違っているところがあるとすれば、

 

「イエス・キリストは、私の罪をあがなうために十字架にかかり死に、

墓にまで葬られ、

三日後に蘇られたかた、私の救い主です」

と信じているこの一点においては

明らかに異なります。

 

信じられないですよね。

信じたくても、信じられそうにない、ですよね。

 

なんで自分が罪人と呼ばれないといけないんだ、

そう思いますよね。

 

一人の人の中に、どうやって神の力が存在するんだ?

 

大体2000年以上前のことがどうして、今の自分に関係があるんだ?

 

そうそう。

いろいろ、

いろいろ、

疑問が湧いてきますよね。

 

だから、学ぶ必要があるんです。

イエス・キリストの十字架が持つ力について。

 

ここまで読んでいただいたあなたの目の前にある選択肢は、

たった2つです。

 

信じられない!といってイエスキリストの十字架について考えることを拒否するか、

それとも、イエス・キリストの十字架についての学びを始めるか。

 

聖書がどういう書物であるかということについても、

あなたには2つの選択肢しかありません。

聖書に書かれていることをすべて「神の言葉」真実として信じるか、

それとも

聖書を、この世に数しれず存在する人間の創作により創り出された

宗教や夢物語のように

「事実と真理」抜きの書物の一つと考えるか。

 

この世の多く人が、後者を選んでいます。

それは何故か?

それは、

後者の選択をすれば

今までの生活、自分を変える必要がないと分かっているから。

 

つまり

聖書に書いてあることを真実として信じることは

自分の今の生き方に「変えざるを得ないこと」が含まれていることを

まざまざと見せつけられるという「予感」がしているからです。

 

そして、

今の自分の生き方を「変える」ことは

とても困難なことと感じ

自分にはできそうにない

半ば信じ

できないという事実に向き合うことが

怖いのです。

 

イエス・キリストについてまだ、あまり良く知らないにも関わらず、

あなたの心の中には、

イエス・キリストによって照らされ、示されたくない、

隠しておきたい「なにか」があることを

あなたは実は

感知しているからなのです。

 

でも、心配しないでください。

 

信じるとか信じないとか

答えは、今出す必要はありません。

 

あなたが今できることは、

聖書についての学び、正しい学びを始めることです。

 

信じるかどうか、信じれるかどうかは学び始めないことにはわからない。

 

信仰は、実は、

「信じる」という自動詞で表されることではなく、

信じれるかどうかー可能動詞に近く、

でも実のところは信じさせてもらえるかどうか?という

受動態の動詞で表されるべき事なのです。

これはつまり、

イエス・キリストを救い主として信じるかどうかについては、

神の導きに委ねられているということです。

 

そしてもうひとつ、

あなたがイエス・キリストを自分の救い主であると信じたその時から、

あなたに

イエス・キリストの力が与えられます。

信仰の力です。

だから、

自分一人で「変わる」ために

戦う必要はないのです。

 

キリスト教信仰の主体は

神、イエス・キリストですから。

 

新共同訳   新約聖書

ヨハネによる福音書/ 15章 16節

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだのである。

そして、

あなたがたを立てた。

それは、あなたがたが行って実をむすび、

その実がいつまでも残るためであり、

また、

あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、

父が与えて下さるためである。

 

マタイによる福音書/ 07章 07節

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

 

6:マタイによる福音書/ 07章 08節

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、

門をたたく者はあけてもらえるからである。

 

 

Lyrics  歌詞

 

Oh, to see the dawn 、Of the darkest day: Christ on the road to Calvary. 

Tried by sinful men, Torn and beaten, then Nailed to a cross of wood. 

 

CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: Christ became sin for us; Took the blame, bore the wrath— We stand forgiven at the cross. 

 

Oh, to see the pain 、Written on Your face, Bearing the awesome weight of sin. 

Ev’ry bitter thought, Ev’ry evil deed Crowning Your bloodstained brow. 

 

CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: 

Christ became sin for us; Took the blame, bore the wrath— 

We stand forgiven at the cross. 

 

Now the daylight flees; Now the ground beneath Quakes as its Maker bows His head. 

Curtain torn in two, Dead are raised to life;  ”Finished!” the vict’ry cry.

 

CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: 

Christ became sin for us; Took the blame, bore the wrath— 

We stand forgiven at the cross. 

 

 Oh, to see my name, Written in the wounds, For through Your suffering I am free. 

Death is crushed to death; Life is mine to live, Won through Your selfless love.

 

 

 FINAL CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: 

Son of God—slain for us. What a love! What a cost! 

We stand forgiven at the cross. 

 

WORDS AND MUSIC BY KEITH GETTY AND STUART TOWNEND © 2005 THANKYOU MUSIC(PRS) ADM WORLDWIDE AT CAPITOLCMGPUBLISHING.COM EXCLUSING EUROPE WHICH IS ADM BY INTEGRITYMUSIC.COM

 

素敵な信仰告白=聖書の神体験談 のYou Tubeにであったのでシェアします。

是非見てください。

 

ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

The Power Of Cross の意訳ができましたら、紹介させていただきますね。

 

Cororin

こんにちは。

 

今日は、クリスチャン賛美歌の紹介です。

作詞の原語は英語です。

日本語は、私の意訳です。

 

皆さんに喜んでいただけたら、幸いです。

 

 

 

Mercies Anew

 

Every morning that breaks
There are mercies anew

日毎、暁が暗闇を破るとき
私の今日という新しい日のために

神、

あなたの慈しみが注がれます。
 

Every breath that I take
Is your faithfulness proved

私の生きる証、この一息一息が、
 あなたの信実な証


And at the end of each day
When my labors are through

だから、

一日の営みを遂げた
日毎の終わりに


I will sing of Your mercies anew

今日、私に注がれた

あなたの憐れみについて歌います
 

******

 

 When I've fallen and strayed
There were mercies anew

私が倒れ、迷い込んだときにも
主、あなたの憐れみが注がれていました


 For you sought me in love
And my heart you pursued

それは、私が求めたからではなく、

主よ、あなたが

私をあなたの愛の中に留めようと

私の魂があなたから 離れないようにするためでした


In the face of my sin
Lord, You never withdrew

私の罪の深さをすべて知りながらも、

主よあなたは、

私を決して見放しませんでした

So I sing of Your mercies anew

だから私は 

あなたの憐れみについて歌うのです
 

*******

 

And Your mercies, they will never end

For ten thousand years they'll remain
主よ、

あなたの憐れみ  それは尽きることなく
世々限りなく 永遠に注がれる


 And when this world's beauty has passed away

Your mercies will be unchanged

たとえ

この世界のすべての美が消え失せる時になっても、
主よ、

あなたの憐れみは永久に変わることがありません

 

*******


And when the storms swirl and rage

There are mercies anew
この先
たとえ嵐が、渦巻き吠え叫ぶような人生のときが訪れても
あなたの新たな憐れみが私に注がれ


In affliction and pain
You will carry me through

主よ、あなたが
苦しみと痛みの中にあるわたしを
携え救い出されます


And at the end of my days
When Your throne fills my view

そしていつか

私の命が尽きて
あなたの輝くばかりの玉座の御前に

私が進み出るとき

I will sing of Your mercies anew

主、

あなたの憐れみについて歌うでしょう

 

I will sing of Your mercies anew
神、

あなたの憐れみについて

歌います


提供元: Musixmatch

ソングライター: Mark Altrogge / Bob Kauflin

Mercies Anew 歌詞 © Sovereign Grace Praise

 

***************

旧約聖書口語訳  

哀歌 3:22-23

主のいつくしみは絶えることがなく、

 そのあわれみは尽きることがない。 

これは朝ごとに新しく、

 あなたの真実は大きい。

 

**********

 

聖書は、神の言葉です。

数千年もの間、人間がその命をかけ、

神の護り(奇蹟)のもとに今日まで受け継がれてきた書物です。

 

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

また、お会いできますようにと願っています。

 

コロリン

 

 

こんにちは。

 

今日は、私の日本語意訳に際して参照した聖句を挙げてみました。

 

賛美歌というものが、クリスチャン自身の喜怒哀楽、時には過剰に表現されがちな

人の感情というものだけから生まれたものではなく、

その背景には、2000年以上も前から、時代時代のクリスチャンたちが命がけで守ってきた聖書の教えが歌いこまれているということを知っていただけたら

幸いです。

 

この賛美歌の背景となる聖書箇所は、もっともっと沢山、聖書のあちこちに散りばめられています。

クリスチャンは、賛美歌を歌いながら、その背景にある神の言葉を思い起こしながら

賛美します。

 

以下、関連記事2つも訪ねていただけたら幸いです。

 

 

 

 

 

ピンクの英語は、オリジナル。

ピンクの日本語は、私の意訳。

黒字が聖句で、が聖書のどこに書いてあるかを示します。

 

では、聖句を参考にしながら Not Yet I But Through Christ In Me を何度も流し聞きしてみてください。

 

 

 

 by CityAlight

           Yet Not I but Through Christ in Me

                    〜 ただ 内にいますキリストのゆえに〜

         あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

            それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

                                   エペソ人への手紙/ 02章 08節

 


What gift of grace is Jesus my redeemer     
There is no more for heaven now to give  

私への神の恵み、賜物、それは贖い主イエス
天が私に与え得る最高の恵み、それが贖い主イエス、

 

 3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。ヨハネの福音書3章16、17節

 

6:23罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。ローマ人への手紙 06章 23節  

 

 3:7わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。エペソ人への手紙/ 03章 07節


 4:9神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

ヨハネの第一の手紙/ 04章 09節

 


He is my joy, my righteousness, and freedom 

My steadfast love, my deep and boundless peace  

主イエスは私の喜びであり正義であり、そして自由。

私には今、揺るがない愛と、私の心の限りなく奥深くにまで及ぶ平安がある

 

5:5わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。ガラテヤ人への手紙/ 05章 05節

 4:7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

ピリピ人への手紙/ 04章 07節

3:16主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。

ヨハネの第一の手紙/ 03章 16節

 

 

To this I hold, my hope is only Jesus  

For my life is wholly bound to His  
私の希望はただ主イエスのみ、主イエスだけが私の希望。

それは、私の人生は完全に主イエスの手の中にあることを 今は知るから

 

33:3まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。申命記/ 33章 03節

119:73あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました。わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください。詩篇/ 119篇 073節

138:7たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。詩篇/ 138篇 007節

されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。イザヤ書/ 64章 08節

1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 1:2この言は初めに神と共にあった。

 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネの福音書1章1−5節

15:13どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

ローマ人への手紙/ 15章 13節



Oh how strange and divine, I can sing: all is mine 

Yet not I, but through Christ in me  

この神聖なる不思議は今、

主イエスを信じることによって、全てが私の物になった!

なぜなら、

この愛も平安も私から出たものでは無く、

全てが、「私の内にいます主イエスから与えられたもの」と知るから


5:11そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。ヨハネの第一の手紙/ 05章 11節

 9:15神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 9:16ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。ローマ人への手紙/ 09章 15−16節 

 2:8あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

 

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The night is dark but I am not forsaken  

For by my side, the Saviour He will stay  

たとえ孤独の闇に覆いつくされた!と感じる時でさえも、

神は私を見捨てられていないことを  知る

それは、救い主イエスは 私と共ににいてくださることを 知っているから。

 

 1:5あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨ることもしない。ヨシュア記/ 01章 05節 

23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。詩篇/ 023篇 04節  

119:105あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。詩篇/ 119篇 105節 

139:12あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。詩篇/ 139篇 012節 

4:16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。マタイによる福音書/ 04章 16節

12:22暗やみの中から隠れた事どもをあらわし、暗黒を光に引き出し、

ヨブ記/ 12章 22節


I labour on in weakness and rejoicing 

For in my need, His power is displayed  

自分の弱さの中でもだえている時でも、

その苦しみは主イエスによって 喜びに変えられる。

それは、自分の弱さに苦しんでいる時にこそ、

神イエスの御力が顕されると 今は知るから。

 

138:7たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。詩篇/ 138篇 007節
 12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。コリント人への第二の手紙/ 12章 09節

12:10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。コリント人への第二の手紙/ 12章 10節

 


To this I hold, my Shepherd will defend me 

Through the deepest valley He will lead  

「誠実な羊飼いのような」主イエスが私を守ってくれることを知っている

この世の最も深い谷、死の淵にいる時でさえ、主イエスは私を導かれる。

 

23:1主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
23:3主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。詩篇/ 023篇 01−3節

23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。詩篇/ 023篇 04節 

56:13あなたはわたしの魂を死から救い、
わたしの足を守って倒れることなく、
いのちの光のうちで神の前に
わたしを歩ませられたからです。 詩篇/ 056篇 013節

わたしはよい飼である。よい飼は、のために命を捨てる。ヨハネによる福音書/ 10章 11節

あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。ペテロの第一の手紙/ 02章 25節


Oh the night has been won, and I shall overcome 

Yet not I, but through Christ in me  

ああ深い闇に覆われてしまう!と震える時でさえも、

私は乗り越えることができる

それは、私の内なる主イエスが、乗り越える力のすべてを 私に与えてくれる と知るから。
 

わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。創世記/ 28章 15節

あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」。申命記/ 31章 06節

主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」。

申命記/ 31章 08節

56:13あなたはわたしの魂を死から救い、
わたしの足を守って倒れることなく、
いのちの光のうちで神の前に
わたしを歩ませられたからです。 詩篇/ 056篇 013節

41:10恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。イザヤ書/ 41章 10節

43:2あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。2:イザヤ書/ 43章 02節

彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。エレミヤ書/ 01章 08節

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

 

*************************



No fate I dread, I know I am forgiven  

The future sure, the price it has been paid  

私には運命に対する恐れはない、それは、 

主イエスの十字架によって  

私の罪はすでに全て赦されていることを 知るから

私の未来で確かなことは、主イエスの十字架によって 

私の罪の代価(=死)は全て支払われたということ。

 

まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。詩篇/ 049篇 007節

36:9いのちの泉はあなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。詩篇/ 036篇 009節

5:13これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。

マルコによる福音書/ 10章 45節  :

 3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。  ローマ人への手紙/ 03章 24節

ヨハネの第一の手紙/ 05章 13節

 10:45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、

また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 

For Jesus bled and suffered for my pardon  

And He was raised to overthrow the grave

主イエスが、十字架の上で流されたその聖い血によって

私の罪はすべて贖われたことを  知る

更に主イエスは、

自分が葬られた墓=死を打ち倒し、

蘇えられた。

 11:25イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 ヨハネによる福音書/ 11章 25節

 6:23罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。ローマ人への手紙/ 06章 23節

 1:30あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

コリント人への第一の手紙/ 01章 30節  

4:10いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。コリント人への第二の手紙/ 04章 10節

 1:7わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。エペソ人への手紙/ 01章 07節

 1:14わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。コロサイ人への手紙/ 01章 14節、

1:3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、ペテロの第一の手紙/ 01章 03節  、

1:21あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。ペテロの第一の手紙/ 01章 21節、

 


To this I hold, my sin has been defeated  

Jesus now and ever is my plea  
イエスが死から蘇り、

私の罪の枷=死をも打ち破られたことを 今は知る

今からずっと  主イエスだけが  私の望み 

 

2:2彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。ヨハネの第一の手紙/ 02章 02節主  

 4:10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。ヨハネの第一の手紙/ 04章 10節

  6:14そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。コリント人への第一の手紙/ 06章 14節

Oh the chains are released, I can sing: I am free 

Yet not I, but through Christ in me 「私は自由!」と歌えるのは

私を縛り付けていたすべての縛りが解き放たれたから

それは、私の望みは 私から出たもではなく、

全ての望みが、「私の内におられる主イエス」によって与えられるもの  と知るから。


8:2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

ローマ人への手紙/ 08章 02節

 6:14そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。ガラテヤ人への手紙/ 05章 01節

 8:21かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 ローマ人への手紙/ 08章 21節 

8:31イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 8:32また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

ヨハネによる福音書/ 08章 、31−32節
 

 

*************************

 

With every breath I long to follow Jesus 
For He has said that He will bring me home  
私は息をする度毎に、主イエスに従って 生きたい  と願う
それは、

主イエスが「私を神の家につれて行く」と言ってくれたから

 

43:3あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、
あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所に
わたしをいたらせてください。詩篇/ 043篇 003節
 14:2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。

ヨハネによる福音書/ 14章 02節

3:7これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

テトスへの手紙/ 03章 07節


And day by day I know He will renew me 

Until I stand with joy before the throne

私は、主イエスが日々 私を新しく作り変えてくれていることを知る

そしてこれは、

王の王である神の御前に私が  喜びを持って立つその時まで  ずっと続くこと

 

4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていくコリント人への第二の手紙/ 04章 16節

20:12また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

ヨハネの黙示録/ 20章 12節

To this I hold, my hope is only Jesus  

All the glory evermore to Him  
私の希望はただ主イエスだけ。

他にはなにもない。

すべての栄光が永遠に主キリスト・イエスと共にありますように!

 

わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望み望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

ローマ人への手紙/ 08章 24節
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

ローマ人への手紙/ 15章 13節


When the race is complete, still my lips shall repeat  

Yet not I, but through Christ in me  

いつの日か私が  人生というレースを走り終える時、

その時も変わることなく私の唇はこの賛美を繰り返す

それは 、全ての希望が  「私の内におられる主イエス」によって与えられたものと  

知るから

 

 11:29神の賜物と召しとは、変えられることがない。ローマ人への手紙/ 11章 29節 

 5:5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 ローマ人への手紙/ 05章 05節

 2:8あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

*************************



To this I hold, my hope is only Jesus

All the glory evermore to Him

私の希望はただ主イエスだけ、

他にはなにもない。

すべての栄光が永遠に私の救い主  キリスト・イエスとともにありますように!


偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。

テトスへの手紙/ 01章 02節


When the race is complete, still my lips shall repeat

Yet not I, but through Christ in me

いつの日か私が  人生というレースを走り終える時、

その時も変わることなく私の唇はこの賛美を繰り返す

それは

全ては「私の内におられる主イエス」によって成ったもの   と知るから

 

 11:29神の賜物と召しとは、変えられることがない。ローマ人への手紙/ 11章 29節 

 5:5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 ローマ人への手紙/ 05章 05節

2:8あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

 

When the race is complete, still my lips shall repeat

YET NOT I, BUT THROUGH CHRIST IN ME.

いつの日か私が  人生というレースを走り終える時、

その時も変わることなく私の唇はこの賛美を繰り返す

それは、全ての事が「私の内におられる主イエス」によることだったと 知るから

 

1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 1:2この言は初めに神と共にあった。

 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

(言=イエス・キリスト)             ヨハネの福音書 1章1節ー5節
 2:8あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。エペソ人への手紙/ 02章 08節

 


YET NOT I, BUT THROUGH CHRIST IN ME.
この世の全ては「私の内なる主イエス」によって成る

 

 2:8あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。エペソ人への手紙/ 02章 08節

 


YET NOT I, BUT THROUGH CHRIST IN ME.

この世の全ては、

「私の内におられる神の独り子 私の救い主イエス・キリスト」

によってのみ成る

 

 1:3すべてのものは、これ(キリスト・イエス)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。ヨハネの福音書 1章5節

 

                       あなたがたの救われたのは、

              実に、恵みにより、信仰によるのである。

                                    それは、

                  あなたがた自身から出たものではなく、

                                神の賜物である。

                                     エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

提供元: Musixmatch

ソングライター: Michael Ray Farren / Jonny Robinson / Richard C. Thompson

Yet Not I but Through Christ in Me 歌詞 © Farren Love And War Publishing, Integrity's Praise Music, Integrity's Alleluia! Music

 

ここまで、読んでいただき

本当にありがとうございました。

 

この歌を日本語訳されたmatsue-bbc さんのTOUTUBE もぜひ

聴いてください。

 

 

 

また、お会いできることを願っています。

 

コロリン

こんにちは。

 

今日は、前回の続きで、

Yet NOT I BUT Through Christ In Me の英語のクリスチャン賛美歌の

グーグル和訳に私なりに手を加えた ’日本語意訳 の紹介です。

 

前回の記事はこちら

 

 

私の日本語意訳は、

英語で歌われていることを、聖書に書かれてあることを参照しながら

私なりに意訳したものです。

この意訳でメロディーに合わせて歌うことはできません。

 

なぜこの賛美歌を紹介したかったかというと、

神、主イエス・キリストが救世主であることを信じれるということが、

クリスチャンにどのような生きるチカラを与えるかを

この賛美歌を通して伝えることができたらいいな、

と願ったからです。

 

賛美すべきは「神」であって、クリスチャンである自分ではないこと、

そして、

この歌を通して

人間以上の力を持つ「神」という存在を知り信じるということが、

どんなに人間に生きるチカラを与えるかをあなたに感じてほしいのです。

そう、ただ感じてほしいのです。

 

わかる、理解することは聖書の学びを抜きにしては難しいと思うのです。

それでも、こういう

人間が生きる=生きて死ぬ、という人生において意味のある歌を、

心から歌うことができる

ということ、

心から歌える賛美できる真実=神という存在を「知る」という事について、

何かを感じていただけたらとても幸いです。

 

クリスチャンとは、

イエス・キリストに向かって日々成長を続けたいと望む

神に対して常に未熟な一人の人間でしかないことも知ってほしい。

 

私達クリスチャンは、

万能なる神の人智を超える  愛と平安と力と慈悲、そして最も正義であり、真実であり、

最も聖なる存在である神についてを聖書を通して学ぶ中で、

自分の弱さを認識し、

他人に対しては寛容になり、

神に対しては謙虚さを日々培われていくべきな者です。

 

この賛美歌では、そんなクリスチャンのあるべき姿が歌われている。

神あるがゆえの自分であること、

そして

賛美の焦点が主イエス・キリスト、神にあたっていると

思えるのです。

 

黒字が、私の拙い日本語意訳で、

緑の帯は、意訳のために参照した聖書の聖句の一部です。

 

賛美歌の多くは、聖書の中に記されている神、イエス・キリストについて

賛美し、歌われているものが多いのです。

 

賛美歌とは、クリスチャンであることを賛美するのではなく、

神を賛美するものであるべきなのです。

 

では、You Tubeを聞きながら、以下の日本語意訳を参考にしてみてください。

 

 

 

 

 by CityAlight

Yet Not I but Through Christ in Me

                    〜 ただ 内にいますキリストのゆえに〜

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

それは、あなたがた自身から出たものではなく、の賜物である。

  エペソ人への手紙/ 02章 08節

 


What gift of grace is Jesus my redeemer     
私への神の恵み、賜物、それは贖い主イエス
天が私に与え得る最高の恵み、それが贖い主イエス、

ローマ人への手紙/ 06章 23節  エペソ人への手紙/ 03章 07節

There is no more for heaven now to give  
ヨハネの第一の手紙/ 04章 09節

 


He is my joy, my righteousness, and freedom 
主イエスは私の喜びであり正義の源そして自由。

ガラテヤ人への手紙/ 05章 05節
私には今、揺るがない愛と、私の心の限りなく奥深くにまで及ぶ平安がある

ピリピ人への手紙/ 04章 07節
My steadfast love, my deep and boundless peace  

 


To this I hold, my hope is only Jesus  
私の希望はただ主イエスのみ、主イエスだけが私の希望。
ローマ人への手紙/ 15章 13節

それは、私の人生は完全に主イエスの手の中にあることを 今は知るから
For my life is wholly bound to His  



Oh how strange and divine, I can sing: all is mine 

この神聖なる不思議は今、

主イエスを信じることによって、全てが私の物になった!

ローマ人への手紙/ 08章 21節

なぜなら、

この愛も平安も私から出たものでは無く、

全てが、「私の内にいます主イエスから与えられたもの」と知るから

ローマ人への手紙/ 09章 15−16節  エペソ人への手紙/ 02章 08節
Yet not I, but through Christ in me  

 

 

*************************



The night is dark but I am not forsaken  

ヨシュア記/ 01章 05節  

詩篇/ 119篇 105節 

 詩篇/ 139篇 012節 

マタイによる福音書/ 04章 16節

ヨブ記/ 12章 22節

たとえ孤独の闇に覆いつくされた!と感じる時でさえも、

神は私を見捨てられていないことを  知る

それは、救い主イエスは 私の直ぐ側にいてくださることを 知っているから。
For by my side, the Saviour He will stay  


I labour on in weakness and rejoicing 

自分の弱さの中でもだえている時でも、

その苦しみは主イエスによって 喜びに変えられる。
コリント人への第二の手紙/ 12章 09節

それは、自分の弱さに苦しんでいる時にこそ、

神イエスの御力が顕されると 今は知るから。

コリント人への第二の手紙/ 12章 10節
For in my need, His power is displayed  

 


To this I hold, my Shepherd will defend me 

詩篇/ 023篇 01−3節

「誠実な羊飼いのような」主イエスが私を守ってくれることを知っている

この世の最も深い谷、死の淵にいる時でさえ、主イエスは私を導かれる。

詩篇/ 023篇 04節  詩篇/ 056篇 013節
Through the deepest valley He will lead  


Oh the night has been won, and I shall overcome 

ああ深い闇に覆われてしまう!と震える時でさえも、

私は乗り越えることができる

それは、

私の内なる主イエスが、乗り越える力のすべてを 私に与えてくれる と知るから。
Yet not I, but through Christ in me  

エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

 

*************************



No fate I dread, I know I am forgiven  

詩篇/ 036篇 009節

私には運命に対する恐れはない、それは、 

主イエスの十字架によって  

私の罪はすでに全て赦されていることを 知るから

マルコによる福音書/ 10章 45節  :  ローマ人への手紙/ 03章 24節

私の未来で確かなことは、主イエスの十字架によって 

私の罪の代価(=死)は全て支払われたということ。
The future sure, the price it has been paid  

 

 

For Jesus bled and suffered for my pardon  

主イエスが、十字架の上で流されたその聖い血によって

私の罪はすべて贖われたことを  知る

ローマ人への手紙/ 06章 23節

更に主イエスは、

自分が葬られた墓=死を打ち倒し、

蘇えられた。

ペテロの第一の手紙/ 01章 03節  、

ペテロの第一の手紙/ 01章 21節、

コリント人への第一の手紙/ 01章 30節  

エペソ人への手紙/ 01章 07節

コロサイ人への手紙/ 01章 14節、

ヨハネによる福音書/ 11章 25節
And He was raised to overthrow the grave

 


To this I hold, my sin has been defeated  
イエスが死から蘇り、

私の罪の枷=をも打ち破られたことを 今は知る

ヨハネの第一の手紙/ 02章 02節主  

ヨハネの第一の手紙/ 04章 10節

 今からずっと  主イエスだけが  私の望み 

コリント人への第一の手紙/ 06章 14節
Jesus now and ever is my plea  


Oh the chains are released, I can sing: I am free 

「私は自由!」と歌えるのは

私を縛り付けていたすべての縛りが解き放たれたから

ガラテヤ人への手紙/ 05章 01節

 ローマ人への手紙/ 08章 21節 

ヨハネによる福音書/ 08章 、31−32節

それは、

私の望は 私から出たもではなく、

全ての望みが、「私の内におられる主イエス」によって与えられるもの  と知るから。
Yet not I, but through Christ in me 

 

 

*************************

 

 

With every breath I long to follow Jesus 
私は息をする度毎に、主イエスに従って 生きたい  と願う
それは、

主イエスが「私を神の家につれて行く」と言ってくれたから、

詩篇/ 043篇 003節
For He has said that He will bring me home  
ヨハネによる福音書/ 14章 02節



And day by day I know He will renew me 
私は、主イエスが日々 私を新しく作り変えてくれていることを知る

コリント人への第二の手紙/ 04章 16節

そしてこれは、

王の王である神の御前に私が  喜びを持って立つその時まで  ずっと続くこと

テモテへの第一の手紙/ 06章 15節
Until I stand with joy before the throne



To this I hold, my hope is only Jesus  

私の希望はただ主イエスだけ。

他にはなにもない。

すべての栄光が永遠に主キリスト・イエスと共にありますように!
All the glory evermore to Him  


When the race is complete, still my lips shall repeat  

いつの日か私が  人生というレースを走り終える時、

その時も変わることなく私の唇はこの賛美を繰り返す

ローマ人への手紙/ 11章 29節 

 ローマ人への手紙/ 05章 05節

それは 、

全ての希望が  「私の内におられる主イエス」によって与えられたものと  知るから
Yet not I, but through Christ in me  

エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

 

*************************



To this I hold, my hope is only Jesus

私の希望はただ主イエスだけ、

他にはなにもない。

すべての栄光が永遠に私の救い主  キリスト・イエスとともにありますように!

All the glory evermore to Him


When the race is complete, still my lips shall repeat

いつの日か私が  人生というレースを走り終える時、

その時も変わることなく私の唇はこの賛美を繰り返す

それは

全ては「私の内におられる主イエス」によって成ったもの   と知るから

Yet not I, but through Christ in me

エペソ人への手紙/ 02章 08節

 

 

When the race is complete, still my lips shall repeat

いつの日か私が  人生というレースを走り終える時、

その時も変わることなく私の唇はこの賛美を繰り返す

それは、

全ての事が「私の内におられる主イエス」によることだったと 知るから
YET NOT I, BUT THROUGH CHRIST IN ME.

エペソ人への手紙/ 02章 08節

 


YET NOT I, BUT THROUGH CHRIST IN ME.
この世の全ては「私の内なる主イエス」によって成る

エペソ人への手紙/ 02章 08節

 


YET NOT I, BUT THROUGH CHRIST IN ME.

この世の全ては、「私の内におられる神の独り子 私の救い主イエス・キリスト」によってのみ成る

 

エペソ人への手紙/ 02章 08節

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

 

提供元: Musixmatch

ソングライター: Michael Ray Farren / Jonny Robinson / Richard C. Thompson

Yet Not I but Through Christ in Me 歌詞 © Farren Love And War Publishing, Integrity's Praise Music, Integrity's Alleluia! Music

 

ここまで、未熟な意訳を読んでいただき

本当にありがとうございました。

 

この歌を日本語訳されたmatsue-bbc さんのTOUTUBE もぜひ

聴いてください。

 

 

また、お会いできることを願っています。

 

コロリン

 

 

こんにちは。

 

今日は、私の好きな賛美歌の中の一つ

 

Citi Alight というグループが歌う Yet Not I But Christ In Me という賛美歌を

を紹介させてください。

 

歌われている英語は難しくなく、長い単語も使われていません。

英語が好きな方なら直訳できる内容です。

 

ですが、聖書の内容に基づいて歌われているので、

その歌詞の意味するところを理解するには

聖書について学んでいない方には難しいと思います。

 

なので、今、この日本語意訳に挑戦しています。

といっても、メロディーと一緒に歌えるものではなく

メロディーを聞きながら早口で読む ようなものです。

できたら投稿します。


今日私がこの賛美歌を投稿したのは、

神を信じるクリスチャンの心境?世界観?人生観?

この歌から感じてもらえたらいいな、と思ったから。

 

クリスチャンは、クリスチャンである自分を誇ることはできない。

「イエーイ!俺はクリスチャンだぜーぃ。すごいだろう!」的な態度を取れる立場には決してないことを

聖書は教えています。

 

なぜなら、

キリスト・イエスを信じるようにされたこと自体が

神イエス・キリストによる一方的な恵みによるからです。

クリスチャンになったことは、私達一人ひとりの人間性にも、

今までの人生でしたり言ったりしたことにも全く関係がないことだと

2000年くらい前に書かれた新約聖書は教えているのです。

 

けれど、

主イエスを信じる者とされた事によって、

クリスチャンは、神の愛、真実、正義と慈悲を学び、

そのことによって、人生観、世界観が確実に変えられていきます。

 

人間が一番優れた存在ではない。

聖書に描かれているキリスト・イエスを通して、

愛と真実、正義と慈悲に富んだ神という存在がある。

 

この聖書の神に、自分の人生と死そして死後のすべてを委ねることができる

と知った時に与えられる深い安堵感、希望、喜びが

この賛美歌に、歌われていると私は思うのです。

 

今日はこの賛美歌を、私の個人的な意訳を読む前に

まずは英語だけで聞いて、何かを感じていただけたら幸いです。

 

英語が好きで、聖書を学んでいる方にとっては

なんといっても英語のままで聞くのが一番です。

 

では、どうぞ。

 


訪ねていただきありがとうございました。

また、お会いできることを願っています。

 

今日も良い日をお過ごしください。

 

コロリン

 

あなたはどっちを選ぶのか?

あなたがこうありたいと願う状態は、以下の内どちらだろうか?

 

 

あなたは今、

灼熱の砂漠で遭難して激しいのどの渇きの中で、

自分は死ぬのだろうと感じるその時に

「コップ半分の水」が差し出されたとする。
 
 
死ぬかもしれないと感じるその時に
コップ半分の水を前に、
「これっぽっちしかないのか!? 」と不満を抱きつつ
その水を一瞬の内に飲み干して死んでゆくことか?
 
それとも、
 
死ぬかもしれないと感じるその時に
コップ半分の水を前に、
ありがたい!と思いつつ
その水を飲んで死んでゆくことか?

同じ苦況にあっても、感謝できる魂がある

ここには、コップに入った半分の水を見て、
これっぽっちしかない!と言い捨てる魂と
水が飲める、ありがたい! と感謝する二種類の魂を持つそれぞれの人間がいることを表している。
 
これは、
「コップ半分の水」という同じ状況下にあっても、受け止め方が異なる、心、魂を持つ人がいるという事を示している。
 
この世に生まれた命を生きているからには避けることのできないのが、肉体的死であるので、肉体の死を避けることも変えることもできない。
 
が、その自分の死を迎えるまでの「魂の有り様は」変えることができる。
 

口語訳  新約聖書   

ピリピ人への手紙

 04章 11節

わたしは乏しいから、こう言うのではない。

わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。

 04章 12節

わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。

わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、

ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。

04章 13節

わたしを強くして下さるかたによって、

何事でもすることができる。

 

必要なのは、あなた自身がどちらを選択するか

「これっぽっちの水かよ!?」と、生涯のうちで様々に変化する自分の置かれている不利と思える状況、苦境=人生の有り様の中で、不満を持って過ごしながら命の終わりを迎えるのか、
 
それとも
 
自分の置かれているどのような状況=人生の有り様の中でも「ありがとう!」と
感謝できる魂を培うことに心を向けつつ、命の終わりを迎えるのか?
 
それは、あなたが決めること。
 
今のまま生きて、死を迎えるのか、
それとも、
別の道を目指しつつ、感謝の内に死を迎えるのか。
 

感謝できる魂の培い方

もしあなたが後者を選ぶとしたら、もちろん、このような魂は一石二鳥で手に入れられるものではない。つまり「お金を払って買う」というようなものではない。

 
が、お金で手に入れられないものイコール手に入れる事が不可能なもの、ではないことはあなたも知っているはず
 
そして後者を選ぶ人、感謝の内に人生を終わりたいという選択をした貴方に勧めることは、聖書の神、イエス・キリストについて知ること。
 

聖書の神、イエス・キリストについて知ること。

イエス・キリストとはどういう方か?
 
イエス・キリストとは、
私達の魂の命を救うために、ご自分の命を十字架の上で犠牲とし、
死後の世界で、
あなたの魂が神と共に喜びの内に生きることができる永遠の命を
あなたに与えることを証明するために
死から蘇った方。
 
これは、イエス・キリストという方をあなたに伝えるために、選んで用いた
「氷山の一角」に値する言葉で表現した一つの紹介文に過ぎない。
 
実際、イエス・キリストについて殆ど知らないあなたが、この紹介文を読んだところで、ホウとかヘエとかくらいにしか思わないのではないだろうか?
 
私が「氷山の一角」に値する言葉と書いたのには、訳がある。
 
イエス・キリストとは、
私達の魂の命を救うために、ご自分の命を十字架の上で犠牲とし、
死後の世界で、
「あなたの魂が神と共に喜びの内に生きることができる永遠の命を
あなたに与えること」を証明するために
死から蘇った方。
 
あなたが、この紹介文を読んでも、一つひとつの言葉が何を意味するのかわからないだろう。
 
死後の世界があると思っていない人には、永遠の命は信じられないだろうし、
なぜ、死後の世界があるといえるのか、という疑問も生まれる。
 
なぜ、イエスが十字架上で死ぬことが、私達の魂を救うことになるのか?
 
自分の罪の償いは、自分でするべきではないか?
 
人間にとって不可能な「死からの復活」を信じるなんて、非科学的でしかない。
 
もし復活があったとしても、なぜそれが私達に永遠の命を与える証明になるのか?
 
などなどなど、、、、、、、、、、、、、、
 
これらの疑問について掘り下げて学んでいけば行くほど、しばらくは新しい疑問は次から次へと泉の泡のように湧いてくる。
 
この自分の中に泡のように湧いてくる疑問についての答えを探し求める過程が、海の上に浮かんで見える氷山の一角から、その氷山を掘り下げていくこと。
つまりそれはイエス・キリストについて知るということであり、「聖書について学ぶ」という作業にほかならない。
 

数千年に渡る「様々な災害による消滅」から免れてきた

聖書という書物

約4000千年も以上も前に書かれた旧約聖書、

約2000年以上も前に書かれた新約聖書。

 

これらの書物が、今の時代まで消滅することなく、今も私達が手にすることができるその理由を、「神の御業が背後に働いている」という以外のところに見つけることができるだろうか?
 

クリスマスの本当の意味

神の独り子イエス・キリストが、
私達の救世主となるために
この世に人間として生まれてくださったことを記念する日、
それが
一年に一度巡ってくるクリスマス。
 
ハッピホリデーもプレゼントもいいけれど、
そろそろ、
あなたの人生をかけて、
いつ来るかわからない自分の人生の終わりを見つめて、
クリスマスの本当の意味と向き合う時に
来ているのでは
ありませんか?
 
イエス・キリストは、
私達一人ひとりのために
あなたと私のために
十字架の上で死ぬために
この世に生まれてくださいました。
 

新約聖書 ヨハネによる福音書/ 03章 16節

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、

永遠の命を得るためである。

 

イエス・キリストとは誰か知る学びを

始めませんか。

 

私の願い

私の今の人生の願いは、イエス・キリストについて多くの人達に知ってもらうために、自分の人生を使うこと。そのために今、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの聖書塾で学び始めたところ。
 
イエス・キリストと聖書の神について学び始めてもうすぐ6ヶ月。まだほんの序の口。聖書塾で学び終えるまでにはあと2年間あるけれど、これまでの6ヶ月間でも、イエス・キリストと聖書についての知識が急速に深められたことを実感している。
 
この実感が私にとっては大きな喜びであり、感謝であり、驚きであり、また自分自身を謙虚へと導く。
 
自分が死ぬまで学んでも学びきれない神の愛と慈悲、そして聖であり義なる聖書の神。この神に愛されていることを知る時、私の心は神からの平安に満たされる。
 
いつ、対面することになるか分からない自分の命の終わりであろうとも、どのような形で終わりになろうとも、私の魂は肉体の死後、私を愛してくださるイエス・キリストと共に在ることを知ることは、何という慰めであろう。
 

口語訳  新約聖書   

ピリピ人への手紙

 
04章 04節

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

04章 05節

あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。

04章 06節

何事も思い煩ってはならない。

ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、

あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

04章 07節

そうすれば、

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、

あなたがたの心と思いとを、

キリスト・イエスにあって守るであろう

 

今私ができること

私の人生の願いは、イエス・キリストについて多くの人達に知ってもらうために、自分の人生を使うことと書いたけれど、いまはまだ自分の口で、自分の言葉を使ってそれができる自信はない。
 
だから、聖書塾で学び、ハーベスト・タイム・ミニストリーズのウェブサイトで学んでいる。
 
以下は、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの、12月7日のクレイ。
興味のある人はこちらのリンクでどうぞ。
 
そして、イエス・キリストについて学ぶことに興味があるなら、
あなたの興味ある「人生のテーマ」に付いて、聖書の視点から解説している記事がきっと見つかるはず。
 

 

ここまで辛抱強く読んでいただき、ありがとうございました。

 

今日

2022年のクリスマスを前に

あなたの心にポトンと落ちた、イエス・キリストの種が

いつの日か神からの恵みという水によって

芽吹くことを、願って止みません。

 

メリークリスマス!

 

Cororin

*******************************

 

 

 クレイ 2022年12月7日水

きよめてください。
Cleanse me Lord.

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ローマ人への手紙6:15 〜 23

15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

義の奴隷(3)

信者が置かれている状況

イエスを救い主として信じた者は、新しい状況の中に置かれます。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(17 〜18節)。(1)かつての私たちの姿は、罪の奴隷でしたが、今は自発的に義の奴隷になりました。そして、その状態を日々実践しています。(2)今の状態は、「伝えられた教えの規準に心から服従し」たから与えられたものです。神のことばには、私たちを救う力があります。(3)「教えの規準」とは、福音のことであり、キリストとの一体化のことです。
私たちが受け入れた教えには、力があります。(1)福音の3要素を思い出しましょう。キリストは私たちの罪のために死なれたこと。墓に葬られたこと。3日目によみがえられたこと。(2)キリストを信じた結果、私たちはキリストと一体化しました。つまり、キリストにあって死に、葬られ、キリストにあって生かされている、ということです。この真理を認識することは非常に重要です。(3)この教え(福音の内容)は、神から私たちに与えられた型であり、模範もはんです。それは、私たちの人格に衝撃を与え、私たちをキリストに似た者に変える力です。

行く所は永遠のいのち

「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです」(19〜22節)。(1)以前の私たちは、罪の奴隷として自分の手足を汚れにささげていました。それ以外の選択肢はなかったのです。その結果、今では恥じているようなことをしてきました。その終着点は、死です(霊的死)。(2)今の私たちは、自発的に義の奴隷(神の奴隷)となりました。それゆえ、聖潔に進むべきなのです。その道の終着点は、永遠のいのちです。
自発的な奴隷として、私たちの手足を義のためにささげようではありませんか。日々聖潔に至る実を得る生活は、喜びと感謝に満ちた人生につながります。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。私の手足を、義の奴隷としてささげます。きょうも、聖潔に至る実を結ぶことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

子供にも大人にもロマンチックなクリスマス

25年以上も前、クリスマスの本当の意味についてまだよく知らなかった時の私は、クリスマスが大好きだった。

 

例え、子供時代にクリスマスと称して親からプレゼントを貰った記憶が殆どなく、

また、思春期を過ぎ青年期になっても、クリスマスにプレゼントをする「誰か」がいなかったとしても、私は、クリスマスが大好きだった。

 

クリスマスの近くになると、田舎の商店街でさえ、クリスマスのきらびやかな飾り付けに彩られ、聖しこの夜とかサンタクロースのクリスマスソングが流れる。

 

そんな異国的な雰囲気を、日毎に増していく冬の寒さのキーンとした空気とともに五感で感じることがとても好きだった。

 

クリスマスには、外国の匂い、しゃれた言葉を使うとすれば「遠い異国の匂い」がした。

 

赤と白の服を着て、白くて長いひげを生やし、どんなやんちゃをも許してくれそうな笑顔をしているふくよかなサンタクロース。

 

そのサンタクロースが、星がキラキラする冬の夜の空をトナカイのひくソリ乗って、鈴の音を鳴らし駆けながら、子どもたちが眠っているレンガ造りの大きな煙突からそっと忍び込んできて、子どもたちが枕元に用意したクリスマスストッキングの中にそっと、プレゼントを入れていってくれる。

 

そして子供の寝顔に、メリークリスマス!と静かに言って、次の家へと駆けていく。

 

子供にとって、これ以上ロマンチックな話は他に存在しないのではないか?とさえ思えるクリスマスサンタクロースの話。

 

*ロマンチックとは;現実の平凡さ・冷たさを離れ、甘美で、空想的・情緒的または情熱的であるさま。浪漫的

 

実際、私の生活にクリスマスというイベントが年中行事の一つとして認識されたのは、既にクリスマスサンタクロースのお話が人によって創作された話で、本当ではありえないと認識できる年令になってからだったが、それでも私はクリスマスが好きだった。

 

異国情緒を持つクリスマス。

日本では恋人同士の間でなら公然とプレゼントを交換する機会として、または特別な二人きりの時間を過ごす時として、更にはプロポーズをよりロマンチックに演出する絶好の機会としても、クリスマスは認識されるようになった。

 

残念ながら私は、子供にとってのロマンチックなサンタクロースのクリスマスも、大人の恋人たちのロマンチックなクリスマスにもあやかることはなかったが、それでも私は結婚する前くらいまでサンタクロースと恋人たちのためのクリスマスが好きだった。

 

楽しい、嬉しいだけのクリスマスの何が悪いのサッ!?

私は約25年前にクリスチャンとなって結婚した。で、クリスチャンとなって25年経った私が今、クリスマスについてどう思っているか?

 

昔のウキウキ感がまったくないといえばそれは本当ではないけれど、今はもっと厳粛な気持ちを持っている。

 

私はクリスチャンになったことがきっかけで、本当のクリスマスの意味を学ぶ機会を与えられた。

 

クリスチャンになっていなければ、クリスマスの意味なんて、本当の意味だろうが嘘、人間の作話だろうが、どうでも良いと思ってこの25年間を過ごしてきたと思う。

だって、ほんとうのクリスマスの意味を知らなくても、私はクリスマスが好きだったのだから。

 

年中行事をとしてのクリスマスを前に、子供や夫、家族へのクリスマスプレゼント選びと、今年のクリスマスには何を料理しようかということに頭を悩まし、時間を費やし、現実と予算の間でジレンマに陥り、終には切羽詰まってしまって、心の平安を失い悲しみが怒りに変わってしまうーなんてことを今も繰り返していたかもしれない。

 

実はこれは、約10年前くらいまでの私の有り様。

 

ー楽しい’ひととき’を持てるのならば、

ー子供や家族が、プレゼントをもらって、嬉しい’ひととき’を持てるのであれば、

ー一年に一度、キラキラ美しく飾り立てられたクリスマスツリーやクリスマス飾りをみてその’ひととき’で心が楽しませることができるのであれば、

ーいつかは作話と分かる時が来ても、子供の時ぐらい’’ひとときの夢’を持つことはいいのではないか?

ー人生において、クリスマスの良い思い出の’ひととき’が持てるのであれば、、、

 

クリスマスの本当の意味だろうが、嘘=人間の作話だろうが、本当の意味なんてどうでもいいと考える理由はもっとあるのだと思う。そして、それらの理由は、多くの日本人に共感されるでのだろう。

 

確かに、人生という一本の線を造るものは「ひととき」という一つ一つの点のはずだからー

 

クリスマスには、

その本当の意味を知らなくても、

人間の作話に基づくクリスマスでも、

資本主義社会の物質文化に基づく人間の欲に即した過度な商業戦略の一環であっても私達を興奮させるひとときの「楽しみ」「喜び」「驚き」という、人生を肯定的なものに築き上げていると思われる要素が、

ふんだんに含まれているのだから。

 

楽しみも喜びも驚きも、私達人間にはとても大切なことだと、私も思う。こういう感覚が人生にあることが「生きる喜び」「生きている価値」のように、私達人間が感じることは確かだと思うから。

 

でも、事実と真実が存在することを薄々と感じつつも、楽しいからとか、嬉しいからとかいう理由で「真実ではないものにあやかる」行動を取るだけで、クリスマスの真実を知らないままにサンタクロースのクリスマスを過ごすことって、どういう意味があるんだろう?といままでぼんやりと考えてきた。

 

そして、最近になって、クリスマスの真実の意味を知らないでクリスマスを過ごす人は、実はその人生において重大なチャンスを逃していることに気がついた。

 

クリスマスの真実

クリスマスの真実については以下の記事にも似たようなことを書いてあるので、万が一興味がある方は以下の記事を覗きみてください。

 

 

 

 

さて、以下は聖書の最も有名な御言葉の一つと言える聖句。

 

新約聖書の口語訳 ヨハネの福音書 3章16節

 

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、

永遠の命を得るためである。

 

神はとは、父なる神のこと、つまりイエス・キリストの父なる神

その一人子 とは、イエス・キリストのこと

賜ったとは、神の御子なるイエス・キリストを遣わされたということ

この世にとは、今私達が生きている人間の世の中に、ということ

愛して下さったとは、私達一人ひとりを大切な存在と思ってくださるということ

御子を信じる者の「信じる」内容とは、「イエス・キリストが神の御子であり、その御子が、この世の一人ひとりつまりあなたを愛して、救うために十字架の上で、私達の身代わりとなって死んで、私達のすべての罪を贖ってくださったこと。そして三日目に死から蘇られた」というイエス・キリストに関する歴史的事実を、あなた自身が事実として認めること

ひとりも滅びないでとは、イエス・キリストを信じるすべての人の魂が、地獄に行くことなく、ということ

永遠の命を得るとは、肉体の死後は、神とイエス・キリストとともに永遠に生きる命を与えられること。

 

 

つまりクリスマスのほんとうの意味とは、

私達一人ひとりに同じ唯一の「魂の恩人」がいることを指し示していて、

クリスマスとは、

私達のために自分の命を十字架の上で捧げてくれた恩人、私達の魂の恩人イエス・キリストの誕生を記念する日

 

そう、

私とあなた、そして人類全ての魂の恩人の誕生を祝う日。

 

そして、

このほんとうの意味を知ろうとしないで過ごすクリスマスは

自分にとっての恩人を無視するということに

他ならない。

 

こんなこと、

人間的に考えても

事!

 

イエス・キリストの命は、

自分の人生を自分のために謳歌するためのものではなく

私達一人ひとりのために十字架上で死ぬためだけに存在した

贖いの人生、命だった。

 

私達の霊を救う方法は、神の御子であるイエス・キリストの十字架以外にはない。

 

そして

魂の救いすなわち永遠の命を得るためには

何か良いことをして、いい人になるとか、教会に行かなくてはならないとか、

洗礼を受けなくてはならないとかいう条件は全く無く、

御子を信じる

そのことのみです。

 

神から私達への「最大で最高の贈り物」

御子を信じて永遠の命を受け取ること

これは神から私達に無償で差し出されている

プレゼント

 

つまり、

イエス・キリストは、

神から私達への「最大で最高の贈り物」なのです。

 

クリスマスは、自分の命の恩人イエス・キリストの誕生を感謝を持って記念する時。

 

それなのに、

毎年やってくるクリスマスに、

サンタクロースやプレゼント、料理のことなどにばかり気を取られていて、

自分の命の恩人の存在、つまり

本当のクリスマスの意味を知ること無しに過ごしていることは

あなたに神から与えられるはずの「永遠の命を得る」きっかけを知ること無しに過ごしていることであり、

一人ひとりの人生にとって最大の損益だということに

私は思いいたりました。

 

クリスマスには、

「サンタクロースの物語」や「恋人たちのプレゼント物語」などの、

私達人間に想像できるロマンやロマンスなど

とても及びもしない

崇高な「神の愛」が 秘められているのです。

 

ロマンとは:ロマン」は主に夢や憧れ、冒険への欲求などを表し「男のロマン」のように男性が抱くものとして認識されることが多い。 一方、「ロマンス」は空想的で甘い恋愛や恋物語を指し、どちらかというと女性的なニュアンスを持つ。

 

 

今年のクリスマスは、

多くの人の目に未だ 覆い隠されている

「神の崇高な愛」

本当のクリスマスの意味に

心を開いて開いてみませんか?

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

あなたの霊の目が、2022年、今年のクリスマスを通して開かれますように。

 

Cororin

 

 

 

 

 

 

お久しぶりです。

もし、訪ねてくださった方がいましたら、

いかがお過ごしでしたでしょうか?

 

今日はミミポポさんのリブログです。多分二回目だと思います。

 

ミミポポさんは、2011年26歳でステージ0の乳がんを診断されてから、2019年余命2ヶ月の宣告を受けたかたです。詳細は以下をご残照ください。

 

 

私は昔看護師で、ホスピスでも3年働かせていただきました。

こんな私がミミポポさんのブログなどを通して、人の命の不思議さ、特にいくら科学や医療が発達しようが、人間に、特には私達と同じひとりの人間でしかない医者にさえも、人間の命の不思議さ(余命)をわかり切ることができない、そんなことを考えさせられているミミポポさんのブログです。

 

余命数ヶ月の宣告を受けても、生きる望みを持ち続け、余命宣告から数年を経て生きている人がいる。

ミミポポさんは、この事実の証人です。

 

私がホスピスに勤めていた約30年も前、ホスピスにおられた患者さんたちは皆お亡くなりになりました。ホスピス看護師として、そしてホスピス看護師としての経験を持つ今までの私は、余命宣告を受けるような病状の方たちが、命短く亡くなられることを疑ったことはありませんでした。それは、ホスピスに滞在する方たちにとってほぼ100%の事実であったからです。

 

人間はいつか、必ず、死を迎えます。このことは通常100%の事実です。

しかし、私達は死が訪れるまでは生きているのです。これも事実です。

 

人は、その死が訪れるまで、生きなければならない。

 

ならば、生きる希望は常に必要なこと。


何時訪れるかわからない死に向かって生きることが、命与えられて今を生きる私達人間の人生であると考えるなら、私達の生き方には、2通り在るように感じます。

 

1つ目は、今日を生きて、また一日死に近づいたと思い、減ってゆく残された日々を数え憂いながら生きること。

 

2つ目は、今日を生きて、今日という日を自分の人生にまた一つ積み木のように積み上げる。明日もまた、もう一つ別の積み木を積み上げようと思う。こうして一日ずつ一日づつ積み上げていったら、ある日突然人生の頂上、それ以上積み上げることのできない頂上という死に到達する。

 

死を、向こうから勝手に忍び寄り近づいてくる不気味なこととして捉えるか、

それとも

死を、私達が登る人生という山の見えない頂上として捉えるか。

 

もし、私自信が余命数ヶ月という厳しい宣告を受けたとしたら、どのように生きるのか、生き続けるのか、どのような生きる希望を持って生きるのか?

 

できれば、私は死を私の今の人生の頂上として捉え、一日づつ積み上げる人生を生きたい。頂上には今の私の人生の終わり、死と共に、次の世に向かい入れてくださる神様が待っていてくださることを信じて生きたいと思う。

 

以下のミミポポさんの投稿も、生きる勇気を受け取れる投稿で、おすすめです。

 

 

 

Cororin

全ての人間が追い求めるもの、

そして、その多くの人間が不足を感じているもの、

 

それが 幸せ。

 

私は、幸せという言葉が実はあまり好きではない。

 

あまりに多用されすぎているせいか、幸せという言葉の実態がぼやけてしまっているように感じるから。

 

そんな私だけれど、幸せについて幾つかのブログ記事を書いていた。

 

たまたまそんなことに気づいたから、今回は自分のブログのリブログをすることにした。

 

私のブログは長くてくどいので、ご注意願います。

 

 

 

 

記事を読んでいただいた皆さんの幸せを願いつつ。

 

コロリン